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なないおさんの呼びかけで、今年も大勢の方が記事を書かれていますね。今年のコラボ企画のテーマは「嬉しかった(お願いしたい)配慮とありがとうの気持ち」ということですが、皆さんいろんなことを書いていることと思いますので、私からは、「お願いしたい配慮」を1つだけ。 「最初に思いつくアドバイスを一旦棚に上げて、その次に考えてでてくるアイディアを教えてほしい」 これだけです。 アドバイスをするのは楽しい 私は、心理士として発達相談をする中で、家族内・親族内でのコミュニケーションの大変さということをとてもよく聞いてきました。多くの人間は、なにか困った状況・問題となる状況があると、原因究明・対処方法のアドバイスをしたくてたまらなくなるようです。「○○したらいい」「○○しないのがいけない」などなどなど。「子どもの言葉が遅れている」→『もっと愛情をかけてあげないと』「子どもが飛び出して行っちゃう」→『しっかりちゃんと手を握ってれば大丈夫なのにスマホなんか見て子どもをほったらかしにしてるから』「何度教えても子どもが忘れ物を繰り返す」→『甘やかしすぎて本人が自分で真剣に考えてないから』「子どもの落ち着きがない」→『予防接種のせい。でもこの素晴らしいサプリを飲めば大丈夫』こういうことが全国各地の家庭・親戚間・インターネット上で日々刻々と、延々と、繰り返され続けているようです。でも、こうした時に本当に何かを「考えて」アドバイスをしている人は、ものすごく少ないのではないでしょうか。 人間は、普段、何かを考えることはあまりありません。考えているようでいて実は、それまでに形作られた頭のなかの電気回路をピリピリっと通して半自動的に結果・答えを出しているようなものです。電卓に「1+1」と入れて、そのあと「=」をポンと押したら「2」と表示されるように、何かを考える間もなく、「感じ」や「考え」がそこにでています。この考え方の電気回路は、成長していく中で、少しずつ発達していきます。生まれたばかりの子どもは「感覚」に基づいた回路があり、物心がつくと「言葉」という回路のまとまりができ、集団生活を始めるころに「常識」という回路が枠として作られて、思春期(あるいは中学2年ぐらい)にはありきたりな常識を少し崩して反発する回路ができ、高校生から30代ぐらいにかけて「自分が見つけた世の中の真実」という回路を持つようになります。例えば、身近にいる少し変わった所のある人を見て、「『しょうがいしゃ』ってなに?」と言うところから、「『障がい』のある人には優しくしないといけないんだ!」となって、「『障害』があるからって優しくしないといけないってヘンじゃねぇの?」となって、そこから「『障害』を障害のままにしておくこと業界の利権が云々」となっていくように。いずれの段階でも「前の段階の自分」と比べて「自分は物事を考えられるようになってる!」と感じがちですが、その実際は脊髄反射のように思考回路に情報を入れ、電卓を叩くと答えが出てくるように、ポンと「考えたようなこと」が出てきているだけです。これは人間の脳の性質なので、別に誰が悪いわけでも、努力不足とかっていうことでもありません。ただ、「考える」という時には、その全自動回路の一歩先に行ってみたいところです。 自閉症・発達障害についてわかっていること/わかっていないこと 自閉症・発達障害については、まだわかっていないことが山ほどあります。でも、ちょっとずつわかってきたことも、それなりにあります。ちょっとずつわかってきたことについて、挙げていくとキリがないので2つだけ。自閉症は親の愛情不足のために起きるものではないようです。60年ぐらい前には「冷蔵庫のように冷たい親のせいで自閉症になる」と考えられていましたが、その後、様々な人が研究をしていく中で、ほとんど否定されています。また、自閉症はワクチンのせいで発症するということについても論文自体が撤回されました。では「まだわかっていないこと」は?ほとんどの場合、「目の前のこの子・この人が抱えている大変な状況を改善・解決するためにはどうしたらいいか?」は、まだわかっていません。比較的成功率が高そう、効果が高そうなやり方はいろいろと考えられてきていますが、「この子・この人」に効くかどうかはこれから確かめていくことです。そして、「この子・この人」がこれまでに試してきたことは、(少なくとも今の時点では)あまり効き目がないことがわかっていることです。 だからこそ、まだ自閉症・発達障害についてあまり知らない人にお願いしたいこと いろいろな専門書・専門的知見の積み重ねにまだとらわれていない方たちの視点・考えで、自閉症・発達障害について考える枠をもっともっと広げていくために、手を、力を貸していただけたらと願うのです。私達が血の滲むような思いで考え方を半歩先に進めていくよりも、違う立脚点に立つ方の一声があると、どれほど世界が開けることでしょう。そのための、たった1つのお願いが、あなたの思考回路が自動的に出す最初の答え「以外」を考えてみてほしいということです。「子どもの落ち着きがなくて勝手に飛び出してっちゃって困る?そんなの手をちゃんと繋いどけばいいじゃないの…」という思考回路を一回ストップして、「もし、手をちゃんと繋いでてもそれでも飛び出しちゃうような状況なら、それならどうしたらいいんだろう?」と考えて、考えついたことを元に対話ができればどれほど良いことでしょう。飛び出し防止のためのハーネスは見栄えが悪い?なら見た目を可愛くしたらどうだろう?ハーネスの世間でのイメージが悪い?なら世間でのイメージ改善のためにできることはないか?駅のホームから落ちちゃう子がいるなら、ホームドアを普及させればいいかも?電子技術でカバーできる?デジタル迷子ひもとか?それだと離れることを物理的に阻止できない?では逆に、子どもが飛び出してきたらあたりの自動車が強制的に停車するシステムは作れるか?適当に思いつくものが、一人でもあれこれあるかもしれません。これを大勢でどんどん思いついていけば、もっともっと良いアイディアが見つかることと、私は信じています。 自閉症・発達障害についてちょっと詳しい人にお願いしたいこと これまでにいろいろなことを調べたり勉強してきたりしてきた方たちだからこそ、そうした見方・考え方から外れるようなことが目につくかもしれません。そこで思い出して欲しいのは、自閉症・発達障害を抱える人の見方・考え方が、世間一般の主流から外れたものであるというだけで排除されることがどれほど窮屈だったことかということです。確かに、考えなしの、様々な知見をまるっきり無視するような暴論を認めることはできません。でも、窮屈な内輪のまとまりで閉じてしまわないようにするために、「考えなしのアドバイス」を棚上げにしたあとの、別の角度からの新鮮な見方・考え方をどんどんと取り込んでいけるように、枠を広げていきませんか?この自閉症啓発デーが、内輪だけのお祭りで終わらないようにするために。自戒を込めて。 元記事:Why I m Proud My Autistic Son Said No Today By Emma Dalmayne, Mar 05, 2016私は、今朝『ノー』と言った息子のことをとても誇らしく思う。息子は今日は地域のボーイスカウトと一緒に出かける予定だった。その子たちと一緒に出かけるのは初めてのことで、息子もとても興奮すると同時に、不安も抱えていた。他の子たちはどんな話をするんだろう?ちゃんと楽しめるかな?行く途中、手を繋いでいってくれるだろうか?退屈しないかな?昨日はとても落ち着かずそわそわしていたけれどぐっとこらえている様子で、今朝起きてからも、行きたいのか、行きたくないのか、踏ん切りがつかないようだった。一緒に朝ごはんを食べ、着替えている間も、この子の気持ちは行ったり来たりしているようだったので、どう言うふうに決めてもいいし、新しいことに挑戦しようとしていることを誇らしく思う、と伝えていた。いよいよあとは上着と帽子というところになって、そわそわが頂点に達した時、この子ははっきりと「ノー。僕は行かない。」と宣言した。それが、私がこの子のことを誇らしく思うことなんだ!それから、行くことに気がのらないことを言えることがなぜ大事なのか、気がのらない行った結果のパニックを静かに内に抱えてしまうことのほうがどれほど大変か、ということを一緒に話した。子どもにとって、そうした選択肢を持てること、何かをするかしないかを選べることはとても大きな意味がある。そうすることで独立心や思考の自由、好み、そしてたくましい性格をを引き出していくことができる。それは他の人を怒らせてしまうかどうかということじゃない。自分のことを自分でできるだけの強さを身につけていくことなんだ。行かなかったことでがっかりしなかったかって?ノー。そんなことはない。じゃあ私ががっかりしていたとしたら?ノー。関係ない。だってそれは私のことじゃないから。それはこの子がどう感じるかということ。この記事をここまで書いたところで息子に読んで聞かせたら、「まだ僕のことを誇らしく思うの?」と聞いてきた。「もちろん。なにかが自分にとって良くないと認めたり、ただ流されるままにならないのは強い人にしかできないこと。だって、何も言わないほうが『簡単』なんだから」と答えた。これまでにFacebookで何度も何度もこうした悲痛な書き込みを見てきた。1.うちの子はどうして学校に行かないの?2.どうしてこの服をきてくれないの?3.どうしてこんなに食べ物の好き嫌いがあるの?私の答えは、こう。1.学校で何かがうまくいってなくて、そのことをどう言えばいいのかわからないのかもしれない。学校がどれぐらい万端の配慮が整えられた「完全にインクルーシブ」なところだったとしても、それでもその子にとってはなにかがうまくいってないのかもしれない。うるさすぎるのかもしれないし、人がおおすぎるのかもしれないし、ただ、合ってないのかもしれない。2.感覚の問題かもしれない。生地のせいで暑なりすぎて不快なにかも知れないし、もしかすると苦痛なほどかもしれない。子どもと一緒に服を選んでみたらどうかな?手で触って感触を確かめながら、ウール、コットン、コーデュロイ、どれが好きかな?って。もしそうすることで、ときどき変わった格好ででかけることになったとしても、それってそんなにいけないこと?子どもでいられるのは今だけ。その個性を讃え、後押ししてあげればいい。3.食べ物が口の中でつっかえる感じがしたり、喉の反射を引き起こしてるのかもしれない。あなたなら、ムカムカするような味がして、本当にムカムカするものを食べたい?私はイヤ。主治医の先生に、ビタミン剤なんかで替えてもいいか聞いてみるのも一つ。食生活のバランスのために、フルーツスムージーを取り入れてみるのもいいかもしれない。こうしたことは、ぶつぶつ文句をいう子どもにどうしたらいいかという問題じゃない。どうやって子どもがハッピーになり、自己肯定感を身につけ、そうすることでときどき気持ちを切り替えられるようになっていくかという問題なんだ。じゃあ、もし子どもがでかけている間に友達とお茶をする約束をしていたとしたら?その友達を家に読んで、いっしょに体を使って遊んで、リラックスする時間に変えられたら! まずは、かねがね書いてるように、子ども自身を知ることからです。該当する発達障害の簡単な入門書を何冊か読んで、その内容に当てはまる部分も当てはまらない部分もある、その子自身の特性の凸凹を知ることがスタートライン。診断したお医者さんや、検査をした心理士さんなどと話しながらできるのが望ましいです。いろんな事情で、診断したお医者さんや検査をした心理士さんとは直接相談がなかなかできないこともありますが、その場合は検査結果をもとに別の人に相談するのもありでしょう。診断した人、検査をした人本人じゃないと見えにくい部分はどうしてもあるけれど、まずは誰かに聞けること。いざとなればネットも活用して。こうやって、子どもの理解を深めてくのは年単位で時間がかかるので、同時並行で療育をスタートしていきます。そのために、診断に至ったきっかけ、現在の子どもの日常生活での困りごとを洗い出していくことを。幼稚園・保育園・小学校などに通っているなら、そこでの客観的な状況をまず把握していけるとよいでしょう。まどろっこしいようですが、この前提の部分なしで、ただ「療育を受けさせなくちゃ」というのは難しいです。というのは、子どもの状態と、今の課題、療育の狙いが見えないと、どんな療育が受けられるといいかを考えることができないので。 a. 公設の療育センター(児童発達支援センター)での通園療育 b. より小規模な児童デイ(児童発達支援事業所)での通園療育これらは未就学児対象で、地域にもよりますが知的な遅れ(2〜3歳で未発語、あるいは言葉の遅れが目立つ)がある場合が主な対象かと思います。また、 c. 児童発達支援事業所での個別療育も都市部ではあるかもしれませんが、多分一杯でキャンセル待ちです。就学後は児童発達支援が使えなくなり、 d. 放課後等デイサービスが使えるようになりますが、ただの学童保育のようなところもありますので、中身の吟味が必要です。「とりあえず療育を」「とりあえず放課後デイに」と焦って、何をやってるか意味のわからないところに入れてしまうのは避けたいところ。そのために子どもの理解と課題の整理が必要です。このa〜dは「障害児通所サービス」として事業所登録してるので、自治体のHPにリストがあったりします。これ以外には、医療機関で作業療法士(OT)さんや、言語聴覚士(ST)さんの個別療育が受けられることが、ごく稀にあります。発達障害の支援を専門的にやっている病院で先生に診てもらって、その先生の指示があって院内で受けるようなものです。さらに稀に、医療機関で小学生以上のデイサービスをやっているような事例も聞いたことがあります。どちらにせよ、発達障害の主治医の先生探しとセットということになります。専門医の先生を探すには、児童青年精神医学会の認定医リストや、小児神経科学会のリストを手掛かりに*1。教育関係のサービスとしては通級指導教室や特別支援教室、教育委員会の巡回相談員さんあたりが可能性がありますが、この辺は i. 学校を通して申し込み ii. 直接、通級指導教室などに申し込み iii. 教育委員会やその相談センターを通して申し込みなど様々。i.がダメでもHPなどを探して、ii.やiii.もトライしてみる価値はあります。これ以外は…公的補助も効かない、医療機関でもない、教育関係でもない、個別のセラピスト派遣、なんてのも都市部ではありますが、補助が効かない分、比較的高額で、お金持ちの人向けです。で、高いのでありがたみがありそうですが、高いからといっていい先生とは限りません。見る目が必要。 おおまかな目安 こんな風に、いろいろなところで療育的なサービスを受けられる可能性がありますが、何が子どもに必要かは、子どもによって変わります。就学前、2〜4歳ぐらいで言葉の発達の遅れや自閉症特性が見られる場合には、まずは自治体の1歳6ヶ月児健診や3歳時健診を糸口に、児童発達支援センターや児童発達支援事業所への通所ができるか検討していきます。幼稚園や保育園にすでに通っている場合は、時々検査や相談だけは専門機関でして、そこが所属園と連携をとるような形もありますし、あるいは児童発達支援に並行して通う、というやりかたもあります。言語理解や集団行動への適応、お友達とのやりとりが苦手なことの底上げが目標になることが多いでしょう。地域にもよりますが、「就学前にしか使えない相談機関」が珍しくないことと、上記のa.b.c.の「児童発達支援」の通所定員が一杯・長大なキャンセル待ちになってしまうことがあるため、発達の心配があるときには、いきなり通所するかどうかは決めなくとも、専門職・専門機関への相談だけでも早めにスタートすることがオススメです。最初の一歩としては自治体の1歳6ヶ月児健診や3歳時健診の時が、小児科医師や保健師さん(+いれば、心理士さん)の意見を「予約せずに」聞ける数少ないチャンスです。これを過ぎても電話で申し込めばたぶんいつでも相談を申しこめたりしますし、保健師さんに聞きそびれたり/何も言われなかったとしても、直接専門機関に相談の申し込みをすることもたぶんできたりします。小学校以上は特別支援学級や通級指導などを使うかどうか+放課後等デイサービスを使うかどうかが主な検討ポイントになります。知的発達がゆっくり、あるいは発達障害特性が強くて普通級で過ごすことの困難さが強い場合には、特別支援学級を検討。勉強は本人がつまづいているところまで戻って、本人が自信を積んでいけるように。ただし、読み書き障害などの学習障害の場合には普通級(+利用できるなら通級指導)で合理的配慮を受けながら通える方が良いことも多いし、軽いADHD傾向やASD傾向についても、同様に、普通級(+利用できるなら通級指導)が良いことも多い。「診断=特別支援学級」ではありません放課後等デイサービスは内容がピンキリなのでなんとも言えません。子どもの課題の部分とマッチしたことをやってるところがたまたまあれば…というぐらいに私は感じます。「なんでもいいから療育を受けさせなくちゃ!」という焦りだけで通わせるのは難しい面があります。児童発達支援とくらべて、訳のわからないところが比率として高いので、よくよく見て選ばないと。 ざざざーっと見ると、こんな感じです。ちゃんとやってる人はすごくやってそうに見えるかもしれませんが、日本で受けられる「療育」ってこんなものじゃないでしょうか。アメリカのように毎年個別支援計画を作るためにいろんな専門職が携わる、みたいなのと比べると、あまりにも限られている。日本でも障害児相談支援を事業所に依頼してそこがサービス担当者会議を開催してくれればちょっと似たことはできるけど、そこに入ってくる専門職の顔ぶれも違うし、学校での個別支援計画とは無関係なものだし。全然発展途上。WISCなどの知能検査をまともに受けることすら難しかったりする。そんなこんなで、結局、多くの場合、「家での、子育ての中での、療育的なかかわり」がどうしても比重が高くなってしまいます。制度も事業所も専門職の育成も、どれもこれも整っていないので。ほんとに、怒っていいぐらい整っていない。しかし、家でやらなくちゃいけない、「専門的な療育を受けられない」ということをそんなに悲観しないでも欲しいのです。比較的恵まれた地域でも、専門的な療育を続けて受けることは困難で、かつ時間も限られています。 親御さんが療育の舵取りをすること 親御さんが子どもの理解を深めていって、本やネットから知識を得れば、そこらへんのヘンな専門職やヘンな学校の先生よりもずっと子どもの成長を引き出せることが決して珍しくないからです。そして、続ければ続けるほど、子どもの理解が深まるので、「療育任せ」にする場合とは大違いになってきます。そうして子ども本人の理解を深めていくことは、本人への告知や、あるいは本人の進路を一緒に考えていくことにもつながってきます。この辺は、なかなか他の人にしてもらうのは難しいところです。いや、もちろん他の人の手も借りられるだけ存分に借りてもらうとして、必ず親御さんの仕事が残る所。ということで、「発達障害と診断されたらどんな療育を受けるといいか?」への短い答えは、「どんな療育を受けるといいかを親御さん自身が考えられるようになることが大事」ということ。具体化すると、「それを親御さんにも教えていってくれる所に通えると良いでしょう」ということ。わかるようになるためには、自分で調べられることを調べて、問題意識・疑問点を持ち、それを聞ける時に聞いていく、というのが大事です。残念ながら、説明が苦手で聞かれなかったら説明をあまりしない専門職もいますし、何も聞かなかったらまだ消化中と思われることもあります。「親は素人なのに療育施設をどうやって選べばいいかわからない」という質問も時々頂きます。これについても、その施設での療育の方針をどれぐらいちゃんと説明してくれるか、「素朴な疑問・質問」にちゃんと答えてくれるか、答えようとしてくれるかどうかということがおおまかな目安になるかもしれません。「方針」は高らかにうたうけれども「質問」はめんどくさそうに封じ込めるところは、ちょっと注意が必要かと思います。子どもがそこの方針にあわなかった場合にもぞんざいな扱いを受けるかもしれません。ただ、「方針」も「理念」もプログラムの予定も全くなくて、「お子さんと親御さんに合わせます」としか言わないところも少し注意が必要かと思います。何も考えていない可能性があるかもしれません。相談自体にせよ、その相談の中でにせよ、親御さんが一歩を踏み出すこと、「これを聞こう」と思うことが、とても大事なステップです。受け身なだけでは、なかなか進まないかもしれません。なんにせよ、子どもが一人一人みんな違い、私たちもみんな違うように、地域で受けられるものもそうじゃないものもみんな違います。いろんな経緯で療育を考えるスタートラインやうけられる療育の違いがあったりするけども、いつからでも、遅すぎることはありません。以上、ざっとした全体の見通しとして。*1:リストに載っている先生がみんな素晴らしい先生とも限りませんし、リストに載っていない素晴らしい先生もいらっしゃいます。私が一番信頼している児童精神科の先生は認定医までは取っていません 通園療育の話。もうちょっと具体的に言うと、通園療育に通っている人が、「これは療育じゃなくてただの保育だ!」と憤る場面について。最近だと放課後デイとかにも関係あるかも。昔ながらの通園療育施設で保育士さんたちがやっている小集団療育と、今時の療育施設で個別でやっている療育とは見た目がどうしたって変わってくる。マンツーマンか一対多かというだけでなく、いかにも何かのトレーニング・訓練に見えるか、幼稚園・保育園と同じようなことしているだけに見えるか。個別療育というのは「マンツーマンで、幼稚園や保育園ではない濃密な訓練をすれば『普通の子』に追いついて、普通の幼稚園や保育園で過ごせるようになる」というイメージを喚起しがち。それに対して、幼稚園や保育園「以下」のことをやってるだけだと、いつまでも追いつかなさそうなイメージになる。ただでさえ、今時の療育は、アルファベットやカタカナの名前がついていて、「研究で実証されてます!」とかって言われたりして、すごく効き目がありそうに見える。それに対して、昔ながらの通園療育は、どんな価値を主張していくか。療育をやる側にとっての最大のポイントは、いろいろな子がいていろいろな親御さんがいろいろな関わり方を試行錯誤している、という親御さんにとっての障害イメージの見直しやピアグループ的な意味合いの部分だったりするんだけれども、ここを直接に親御さんにアピールポイントにするのは難しい。バツ。通園療育的なもの、とりあえずやるだけなら簡単です。保育士さんを集めて実年齢よりも目標設定を下げて時間を過ごせば、見た目は熟成された通園療育とあまり変わらないものができちゃう。ほっといても子どもはそれなりに成長するし、時々親御さんにプレッシャーをかけとけば親のせいにもできる。そういう見せかけだけの通園療育は、優しげなことと厳しいこととをまぜとけばそれっぽく聞こえるし、スタッフの経験値がいらないので安上がり。そんなんだと、「療育じゃない、保育だ!」と呼ばれたりする。でも、それって本来の「保育」の奥深さをバカにしてる。保育はただ預かるだけじゃない。通園療育で(おそらく保育でも)大切にするのは、子ども自身の自立を促していくこと。それは狭義の意味で、着替えや持ち物の扱い、トイレ、食事のような身の回り動作の獲得を促すというだけでなく、状況を理解し、場面の見通しをもって、自分自身の気持ちの切り替えてクラスに参加すること全体も。個々の動作をより幼稚園や保育園に近い場面設定で、つまり汎化しやすいかたちで繰り返し積み重ねる、というだけではないのです。マンツーマンでやっているなら「従うか、従わないか」の2択になってしまいかねないところを、自分で状況を把握・判断をするのは、先生が少ないからこそしやすい面も。そして、「療育」というと、多くの場合、「言葉のトレーニングを行って、『普通に』話せるようになること」をダイレクトに期待する方が多いでしょう。当然です。それなのに、通園療育では、濃密な言葉のトレーニングをしなかったりします。なぜでしょう?この辺は、人によっていろいろな考え方がありますが、私はこう考えています。通園療育のメインターゲット層である、自閉症傾向と知的発達の遅れとを兼ね備える子たちについて、ただ単に「言葉のトレーニング」だけを目指そうとしてもうまくいきにくいから、だと私は考えています。人への意識、コミュニケーションをとりたいという意識がまだあまり育っていない段階で、ただ言葉だけを教えようとしても、結局それがコミュニケーションでの使用に結びつかなかったら、意味がない。ならば、はじめに言葉、ではなくて、コミュニケーションを交わしている状況を先に作っていく。療育の中の課題の時間、遊びの時間、スキマの時間、そうした様々な場面で、まずは先生がその子と「つながる」時間を作っていく。その上でやりとりに言葉を乗せていくほうが、長期的に見ると、より言葉を使ったコミュニケーションを引き出すのに有利なんじゃないか?という考え方。それこそ、アメリカの個別セラピストのように、週に何十時間も個別療育をやっていれば、間に遊びの時間もスキマの時間も入り、ただ単に課題だけを通したつながりにはならないでしょう。でも、自閉傾向や知的発達の遅れが重いお子さんだと、週に1時間や2時間の個別よりも、たとえマンツーマンではなくても、4時間×3〜5日の時間を、いろいろなやりとりをしながら、いっしょに何かを喜び、何かの達成感を得て過ごすほうが、言葉・コミュニケーションの世界が開けやすいのではないか?あと、小集団の通園療育では一人一人にあった課題設定がされていない、ということもよく言われます。これは、どれぐらい丁寧に支度をしているかということも影響しますが、それだけではありません。なぜなら、たとえ同じ課題を一律にしていたとしても、一人一人の狙いが違ったりするからです。ある子にとっては手先の巧緻性を高めるための課題、別の子には感覚過敏を少しずつ弱めていくための課題、はたまた模倣・見比べをする課題かもしれないし、他の子と道具をやりとりする課題かもしれない。全員が全てをあまさず120%のねらいとはならないかもしれないけれど、ただやるだけではない。こうした、通園・小集団療育ならではの目標設定の仕方って、あたりまえのように実践しながらも言語化が苦手な先生もいるし、あるいは形だけをマネしていて本当に見えていない形だけの療育、という先生もいるかもしれない。時間設定の都合上、どうしても伝えきれないことも、あるかもしれない。「療育」というとき、一番難しく、かつ一番のポイントは、一口に「発達障害」といっても、その子のどんな側面に、どんな風にアプローチするといいかが子どもによって違う、ということです。アセスメントの問題。そういう意味で「発達障害を治します」という人も、「発達障害は治りません」という人も、カテゴライズだけして、適切な見立て・アセスメントをしてないんじゃないか?という懸念されます。成長しにくい部分には長期的な視点を持って、成長のカギになりそうな部分には具体的にアプローチする。この「カギになる部分」が何かということの考え方が様々に違うのがいろいろな療育の多様性の部分。個別を中心とした療育なら言語と認知機能にフォーカスしてますし、身体面を中心とした療育なら感覚・運動面にフォーカスしてます。SSTなら社会的な理解や対人相互コミュニケーションにフォーカス。一人の子どもの発達なので、どこを切り口にしても、結果的に他の側面にも療育の効果が波及していくことは多々あります。極端に偏狭・排他的なアプローチでなければ。小集団・通園形式の療育はうまく行えば様々な側面に同時並行してアプローチできる可能性がありますし、ヘタにやると何にもならない。この間に「すぐにはめざましい効果が出なくても、ちゃんと成長を引き出している」療育がたくさんあります(たぶん)。子どもの成長が引き出されてくるのを「待つ」ためには、親御さん向けの「見通し」、つまり療育の意味・ねらいの説明が必要です。説明すればすぐに納得がいくとは限らなくても。タイムラインで話題になってましたが、その療育施設がこの説明をちゃんとできるかどうか、そしてそれがまぁまぁ納得ができるものかどうか、試してみることが極端に高料金ではないかどうか、が療育施設を見分けていくためのポイントになると思います。そして、その療育施設の唱えるアプローチがお子さんにあってるかどうかは、親御さんが判断するものです。そして、そのためには、親御さんがお子さんの「発達障害」の中身について、わかっていないと難しいでしょう。本やインターネットに書いてあることではなく、その子自身のことです。別の難しさとして、地域ごとにそこで受けられる療育サービスの違いがあります。発達相談や診察の中で、「その子の障害(疑いも含む)の形を理解していけるように説明すること」と併せて、「その子に合っていると考えられる療育アプローチを勧めること」も必要ですが、「ない」ものを勧めないように…では、その地域で簡単には受けられない療育アプローチを勧めたいときはどうするか?次の相談日までの間に、家庭や幼稚園・保育園でできる療育的なかかわりについて伝えていくことが専門職の仕事でしょう。このとき「療育的なかかわり」を机を挟んで向き合って個別課題をすることに限らないように。療育とは、何か特別な時間・場面を作って一対一で何かを教える、その場で何かをできるようにさせることだけではありません。普段の生活の中で、多数派の子どもがほっといても勝手に成長・獲得するようなことを、その子も成長・獲得しやすいように「整える」ことも、療育です。例えば、ADHD特性に対する療育とは、「その子の不注意特性をなくすこと」ではありません。「不注意特性を持ちながらも、失敗しにくいやり方を自分で選べるように、どうするとその子がうまくできるか、一人でできるようになるかを考えながらガイドすること」が療育です。こうした意味では、例えば週に1回、あるいは少なければ年に何回かどこかのセンモンキカンで何かのトレーニングをすることよりも、普段の家や学校での生活の中で、どういう積み重ねをするかの方が、大事です。ここに薬物療法も併用することもありますが、まずは普段の生活の工夫が大前提でしょう。あるいはLD(学習障害)について。こちらについては、作業療法士さんや視能訓練士さんのトレーニングが幸運にも受けられる地域なら、試せるといいでしょう。しかし、このどちらも、都市部であっても受けるのはとても難しいかと思います。こうした分野を専門にしている専門職が少ないので。だから、やはり家や学校への工夫の導入が不可欠です。LD特性への療育、合理的配慮とは、単に「やらなくていいよ」ということではありません。たまに歪曲する人がいますので注意。「認知面のハンディキャップがあっても、勉強すること自体を嫌いにならずに学習経験を積み重ねること」が療育です。学習課題のレベルや量を調整したり、教科書やプリントを読みやすいようにさまざまな器具を使ったり、プリントのレイアウトを改変したりしながら、その子が学習全体を嫌いにならずに達成感、自己効力感を持てるようにしていくことが療育です。LD特性自体を治せなくても、あの手この手がある。ちょっと戻りましょう。療育の上で、なによりも一番大切なのは、すばらしいプログラムではなくて、その子自身の障害特性を見立てていくことです。そして、専門的な療育を受けられるにせよ、受けにくいにせよ、何をねらいにしているか、それがどのような効果につながっているかを見ていくことです。知識・能力を持った専門職はこの見立てと対応方法の工夫とを同時並行でしていきます。そうした専門的な療育を継続的に受けられなくても、親御さんが心理士や医師との相談・診察を通して子どもの見立てができるようになっていけば、「対応方法」の情報は本でもインターネットにも、たくさんあります。そして、相談・診察さえも、なかなか受けにくいこともあるでしょう。あちこちで絶望的に専門職が足りないので。ならば、まずは試してみましょう。いろいろと。その中である工夫から手ごたえがつかめれば、ひっくり返すことで、その子が何を苦手にしていたのかが見えてくるかもしれません。専門職であっても、お子さんをいろいろな状況で見ながら、あれこれ聞き取りをしなければ、困り事の根っこは見つけにくいかもしれません。でも、ヒント集なら書けますし、つぶやけます。そこを実際の子どもの姿と結びつけていければ、それはれっきとした「障害理解」であり「療育」だと考えます。ヘンな療育施設、ヘンな放課後等デイサービスの「センモンカ」よりも、親御さんの方がはるかにその子に詳しくなることは、決して難しいことじゃありません。(簡単でもないけど)だから、どうか、視野を広くして、あの手この手でいろいろな見方や技を盗んでいってもらえればと願います。 今まで療育的・特別支援教育的な分野に携わらなかった人が、新たにこれから携わるようになる場合、「方法」や「プログラム」に目が向きすぎて、子どもの現況の評価や見立て、アセスメントということへの意識が薄くなりがちなように思います。心理士であれば、トレーニングの課程の中で、見立て・アセスメントというのが必須です。これは療育的な分野に限らず、広く心理士の職務分野で必須の考え方なのですが、こうしたアセスメントの意義を共有していない人が意外に多いことに、じわじわと気づかされてきました。幼稚園や保育園や小学校で、あるいは親御さんから、「どうやって教えていったらいいですか?」と聞かれる時に、その見立ての考え方も一緒にお話ししますが、「そんなことはいいから、どうすれば良くなるかだけ教えてください」となってしまうと、応用がききません。見立て・アセスメントとは、単にチェックリストを元に診断名を考えることではありません。子どもの育ちのことが気になってインターネットでちょっと検索すると、「もしかして◯◯障害かも?」という記事が見つかることがあるかもしれません。そうしてそんな記事にはなにかの「チェックリスト」みたいなものがついていたりも、するかもしれません。私が母子保健の現場での発達相談でお会いする親御さんたちは往々にして、そうした「もしかして?」の記事や「チェックリスト」を事前にご覧になってきているようです。とはいえ、そうしたチェックリストは往々にして誤解されているようにも思います。たとえば「こだわり」という言葉。「ウチの子、こだわりが強いんです。だからちょっと気になってて…」と親御さんがおっしゃる時、それが自閉症スペクトラムの特性としての「こだわり」ということはあまりありません。大人が「□□しようね」といったときに、すぐに従わないで反発することがたびたびあることを「こだわりが強い」とおっしゃっているだけのことが大半です。また、「落ち着きがない」ということもなかなか厄介です。元々、ADHDの確定診断を低年齢でつけることは難しいと言われていますが、これについてもADHD特性からくる落ち着きのなさであることはそれほど多くなく、やはりただ単に「聞き分けがない」ということを言い換えているだけのことも多いです。さらに小学校以上になると、「授業にちゃんと取り組めない」「教師に反発する」ことをもって、「発達に何か問題があるんじゃないか?」と言われることさえも出てきます。そんな乱暴な…もっとひどい例としては、「休み時間に1人で教室で過ごしているのが高機能自閉症の特徴」みたいなことを書いてある本もあるのだとか。ここまでいくと笑えません。このように人の状態をチェックリストを元に判断することは、「操作的診断基準」といって、生物学的なマーカーが確定されていない精神科系の診断において広く取り入れられているやり方だったりします。これは、お医者さん同士で診断名がバラバラになってしまわないようにする上ではとても重要な考え方ですが、あくまでも経験を積んだ医師が診断の補助として使うためのもののはずです。子どもの育て方を考える上で、あるいは療育の方針を考えていく上では、こうしたチェックリストは取り扱いに注意が必要です。なぜなら、たとえ同じ診断名になるとしても、様々な特性のあらわれ方が一人一人異なることが頻繁に見られるのが発達障害の特徴のひとつだからです。また、チェックリストを元に考えようとすると、「②と③と⑥は当てはまっている気がするけど、①と④と⑤は当てはまっていないから大丈夫じゃないか…」と見過ごしたくなるリスクもあります。チェックリストの項目は、その全てに当てはまるはず、というものではありません。それでは、どうやって子どもを見立ていけばよいのでしょうか?心理士として私がしていて、お勧めしたいのは、「どうしてそういう行動がみられるか?」、まずは「どんな認知特性に基づいてその行動が表れているのか」を考えるということです。チェックリストを、単に「ある行動・特徴が見られるかどうか」という使い方をするだけでは、振り回されてしまいます。そうではなくて、ある診断名にまつわるチェックリスト項目の意味を知ることができれば、その子の行動・特徴の背景を考えるためのヒントになり、それがそのままその子に合わせた配慮・育て方・療育の工夫につなげていくことができます。たとえば、「衣服のこだわりがある」という場合、いろいろな事が考えられます。毎日同じ、決まった服しか着たがらない子がいるとして、その子は感覚過敏があって、自分が安心して気持よく着られる服以外は絶対に着たくないのかもしれない。あるいは、興味・関心の限局があって、そのトーマスの絵が描いてある服じゃないとイヤなのかもしれない。はたまた、色に特別なイメージがあって、青い服じゃないとイヤで、黄色はダメなのかもしれない。こうした「ウラ」がある「こだわり方」と、「今日はこの服を着ようね」と促されのに対して「イヤ!」と反発・自己主張をしたい「こだわり方」とでは大分違います。反発・自己主張をしたい意志の育ちから生じてている「こだわり」ならば、本人の自己選択の幅を認めればそれだけで解消できるかもしれません。それに対して、極度の感覚過敏や、興味・関心の著しい限局、本人の特異なイメージの抱き方が根底にあるならば、それはより自閉症スペクトラムの傾向に近いものかもしれません。そして、たとえ同じ自閉症スペクトラムと診断される子であったとしても、その子にとって何がこだわりの元になっているかを考えないと、適切な対応にはなりません。感覚過敏が原因なら同じような素材・フィット感のものならば受け入れられるようになるかもしれないし、興味・関心の限局が元なら同じキャラクターものなら大丈夫かもしれないし、本人なりのイメージが元ならそこを何とか見つけ出していけるといいかもしれません。とはいえ、こうした行動レベルでの見立ても一筋縄ではいきません。例えば、ある授業中に落ち着きがない子は、感覚刺激を入れたい欲求が強くて体を動かさずに入られないのかもしれないし、あるいはいろいろな外部からの刺激をキャッチしてそれに反応してしまうのかもしれない。はたまた、自分で思いついたことをすぐに試してみずにいられなくて授業中だということが頭から抜け落ちてしまうのかもしれない。こうやって考えると、まずは、「ADHD・ADDの特性のために授業中に落ち着きがないのだろうな」となるでしょう。でももう少し踏み込んで見てみると、実は、聴覚情報処理の苦手さのために先生が話していることを理解しにくいことも根底にあるかもしれないし、読み書きの苦手さのために学習に困難があるのかもしれません。あるいは社会的ルールの理解の曖昧さがあるために、授業中は先生の指示に従わないといけないことをそもそも知らないのかもしれません。こうなると、LDや自閉症スペクトラムなど別の診断名に関するような特性も同時に影響しているかもしれない、と考える必要もあるかもしれません。さらに、子どもが成長すればするほど、こうした自分の特性をどう把握して、どう考えて、どう対処しようとしているか、ということまでも影響してきます。様々な発達障害特性のために授業への取り組みが困難、というだけでなく、それまでに募り募った自信のなさのためにハナからもう聞きたくないのかもしれません。あるいは、自分が読み書きが苦手なことをバレたくないがために必要以上に居丈高になってワルぶってごまかそうとしているのかもしれません。逆に、聴いて理解することが苦手と自覚しているために自分で先に先に教科書を読んで自分のペースで理解しよう、勉強に取り組もうとしているかもしれません。時として、多くの子どもがしないような不適切な暴言・暴力を、「発達障害の特性だ」と短絡的に結びつけてしまわれることがあるようですが、それではなんの理解にもなりません。せいぜいがただのレッテル貼りです。暴言・暴力の根っこにあるのは本人のどんな思いや自己理解なのか。そしてそのさらに根っこにあるのはどんな認知特性なのか。ここを考えるための武器が発達障害の理解であり、こうした道のりを経て初めて、その子の理解を進めていくことができるのだと考えます。さらに言うならば、今まで「発達障害の特性」のように一体のように考えられていたことが、実は二次的なものだった、ということもあるかもしれません。自閉症スペクトラムから抑うつへ、ADHDから反抗挑戦性障害へというようなよくある経過というのは、広く「二次障害」として知られています。しかしそれだけでなく、学習障害を持つ人が学習を嫌いになりがちなことと同じように、自閉症スペクトラムを持つ人が他の人とのコミュニケーションを避けるようになりがちなことや、ADHDを持つ人が自信をなくしていきがちなことも、広い意味での「二次障害」と考え、適切な理解と介入があれば、あるいは防げるのではないでしょうか。そうしたことまで含めて、「発達障害」ということを考えていければと願います。 (主に過去のTwitter連投より)SCERTS という自閉症を抱える子どもへの療育的アプローチのことが話題になっていたので、その提唱者のDr. Barry M. Prizantのこんな本を昨年読みました。Uniquely Human: A Different Way of Seeing Autism作者: Ph.D. Barry M. Prizant,Tom Fields-Meyer出版社/メーカー: Simon & Schuster発売日: 2015/08/04メディア: ハードカバーこの商品を含むブログを見る以下、簡単にご紹介。まずは目次から。(以下、引用部等は私訳です)著者のDr. Prizantはこの道40年のSpeech-Language Pathologistということで、日本で言うと言語聴覚士にあたるのかな。titleもPh.Dだし。ただし、アメリカなのでMedical DoctorじゃなくてもAutismですと診断できるのは日本と違うところ。個別契約で定期指導をするセラピストというよりは、診断を受けた後の相談や教区(教育委員会が就学前の特別支援にも携わる)のコンサルテーションの仕事が多い先生のようで、直接的・間接的に関わった膨大な子どもの事例がポンポン登場します。具体的な療育の方法を書いた本というよりは、「人間としての自閉症者」について書いた本という印象です。 自閉症は疾病ではありません。人間である、別のあり方なのです。自閉症を抱える子どもは病気ではないのです。彼らは病気ではなく、私たちと同じように発達段階を踏んでいくのです。彼らを支援するにあたって、彼らを変えたり治したりする必要はありません。私たちのすべきことは彼らを理解し、私たちの関わり方を変えることなのですこの本の一貫したテーマとして、「自閉症に特有の行動をなくすこと」よりも、「なぜそうした行動をするのかを理解しようとすること」の大切さを書いています。そして、そうした行動を見ると、どれも自閉症に特有ということはなく、適応しようとするための人間の自然な行動なのだと。子どもたちを圧倒する世界、恐ろしい世界の中で生き延びようとするために、自らの情動を保とうとするために、その子たちは常同行動に没頭したり、特定の物事に興味関心を限局させたり、一定の規則性やルールにこだわるということ。大人が子どもを変えようとして、子どもが聞かなくてもそれは反抗などではないこと。自閉症の診断の元となる問題行動のチェックリストとして子どもを見るのではなくて、その子どもがどうやって世界を見て、自分自身を保ち、何を求めようとしているかを見ていかなくちゃいけない。その根底に、神経的・生理学的なアンバランスさや困難さがあるけれど、その子自身は適応しようとしてる。なので、ただ単に、適応するための手段としての問題行動を消去するのではなくて、より適切な別の、落ち着く手段を教えていきましょうと。一見意味をなさないような発語や遅延エコラリアであっても、その子どもなりに意図を持って表現している、コミュニケーションを取ろうとしているものであったりする。そうしたその子ならではの表現の仕方は簡単に読み解けるものとは限らないけれど、どんな専門家よりも親のほうが詳しいことも珍しくない。ただでさえ見通しのつかなさなど、いろいろな苦手さのためにとても強い不安に耐えずさらされている子どもとすごす上で、どうやって信頼関係を築いていくかはすごく大切なこと。そのためには、その子自身が自分で自分のことを決められることをちゃんと保証していくことが大事。これを裏返すと、世界や人との信頼感を培っていくことができれば、不安感を和らげるための様々な常同行動、こだわりを少しずつ弱めていくことができるはず、と。情動的な記憶のフラッシュバック特性のために、一度マイナスのイメージを抱いてしまうとなかなか簡単にはいかないことが、信頼感を培う上で妨げとなる。それでも少しずつ、プラスのイメージで、楽しかった記憶で上書きしていくことで、成長を引き出すことができる。だからこそ、療育は楽しく。こうした様々なことを踏まえた上で、社会性の面での困難さは根深いもので、適切な理解がないと教えていくことも難しい。一般的なルールを矯正的に教えるよりも、つきあいかたをおさえるぐらいのほうが良いことも。また、表情認識を教えることは、感情表現をできるようになることとは別なことにも注意。第2部ではアメリカの療育・特別支援教育事情がよく描かれていました。進んでるといわれるアメリカでも、柔軟性のない専門職、先生、校長先生はたくさんいると。(だからこの本を書いたんだろうけど)その中で、どうやって子育てをしていくか、これについてもたくさん書いてありました。なにかすごく特別な、新しい見方を紹介している本では、ありません。たぶん。ある程度、自閉症児の療育に携わっている専門職や親御さんなら、「うん、知ってた」というようなことばかりかもしれません。でも、図解の一つも使わずに、文章の組み立てと、イメージしやすい子どもや大人の実例を元に、大事なことを、一貫した視点で整理して綴った本はなかなかないなと感じました。あたりまえのことを、あたりまえのこととして伝えるために、一貫した理屈の整理が必要で、そこをちゃんとしていくことで、ただの技法ではなく、療育の哲学になる。実際、私は昨夏に読んで以来、考え方の背骨の一つになったように思います。そして、様々な療育技法の全てに通底する考え方にもなるので、こうした大きく見る見方を持つことで、いろいろな子に合わせたアプローチを柔軟に考えていくことができるようになるもの。アメリカのGoogleでDr. Prizantが行った講演録もありました。PCなら自動認識されたとおぼしき英語字幕も出せます。Barry Prizant: "Uniquely Human" | Talks at Google基本的には本の内容ベースでの40分ぐらいのお話なんだけど、自閉症特性=世界や人に対して感度が低い、のではなく、むしろ過敏なのだ、というところの強調と、自閉症特性があっても人と親しもうとする心を持っているというところを強調していたので、まとまりが良く感じました。あ、あと、何度もなんども強調してたのが、「消去すべき自閉的行動」というものはなく、「珍しい形とはいえ、どれもこれも(発達段階の違いや強度の違いこそあれど)定型発達の子どもや大人に見られる、自分自身をいい状態に保つための人間的行動ですよ」ってところか。そして、「自閉症であることは悲劇なのか?」ということに対して、「多数とはいえないけれど、自閉症の子どもを素晴らしい存在として誇らしく思っている親や当事者がいる」と断言。そうした人間としての自閉症のあり方をよくわかるようになれば、自然と「親切」になれる、という表現もあったかな。後半の質疑応答のところでは、「どんな権利擁護運動をしてけばいいですか?」とか、「ABAばかりが幅をきかせてるけどどうしたものでしょう?」とか、「うちの子も自閉症だけど個別支援計画会議がイヤなんですよね!」もか、各位がはっちゃけてておもしろかったです。自閉症の脱病理化、ということで例にあげてた、「自閉症の診断がついてる子がしょっちゅう自分の髪をいじっていたら、それは自閉症的行動として目の敵にされるだろうけど、私達だって、考え事をするときに頭を掻いたりヒゲをなでたりするじゃあないですか」というのはしっくり来やすい例かな。 元記事:The Kids Who Beat Autism By RUTH PADAWER, JULY 31, 2014ひとつ前の記事多くの親にとって、自閉症についての新しい研究をじっくりと調べて、そこに隠れた手がかりや自閉症をなかったことにするための公式がないかを探そうとすることは気持ちを惹かれることです。しかし自閉症の成長経過については未だに多くの謎が残っており、研究者たちは一つ一つの研究の中身に飛びつくのではなく、様々な研究成果全体の中の一つとして俯瞰することを勧めています。キャサリン・ロードはこう語ります。「自閉症ではなくなっていった子どもたちの話を聞き、『うちの子もそういう子たちと同じようになって欲しいんです』という2歳児の親たちに、これまで大勢会ってきました。」彼女は症状がなくなっていく子どもは全体の一部に過ぎないことを改めて伝え、完全な回復以外は受け入れられるものではないと考える代わりに、まずはその子が持っている力を十分に発揮できるよう促していくことに狙いを据える方がいいと助言するそうです。「『完全になること』で頭がいっぱいになってしまうと、そのことで子どもをひどく傷つけてしまうことがあります。定型発達の子どもはそうした親からのプレッシャーをはねのけることができるのに対し、自閉症の子どもにとってはそれをはねのけるのが難しいことがあります。希望を抱くことは結構でしょう。いや、希望を抱くのはよいことです。でもその希望にすがりすぎてしまい、目の前の子どもが見えなくなってしまわないように。」自閉症を抱えた子ども、あるいは自閉症ではなくなった子どもを育てるための最善の方法を工夫することは、どうしたって込み入った問題です。冒頭で紹介したLさんと夫にとっては、Bくんがめざましい成長を遂げた後に引っ越しを決意すると言うことがその工夫の一つでした。幼稚園を卒園した後に、一家は新しい学区へと引っ越しました。「新しい学校の先生たちにも話さなかったんです」と彼女は語っています。それだけでなく、彼女たちはBくん自身にさえ、12,3歳になるまで自閉症のことを話さなかったのです。そのことを伝えたとき、彼は雷に打たれたようでした。押し黙って、おののき、「どうしてこれまで話してくれなかったの?」と聞いたのでした。Lさんが「これまでは聞く準備ができていないと思ってたのよ」と告げると、「今だって聞く準備ができてるなんで思えないんだけど」と答えたのでした。Bくんは今や20代前半で、最近とある有名大学を卒業しました。ADHD症状や時折強まる社会不安を抱えてはいるものの、良い成績を修め、留学もして、いい友人たちと彼女もいるとLさんは語ります。彼は人々の人生を変える力を持っている学問だと考え、心理学を専攻しました。Bくんの過去は、近しい友人たちにも未だに明かさない、彼と一家の秘密です。Lさんは、Bくんがかつて自閉症だったということが知られてしまうと周りの人に不安を抱かせてしまうんじゃないか、それとも彼の過去のことを大げさに誇張しているだけだと思われてしまうんじゃないかと心配しています。Lさんたちは、Bくんを怒らせてしまうかもしれないから、ということで彼の前で自閉症のことについて触れないでいるそうです。この理由で、Lさんは筆者のインタビューに応じてくれるかBくんに聞くことを拒み、私が直接聞くこともしないようにと言ったのでした。それでも、Bくん自身が時々両親に向けて自閉症のことを話題に挙げることがあるそうです。大体は、自閉症だったときの自分はどんな風だったかを聞くのですが、最近母親のLさんにこれまでとは違う質問をしました。「ママにとって恐ろしいことだった?」と。Lさんは彼を怒らせてしまうことなく、それでも正直に答えるにはどう言えばいいか口ごもったそうです。「どうなっちゃうか、とってもとっても怖かったわ。でもそれはあっという間に過ぎていったの。私たちがどうやって教えればいいかがわかってからは、あなたがどんどんすごく成長していったから、って彼には答えたわ。あと彼のように成長する子どもはごく一部で、彼はその幸運な子たちの一人なんだと言うことはなんどもなんども話してきたわ。」24歳になるマシューくん、ジャッキーさんの息子は、まだ両親と会話をすることはできません。会話をすること自体、ほとんどできないでいます。今は馬牧場の近くのグループホームで暮らし、そこのスタッフは彼が発する音を大体どんな気持ちか解釈することができます。また、だいぶ前から自分にとって大事なものを文字で綴ることを身につけているため、時には両親が彼に渡しているiPod Touch(訳注:iPhoneみたいなものです)で手がかりを打つこともあります。とはいえ、ほとんどの時間を彼は自分の中の世界に浸って過ごしているようです。そのグループホームでの日課、例えば馬のブラッシングのような雑用をすることは、数秒やってふらふらと離れていくだけではあるものの、彼の安定につながっているようです。毎日彼はヘルパーさんに連れられて室内プールに行き、キー!と甲高い喜びの声を上げてすごします。夕方にディズニーのビデオを見ながらむにゃむにゃと口ずさむのが一番幸せな時間です。マシューくんがはっきりと発音できる言葉は、「ママ」と「パパ」の二つです。両親はだいたい毎週末に会いに来ます。そうした時に、マシューくんは時々もぞもぞと落ち着かなくなり、それは何かをほしがっているサインのことが多いのです。「見せて」とジャッキーさんがスマートフォンを渡すと、マシューくんは文字を打ち込みます。最近のものを見せてもらいました。「お昼食べます。チキンナゲット。ポテト。ケチャップ。ブラウニー。アイスクリーム。クッキー。」とか、「ピーターパン。ビデオ見ます」というようなものでした。お母さんとコミュニケーションを取るために、自分からスマートフォンを要求したり、指さしたり、手を伸ばしたり、文字を打ち込む身振りをしたりと言うことをすることはないそうです。20年以上かけて教えようとがんばってきたものの、そうした指さしや身振りが自分の要求を表現する手段になるということはまだわからないようです。(訳注:大人がスマホを渡せば文字を入れるけれど、自分からそのスマホを要求することが難しい。前の段でiPod Touchに文字を打つことがある、というのもヘルパーさんに渡されて入力している?)マシューくんが自閉症から回復しないということは、いまやもうジャッキーさんを苦しめることはありません。こう語ってくれました。「あるときに気づいたんです。もう普通になるってことはないんだって。この子には、この子の普通があるんです。そしてマシューの自閉症が敵ではないこともわかりました。自閉症はマシューそのものなんです。ぶっちゃけて言うと、この子は同い年の定型発達をしてる子の多くよりも幸せだと思います。そして私たちもこの子からたくさんの幸せをもらっています。こんなにとってもかわいいんですもの。何度も何度もずっとキスしてくれるんですよ。こうしたこと全部が、私にとっては勝ちなんです」おもにTwitterで連投・連RTしたことのまとめです。子育て支援・家庭支援に携わっている臨床心理士。療育センターにいたので発達障害関係のつぶやきが多いです。

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