映画収集狂

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さて問題です。下記小説の原作者は誰でしょう?回答は末尾にあります。映画を好む人には、弱虫が多い。私にしても、心の弱っている時に、ふらと映画館に吸い込まれる。心の猛っている時には、映画なぞ見向きもしない。時間が惜しい。何をしても不安でならぬ時には、映画館へ飛び込むと、少しホッとする。真暗いので、どんなに助かるかわからない。誰も自分に注意しない。映画館の一隅に坐っている数刻だけは、全く世間と離れている。あんな、いいところは無い。私は、たいていの映画に泣かされる。必ず泣く、といっても過言では無い。愚作だの、傑作だのと、そんな批判の余裕を持った事が無い。観衆と共に、げらげら笑い、観衆と共に泣くのである。五年前、千葉県船橋の映画館で「新佐渡情話」という時代劇を見たが、ひどく泣いた。翌る朝、目がさめて、その映画を思い出したら、嗚咽が出た。黒川弥太郎、酒井米子、花井蘭子などの芝居であった。翌る朝、思い出して、また泣いたというのは、流石に、この映画一つだけである。どうせ、批評家に言わせると、大愚作なのだろうが、私は前後不覚に泣いたのである。あれは、よかった。なんという監督の作品だか、一切わからないけれども、あの作品の監督には、今でもお礼を言いたい気持がある。私は、映画を、ばかにしているのかも知れない。芸術だとは思っていない。おしるこだと思っている。けれども人は、芸術よりも、おしるこに感謝したい時がある。そんな時は、ずいぶん多い。やはり五年前、船橋に住んでいた頃の事であるが、くるしまぎれに市川まで、何のあてもなく出かけていって、それから懐中の本を売り、そのお金で映画を見た。「兄いもうと」というのを、やっていた。この時も、ひどく泣いた。おもんの泣きながらの抗議が、たまらなく悲しかった。私は大きな声を挙げて泣いた。たまらなくなって便所へ逃げて行った。あれも、よかった。私は外国映画は、余り好まない。会話が、少しもわからず、さりとて、あの画面の隅にちょいちょい出没する文章を一々読みとる事も至難である。私には、文章をゆっくり調べて読む癖があるので、とても読み切れない。実に、疲れるのである。それに私は、近眼のくせに眼鏡をかけていないので、よほど前の席に坐らないと、何も読めない。私が映画館へ行く時は、よっぽど疲れている時である。心の弱っている時である。敗れてしまった時である。真っ暗いところに、こっそり坐って、誰にも顔を見られない。少し、ホッとするのである。そんな時だから、どんな映画でも、骨身にしみる。日本の映画は、そんな敗者の心を目標にして作られているのではないかとさえ思われる。野望を捨てよ。小さい、つつましい家庭にこそ仕合せがありますよ。お金持ちには、お金持ちの暗い不幸があるのです。あきらめなさい。と教えている。世の敗者たるもの、この優しい慰めに接して、泣かじと欲するも得ざる也。いい事だか、悪い事だか、私にもわからない。観衆たるの資格。第一に無邪気でなければいけない。荒唐無稽を信じなければいけない。大河内伝次郎は、必ず試合に勝たなければいけない。或る教養深い婦人は、「大谷日出夫という役者は、たのもしくていいわ。あの人が出て来ると、なんだか安心ですの。決して負けることがないのです。芸術映画は、退屈です。」と言って笑った。美しい意見である。利巧ぶったら、損をする。映画と、小説とは、まるでちがうものだ。国技館の角力を見物して、まじめくさり、「何事も、芸の極致は同じであります。」などという感慨をもらす馬鹿な作家。何事も、生活感情は同じであります、というならば、少しは穏当である。ことさらに、映画と小説を所謂「極致」に於いて同視せずともよい。また、ことさらに独自性をわめき散らし、排除し合うのも、どうかしている。医者と坊主だって、路で逢えば互いに敬礼するではないか。これからの映画は、必ずしも「敗者の糧」を目標にして作るような事は無いかも知れぬ。けれども観衆の大半は、ひょっとしたら、やっぱり侘びしい人たちばかりなのではあるまいか。日劇を、ぐるりと取り巻いている入場者の長蛇の列を見ると、私は、ひどく重い気持になるのである。「映画でも見ようか。」この言葉には、やはり無気力な、敗者の溜息がひそんでいるように、私には思われてならない。弱者への慰めのテエマが、まだ当分は、映画の底に、くすぶるのではあるまいか。青空文庫より底本:太宰治「もの思う葦」新潮文庫、新潮社 1980(昭和55)年9月25日発行 1998(平成10)年10月15日39刷 あっという間に新型コロナウイルスが世界に拡散蔓延し、いまや世界は感染の恐怖にさらされています、東京もますます感染者数に拍車がかかり、その間、少しでも経済活動を継続したい政府対応は明らかに滞り、遅ればせながら先日やっと東京を含めた七都市に対して緊急事態宣言を発出したものの、その内容たるや「極力外出しないように」という程度のユルユルの規制で(人は遊興を求めて規制の無い隣接県へ流れているのが現実で、こんな前提を欠いたダダモレのクラスター調査など無力化するのは明らかです)「そんなことで大丈夫か」と危惧している次第です。しかし、そんななかでも一際目立ったのは、この状況に対応した愛知県知事の一連の醜態ぶりでした、直前に、独特の偏屈さと愚鈍さを示しながら国の指摘に対して、失礼だとかなんとかのポーズだけのみえみえの憤りをとりつくろい、まるで言いがかりでもつけるかような難癖をつけ(それもみえすいた「演技」なのは、誰が見ても明らかな偽善ぶりでした)、その負け惜しみと開き直りの引っ込みがつかなくなったために大都市・名古屋だけが唯一指定から除外されて(それもこれもすべては本人が掘った墓穴です)、その自らの失態にブザマに大慌して遅ればせながら、たぶん県や議会から突き上げでも食らったのでしょう、恥ずかしげも無くまたまた記者会見で開き直って嘯いていました。あれって、どういう恥知らずな神経をしているのか理解に苦しむとともに、思わず失笑してしまいました。大都市の首長として、公人として、まずは求められて当然の、しかるべき「公正さ」が深刻なレベルで欠落していて、どう見てもまともな人間とは思えません。こんな小物の、どこの国を向いて行政を行なっているのか理解に苦しむような愚劣な首長に命運を握られている愛知県民こそいい災難です。いまさら特措法緊急事態宣言の対象地域に加えてくれとか独自の対策を施行するなどとその場しのぎの適当なホラをふいて県民を欺き自ら招いた苦境を姑息にやり過ごそうとしていますが、去年のあの愚劣な展示会対応を記憶に刷り込まれている一般常識人からすると、その売国奴のような無恥蒙昧さには心底あきれ返ります、そんな茶番のあいだにも死者がどんどん出ている逼迫した状況にあるのに自分の感情だけで時間を空費し公金を費消し、多くの県民の生命を失っていること自体、犯罪行為に等しい悪行と言わざるを得ません。この大村に比べたら、低能を恥じてひたすらに沈黙を守り、側近の県幹部が書いたと思しき原稿を大仰な演技で棒読みしている無策で哀れなタレントくずれの金勘定に長けた我欲のカタマリの森田知事の「無能さ」のほうが、まだしも可愛げがあり好感がもてるというものです。しかし、いずれにしても中国や欧米に比べると徹底を欠いたずいぶん緩い規制なので(その理由というのが、日本の現状が欧米ほどひどくないというだけの頼りないものです、ついこのあいだ、その油断こそが初動段階で出遅れて痛い目にあったという教訓があるのに、です)、こんなことで本当に大丈夫か、この感染が抑えられて落ち着く方向に向かうことができるのかという不安は限りなく拭いがたいものがあります。そんなこんなで不安でたまらない日常を家に閉じこもって過ごしているのですが、こうしてただじっと息を潜めている状態にも、やっぱり限界というものも当然あります。いずれにしても都市機能と医療体制を維持するという意味では、この辺の「緩さ」加減がぎりぎりのところですよね、まさか中国や韓国のように人民大会や選挙を意識して政治的圧力をかけ死者数を捏造・改ざんしてまで誤魔化して嘘八百で通すわけにもいきません(最近はそろそろ改ざんを持続していることに怖くなったのか、隠し通す限界を感じ始めたのか陰性が再び陽性に転じたなどという禁じ手をだして辻褄を合わせようとしています)、それにまた規制を守らない「不要外出者=不届き者」を片っ端から警防で叩きのめすとか(インド)、罹患した家の扉を外から釘付けして見殺しにして夜陰に乗じてひそかに罹患者を焼き殺すとか(北朝鮮)なんてわけにもいきませんので、この「強制力なきお願い」程度が、自由社会・日本においては、行政が為し得るせいぜいギリギリなところなのかなと納得するしかありません。印象として、こんなぎりぎりまで他国(中国・習近平の来日問題や春節一陣の観光客の入国を許したあたり)や自国内抵抗勢力にまで気を使い遠慮して緊急事態宣言(あるいは、インバウンド効果のご利益を惜しむ拝金主義圧力を抑えていち早く国を閉ざす措置)を先送りにすることはなかったのではないか、という「遅きに失した」印象はやっぱりあったと思います。日本に限らず、祖先の遺産(観光名所)にすがり、観光でやってくる中国人の落としていく金をひたすら期待し頼りにしていた観光立国を標榜していた欧州の国々(イタリア、スペイン、フランス)が、その「金」とともにもたらされた「菌」をも無抵抗に受け入れざるおえず、感染の多大なダメージを無抵抗に受けてしまったという凄惨な皮肉を目の当たりにしている感じです。日本にあっても対策の初動が遅れた一因としての「国内の抵抗勢力」というところがありました、考えてみれば、なにしろ彼らは、あの震災前に「仕分け」とかのポーズばかりの中味の無い見せかけだけの「愚民政策」で翻弄し、結句、国民の命を危機にさらしたうえに、多大な犠牲者をだして無辜の国民に害をもたらした刑事罰に相当する悪行・前科のあるあのテアイでしかありません、いわば単なる脆弱な「テイ脳勢力」にすぎないのですから、なにもそこまで配慮することもなかったのです。しかもまた、そもそも生命を託さなければならない「医療体制」というのも、報ぜられた慶応病院のセンセイ方の酒池肉林の爛れたソドムとか、その乱交の隠蔽工作に走った愚劣きわまる報道を読んだりすると、自分たちがこんなヤツラに命を託さなければならないのかと思うと虫唾が走り、恥を知れとの怒りを通り越して、なんだかやりきれない脱力感におそわれ、苦笑・嘲笑・冷笑・憐笑・哄笑など、いずれにしてもやけっぱちの気分で「どうともなれ」という捨て鉢な「篭城」の日々を送っているという現状です。こんなふうに終日、家にこもって不気味に広がる感染報道やいかがわしい慶応病院スキャンダルをテレビやパソコンで見せ付けられ、翻弄されているこの状況は、どうにも不健康で気が滅入ってしまいました。こんなことではいけないと、ここはひとつ気を取り直して、外の空気を吸うために散歩がてら、久しぶりに近所の図書館にでも出かけてみようかと思い、家を出ました、しかし、いざ図書館に行ってみると、5月6日まで休館という告知が張り出されていました。そうか、そうだよな、わが町の図書館がいかに小ぶりといえども、それでも人が蝟集する公共施設には変わりありません、感染恐怖のご時世を考えてみれば当然の話です、小さくて、それに来館者ときたら老人ばかりときていますので、ここだって例の「三密」のサイたる場所といえるわけで、もしひとりでも感染者がいたら、なにしろ老人集団です、バタバタっと全員一発で逝ってしまうのは火を見るよりも明らかです、これは迂闊でした。しかし、とはいえ、このまま家に戻るのもなんだか業腹です、第一もったいない、せっかくこうして外に出てきたのですから、もう少し足を伸ばして、そうそう、この先にある古書店をのぞきにいくことにしました。一応その店はbook and caféと銘うっていて、軽食やコーヒーも飲める店内は、壁一面に書棚がすえつけられていて、かなり硬派な書籍もずらっと揃っているので、実はかねてからじっくり腰をすえて見てみたいという気持ちでいたのですが、店内に飲食をしているお客さんがいたりするとやっぱり気恥ずかしくて(これで結構、来店者というのが途切れないのです)本を物色するためだけに店内に入るというのには気後れを感じてしまい、結局、自分などはもっぱら店頭の廉価ワゴンをうろつき、50円から300円までの均一本をおずおずと物色するだけで帰ってくるというのが、もっぱらの習慣です。しかし、廉価本といえども侮るなかれです、自分はここで結構な掘り出し物をみつけました。たとえば、「吉本隆明全著作集」(勁草書房)の第1巻「定本詩集」、第4巻「文学論Ⅰ」、第13巻「政治思想評論集」などをこの廉価ワゴンからゲットしました。この分なら、そのうちこの廉価で全巻そろってしまうのではないかと密かに期待し、そのセコイ想いが日常的なチェックの情熱を下支えしているのかもしれません。それだけでなく、そのほかにも今ではなかなか手に入りにくい名著をこのワゴンで10冊ほど手に入れました。さて、古書店の前から中をうかがうと、そのときもお客さんが数人いて、店長となにやら談笑している姿が見えましたので、やはり中に入ることは諦めて、今回もまた例によって散歩がてら何気なく立ち寄り廉価ワゴンの本をのぞくという特性を欠いた通行人を装うことになりました。そうそう、週に幾度か通りすがりに見ているうちに気がついたことですが、このワゴンは本を詰め込んだままの状態で店内かと店外を朝夕ただ移動しているだけで、ワゴンのラインナップというのは、それ自体よほどのことがない限り変わらないみたいなのです、つまり、一冊売れれば、その減った一冊分のささやかな空間に新たな一冊を補充する、そもそも基本、変更というものは滅多にないワゴン・ラインナップのその法則性と恒常性に気づいたとき、そういうことなら、ただその補充本の「位置」をチェックればいいのだと天啓のように「物色の要領」を習得し、簡潔にして要を得た目配りのポイントというものを獲得しました。まあ、あえていえば「100円ポイント」といったところでしょうか。そのポイントに位置した本(その日の新顔、でした)が目を引きました。書名は「生きるための死に方」とあり、もちろんこの意味深な書名にまず目を留めたことは確かですが(見えない恐怖としての「死」をいまほど身近に感じたことは、いままでなかったなと切実に思います)、しかし、それよりもさらに目を引いたのは編者として左上隅に記された「新潮45 編」の四文字でした。月刊誌「新潮45」の廃刊にいたるスキャンダルは、つい最近の記憶としていまだ鮮明に残っています。それはまさに「問題」とか「事件」と呼ぶにふさわしく社会問題化されて、いまでも「継続」している問題です、しかも、非難を浴びたこの廃刊によって、むしろ逆教師的にLGBTが社会的に認知される切っ掛けをつくったのではないかという印象さえあるくらいです。しかし、なおいまでも事態は流動的に変転していて、だからなおさら生々しくて完結感はなく、廃刊にいたる経緯を追い掛けるなど、あまりに「近すぎて」まったく意欲がわきません、ただひとつ、かつて編集者の経験のあった自分の印象からいえば、月刊誌「新潮45」の凋落は、発行部数減少の焦りから決して開けてはならないパンドラの函を開けてしまった感があります。発行部数増を至上のものと捉え(まさかそれを世間の支持の証しなどとすり替えて考えたとは思いませんが)、ひたすら部数を伸ばすことが善、それこそが月刊誌に課された善なる社会実現と位置づけて、部数の伸びるネタ「スキャンダル」や「挑発」をひたすら追い求めた結果、結局は「雑誌」自体を貶め、だから編集者としての自分もどんどん貶めていくことにつながって、世間の歓心を買う悪スパイラルから抜けられなくなって、ついに追い詰められ、火達磨になって破滅しなければならなかったのではないかと。さて、古書店で手にしたこの「生きるための死に方」の帯には、こんなコピーが記されていました。《「その日」のために私たちは、どう生きればいいのか、各界の識者が語る死生観。いま、私たちに必要な準備とは? 各界の識者42人が綴る様々な死生観。月刊誌「新潮45」好評掲載のアンソロジー》なるほど、なるほど、42人の有識者が、来るべき自身の死をどう考えるか、月刊誌「新潮45」に連載したものを書籍化したものらしいのです。掲載された期間は昭和63年3、4、6、7、9、10月号「特集・死ぬための生き方」昭和63年8月号「特集・自分にとって死はないという切札」平成元年1月号「特集・自分の死を悲劇にしないために」これらをとりまとめて書籍化した発行年月日が、平成元年6月20日ということですから、最初から書籍化を考慮したうえでの連載だったことがわかりますが、「特集」で謳われたコピーが微妙にぶれているのが気になります。「死ぬための生き方」(死から目を逸らさないで生を充実させようという意識)に対して「自分にとって死はないという切札」(死などに捉われず生ある今の一瞬を大切に生きろ)は、ニュアンス的にはかなり隔たりがあると思うし、「自分の死を悲劇にしないために」に至っては消極的な相当な後退感を禁じえません。ちなみに本文の頁数は254頁、ハードカバーの上品な装丁で定価1150円(本体1117円)と記されています。その丁寧なつくりからすると、かなりお得感のある本だとおもいました。やはり、最初から部数を見越せる名の通った大手の出版社は、やることが違います。だから、ことさら、こういう本が100円で買えてしまえるのかと思うと(仮に「買う」としての話ですが)、なんだか申し訳のない気が強くなります。しかし、いずれにしても、この「自分の死をどう考えるか」の特集、ありそうでなかなかない、あるいは、できない斬新な企画かもしれません。だって、あえて「死」について書いてもいいと思う人って、ごく限られているのではないかと自分ではつい思ってしまうからですが(縁起でもないと依頼を忌避する人も多分かなりいるのではと)、それを42人もの有識者を集めたというのですから、それだけでもすごい数字だなと、まずは感心しながら、表紙に羅列された執筆者をながめていたら、そこに新藤兼人と高峰秀子の名前をみつけました、反射的に思わず手にとってしまったというわけです。映画人の名前を見ると思わず反応してしまうのが習い性になっています。読みたい記事の対象者がただの二人にすぎないなら立ち読みで十分と思い、当初はこの本を買う気などまったくありませんでした。まずは高峰秀子の随想から読んでみることにしました。タイトルは「死んでたまるか」、いいですねえ、他人や社会に流されないリアリストとしての、いかにも高峰秀子らしいタイトルじゃないですか、ここに掲載されている他の「42人の有識者」(高峰秀子を除くと「その他」は41人ということになります)の随想を読むと分かるのですが、多くの識者は依頼されたお題の「死」に関するエピソードを自分の人生の越し方行く末に探し求め、あるいは、必死になってあれこれと、事象としての「死」を理解しようと解釈するばかりで、結局は「死の恐怖」の前にたじろぎ、立ちすくみ、思考停止の自動停止装置に翻弄された挙句に一歩も前に進めなくなるというテイタラクな随想ばかりなのを思えば、高峰秀子はそのタイトルが示すとおりすこぶる小気味いい「一蹴する」姿勢に貫かれていて、信じられるものは、いままで自分が生きてきたこと、そのなかで自分が信用できると確信したもの、それだけしか信じないぞという孤高にして清冽な姿勢が、日本映画史に輝かしい足跡を刻印したこの稀有な女優の、その賞賛が作り上げる虚像にさえ溺れることも毒されることもなかった強烈な「人間性」を示していると感じました。この随想「死んでたまるか」を読むと分かるのですが、ここに書かれているものは、あくまでも「現在の生活」(来るべき老後に備え、いまより少し小さな家に移転しようという顛末を書いたささやかなリアリズム随想です)であって、そのほかの自ら積み上げてきた過去の「燦然たる虚業」だとか、ありもしない「来世」(死後)のことなどには些かも一切触れることなく、終始「潔い一蹴」の姿勢に貫かれているのが一種爽快でさえありました。そして、その「らしさを貫く」という観点からいうと、新藤兼人の随想「遺言状を書く必要が無かった人」の方こそ、さらにその「一蹴性」は徹底しているという印象を持ちました。わずか6頁しかないこの随筆で触れられている人物といえば、田中絹代、溝口健二、小津安二郎、そして宇野重吉の4人のそれぞれの死に様(病名とその最期の様子)が描かれています。宇野重吉の項は便宜上割愛するとして、その他を要約してみると、以下のとおりです。【田中絹代】昭和52年3月21日、脳腫瘍のため順天堂病院で死去、67歳。この一世を風靡した大女優に遺言状はなかった。脳腫瘍のため最後は盲目となり、それでも側近には「目が見えなくとも、やれる役があるだろうか」ともらしていた。死後のことは考えなかった。生きている間のことしかあたまになかった。目が見えなくなったことが恐怖だった。17歳でスターの座にのぼり、松竹を背負って立つほどの大スターになったが、ぼつぼつ人気が下がりかけた30歳のとき、溝口健二に出会って演技開眼した。溝口・絹代コンビが残した「西鶴一代女」「山椒大夫」「雨月物語」は人のよく知るところである。溝口の死後、20年も生きた絹代は、年をとるとともに厳しい道を歩むことになる。スターの条件は若さである。目じりにしわが寄り頬がたるんでくると大衆は目をそむける。老け役しか廻ってこない。それでも昔日の栄光を背負って生きなければならない。絹代が死の床に横たわったときは無一物であった。いったんスターの座にのぼったものはスターの座を失ってからも、スターのプライドは捨てきれない。華やかだった幻影を捨てることができないのだ。いつかまた、王座を取り戻せそうな気がする。日常の穏やかな雰囲気に静にひたる心境になれない。スターとは非人間的な存在なのである。仕事がしたい、もう一度ライトを真っ向から浴びたい。自分というものが無くなったらおしまいなのだ、あとのことなど考えられない。だから絹代は遺言など書く必要が無かった。そして、新藤兼人は、「溝口健二は絹代に執着することによって生涯最高の仕事をした。」と記し、話を溝口健二につなげます。(このクダリを読んでいて、ふっと湧いた妄想ですが、この一文を「黒澤明は三船敏郎に執着することによって生涯最高の仕事をした。」と言い換えたら、ずいぶん面白い論点で小文を書けるかもしれないという妄想に囚われました。もし三船敏郎に執着して「強靭な男」を主人公に据え続けていたら、あの晩年の黒澤作品の不安定なあてどない低迷というのは、もしかしたらなかったかもしれないなという妄想がわきました。強き者もやがて老いさらばえるという屈辱と失意と絶望のテーマが延々と続くかもしれないマンネリはまぬがれないとしても、それなりのテーマの一連性は担保され作家性は発揮できたのではないかと。)【溝口健二】昭和31年8月24日、単核細胞白血病のため京都府立病院で死去、58歳。このクダリも「溝口健二にも遺言状はなかった。」という一文で始まっています。死の直前、「もう新涼だ。早く撮影所の諸君と仕事がしたい」と乱れ字の辞世らしきものを残したが、リアリスト溝口にはふさわしからぬ言葉だった。そんな穏やかな心境ではなかったに違いない。死の無念さを抱えて逝った。溝口が倒れたのは、「大坂物語」という中村鴈治郎主演のシナリオを作って撮影に入る準備中だった。病床に呻吟しながらもこの撮り方ばかりを考えていた。溝口健二も田中絹代のように仕事だけに生きたのである。家庭よりも仕事であった。家庭の不幸など意に介さなかった。むしろ家庭の不幸が溝口健二をふるいたたせた観さえある。昭和16年に作った「元禄忠臣蔵」の最中に夫人が発狂してから、溝口健二の家庭は二度と元には戻らなかった。仕事で結ばれた溝口健二と田中絹代は、男女の愛でも結ばれたが、結婚という形には至らなかった。だから死の間際には互いの魂は相寄ったとも思えるのだが、それはメロドラマに冒された勘繰りで、二人の胸に去来したものは死への無念さだけだっただろう。そして小津監督に話は続くのですが、溝口健二と田中絹代のクダリと比べたら、ほんのわずか、だった12行の分量しかありません。最後に書かれる宇野重吉が優に2頁を占めていることを考えれば、ちょっとした違和感もないではありません。【小津安二郎】昭和38年12月12日、頚に癌症状の瘰癧ができ全身に転移した、医科歯科大学付属病院で死去、60歳。生涯独身。この人も仕事ひとすじだった。頑固に自分自身に固執した。溝口健二は陋巷に埋もれた女の生態をとらえたが、小津安二郎は平凡な庶民の正義を描いた。庶民は体だけで生きて死ぬのである。カネを残しもしないし、教訓を垂れたりもしない。あるときぽつんと死ぬだけなのである。もったいぶって遺言状を書いたりはしない。小津作品の正義は何かというと、ゆずりあいである。人を押しのけて前へ出ないという生き方、これが小津作品のすべてであった。すぐれた映画監督に富に恵まれた人は少ない。良心的な監督は年に一本か二年に一本かである。その収入はたかが知れている。バイプレイヤーの収入にも達しない。だから残すべき財産もない。この点からいっても遺言状など書く必要はないのだ。最後に「溝口健二も小津安二郎もそれぞれいい死に方であったと思う。」と書いて、この映画人たちの項は閉じられているのですが、それぞれが病魔に囚われ、まだまだ成し遂げられなかった「仕事」への思いを悔恨とともにこの世に残しながら無念のうちに死んでいった彼らの最期を、それでも「それぞれいい死に方であったと思う」と賞賛する新藤兼人の「らしさを貫く」を高く評価する視点から推し量ると、たぶん新藤兼人その人も、「遺言状を書く必要が無かった人」だったのだろうなと思ったのですが、この本について、ここまで書けたのは、「立ち読み」によってではなく、結局、この本を購入して家で読み直したからなのですが、なぜ購入することにしたのかという理由を、最後にちょっと書いておきますね、忘れないうちに、この本を読んでいるうちに、こんな思いに捉われました、30年前に出版されたこの本の執筆者たち42人のうち、いったいどれだけの人が、いまも生存しているだろうか、拾い読みした高峰秀子や新藤兼人監督は、すでに故人となっているように、きっと30年という時間を経て多くの人たちはすでに亡くなっているに違いなく、うまく言えないのですが、それを個々に確認することが、なんだかその人たちを「供養」することにつながるのではないかという気持ちになりました。自分の死生観を恐怖や焦燥や楽観や無視など、それぞれの思いを込めて熱く語ったこの執筆者たち、かつてこの本に熱い言葉を書き残した彼らもこの30年という時のどこかで既にこの世から消え去り、いま自分が読み取っている言葉や熱は、沈黙のなかに閉ざされている死者たちの「気配」でしかなく、目で活字を追うことが、なんだか死者たちの言葉に耳を傾けているような不思議な錯覚に囚われたのかもしれません。きっと、彼らの「死の時」を確認しないままで済ませたら、あとで後悔するのではないかという思いに駆られ、結局この「生きるための死に方」という本を購入して帰りました。とりあえず、調査にそなえて執筆者の名前だけでも書き残しておきます。もちろん、このなかには、生存されている方もおられるはずです。芹沢光治良、高橋正雄、城夏子、石垣綾子、佐藤朔、山室静、長谷川周重、中村伸郎、飯澤匡、岡本太郎、戸川幸子、新藤兼人、榛葉英治、舟越保武、澤野久雄、青山光二、金田一春彦、大来佐武郎、梁瀬次郎、柴田南雄、秋山ちえ子、福田定良、伊藤桂一、古山高麗雄、阿川弘之、高峰秀子、高田好胤、菊村到、樋口廣太郎、三浦朱門、神崎倫一、諸井虔、河合隼雄、上坂冬子、笹沢左保、諸井薫、後藤明生、佐江衆一、下重暁子、ひろさちや、清水邦夫、浦野純子、まあとにくか、この新型コロナウイルス感染が、一刻の早く終息することを祈ってやみません、月並みですが切実です。 自分はずっと、曲がりなりにも雑誌と書籍の編集者をしてきたので、この映画が描く「ノーベル文学賞を受賞した作家ジョゼフ・キャッスルマンの作品は、本当は妻ジョーンが代筆していたものだった」というストーリーには、経験的にちょっと受け入れがたいものがあって、すごい違和感を覚えました。この破綻の物語の最後で、自分は妻ジョーンに「あなたはこれで本当に満足か」と問い掛けてみたいくらいでした。かつて自分も仕事上、不意のアクシデントにそなえて使い勝手のいい「都合のいいライター」のネットワークというものを持っていました。執筆者がなにかの事故や事情でどうしても原稿を書けなくなったときなど、その空気をたくみに読んで迅速かつ器用に穴埋めをしてくれる力強いフリーのライターたちです。そのままページの穴埋めができなければ「始末書」か「退職願い」間違いなしの絶体絶命の状況を、彼らに何度も助けてもらいました。傍目から見ても明らかに才能にあふれ、オフのときは寸暇を惜しんで勉強していたことも知っています、そんなふうに地道に「自分の原稿」をひそかに書き続け、発表と評価を得る機会を模索しながら、しかし、適当なチャンスにめぐまれないまま、金にあかした政治家や企業経営者の嘘八百の如何にもいかがわしい半生記を請け負ったり、舌も脳も十分に廻らない痴呆タレントの支離滅裂なうわ言を口述筆記して、ちゃんとしたコメントにでっちあげるなど、生活のためとはいえ赤の他人の原稿を代わって執筆するという不毛な仕事に耐えることができるのも、片方で、自分の原稿をひそかに書き続け「自分だけの世界」に誇りを持って、そうやってバランスをとっていたからだと思います。しかし、この映画「天才作家の妻 40年目の真実」における妻ジョーンは、そうではありません。夫の小説を代筆したそもそもの発端というのは、「私のことを捨てないで」の代償行為にすぎないし、その小説のテーマ(内容)というのも、「夫に浮気されて苦しむ妻」を描いたそのまんまの私小説らしいので、そりゃあ、ゴシップのネタを求めて付きまとう芸能記者ふうのクリスチャン・スレイターならずとも、その作品が夫のオリジナルなんかではなくて、妻の代筆を疑うのも容易に想像でき、邪推(というか「図星」だったのですが)を受けるのも無理からぬところだったと思います。そしてラスト、アメリカへと帰国する飛行機のなかで、妻は記者クリスチャン・スレイターにきっぱりと宣言しています。「あなたの憶測は事実ではないわ。これ以上、夫の名誉を傷つけることがあれば、訴訟を起こしますからね」と。そして、さらに、隣に座っている息子に向かって「家に帰ったら、姉さんも呼んで、本当のことを話してあげる」とも言っているのですから、自分の代筆は世間に公表しないまま、家族にだけは「真実」を告白しようしているらしいことが分かります。しかし、ここで守られようとしている「夫の名誉」とはなんなのか、まったく首を傾げざるを得ません。このラストのメッセージを素直に受け取れば、偽ものと真実の見分けがつかないまま、イカサマ野郎に晴れがましい賞を与えて澄まし込んでいる間抜けな「財団」と「世間さま」を家族でひそかに嘲笑しようと企んでいるわけで、その「悪意」たるや、相当なものと受け取らないわけにはいきません。それはまるで、愛情を人質にされた夫からさんざんに利用され、そのうえ浮気もされて、それをネタにした小説の苦痛の代筆にさえあまんじた妻の屈辱と積年の恨みを、「真実」を告白して家族を味方につけ、復讐するみたいにウサを晴らそうと、家族中で夫=父の裏切りの生涯とブザマな「虚名」を暴き、唾を吐きかけ、徹底的に貶め嘲笑し、加えてイカサマ野郎を崇め立てた無知無能な「財団」と「世間さま」ともどもその愚劣と無定見ぶりを嘲笑しようというしたたかな「悪意」をさえ感じてしまわないわけにはいきません。まるで妻の鬱憤晴らしみたいにこの世界や「ノーベル賞」をどのように嘲けようと、しかし、彼女が苦痛のなかで書き続けた自身の作品をどのように考えたのかが、このストーリーからでは終始不明でした、そんなふうに夫の虚名とともに、自身のそれら作品も葬ってしまっていいのか、もし自身の作品をそんなふうに諦められるその程度の価値しか持っていなかったとしたら、彼女の誇りは、いったいどこにあるのだと考えてしまいました。自分の才能や作品を守るためなら、あえて離婚も辞さず、生涯独身を貫き通して孤独に「書き続けること」を覚悟・選択した多くの孤軍奮闘のライターを知っているだけに、血を吐くようにして書いた自身の作品をあのようにあっさりと放棄できてしまう妻ジョーンのこの素っ気無さはリアリティを欠き、かえって不気味で不潔なものとしか映りませんでした。夫の愛を繋ぎ止めるために自分の名も作品も棄てて夫に献身を捧げる文学少女の話など残念ながら自分はいままで聞いたことがありません。逆のケースなら大いにありますが。このような掘り下げの欠いた「妻ジョーン」像への嫌悪を募らせていくにつれて、ここで一方的に「悪者」にされている無能な夫ジョゼフへの同情が湧いてきました。そもそも家族から嘲笑されなければならなかったほどの彼のその「無能」とは、いったいどういった種類のものだったのか、妻ジョーンの不可解な「潔さ」よりも一層興味をそそられました。若き日の夫ジョゼフの原稿を読んで妻ジョーンは顔を曇らせ「描写がなってないわ」と批評したうえで「ストーリーは面白いんだけどね」と言います。もちろん「描写がなってない」は、小説としての全否定ですし、それができてない以上、彼は作家としても根底から「無能だ」と面罵されたと同じなので、それが真実を突いているだけに侮辱されたと夫ジョゼフが激怒するのも無理はありません。激昂するしか、無能な彼にはなにひとつできなかったとも言えるくらいです。そして、この出来事からこの倒錯の物語のすべてが始まるわけですが、実は、後半になるにつれて徐々に失望を余儀なくされることになるこの映画で、唯一興味を引かれたというのが、この「出来事」の部分でした。自分のつたない想像にすぎませんが、たぶん編集の仕事に従事する者の多くが、この「ストーリーは面白いのにね」という妄想家のタイプで、内心では誰もが「これでオレに描写力さえあれば、小説家にだってなれるのに」と考えながら、編集の仕事にあまんじているような気がします。なので、この夫ジョゼフには最初から並々ならぬ思い入れがあったのかもしれません。「オレも同じだ」みたいな。芸術的価値は十分に理解できるのに、その表現者には決してなることのできない単なる理解者、それをシンパサイザーという意味で、芸術の周りをうろつく「周辺者」とでもいえるかもしれません。そんな感じの「周辺者」ということを意識していたときに、たまたま角田光代の小説を読んでいて、気持ちにぴったりと寄り添うようなクダリに遭遇しました。ちょっと紹介してみますね。《あの男の子は本当にこのアーティストが好きだったんだな、と苑子は思った。本気で、体の全部で好きだったんだな。彼に憧れ、彼の才能を賛美し、彼の持つ力にひれ伏し、そうすればそうするほど、自分の凡庸さが許せなくなる。あのとき25歳だったあの男の子は、自分の凡庸さを壊すのに必死だったんだろう。ただ酒を飲むために、知りもしない花見客に混じること。そこで知り合った女の子とその日のうちに寝ること。野良猫のようにその子の家に居着くこと。ふらりといなくなること。「どうしようもない男だ」と思わせること。そんなようなことに、懸命に、きまじめに、必死に心を砕いていたんだろう。非凡な誰かになるために。まじめで平凡で平和な、大嫌いな自分から少しでも遠く逃げるために。あの男の子は、このアーティストの作品に出会わなければ、もっと自由に生きていただろう。スーツを着ることも着ないことも、凡庸な恋愛をすることもしないことも、平凡な一日を送ることも送らないことも、もっと自由に選べただろう。》(角田光代「くまちゃん」新潮社刊2009.3.30)「見る」ことはできても、みずからは決して「表現する」ことのできない「周辺者」の苦しい立ち居地を痛切に表現し得た優れた一節だと、ちょっと感動したのだと思います。文学を愛しながら、しかし、自分はなにひとつ生み出すことのできない凡庸な男・夫ジョゼフは、若い女を誘惑する口説き文句として決まって繰り返す文学作品かららしき引用の一節があります(口説かれた娘は「素敵、それはあなたの作品なの」と問い、「いや、引用だ」と答えています)、ナンパするためにうろ覚えの名作の一節を恥ずかしげもなく繰り返し口にするという、文学周辺者の風上にも置けないこれが、この無能な老人の臆面もない軽薄さと俗悪さを一層際立たせる描写ともなっているのですが、実はこの部分の文章の詳細は、オンデマンド放送を再び見直して、あとで確認すればいいかと簡単にやり過ごしたのちに、この映画がオンデマンドのリストに入ってないことを知って慌てました。しかし、全体は思い出せないながらも、すこしだけのヒントなら残っています。なにやら最後の言葉は「この世の最期がくるまで、雪は音もなくひそやかに、生ける者にも、死せる者にも平等に降り注ぐ」みたいな感じだったと思います。これ、どこかで聞いた覚えがあります。「雪は音もなくひそやかに、生ける者にも、死せる者にも平等に降り注ぐ」小さな声に出してしばらく繰り返しているうちに、突然思い出しました。これは、ジョン・ヒューストン監督の名作「ザ・デッド/『ダブリン市民』より」1988のラストで重厚に読み上げられていたあの一節じゃないですか。そうそう、自分もこの作品の感想をブログに書き込んだ記憶もあります。さっそく検索して、ありました、ありました、当時、自分も余程感銘を受けたものらしくこの一節をまるごと転写していましたので、以下に貼っておきますね。あ、それからこれは余談ですが、思いついて岩波文庫版のジェイムス・ジョイス「ダブリンの市民」(結城英雄訳)を引っ張り出して該当箇所と照合してみたら、映画とはまったく異なるのでちょっと意外でした。むしろその方が当然なのかもしれませんが。念のため、このさらに下に岩波文庫版のものも貼っておきますが、こうして比較すると、映画スーパーの要約が、いかに格調高く要約されていたかがよく分かります。自分ではなにひとつ生み出すことのできなかった無能な周辺者=夫ジョゼフが、たとえ、わが著作(実は妻が代作)の登場人物の名前を失念して言い間違え、冷笑されたとしても、ジョイスの名文は、まるで呪いのように脳裏に刻印されていて、それを女を口説くための決め言葉としてしか活用できなかった哀しい凡庸さと愚劣さのなかで生き延びる絶望と孤独に自分はむしろ限りない親しみを覚えたのだと思います。《夫婦とは、いったい何なのだろう。私は妻の人生のなかで、なにを演じてきたのだ。むかしの君の美しさを知らないけれども、きっと君は美しかったに違いない。しかし、時を経たいま、もはや君はマイケルが思い焦がれた美しい少女ではない。過ぎ去った時を取り戻すことはできない。なぜこんなにも心が乱れるのだ。なにが原因なのか。馬車で君は私の手のキスに応えなかったからか。パーティーでの下手な私のスピーチに腹を立てたのか。それともワイン、ダンス、音楽か。おお哀れなジュリア。「婚礼のために」を歌ったときのあの老いた悲しみの表情。彼女も祖父や馬のように、やがてこの世の亡霊となるのか。私は喪服を着てあの客間に座り、日よけが降りたなか、弔辞の言葉を考えるだろう。しかし、すべては、無意味なたわ言でしかないだろう。そう、その日は、きっと間近なのだ。新聞の予報は正しかった。アイルランドを雪が覆っていく。雪は暗い中央の平野にも、樹木のない丘にも、アラン島の沼にも降り続ける。そのむこう、西の彼方にも音もなく雪は降り注ぐ。暗く渦巻くシャノン川の流れにも雪が降る。人は皆いずれ亡霊になるであろう。むなしく年老いて死ぬより、せめて情熱を抱きながらあの世へ旅立ちたい。絶望し死を望んだほどの彼の思い出と哀しみの囚われから、できることなら君を解放してあげたい。誰かのことを生涯をとおして強く思い続けることが、本当の愛というものなのだろうか。この世の始めから今まで、多くの人がこの世で生き死んで行ったように、私もいずれこの世を離れ、やがては彼らのように灰色の世界へと旅立つだろう。この世にあって私とともに生きた人々が消え去り、やがてはこの世界自体もいつか衰えて消え去っていく。雪は降り続ける。マイケルが葬られたあの寂しげな墓地にも、雪は音もなくひそやかに、宇宙から降り注ぐ、この世の最期がくるまで、生ける者にも、死せる者にも平等に。》ジョン・ヒューストン監督「ザ・デッド/『ダブリン市民』より」《彼女はぐっすり眠っていた。ゲイブリエルは片肘を突き、怒りを覚えることもなく、妻のもつれた髪や半ば開いた口を見つめ、そして深く吸い込む寝息に耳を澄ませた。なるほど、妻の人生にもそんな恋があったわけだ。一人の男がこの女のために死んだのか。自分が夫として、この女の人生の中で実につまらぬ役割を果たしてきたと考えても、もはや心が痛むこともなかった。彼は寝ている妻を見つめた。二人がこれまで夫婦として一緒に暮らしたことがなかったかのように。彼の好奇心に満ちた目が妻の顔と髪に長らく注がれていた。そして当時、まだうら若い美しい娘のころ、妻がどんな様子であったかを考えてみると、不思議なやさしい憐れみが心に湧いてきた。この顔がもはや美しくないとは、自分自身にだって言うつもりはない。だが、これはマイケル・フュアリーが死を賭けたときの顔ではもはやあるまい。おそらく妻は物語の一部始終を話してはいないだろう。彼の目は妻が脱ぎ捨てた衣類が載っている椅子へと向かった。ペチコートの紐が床に垂れ下がっている。深靴の片方が上を向いているが、上の柔らかい部分が曲がっている。もう片方は倒れて横になっている。一時間前の動揺が不思議に思える。何が発端であんなことになったのだろう。叔母の家の夕食から、自分の愚かしいスピーチから、ワインや踊りから、玄関でさようならの挨拶を交わしているときの浮かれ騒ぎから、雪の中を川沿いに歩いた楽しさからだ。かわいそうなジューリア叔母さん! しばらくすれば叔母さんも影になり、パトリック・モーカンや彼の馬の影と一緒になるだろう。「婚礼のために装いて」を歌っているあいだに、一瞬、あの顔にやつれた表情を見せた。しばらくすれば、自分はあの同じ居間に、喪服を着て、膝にシルク・ハットを載せてすわることになるだろう。ブラインドが降ろされ、ケイト叔母さんが横にすわり、泣き声を上げたり鼻をかんだりしながら、ジューリア叔母さんの最期の様子を語っていることだろう。自分は叔母さんを慰める言葉を心の中で探し求め、結局はぎこちなくて役に立たない言葉しか見つけられないだろう。そうとも、そうとも。こうしたことが近いうちに起こるだろう。部屋の空気が彼の肩を冷やした。彼はシーツの下にそっと身を伸ばし、妻の隣に身を横たえた。一人ずつみんなが影になってゆく。年をとって惨めに老いさらばえ、消え失せてゆくよりも、情熱の絶頂にあるときにあの世へと大胆に入るほうがましではないか。自分の傍らに横たわる女は、何年もの間、もう生きていたくないと語った恋人の目のイメージを、どんなふうに心のうちに閉じ込めていたのだろう。寛容の涙がゲイブリエルの目にあふれた。自分自身、これまでどんな女にもこのような感情を持ったことがなかった。だが、このような感情が愛に違いないことはわかる。涙は目の中でさらにあふれ、自分が片隅の暗がりの中で若い男の姿が雨の雫の滴る木の下に立っている情景を目にしている、と想像してみる。他の者の姿も近くにある。自分の魂は大勢の死者たちの群がるあの領域に近づいている。その気まぐれに揺らめいている存在を意識したが、それを理解することはできない。自分の正体も灰色の得体の知れない世界に消え失せていこうとしている。これらの死者たちがかつて築きあげ、暮らしていた堅固な世界そのものが、溶けて縮んでいく。窓ガラスを軽くたたく音が二、三度聞こえ、彼は窓のほうへ目をやった。ふたたび雪が降り出していた。彼は眠そうな眼ざしで銀や黒の雪片が街灯の明かりを背景にして斜めに降るのを眺めた。自分も西への旅に出る時が来た。まさしく、新聞のとおりだ。雪はアイルランドじゅうに降っている。暗い中央平原の各地にも、木の生えていない丘陵にも降り、アレンの沼地にもやさしく降り、さらに西では、暗く騒ぎ立てるシャノン川の波にもやさしく降っている。またマイケル・フュアリーが埋葬されている、丘の上のさびしい教会墓地の至る所にも降っている。歪んだ十字架や墓石の上に、小さな門の槍の先にも、不毛な茨の上にも厚く降り積もっている。彼の魂はゆっくりと知覚を失っていった。雪が宇宙にかすかに降っている音が聞こえる。最後の時の到来のように、生者たちと死者たちすべての上に降っている、かすかな音が聞こえる。》ジェイムス・ジョイス「ダブリンの市民」(結城英雄訳)岩波文庫版2004.2.17.1刷(2017スウェーデン、米、英)監督・ビョルン・ルンゲ、原作・メグ・ウォリッツァー、脚本・ジェーン・アンダーソン、撮影・ウルフ・ブラントース、製作・ロザリー・スウェドリン、ミタ・ルイーズ・フォルデイガー、クローディア・ブリュームフーバー、ジョー・バムフォード、ピアース・テンペスト、製作総指揮・ジェーン・アンダーソン、ビョルン・ルンゲ、ゲロ・バウクネット、ニナ・ビスゴード、マーク・クーパー、フローリアン・ダーゲル、トマス・エスキルソン、ヨン・マンケル、ガード・シェパーズ、美術・マーク・リーズ、衣装・トリシャ・ビガー、編集・レーナ・ルンゲ、音楽・ジョスリン・プーク、原題:The Wife出演・グレン・クローズ(ジョーン・キャッスルマン)、ジョナサン・プライス(ジョゼフ・キャッスルマン)、クリスチャン・スレイター(ナサニエル・ボーン)、マックス・アイアンズ(デビッド・キャッスルマン)、ハリー・ロイド(若い頃のジョゼフ・キャッスルマン)、アニー・スターク(若い頃のジョーン・キャッスルマン)、エリザベス・マクガバン 年明けのある日、久しぶりにちょっと高めの寿司でも食べにいこうかと近所にある寿司職人のいる回転寿司「寿司勢」にいったところ、新年早々店が閉まっていて、張り紙には、モト会社の小野瀬水産が破産したために破産管財人がどうのこうのというようなことが書かれていたので、びっくりしました。この「寿司勢」は、わが町ではちょっとしたハイ・グレードな寿司店として一目おかれている存在です、たしか数年前の新聞に、他店の回転寿司とは違ってハイ・グレードな差別化をはかっている寿司店とかで紹介されていた記憶があります。そのあたりが最盛期だったのかもしれません。まあ、回転寿司に果たして「ハイ・グレード」なんてものがあるのかどうかはさておいて、例えば通常ひと皿100円・平日なら90円(はま寿司)というところが、わが町の回転寿司店の価格帯の通念だとすると、小野瀬水産の「寿司勢」の富裕層ねらいは、新鮮さにこだわったネタ選びが贅沢なぶん、価格もそれだけ高めに設定するというところが特徴だったのだと思います。安価な回転寿司店では、当然、寿司職人の姿など見かけることなく、目の前に皿がのったベルトがただぐるぐると廻っているだけで、そこから自分の好みの皿をチョイスして食うという回転寿司が世に登場した当初は、本格的な寿司屋のツウの客からすれば、人の顔の見えない無味乾燥さを「あんなもの」呼ばわりして冷笑していたものでした。ほら、チャップリンの「モダンタイムス」で、未来の機械が自動で人間に食事を無理やり押し込むなんて随分と皮肉っぽく「機械」を揶揄した場面が冷笑的に描かれていましたよね、ちょうどあんな感じだったのだと思います。なにしろ当時庶民にとっては、やはり高価で特別な食べ物だった寿司に「回転ベルト」を考案・導入し、とにかく家族で気軽に寿司を食べられるシステムを考案し大衆化につなげて成功した優れものの改革だったわけですから(この「工夫」と「安価」が外人客の集客につながったと思います)、「握る」ことにこだわって本格的な寿司職人を雇うなどという発想をまず棄てて、当然、「握る」部分も機械で自動化することをコミで考えたに違いありません。たとえ店の奥まった厨房で大学生のアルバイトが型でカタドリした飯の上に機械的にネタをのせているだけだとしても、人件費をそうやって削り込まない限りその「コストパフォーマンス」は実現できなかったと思います。しかし、そうした「無味乾燥」を味気なく思い、少しくらい金を払ってでも、やはり目の前で元気のいい寿司職人に寿司を握ってもらいたい、それを直接食べたいと願う裕福でノスタルジックな御仁はいつの時代にもいると思うその部分をねらって、寿司勢はその「人の手で握る寿司」にこだわって当初の成功につなげた、ひとつの成功例だったとは思いますが、そのクオリティーが定着すれさえすれば、それはそれに越したことはなかったのでしょうが。我が家でも「100円寿司にいく」というのと、「寿司勢にいく」というのとでは明らか暗号的に区別されていて、後者の「寿司勢にいく」は、「贅沢しにいく・散財する」みたいな特別な意味を持っていました。その唐突な破産話が冷え切らないうちに、さらにもうひとつのショッキングなニュースが入ってきました。なんと、わが町でたった一軒しかなかった駅前の新刊書店が、年明け早々店じまいしてしまったというのです。えっ~、それじゃあなにかい、この町には、新刊書店というものがついに一軒もなくなっちゃったってこと、「なんだなあ、町に本屋が一軒もないなんて、それで文化都市といえるのかよ、まさに世も末だね、こりぁ」とななんとかぼやきながら重ね重ねの衝撃を話の新ネタにしていました。しかし、考えてみると「新刊書店の閉店」というのは、なんだかガソリンスタンドがバタバタと潰れている状況と見事に呼応しているような感じを受けます。いずれも「時代の激変に追いつけなくて敗退した」みたいな印象はどうしても否めません。とはいえ、かのガソリンスタンドの閉鎖の方は、明らかにハイブリットカーが普及してガソリンの需要が急速に落ち込んだことにあるのですから、そもそもの原因は根本的には異なり一緒くたにはできませんが、大雑把には高度なデジタル技術化によってもたらされた技術的淘汰といってもいいのではないかと思います。具体的にいえば、書店の閉店は、「スマホ」の圧倒的普及によって、版元が端末にコンテンツを細分化・記事を切り売りして売り込むという従来にない「業態」の変化を求められ、デジタル化の需要に合わせて販路のシステムを急遽変えなければ対応できなくなり、その対応に遅れればその出版社は業界から抹消されるという差し迫った危機感があって、当然この販路の変更、あるいは廃止は、旧態の販路の出先機関の「書店」に及んで、はっきりいって無用になった現実的な末端の出店(書店)を本家は切り捨てざるを得ないという状況がいま現在の熾烈な現実なのだと思います。まあ、その傍らには、依然として「どんどん本が読まれなくなった」だから「本も売れない」という状況もあるわけで、版元も書店も本とはなんの関係のないこのデジタルという奇妙な「勢い」に挟撃されているという感じではあるのですが。でも、こうした「書店の閉店」の話に一向に動じない家人は、こんなふうに言います「でもさあ、あんた、まだ古書店とかがあるからいいやないの」と。なにいってんだ、このやろう。たしかに近所にはカフェを兼ねた店が一軒だけあることはあります。しかし、あえていっておきますが、これを「お洒落な店」と勘違いとか早とちりしたら、それこそ、やがてその浅慮をみずから呪うことになりますよ、きっとね。だって、じっさい見たらホントびっくりしますから、その凄まじさには。そりゃあ「失望」なんて生易しいものじゃ済まされません、「あんたねえ、やる気あるの」と思わず苛立ちで突っかかりたくなりますし、やり場のない怒りに駆られて湧き上がる憤怒で思わず激昂し、そこらにある物を手当たりしだい壁に投げつけたくなるくらいそのカフェなるものは惨憺たる「ヘタレな廃屋」です。なにしろタダ同然のあばら家を安価で借り受け(そういう話を聞きました)、道路に面した正面部分だけを安ペンキのケバイ色でべったりと塗りつけ、それはもうまさにウソ偽りのない壮絶たる「廃屋カフェ」という感じで、平日など客の入っているところを、ついぞ見たことがないという家人の話しでした。いや、むしろ店構えそのものが来客を拒否しているのではないかと思うくらいのオモムキで、それはまさに孤立無援の鬼気迫る壮観さだということです。しかし、選挙の時期ともになるとマッテマシタとばかりにカフェを休業にして、いそいそと選挙事務所に貸し出し、むしろそちらの方が古書店などやっているより余程実入りがいいらしく、選挙の時期になると、いつもは貧相で幽鬼さえただよう栄養失調気味で険しい顔つきのマスターの貧弱な姿が急に安らぎ、穏やかなホクホク顔になって徐々に肥えはじめるというのがご近所のもっぱらの評判だとか家人が聞き込んできました。しかし、わが町にただ一軒だけになったその古書店(正確には古書店カフェですが)にじゃあ自分が出かけるのかというと、そこにはまたなかなか行きづらい事情というものがありまして、そのことを少し書いてみますね。かつて自分は年に数回、神保町の古書店街をぶらぶら歩くのを数十年来楽しみにしてきました。それは、自分が高校生のころから現在に至るまで、ずっと続けている習慣で、いまでも変わりません。もちろん、その神保町の古書店街で安い本を物色するという楽しみもあるのですが、しかし、むしろ、どちらかといえば「古書店街のぶらぶら歩き」の方に楽しみの比重があって小一日のんびりと町歩きを楽しんでいます。それに古書探しということだけなら、なにもわざわざ「神保町」にこだわる意味も必要もありませんし。しかし、そうした町歩きに疲れた時いつも思うことがあって、これでちょっと休める場所があったら、なおいいのに考えることが時折あるのです、いえいえ、いまも学生街の象徴的な町、神保町です、喫茶店とかレストランのたぐいなかコト欠かないと思います、それこそ数え切れないくらいあるでしょうが、自分の言ってるのはそうではなくて、古書店がそのまま喫茶店を兼ねているような小洒落た落ち着ける店というか、買った本を読みながらのんびりお茶を飲んだり軽い食事ができるようなそういう店があったらいいなというのが、かねてからの自分の願いなのです。もっともこの町もいまではすっかり様変わりしてしまって(すずらん通りの飲み屋では外国人留学生たちがコンパで盛り上がっている姿をしばしば見かけます)、実際はそんな店なら幾らもあるのに知らないのは単に自分だけということなのかもしれませんが。あるとき、ご近所のお爺さんと雑談していて、そんなことを話していたら、「それって図書館みたいなものだとしたら、駄目だろうな」といわれました。「だってさ、図書館は本を読みながらの飲食は厳禁だからね。飲食しての読書を許してたら本が汚れ放題になって堪らないよ。それでなくともさ、ときどき図書館から借りた本のページにクッキーの食べカスとがコーヒーのシミとかがついているなんてことが結構あるからね、そういう本に出会ったときはホントにうんざりしてアタマにくるよ、そんなときは構わないからチクッてやるんだ」まあ、お爺さんのいう図書館というのはさておくとしても、古書店で廉価本を物色し、面白そうな本をチョイスして、コーヒーを傍らにおいて日向ぼっこしながら、のんびりとその本を読みふけるっていのは、考えただけでもますます楽しい気分に誘われます。なんとなく他人に話しているうちに、そういうシチュエーションこそ自分が思い描いてきた究極の快楽・嗜好の極致でさえあると確信しました。しかし、続いてそのお爺さんが言うには、オタクの言うその「究極の快楽・嗜好の極致」とかいうものは、なにも神保町くんだりまで行かなくともついそこの近所にもあるよと教えてくれました。それが先に書いた小汚い「廃屋カフェ」だったのです、「へえ~、知らなかったなあ、もしかして知らなかったのは自分だけというわけだったのお、という感じです。そのあとで、お爺さんから教わったその店をひそかに見にいったとき、自分が思い描いていた「究極」や「極致」が、現実に具象化されるとなると、こんなにもみすぼらしい「小汚さ」になるのかといういささかの戸惑いはありましたが、しかし、それでもこれで自分の長年の夢が実現されるかもしれないという微かな希望もあり、ちょっとしたワクワク感というか感慨無量なものはなくはありませんでした。古書店のあるその道は、思えば、格安スーパー「ビッグA」に続く迂回路で、以前にも幾度か通ったことはあるのですが、途中にこんな古書店カフェがあったなんて、正直いままで気がつきませんでした。そこには、見過ごすのも当然という「自己主張」に乏しい、見るからにアピールに欠けた店構えというものがあったのだと納得もしました。自分は「ナニゲ」をよそおい、その古書店カフェ前をゆっくり通り過ぎるふうに、風景の一部を見るように素早く店内をうかがいました。ガラス戸の反射ではっきりとは見えませんが、右側にテーブルがふたつあって客はなく、左側のカウンターでは、長い髪を後ろで束ねた店長らしき男性がカウンターにもたれて夢中で読書にふけっている感じです。それにテーブル席の背後の右側の壁一面には天井まで届く書棚にくすんだ色の本がぎっしり詰まっていて背表紙をみせているのが見えます、あそこでのんびりと気ままに本が読めると思うと、なんかいい感じじゃないですか。それによくは見えませんが、カウンターの背後にも書棚らしきものがあるようです。その店先には、背の低い書棚とワゴンがふたつずつ設えられていて、多くの古書店と同じようにそこには廉価本が無造作に収まっています、いずれも「100円均一」と書かれています。その廉価本のなかでも一際目に付いた青い装丁の本(一群です)がありました。はは~ん、むかし懐かしい「高橋和巳作品集」じゃないですか。思わず足を止めて見入ってしまいました。確かにその「一瞬」は、「へえ~、いまどき、いったいどこの誰が高橋和巳の小説など好きこのんで読むんだ?」という思いがひとつにはありますが、さらには、この小説の意外に過度な感傷が甘々な楽観に突き抜けてしまうような(いまでは文学としての未熟さを感じざるを得ません)目を背けたくなるような嫌らしい部分に通じていて、それはちょうどかつての「自分」の無様な一部・物欲しげにもがいていた「時代」にがんじがらめに囚われながら、それに甘えてもいた嫌らしい無様な自分の一部でもあったことを、その古書店の店先で見た「高橋和巳作品集」に「時代」から置き去りにされて、腐りかけた干物のように晒しものになっていることに嫌悪を感じてしまったからかもしれません。しかも、立ちすくんで、しばし見入っていたその姿をバッチシ店の奥の店長に見られてしまったことになんだか「おびえ」、怖気て思わず身を引いた意外にヤワな自分のリアクションに自身でも驚いてしまい、そのアタフタぶりの一部始終を見られてしまったことが羞恥と衝撃となって自分の中に残りました。たぶんそのとき同時に《自分が属した「世代」を決めつけられた》のではないかみたいな自己を含めた他者嫌悪として感じてしまったのかもしれません、こんなふうに他人から「世代」を決めつけられたり即断され揶揄されたり冷笑されたりしたことは、いままで幾度も経験してきたことで、その対応の「面倒くささ」を自分はつねに経験的に警戒し、とにかく逃げて、どうにかやり過ごすようにしています。むしろこれをトレードマークみたいにして「処世」につなげられたら、ずいぶんと楽な生き方ができるでしょうし、たぶん、もっと巧みに小ざかしくこの世を渡り、自己表出することもできたかもしれません。柴田翔や高橋和巳みたいにね。それから以後、あの古書店→ビッグAルートは敬遠して、通るのは避けるようになってしまいました。しかし、その負け惜しみではありませんが、古書店で手にする本というのは「たまたま」なのであって、この「奇遇」という気楽な出会い方に依存すると、なんだか「本を読んで愉しむ」ということからどんどん遠ざかってしまうような、やりきれなさというか、空しさみたいなものに陥ってしまいそうになるということはあり得ますよね、だんだんと。きっと、そういう暗澹たる気分にさせられるのは、そのいわば「気楽さ」が、ある種の「怠惰」に通じてしまっていて、それは例えばスマホで切り売りされたコンテンツをつまみ食いする「走り読み」でモノゴトを理解したような気になってしまったり本を読んだような気になってしまう、あの感じに似ているからかもしれません。それはちょうど誰かと会話するネタを仕入れるためだけに「見出し」だけさっと読んで済ませるという都合のいいだけの行為の一部にすぎなくて、いやはや、もうこうなると到底自分が考えている読書などというものではありません。それは、インターネット上で手軽な「朗読」というコンテンツを活用して、通勤の生き返りに電車で気軽に名作小説を耳で聞いただけで読んだ気になるというあたりも「それってどうなの」という気にさせられています。それらは到底「読書」とはいえない、なにか別のものにすぎなくて、活字一字一字を目で追っていくことで費やす時間が、そのまま脳に入っていくためには必要な時間なのではないなかと考えたりしますし、また、それに加えて読書の愉しみというのは、ある程度、体系的に読んでいかなければ、得られないのではないかということに気がつきました。なんと、この年になって、やっとそんなことに気がつくなんて、遅きに失した随分迂闊な話には違いありませんが、しかし、どんな「迂闊さ」にだって、それが気づきの契機になってモチベーションにつながれば、それが「いくつ」であろうと遅いなんてことは決してあるはずはありませんよね。そこでその「体系的に読む」ということに挑戦してみることにしました。この「体系的に読む」ということに関してなら、「蔵書量」において、古書店よりもはるかに図書館は優れて相応しいものがあるといえます。そして、この「体系的に読む」という気づきの対象として、まず最初に思いついたのは、村上春樹の作品を短編も含めてすべての作品を通して読んでみたいという長年の秘めたる願いがありました。ちなみに、近所の図書館のホームページで「村上春樹」と打ち込んで検索をかけた結果、関連の事項を含めてヒットしたのは438件でした、その一覧はこの記事の末尾に貼り付けますが、容量オーバーでアップできない場合にそなえて、「小説の読了・非読了の題名のみ一覧」を合わせて貼り付けますが、その「438件」の方がどこにも見当たらなかった場合は、重くて送信が叶わなかったのだなと悪しからずご了解ください。さて、村上春樹の作品ですが、長編は刊行されるたびにちょこちょこ読んできたのですが、長短編をどのくらい読んでいるのか整理してみないと分からないというのが正直なところです。そうそう、自分は、村上春樹が「風の歌を聴け」で「群像」の新人賞を受賞したときに、「群像」の本誌をリアルタイムで読んでいます。御茶ノ水駅近くの書店で「群像」を買い、電車を待ちながら読み始めたところ夢中になって止まらなくなり、いざ電車に乗りながら乗り越しするのが怖くなって途中下車して、見知らぬ駅のベンチに座り最後まで読みきったという記憶があります。そのとき受けた自分の衝撃が間違いなく確かなものだったということは、いまのこの現実がすでに証明していることと思います。忘れてはならないのは、村上春樹を取り巻く当時の日本の文壇のイカガワシイ雰囲気・空気感というものがあります、その愚劣で陰湿・度し難い内向きな体質も含めて、その辺のところはきわめて鮮明に記憶しています。そのへんはいまでも変わりませんが。そして、その雰囲気・空気感は、そのまま村上春樹がついに芥川賞を受賞しなかったこと(そんなことは彼の「文学性」とその「世界化」にとってなにほどの支障でもかったということは却って痛快です)や、ノーベル文学賞の受賞を阻んでいる状況とか嫉妬に満ちた「でっちあげられた芳しくない評判」によって故意に阻まれていることにも通じています。ナンデスカ、選考にかかわる薄汚い内通者が日本にいるらしく、候補者の「評判」をかの国にあることないことひそかに伝えているとかいう話じゃないですか。大方、文壇の太鼓もちみたいなヤカラがつまらない悪評をでっちあげて内報しているに違いありません。世界に通用する真の変態・大谷崎を差し置いて世間受けする見栄えのいい日本観光案内所みたいな川端をあえて推薦したくらいですから、その実力など、おして知るべしです。このあたりの事情について、村上春樹自身も短編小説のなかで少し触れたことがありました。≪淳平は就職をせず、アルバイトをして食いつなぎながら小説を書いた。当時の淳平は作品を書き上げるとまず小夜子に見せ、率直な感想を聞いた。そして彼女のアドバイスに従って改稿した。彼女が「これでいい」と言うまで何度も、ていねいに我慢強く書き直した。淳平には小説の師もいなければ仲間もいなかった。小夜子のアドバイスだけがかすかな導きの灯だった。24歳のときに書いた短編小説が文芸誌の新人賞をとり、それが芥川賞の候補になった。その後五年のあいだに合計で四度、芥川賞の候補になった。悪くない成績だ。しかし結局賞をとることはできず、万年有力候補で終わった。「この年齢の新人としては文章の質も高く、情景描写と心理描写には見るべきものあるが、処どころで感傷的に流れる傾向があり、力強い新鮮さ、小説的展望に欠ける」というのが代表的名選評だった。高槻はその選評を読んで笑った。「こいつらはみんな頭がずれていると思うね。小説的展望っていったい何だ? まともな社会人はそんな言葉使わないぜ。今日のすきやきは牛肉的展望に欠けたとか、そんなこと言うか?」(蜜蜂パイ)≫それにしても、皮肉なことには、日本文壇の太鼓もちの「謗り」や「阻み」が強ければ強いほど、村上春樹はますます世界で読まれ、名声は高まるばかりというのも痛快じゃないですか。当時、大江健三郎は、選評か批評で村上作品に対して「こんな翻訳文は、到底日本文学とはいえない」と腐したうえに謗っていました。自分こそ朝鮮戦争と60年安保をネタにしたサルトルの翻訳文のパクリで「遅れてきた」とかなんとかこそこそと売り出してきたっていうのに、それを棚に上げておいて「なんだそれ、よく言うよ」と苦笑してしまいました。えらそうに。お前には自分の考えというものがないのか、と苛立たしい憤りを感じた記憶があります。現在、若い世代のだれにも相手にされず、とうに忘れられつつある敗残の惨憺たる現状は、時代の「良識」といういかがわしい既成左翼にすり寄ってこびへつらいおもねってその隠れ蓑の影でぬくぬくと安住してきた分だけ、「この時代」に取り残され報復されているという感じを受けています。まあ、そんなことはさておいて話しを「村上春樹」に戻しますね。今回、順不同ですが、長短編を新たに読み進め、読み直した結果、ずいぶん映画ネタが、そこここに散りばめられているなという印象を受けました。そのなかで直接的な引用はともかくとして、自分の目を引いたのは、「かすかなケハイ」という感じを受けた作品です。以前、自分は、「海辺のカフカ」の中の一文が、映画「スペシャリスト・自覚なき殺戮者」に対する的確な映画批評のように読めてしまった部分を驚きとともにこのブログに書いたことがあります。それとまったく同じ経験を今回の「読み直し」のなかで遭遇したので、そのことを書きたくて、この拙文をここまでなんとか引っ張ってきた次第です。それは「我らの時代のフォークロア 高度資本主義前史」という作品と、エリア・カザンの「草原の輝き」1961との相似性です。ふたつのストーリーの要約(末尾に掲げましたので、ご参照ください)を比較してみると、とても似たストーリーではあるものの、本質的には似て非なる、まるで異なった作品であることがよく分かります。村上作品「我らの時代のフォークロア 高度資本主義前史」のラストで男がかつての恋人の望みどおり彼女の結婚後にsexしたあとにやり切れない絶望と虚無感におそわれて夜の街で「商売女」を買わずにいられなかったというラストは、ずいぶんと象徴的な結末だなあと痛感します。「処女」であることや、そして「sex」や、彼女自身の「カラダ」すべてが、彼女の来るべき「将来」のために効率的な利益をもたらすべく彼女みずから既に道具化・商品化していて自分で自身を値段づけしていた無残な倒錯が「結婚するまでは処女でいたいの」の言葉の中に示唆され意味付けられていたことがラストで明かされているのです。「功利」の一部に役立たせる肉体を持った歪んだミス・クリーンとの空しい性交のあとで、その男がさらにその夜に買った「商売女」と、いったいどこがどれほど違うのかと問う悲痛な絶望感にうちのめされるというラストをもつ、きわめて良質の短編小説に仕上がっているのですが(サブタイトルの「高度資本主義前史」がよく生きています)、この小説の読後には思わずエリア・カザンの「草原の輝き」を思い浮かべました、筋立てなどはとても良く似ていますが、エリア・カザンの「草原の輝き」の方は、若いふたりの「sex」を功利的に考えて歪めてしまうのは、彼らの周りにいる親や社会、そして周囲の人間たちの偏見や頑なな倫理観なのであって、そのために結局破綻せざるを得なかったとしても、ふたりの「sex」そのものは、どこまでも一途で清らかな高潔さを失っていない熱く息づく「青春の夢」であることを放棄しているわけではありません。まさに「草原の輝き」なのです。それに引き換え「フォークロア」で描かれている破綻の元凶は、成育歴や学歴や、さらにはその肉体としての「わが身」まで金に換算して「将来」への功利をはかろうとする惨憺たる「sex」に貶められたものでしかありません。その荒涼とした「高度資本主義前史」の荒れ野にひとり取り残された男は、そのラストで、思い余って「商売女」を買って渇きを癒さなければ遣り切れないような絶望感におそわれています。そこのところが、1961年のアメリカの「草原の輝き」と日本の「高度資本主義前史」との違いなのだと痛感した次第です。★村上作品「我らの時代のフォークロア 高度資本主義前史」のあらすじ≪主人公の「僕」は1960年代のいわゆる高度経済成長期に中学から大学の多感な時期を過ごした。そして「僕」は大人になって、高校の級友とある日偶然再会する。その級友は高校時代には、何でもできた完璧な男だった。成績が良くて、運動ができて、そのうえ親切で、しかもリーダーシップがとれ、皆からの信頼も厚かった。特にハンサムというわけではないが、いかにも清潔そうな爽やかな印象で、当然クラス委員をしたりして、声もよく通り、歌もうまくて、おまけに弁も立った。誰にも好かれる言うことなしの完璧な好青年だ。当時、その彼が付き合っていた女の子がいた、別のクラスだったが、彼女も美人で、同じように成績も良くて、運動ができ、リーダーシップもとれるという、これまたクラスに一人はいるという完璧な美少女で、つまりふたりは誰もが認める似合いのカップルというわけ。いわばミスター・クリーンとミス・クリーンという組み合わせ。しかし、その頃「僕」たちが興味のあったのは、もっとヴァイタルな政治とロックとセックスとドラッグ。つまり、あのミスター・クリーンとミス・クリーンなんか別世界に生きる異星人としか思えず、「僕」たちには関心も興味も印象もなかった。大人になった「僕」は、海外で偶然そのミスター・クリーンと再会し、一緒に食事をすることになる。彼は、あの思春期に付き合っていた彼女ミス・クリーンとの関係について、その後のウチワケ話を始める。彼女と彼は4年ほど付き合い、その間も、逢えば濃厚なペッティッグをした、しかし、彼女は、指でなら許すが、セックスだけは頑なに拒み続けた、「それなら結婚しよう」と切羽詰まって彼は婚約の申し出をするが、彼女は断る。理由は「結婚するまでは処女でいたいのよ」と。男は問う「なぜ。だってこんなに愛しているのだから、いいじゃないか」と。すると女は答える「あなたのことは大好きよ、とても愛しているわ。でも結婚できないの。だって、無資無力な若輩同士のわたしたちが一緒になったって幸せになんかなれるわけないじゃない。私はもう少し年上の資産のある男性と結婚して、あなたは十分な資産が出来てから年下の可愛い子と結婚すればいいのよ」「そして」と女は続ける「結婚したあとでなら、たっぷりsexしましょう、そのときは連絡するわ」その言葉を聞いた男は、彼女がなにを言っているのか、一瞬、理解できずに混乱したまま怒りをぶつけ、気まずいまま大学も別れ別れになって、やがて疎遠になる。何年か経ち、社会人になった彼の仕事もようやく落ち着きはじめたとき、彼女から「会いたい」と電話がかかってくる。少し躊躇したものの気持ちに負けて会ったなりゆきでsexするものの、その無味乾燥さにげんなりして、別れたあと、その喪失感と空虚を埋めるように商売女を買った。≫★以下は、エリア・カザンの「草原の輝き」1961のあらすじです。≪1928年、カンサスに住むバッドと、ディーン(ディーニー)は高校3年生。愛し合っているが、ディーンの母親は保守的な倫理観の持ち主で「男は尻軽な女を軽蔑する。そういう女とは結婚したがらない」ということもあって、母親に会わせづらいディーンはバッドのすべてを受け入れるに至らない。バッドの父で石油業者のエイスは息子がフットボールの選手であることが大自慢で、イェール大学に入れたがっているが、バッドには父親の期待が心の負担になっている。父は理解あるように振舞うが本能的には暴君で、姉のジェニーが家出して堕落してしまい、大学を追われたのも、こんな父のいる家庭がたまらなかったからだ。バッドはひたむきなのだが、彼女はそれを受けとめてくれない。父は「女には2種類あって、時々気晴らしに遊ぶ女と、結婚する女だ。感情に任せて、責任取らされるようなことはするな」という。そんなことでイライラした気持を、バッドは折にふれて乱暴な行動で爆発させる。ついに同級生でコケティッシュな娘ファニタの誘惑に負ける。 青春の悩みに苦しんでいるディーンはこの事件でショックを受け、ワーズワースの詩の授業の途中に教室を抜け出し、川に身を投げる。救助に飛び込んだバッドのおかげで死を免れたディーンは精神病院に入院する。父の希望通りイェール大学に入ったバッドは、勉強にも身が入らず、酒ばかり飲み、あげくにアンジェリーナというイタリア娘と結ばれてしまう。学校は退学寸前のところまでいっている。そこで父のエイスはニューヨークへ出かける。ちょうど、1929年の世界大恐慌がやってきた。エイスは大打撃をかくして息子に会い、女をバッドの寝室に送り込んだりするが、その夜、窓から飛びおりて自殺する。 ディーンは病院で知り合ったジョニーという若い医師と婚約する。退院してから、バッドが田舎へ引込んで牧場をやっていることを知り、訪ねて行く。バッドはアンジェリーナとつつましく暮らしていた。2人は静かな気持ちで再会する。Though nothing can bring back the hourOf splendour in the grass, of glory in the flower;We will grieve not, rather findStrength in what remains behind...(Sir William Wordsworth "Ode: Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood")≫草原の輝き(1961アメリカ)監督・エリア・カザン、脚本・ウィリアム・インジ、原作・ウィリアム・インジ、製作・エリア・カザン、音楽・デヴィッド・アムラム、撮影・ボリス・カウフマン、編集・ジーン・ミルフォード、出演・ナタリー・ウッド(ウィルマ・ディーン・ルーミス)、ウォーレン・ベイティ(バット・スタンパー)、パット・ヒングル(エース・スタンパー)、オードリー・クリスティー(ミセス・ルーミス)、バーバラ・ローデン(ジニー・スタンパー)、ゾーラ・ランパート(アンジェリーナ)、フレッド・スチュワート(デル・ルーミス)、ジョアンナ・ルース(ミセス・スタンパー)、ジョン・マクガヴァン(ドク・スマイリー)、ジャン・ノリス(ジュアニータ・ハワード)、マルティーヌ・バートレット(ミス・メットカルフ)、ゲイリー・ロックウッド(アレン・"トゥーツ"・タトル)、サンディ・デニス(ケイ)、クリスタル・フィールド(ハゼル)、マーラ・アダムズ(ジューン)、リン・ローリング(キャロリン)、フィリス・ディラー(テキサス・ガイナン)、ショーン・ギャリソン(グレン)、【村上春樹 長短編】一応50音順(✓は読了したもの)アイロンのある風景、✓青が消える、✓あしか、✓あしか祭り、雨やどり、✓アンチテーゼ、✓イエスタデイ、✓1Q84、今は亡き王女のための、✓インド屋さん、✓嘘つきニコル、✓うなぎ、✓馬が切符を売っている世界、✓海辺のカフカ、✓鉛筆削り、✓嘔吐1979、✓小沢征爾さんと音楽について話をする、✓おだまき酒の夜、✓女のいない男たち、✓かいつぶり、✓回転木馬のデッドヒート、かえるくん 東京を救う、✓鏡、✓風の歌を聴け、蟹、✓加納クレタ、✓彼女の町と彼女の綿羊、神の子供たちはみな踊る、✓カンガルー日和、✓騎士団長殺し、✓木野、✓牛乳、✓偶然の旅人、✓グッド・ニュース、✓月刊あしか文藝、✓構造主義、✓氷男、✓五月の海岸線、★午後の最後の芝生、国境の南、太陽の西、✓ことわざ、✓コロッケ、✓サウスベイ・ストラット、✓32歳のデイトリッパー、✓シェエラザード、✓四月のある晴れた朝に100%の女の子、七番目の男、品川猿、✓書斎奇譚、✓新聞、✓ずっと昔に国分寺にあったジャズ喫茶のための広告、✓ストッキング、✓スパゲティーの年に、✓スパナ、✓世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド、✓1963・1982年のイパネマの娘、✓1973年のピーボール、✓ゾンビ、✓大根おろし、✓タイム・マシーン、タイランド、✓高山典子さんと僕の性欲、✓タクシーに乗った男、✓タクシーに乗った吸血鬼、✓タコ、✓駄目になった王国、✓ダンス・ダンス・ダンス、✓チーズケーキのような形をしたボクの貧乏、★チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ、✓中国行きのスローボート、✓沈黙、✓使いみちのない風景、✓天井裏、✓ドーナツ化、✓ドーナツ再び、✓動物園、✓独立器官、✓どこであれそれが見つかりそうな場所で、✓図書館奇譚、★トニー滝谷、✓ドライブ・マイ・カー、✓トランプ、✓とんがり焼の盛衰、✓納屋を焼く、✓ニューヨーク炭坑の悲劇、✓ねじまき鳥クロニクル、✓眠い、✓能率のいい竹馬、✓ノルウェイの森、✓バースデイガール、✓激しい雨が降ろうとしている、✓はじめに・回転木馬のデットヒート、✓ハナレイ・ベイ、✓バンコック・サプライズ、✓ハンティング・ナイフ、✓ビール、✓飛行機、✓羊をめぐる冒険、✓人食い猫、✓日々移動する腎臓のかたちをした石、✓貧乏な叔母さんの話、✓プールサイド、✓フリオ・イグレシアス、✓ふわふわ、★蛍、✓ホルン、✓真っ赤な芥子、✓窓、蜜蜂パイ、緑色の獣、✓虫窪老人の襲撃、村上朝日堂、✓めくらやなぎ と眠る女、✓もしょもしょ、野球場、約束された場所で、✓UFOが釧路に降りる、✓夜中の汽笛についてあるいは動物の効用について、✓夜のくもざる、✓留守番電話、✓レーダーホーゼン、✓レシキントンの幽霊、✓我らの時代のフォークロア、 1 図書(和書) A wild sheep chase Haruki Murakami/[著] Kodansha International 1989/00 913.6 ○ 2 図書(和書) 愛について語るときに我々の語ること 村上春樹翻訳ライブラリー レイモンド・カーヴァー/著 中央公論新社 2006/07 933.7 ○ 3 図書(和書) 芥川龍之介短篇集 芥川 龍之介/著 新潮社 2007/06 913.6 ○ 4 図書(和書) 芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか 擬態するニッポンの小説 幻冬舎新書 市川 真人/著 幻冬舎 2010/07 910.26 ○ 5 図書(和書) あたりまえのこと 倉橋 由美子/著 朝日新聞社 2001/11 901.3 ○ 6 図書(和書) あのとき、文学があった「文学者追跡」完全版 小山 鉄郎/著 論創社 2013/03 910.264 ○ 7 図書(和書) アフターダーク 講談社文庫 村上 春樹/[著] 講談社 2006/09 913.6 ○ 8 図書(和書) アフターダーク 村上 春樹/著 講談社 2004/09 913.6 ○ 9 図書(和書) あらゆる小説は模倣である 幻冬舎新書 清水 良典/著 幻冬舎 2012/07 901.307 ○ 10 図書(和書) あるクリスマス トルーマン・カポーティ/著 文芸春秋 1989/12 933.7 ○ 11 図書(和書) ある作家の夕刻 フィッツジェラルド後期作品集 スコット・フィッツジェラルド/著 中央公論新社 2019/06 933.7 ○ 12 図書(和書) アンダーグラウンド 講談社文庫 村上 春樹/[著] 講談社 1999/02 916 × 13 図書(和書) アンダーグラウンド 村上 春樹/著 講談社 1997/03 916 ○ 14 ★図書(和書) and other stories とっておきのアメリカ小説12篇 村上 春樹/[ほか]訳 文芸春秋 1988/09 933.78 ○ 15 図書(和書) イエローページ村上春樹 Part2 作品別(1995→2004) 加藤 典洋/編著 荒地出版社 2004/05 910.268 ○ 16 図書(和書) イエローページ村上春樹 作品別(1979〜1996) 加藤 典洋/編 荒地出版社 1996/10 910.268 ○ 17 図書(和書) 偉大なるデスリフ 村上春樹翻訳ライブラリー C.D.B.ブライアン/著 中央公論新社 2006/09 933.7 ○ 18 図書(和書) 偉大なるデスリフ C.D.B.ブライアン/著 新潮社 1987/11 933.7 ○ 19 図書(和書) 1Q84 BOOK1 a novel 4月-6月 村上 春樹/著 新潮社 2009/05 913.6 ○ 20 図書(和書) 1Q84 BOOK1前編 a novel 新潮文庫 4月-6月 村上 春樹/著 新潮社 2012/04 913.6 ○ 21 図書(和書) 1Q84 BOOK1-1 a novel 大活字文庫 4月-6月 村上 春樹/[著] 大活字 2011/02 913.6 ○ 22 図書(和書) 1Q84 BOOK1-2 a novel 大活字文庫 4月-6月 村上 春樹/[著] 大活字 2011/02 913.6 ○ 23 図書(和書) 1Q84 BOOK1後編 a novel 新潮文庫 4月-6月 村上 春樹/著 新潮社 2012/04 913.6 ○ 24 図書(和書) 1Q84 BOOK1-3 a novel 大活字文庫 4月-6月 村上 春樹/[著] 大活字 2011/02 913.6 ○ 25 図書(和書) 1Q84 BOOK2 a novel 7月-9月 村上 春樹/著 新潮社 2009/05 913.6 ○ 26 図書(和書) 1Q84 BOOK2-1 a novel 大活字文庫 7月-9月 村上 春樹/[著] 大活字 2011/02 913.6 ○ 27 図書(和書) 1Q84 BOOK2前編 a novel 新潮文庫 7月-9月 村上 春樹/著 新潮社 2012/05 913.6 ○ 28 図書(和書) 1Q84 BOOK2後編 a novel 新潮文庫 7月-9月 村上 春樹/著 新潮社 2012/05 913.6 ○ 29 図書(和書) 1Q84 BOOK2-2 a novel 大活字文庫 7月-9月 村上 春樹/[著] 大活字 2011/02 913.6 ○ 30 図書(和書) 1Q84 BOOK2-3 a novel 大活字文庫 7月-9月 村上 春樹/[著] 大活字 2011/02 913.6 ○ 31 図書(和書) 1Q84 BOOK3 a novel 10月-12月 村上 春樹著 新潮社 2010/04 913.6 ○ 32 図書(和書) 1Q84 BOOK3前編 a novel 新潮文庫 10月-12月 村上 春樹/著 新潮社 2012/06 913.6 ○ 33 図書(和書) 1Q84 BOOK3-1 a novel 大活字文庫 10月-12月 村上 春樹/[著] 大活字 2011/03 913.6 ○ 34 図書(和書) 1Q84 BOOK3後編 a novel 新潮文庫 10月-12月 村上 春樹/著 新潮社 2012/06 913.6 ○ 35 図書(和書) 1Q84 BOOK3-2 a novel 大活字文庫 10月-12月 村上 春樹/[著] 大活字 2011/03 913.6 ○ 36 図書(和書) 1Q84 BOOK3-3 a novel 大活字文庫 10月-12月 村上 春樹/[著] 大活字 2011/03 913.6 ○ 37 図書(和書) 一度は読もうよ!日本の名著 日本文学名作案内 Yujin books 宮腰 賢/監修 友人社 2003/12 910.2 ○ 38 図書(和書) いなごの日/クール・ミリオン ナサニエル・ウエスト傑作選 新潮文庫 村上柴田翻訳堂 ナサニエル・ウエスト/[著] 新潮社 2017/05 933.7 ○ 39 図書(和書) 犬の人生 中公文庫 マーク・ストランド/著 中央公論新社 2001/11 933.7 ○ 40 図書(和書) 犬の人生 村上春樹翻訳ライブラリー マーク・ストランド/著 中央公論新社 2008/09 933.7 ○ 41 図書(和書) 犬の人生 マーク・ストランド/著 中央公論社 1998/10 933.7 ○ 42 図書(和書) いまのあなたへ 村上春樹への12のオマージュ 淺川 継太/著 NHK出版 2014/05 913.68 ○ 43 図書(和書) 意味がなければスイングはない 村上 春樹/著 文藝春秋 2005/11 760.4 ○ 44 図書(和書) いろんな色のインクで 丸谷 才一/著 マガジンハウス 2005/09 019.9 ○ 45 図書(和書) ウォーク・ドント・ラン 村上竜vs村上春樹 村上 竜/著 講談社 1981/07 914.6 ○ 46 図書(和書) うさぎおいしーフランス人 村上かるた 村上 春樹/著 文藝春秋 2007/03 917 ○ 47 図書(和書) うずまき猫のみつけかた 村上朝日堂ジャーナル 村上 春樹/著 新潮社 1996/05 914.6 ○ 48 図書(和書) 雨天炎天 Turkey チャイと兵隊と羊-21日間トルコ一周 村上 春樹/文 新潮社 1990/08 915.6 ○ 49 図書(和書) 雨天炎天 村上 春樹/文 新潮社 2008/02 915.6 × 50 図書(和書) 海辺のカフカ 上 村上 春樹/[著] 新潮社 2002/09 913.6 ○ 51 図書(和書) 海辺のカフカ 上 新潮文庫 村上 春樹/著 新潮社 2005/03 913.6 ○ 52 図書(和書) 海辺のカフカ 下 新潮文庫 村上 春樹/著 新潮社 2005/03 13.6 ○ 53 図書(和書) 海辺のカフカ 下 村上 春樹/[著] 新潮社 2002/09 913.6 ○ 54 図書(和書) ウルトラマリン 村上春樹翻訳ライブラリー レイモンド・カーヴァー/著 中央公論新社 2007/09 931.7 ○ 55 図書(和書) 英雄を謳うまい 村上春樹翻訳ライブラリー レイモンド・カーヴァー/著 中央公論新社 2008/03 938.78 ○ 56 図書(和書) 大いなる眠り レイモンド・チャンドラー/著 早川書房 2012/12 933.7 ○ 57 図書(和書) 大いなる眠り ハヤカワ・ミステリ文庫 レイモンド・チャンドラー/著 早川書房 2014/07 933.7 ○ 58 図書(和書) おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ 村上 春樹/文 マガジンハウス 2011/07 914.6 ○ 59 図書(和書) おおきな木 シェル・シルヴァスタイン/作 あすなろ書房 2010/09 E ○ 60 図書(和書) お金本 左右社編集部/編 左右社 2019/10 914.68 × 61 図書(和書) 小澤征爾さんと、音楽について話をする 新潮文庫 小澤 征爾/著 新潮社 2014/07 760.4 × 62 図書(和書) 小澤征爾さんと、音楽について話をする 小澤 征爾 新潮社 2011/11 760.4 ○ 63 図書(和書) おじいさんの思い出 トルーマン・カポーティ著 文芸春秋 1988/03 933.7 ○ 64 図書(和書) 温泉天国 ごきげん文藝 嵐山 光三郎/[ほか]著 河出書房新社 2017/12 914.68 ○ 65 ✓女のいない男たち(村上 春樹)文藝春秋、2014.4.30.3刷、285頁、1574円(✓ドライブ・マイ・カー、✓イエスタデイ、✓独立器官、✓シェエラザード、✓木野、✓女のいない男たち)66 図書(和書) オンブレ 新潮文庫 エルモア・レナード/[著] 新潮社 2018/02 33.7 ○ 67 図書(和書) 回転木馬のデッド・ヒート 村上 春樹/著 講談社 1985/10 913.6 ○ 68 図書(和書) 回転木馬のデッド・ヒート 講談社文庫 村上 春樹/[著] 講談社 1988/10 913.6 × 69 図書(和書) 帰ってきた空飛び猫 講談社文庫 アーシュラ・K・ル=グウィン/[著] 講談社 1996/11 933.7 ○ 70 図書(和書) 帰ってきた空飛び猫 アーシュラ・K・ル=グウィン著 講談社 1993/11 933.7 ○ 71 図書(和書) 書きたいのに書けない人のための文章教室 清水 良典/著 講談社 2014/11 816 ○ 72 図書(和書) 風の歌を聴け 村上 春樹/著 講談社 1979/07 913.6 ○ 73 図書(洋書) 風の歌を聴け 講談社英語文庫 村上 春樹/著 講談社 2011/02 913.6 × 74 図書(洋書) 風の歌を聴け 講談社英語文庫 村上 春樹/著 講談社 1987/02 913.6 × 75 図書(和書) 風の歌を聴け 講談社文庫 村上 春樹/[著] 講談社 2004/09 913.6 ○ 76 図書(和書) 風の対話集 五木 寛之/著 ブロンズ新社 1986/03 914.6 ○ 77 図書(和書) 神の子どもたちはみな踊る 村上 春樹/著 新潮社 2000/02 13.6 ○ 78 図書(和書) 神の子どもたちはみな踊る 新潮文庫 村上 春樹 新潮社 2002/03 913.6 ○ 79 図書(和書) 彼らの奇蹟 傑作スポーツアンソロジー 新潮文庫 SHINCHOBUNKO ANTHOLOGY 玉木 正之/編 新潮社 2015/05 780.4 ○ 80 図書(和書) 川村湊自撰集 3巻 現代文学編 川村 湊/著 作品社 2015/07 910.8 ○ 81 図書(和書) カンガルー日和 講談社文庫 村上 春樹/著 講談社 1986/10 B913.6 ○ 82 図書(和書) カーヴァー・カントリー レイモンド・カーヴァー/著 中央公論社 1994/10 930.278 ○ 83 図書(和書) Carver's dozen レイモンド・カーヴァー傑作選 中公文庫 レイモンド・カーヴァー/著 中央公論社 1997/10 933.7 ○ 84 図書(和書) Carver's dozen レイモンド・カーヴァー傑作選 中公文庫 レイモンド・カーヴァー/著 中央公論新社 1997/10 933.7 ○ 85 図書(和書) 騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編 村上 春樹/著 新潮社 2017/02 913.6 ○ 86 図書(和書) 騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編 村上 春樹/著 新潮社 2017/02 913.6 ○ 87 図書(和書) 北村薫のミステリー館 新潮文庫 北村 薫/編 新潮社 2005/10 908.3 ○ 88 図書(和書) きみが見つける物語 スクール編 十代のための新名作 角川文庫 あさの あつこ/[著] 角川書店 2008/06 913.68 ○ 89 図書(和書) キャッチャー・イン・ザ・ライ J.D.サリンジャー 白水社 2006/03 933.7 ○ 90 図書(和書) キャッチャー・イン・ザ・ライ J.D.サリンジャー 白水社 2003/04 933.7 ○ 91 図書(和書) 急行「北極号」 クリス・ヴァン・オールズバーグ/絵と文 河出書房新社 1987/12 E ○ 92 図書(和書) 急行「北極号」C.V.オールズバーグ/絵と文 あすなろ書房 2003/11 E ○ 93 図書(和書) 極北 マーセル・セロー/著 中央公論新社 2012/04 933.7 ○ 94 図書(和書) 巨大なラジオ/泳ぐ人 ジョン・チーヴァー/著 新潮社 2018/11 933.7 ○ 95 図書(和書) 近代日本思想の肖像 講談社学術文庫 大澤 真幸/[著] 講談社 2012/03 910.26 ○ 96 図書(和書) 空想読解なるほど、村上春樹 小山 鉄郎/著 共同通信社 2012/11 910.268 ○ 97 図書(和書) 熊を放つ 上巻 改版 中公文庫 ジョン・アーヴィング/著 中央公論社 1996/02 933.7 ○ 98 図書(和書) 熊を放つ 上 村上春樹翻訳ライブラリー ジョン・アーヴィング/著 中央公論新社 2008/05 933.7 ○ 99 図書(和書) 熊を放つ 下 村上春樹翻訳ライブラリー ジョン・アーヴィング/著 中央公論新社 2008/05 933.7 ○ 100 図書(和書) 熊を放つ 下巻 改版 中公文庫 ジョン・アーヴィング/著 中央公論社 1996/02 933.7 ○101 図書(和書) 熊を放つ ジョン・アーヴィング/[著] 中央公論社 1986/05 933.7 ○ 102 図書(和書) クリスマスの思い出 トルーマン・カポーティ/著 文芸春秋 1990/11 933.7 ○ 103 図書(和書) グレート・ギャツビー 村上春樹翻訳ライブラリー スコット・フィッツジェラルド/著 中央公論新社 2006/11 933.7 ○ 104 図書(和書) ケータイ小説は文学か ちくまプリマー新書 石原 千秋/著 筑摩書房 2008/06 910.264 ○ 105 図書(和書) 月曜日は最悪だとみんなは言うけれど 村上春樹翻訳ライブラリー 村上 春樹/編訳 中央公論新社 2006/03 930.29 ○ 106 図書(和書) 月曜日は最悪だとみんなは言うけれど 村上 春樹/編・訳 中央公論新社 2000/05 930.29 ○ 107 図書(洋書) 現代ニッポン短編小説集 Monkey brain sushi アルフレッド・バーンバウム/編 講談社インターナショナル 2002/07 913.68 ○ 108 図書(和書) 現代日本の小説 ちくまプリマー新書 尾崎 真理子/著 筑摩書房 2007/11 910.264 ○ 109 図書(和書) 現代人気作家101人 読書案内・作品編 日外アソシエーツ株式会社/編集 日外アソシエーツ 1996/07 910.31 × 110 図書(和書) 恋しくて Ten Selected Love Stories 村上 春樹/編訳 中央公論新社 2013/09 908.3 ○ 111 図書(和書) 声に出して読みたい日本語 4 齋藤 孝/著 草思社 2005/03 809.4 ○ 112 図書(和書) ここから世界が始まる トルーマン・カポーティ初期短篇集 トルーマン・カポーティ/著 新潮社 2019/02 933.7 ○ 113 ★図書(和書) 心と響き合う読書案内 PHP新書 小川 洋子/著 PHP研究所 2009/03 904 ○ 114 図書(和書) こころの読書教室 新潮文庫 河合 隼雄/著 新潮社 2014/02 019.9 ○ 115 図書(和書) 「心の闇」と動機の語彙 犯罪報道の一九九〇年代 青弓社ライブラリー 鈴木 智之/著 青弓社 2013/12 070.15 ○ 116 図書(和書) 国境の南、太陽の西 講談社文庫 村上 春樹/[著] 講談社 1995/10 913.6 ○ 117 図書(和書) 国境の南、太陽の西 村上 春樹/著 講談社 1992/10 913.6 ○ 118 図書(和書) 言葉のミルフィーユ 小澤 征良/著 文化出版局 2008/03 914.6 ○ 119 図書(和書) こぽこぽ、珈琲 おいしい文藝 阿川 佐和子/[ほか]著 河出書房新社 2017/10 914.68 ○ 120 図書(和書) コレクション戦争と文学 16 満洲の光と影 浅田 次郎/編集委員 集英社 2012/02 918.6 ○ 121 図書(和書) 「これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか? Asahi Original 村上 春樹/[著] 朝日新聞社 2006/03 914.6 ○ 122 図書(和書) ゴースト・トレインは東の星へ ポール・セロー/著 講談社 2011/11 935.7 ○ 123 図書(和書) 最後の瞬間のすごく大きな変化 グレイス・ペイリー/著 文芸春秋 1999/05 933.7 ○ 124 図書(和書) 最後の瞬間のすごく大きな変化 文春文庫 グレイス・ペイリー/著 文藝春秋 2005/07 933.7 ○ 125 図書(和書) 『坂の上の雲』を読み解く! これで全部わかる秋山兄弟と正岡子規 土居 豊/著 講談社 2009/11 913.6 ○ 126 図書(和書) 佐々木マキ アナーキーなナンセンス詩人 らんぷの本 mascot 佐々木 マキ/著 河出書房新社 2013/10 726.601 ○ 127 図書(和書) ささやかだけれど、役にたつこと レイモンド・カーヴァー/[著] 中央公論社 1989/04 933.7 ○ 128 図書(和書) 作家のおしごと 五木 寛之/著 東京堂出版 2019/02 914.6 × 129 図書(和書) 作家は移動する 青木 保/著 新書館 2010/09 910.264 ○ 130 図書(和書) さよなら、愛しい人 レイモンド・チャンドラー著 早川書房 2009/04 933.7 ○ 131 図書(和書) さよならバードランド あるジャズ・ミュージシャンの回想 新潮文庫 ビル・クロウ/[著] 新潮社 1999/02 764.7 ○ 132 図書(和書) サラダ好きのライオン 村上ラヂオ 村上 春樹/文 マガジンハウス 012/07 914.6 ○ 133 図書(和書) サリンジャー戦記 翻訳夜話 2 文春新書 村上 春樹/著 文芸春秋 2003/07 933.7 ○ 134 図書(和書) The complete works of Raymond Carver 1 頼むから静かにしてくれ レイモンド・カーヴァー/著 中央公論社 1991/02 938.78 ○ 135 図書(和書) The complete works of Raymond Carver 2 愛について語るときに我々の語ること レイモンド・カーヴァー/著 中央公論社 1990/08 938.78 ○ 136 図書(和書) The complete works of Raymond Carver 3 大聖堂 レイモンド・カーヴァー/著 中央公論社 1990/05 938.78 ○ 137 図書(和書) The complete works of Raymond Carver 4 ファイアズ(炎) レイモンド・カーヴァー/著 中央公論社 1992/09 938.78 ○ 138 図書(和書) The complete works of Raymond Carver 5 水と水とが出会うところ/ウルトラマリン レイモンド・カーヴァー/著 中央公論社 1997/09 938.78 ○ 139 図書(和書) The complete works of Raymond Carver 6 象/滝への新しい小径 レイモンド・カーヴァー/著 中央公論社 1994/03 938.78 ○ 140 図書(和書) The complete works of Raymond Carver 7 英雄を謳うまい レイモンド・カーヴァー/著 中央公論新社 2002/07 938.78 ○ 141 図書(和書) The complete works of Raymond Carver 8 必要になったら電話をかけて レイモンド・カーヴァー/著 中央公論新社 2004/07 938.78 ○ 142 図書(和書) The scrap 懐かしの一九八〇年代 村上 春樹著 文芸春秋 1987/02 914.6 ○ 143 図書(和書) ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック 村上春樹翻訳ライブラリー 村上 春樹/著訳 中央公論新社 2007/07 930.278 ○ 144 図書(和書) ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック 村上 春樹/著 TBSブリタニカ 1988/04 930.278 ○ 145 図書(和書) 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 村上 春樹/著 文藝春秋 2013/04 913.6 ○ 146 図書(和書) 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 文春文庫 村上 春樹/著 文藝春秋 2015/12 913.6 × 147 図書(和書) 思春期をめぐる冒険 心理療法と村上春樹の世界 新潮文庫 岩宮 恵子/著 新潮社 2007/06 146.8 ○ 148 図書(和書) 思春期をめぐる冒険 心理療法と村上春樹の世界 岩宮 恵子/著 日本評論社 2004/05 146.8 ○ 149 図書(和書) 思想地図 vol.4 NHKブックス 特集・想像力 東 浩紀/編 日本放送出版協会 2009/11 105 ○ 150 図書(和書) シドニー! コアラ純情篇 文春文庫 村上 春樹/著 文芸春秋 2004/07 780.69 ○ 151 図書(和書) シドニー! ワラビー熱血篇 文春文庫 村上 春樹/著 文芸春秋 2004/07 780.69 ○ 152 図書(和書) シドニー! 村上 春樹/著 文芸春秋 2001/01 780.69 ○ 153 図書(和書) 柴田元幸と9人の作家たち ナイン・インタビューズ 柴田 元幸/編・訳 アルク 2004/03 930.29 × 154 図書(和書) 島森路子インタビュー集 2 ことばに出会う 島森 路子/著者代表 天野祐吉作業室 2010/07 281.04 ○ 155 図書(和書) 〆切本 [1] 左右社編集部/編 左右社 2016/09 914.68 ○ 156 図書(和書) 少年カフカ 村上春樹編集長 村上 春樹/著 新潮社 2003/06 13.6 ○ 157 図書(和書) 将門記 物語の舞台を歩く 村上 春樹/著 山川出版社 2008/06 913.399 ○ 158 図書(和書) 将門記を読む 歴史と古典 川尻 秋生/編 吉川弘文館 2009/03 913.399 ○ 159 図書(和書) 昭和文学全集34 評論随想集 2 井上 靖編集委員 小学館 1989/12 918.6 ○ 160 図書(和書) 職業としての小説家 SWITCH LIBRARY 村上 春樹/著 スイッチ・パブリッシング 2015/09 914.6 ○ 161 図書(和書) 新・日本文壇史 第10巻 日本文学から世界文学へ 川西 政明/著 岩波書店 2013/03 910.26 ○ 162 図書(和書) 辛酸なめ子の世界恋愛文學全集 辛酸 なめ子/著 祥伝社 2016/05 902.09 ○ 163 図書(和書) 心臓を貫かれて 上 文春文庫 マイケル・ギルモア/著 文芸春秋 1999/10 936 ○ 164 図書(和書) 心臓を貫かれて 下 文春文庫 マイケル・ギルモア/著 文芸春秋 1999/10 936 ○ 165 図書(和書) 心臓を貫かれて マイケル・ギルモア/著 文芸春秋 1996/10 936 ○ 166 図書(和書) 新潮文庫20世紀の100冊 新潮新書 関川 夏央著 新潮社 2009/04 019.9 ○ 167 図書(和書) 真福寺本楊守敬本将門記新解 村上 春樹/著 汲古書院 2004/05 913.399 ○ 168 図書(和書) ジャズ・アネクドーツ 新潮文庫 ビル・クロウ 新潮社 2005/07 764.7 ○ 169 図書(和書) ジャズ・アネクドーツ ビル・クロウ/[著] 新潮社 2000/07 764.7 ○ 170 図書(和書) 受験国語が君を救う! 14歳の世渡り術 石原 千秋/著 河出書房新社 2009/03 375.85 ○ 171 図書(和書) ジョン・アーヴィングの世界 ジョン・アーヴィング/ほか著 サンリオ 1986/01 930.278 ○ 172 図書(和書) 人生のちょっとした煩い グレイス・ペイリー著 文藝春秋 2005/06 933.7 ○ 173 図書(和書) 数学的思考の技術 不確実な世界を見通すヒント ベスト新書 小島 寛之/著 ベストセラーズ 2011/02 410 ○ 174 図書(和書) スタン・ゲッツ 音楽を生きる ドナルド・L.マギン 新潮社 2019/08 764.7 × 175 図書(和書) スティーヴン・キングの研究読本 モダンホラーとUSA 北宋社 2002/01 930.278 ○ 176 図書(和書) 素晴らしいアレキサンダーと、空飛び猫たち アーシュラ・K・ル=グウィン/著 講談社 1997/06 933.7 ○ 177 図書(和書) スプートニクの恋人 村上 春樹/著 講談社 1999/04 913.6 ○ 178 図書(和書) スプートニクの恋人 講談社文庫 村上 春樹/[著] 講談社 2001/04 913.6 ○ 179 図書(和書) するめ映画館 吉本 由美/著 文藝春秋 2010/10 778.04 ○ 180 図書(和書) 青春の終焉 三浦 雅士/著 講談社 2001/09 910.264 ○ 181 図書(和書) 西風号の遭難 クリス・ヴァン・オールズバーグ/絵と文 河出書房新社 1985/09 E ○ 182 図書(和書) 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上 新潮文庫 村上 春樹/著 新潮社 2010/04 913.6 ○ 183 図書(和書) 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下 新潮文庫 村上 春樹/著 新潮社 2010/04 913.6 ○ 184 図書(和書) 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 村上 春樹/著 新潮社 1985/06 913.6 ○ 185 図書(和書) 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 村上 春樹/著 新潮社 2005/09 913.6 ○ 186 図書(和書) 世界のすべての七月 ティム・オブライエン/著 文芸春秋 2004/03 933.7 ○ 187 図書(和書) 世界文学全集 3-05 短篇コレクション 1 池澤 夏樹/個人編集 河出書房新社 2010/07 908 ○ 188 図書(和書) 世界は村上春樹をどう読むか 柴田 元幸/編 文藝春秋 2006/10 910.268 ○ 189 図書(和書) セロニアス・モンクのいた風景 村上 春樹/編・訳 新潮社 2014/10 764.7 ○ 190 図書(和書) 1973年のピンボール 村上 春樹/著 講談社 1980/06 913.6 ○ 191 図書(和書) 1973年のピンボール 講談社文庫 村上 春樹/[著] 講談社 2004/11 913.6 ○ 192 図書(洋書) 1973年のピンボール 講談社英語文庫 12 村上 春樹/著 講談社 2011/02 B913.6 × 193 図書(和書) 戦後日本のジャズ文化 映画・文学・アングラ 岩波現代文庫 社会 マイク・モラスキー/著 岩波書店 2017/05 764.7 ○ 194 図書(和書) 戦後日本のジャズ文化 映画・文学・アングラ マイク・モラスキー/著 青土社 2005/08 764.7 ○ 195 ★図書(和書) 戦争・辺境・文学・人間 大江健三郎から村上春樹まで 黒古 一夫/著 勉誠出版 2010/03 910.264 ○ 196 図書(和書) その日の後刻に グレイス・ペイリー/著 文藝春秋 2017/08 933.7 ○ 197 図書(和書) 空を駆けるジェーン 空飛び猫物語 アーシュラ・K.ル=グウィン/著 講談社 2001/09 933.7 ○ 198 図書(和書) 空飛び猫 アーシュラ・K・ル=グウィン/著 講談社 1993/03 933.7 ○ 199 図書(和書) 空飛び猫 講談社文庫 アーシュラ・K・ル=グウィン/[著] 講談社 1996/04 933.7 ○ 200 図書(和書) 象 村上春樹翻訳ライブラリー レイモンド・カーヴァー/著 中央公論新社 2008/01 933.7 ○201 図書(和書) 象の消滅 短篇選集1980-1991 村上 春樹/著 新潮社 2005/03 913.6 ○ 202 図書(和書) 象工場のハッピーエンド 村上 春樹/著 CBS・ソニー出版 1983/12 726.5 ○ 203 図書(和書) 大変を生きる 日本の災害と文学 小山 鉄郎/著 作品社 2015/11 910.26 ○ 204 図書(和書) 平将門伝説ハンドブック 村上 春樹/著 公孫樹舎 2005/02 289.1/203 ○ 205 図書(和書) 平将門伝説 村上 春樹/著 汲古書院 2001/05 289.1 ○ 206 図書(和書) 高い窓 レイモンド・チャンドラー/著 早川書房 2014/12 933.7 ○ 207 図書(和書) 滝への新しい小径 村上春樹翻訳ライブラリー レイモンド・カーヴァー/著 中央公論新社 2009/01 931.7 ○ 208 図書(和書) 頼むから静かにしてくれ 1 村上春樹翻訳ライブラリー レイモンド・カーヴァー/著 中央公論新社 2006/01 933.7 ○ 209 図書(和書) 頼むから静かにしてくれ 2 村上春樹翻訳ライブラリー レイモンド・カーヴァー/著 中央公論新社 2006/03 933.7 ○ 210 図書(和書) 卵を産めない郭公 新潮文庫 村上柴田翻訳堂 ジョン・ニコルズ/[著] 新潮社 2017/05 933.7 ○ 211 図書(和書) 誕生日の子どもたち トルーマン・カポーティ著 文芸春秋 2002/05 933.7 ○ 212 図書(和書) 短篇で読み解く村上春樹 村上春樹を読み解く会/著 マガジンランド 2017/01 910.268 ○ 213 図書(和書) 探訪村上春樹の世界 東京編1968-1997 探訪シリーズ 斎藤 郁男/写真 ゼスト 1998/03 910.268 ○ 214 図書(和書) 大聖堂 村上春樹翻訳ライブラリー レイモンド・カーヴァー/著 中央公論新社 2007/03 933.7 ○ 215 図書(和書) ダンス・ダンス・ダンス 上 村上 春樹/著 講談社 1988/10 913.6 ○ 216 図書(和書) ダンス・ダンス・ダンス 下 講談社文庫 村上 春樹/[著] 講談社 2004/10 913.6 ○ 217 図書(和書) ダンス・ダンス・ダンス 下 村上 春樹/著 講談社 1988/10 913.6 ○ 218 図書(和書) ダンス・ダンス・ダンス 上 講談社文庫 村上 春樹/〔著〕 講談社 1991/12 B913.6 ○ 219 図書(和書) ダンス・ダンス・ダンス 下 講談社文庫 村上 春樹/〔著〕 講談社 1991/12 B913.6 ○ 220 図書(和書) 地球のはぐれ方 東京するめクラブ 村上 春樹著 文芸春秋 2004/11 915.6 ○ 221 図書(和書) ちくま小説入門 高校生のための近現代文学ベーシック 紅野 謙介/編 筑摩書房 2012/11 913.68 ○ 222 図書(和書) 中学英語で日本の文学が紹介できる 万葉集、源氏物語から村上春樹まで YELL books 中学英語で紹介する 水戸 正雄/著 エール出版社 2010/05 910 ○ 223 図書(和書) 中国行きのスロウ・ボート 村上 春樹/著 中央公論社 1983/05 913.6 ○ 224 図書(洋書) (中国語資料)[ノルウェイの森] 村上 春樹 上海訳文出版社 2001/02 913.6 ○ 225 図書(和書) 中国行きのスロウ・ボート 改版 中公文庫 村上 春樹/著 中央公論社 1997/04 913.6 ○ 226 図書(和書) ティファニーで朝食を 新潮文庫 カポーティ 新潮社 2008/12 933.7 ○ 227 図書(和書) ティファニーで朝食を トルーマン・カポーティ 新潮社 2008/02 933.7 ○ 228 図書(和書) TVピープル 文春文庫 村上 春樹/著 文芸春秋 1993/05 913.6 ○ 229 図書(和書) TVピープル 村上 春樹/著 文芸春秋 1990/01 913.6 ○ 230 図書(和書) 東京奇譚集 村上 春樹/著 新潮社 2005/09 913.6 ○ 231 図書(和書) 東京奇譚集 新潮文庫 村上 春樹/著 新潮社 2007/12 913.6 ○ 232 図書(和書) 遠い太鼓 村上 春樹/著 講談社 1990/06 915.6 ○ 233 図書(和書) 遠い太鼓 講談社文庫 村上 春樹/[著] 講談社 1993/04 915.6 × 234 図書(和書) 図書館奇譚 村上 春樹/著 新潮社 2014/11 913.6 ○ 235 図書(和書) 図書館の水脈 ダ・ヴィンチブックス 竹内 真/著 メディアファクトリー 2004/04 913.6 ○ 236 図書(和書) 中上健次エッセイ撰集 文学・芸能篇 中上 健次/著 恒文社21 2002/02 914.6 ○ 237 図書(和書) 謎とき村上春樹 光文社新書 石原 千秋/著 光文社 2007/12 910.268 ○ 238 図書(和書) 夏ものがたり ものがたり12か月 野上 暁/編 偕成社 2008/06 913.68 ○ 239 図書(和書) 名前のない人 C・V・オールズバーグ/絵と文 河出書房新社 1989/08 E ○ 240 図書(和書) 20世紀のベストセラーを読み解く 女性・読者・社会の100年 江種 満子/編 学芸書林 2001/03 910.26 ○ 241 図書(和書) 日本の一文30選 岩波新書 新赤版 中村 明著 岩波書店 2016/09 910.26 ○ 242 図書(和書) 日本の作家 新訂版 伝記と作品 読書案内 日外アソシエーツ株式会社/編集 日外アソシエーツ 2002/05 910.31 × 243 図書(和書) 日本文学気まま旅 その先の小さな名所へ 浅見 和彦/著 三省堂 2018/12 291.09 × 244 図書(和書) 日本文学全集 28 近現代作家集 3 池澤 夏樹/個人編集 河出書房新社 2017/07 918 ○ 245 図書(和書) 日本文学の百年 小田切 秀雄/著 東京新聞出版局 1998/10 910.26 ○ 246 図書(和書) 日本文学100年の名作 第9巻 新潮文庫 アイロンのある風景 池内 紀/編 新潮社 2015/05 913.68 ○ 247 図書(和書) ニュークリア・エイジ 上巻 ティム・オブライエン/著 文芸春秋 1989/10 933.7 ○ 248 図書(和書) ニュークリア・エイジ 下巻 ティム・オブライエン/著 文芸春秋 1989/10 933.7 ○ 249 図書(和書) ねじまき鳥クロニクル 第1部 改版 新潮文庫 泥棒かささぎ編 村上 春樹/著 新潮社 2010/04 913.6 ○ 250 図書(和書) ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編 村上 春樹/[著] 新潮社 1994/04 913.6 ○ 251 図書(和書) ねじまき鳥クロニクル 第2部 改版 新潮文庫 予言する鳥編 村上 春樹/著 新潮社 2010/04 913.6 × 252 図書(和書) ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編 村上 春樹/[著] 新潮社 1994/04 913.6 ○ 253 図書(和書) ねじまき鳥クロニクル 第3部 改版 新潮文庫 鳥刺し男編 村上 春樹/著 新潮社 2010/04 913.6 ○ 254 図書(和書) ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編 村上 春樹/[著] 新潮社 1995/08 913.6 ○ 255 図書(和書) ねじまき鳥クロニクル 第3部 新潮文庫 鳥刺し男編 村上 春樹/著 新潮社 1997/10 913.6 ○ 256 図書(和書) ねむり 村上 春樹/著 新潮社 2010/11 913.6 ○ 257 図書(和書) ノルウェイの森 上 村上 春樹/著 講談社 1987/09 913.6 ○ 258 図書(洋書) ノルウェイの森 1 講談社英語文庫 村上 春樹著 講談社 1989/11 913.6 × 259 図書(和書) ノルウェイの森 上 講談社文庫 村上 春樹/[著] 講談社 2004/09 913.6 ○ 260 図書(和書) ノルウェイの森 下 講談社文庫 村上 春樹/[著] 講談社 2004/09 913.6 ○ 261 図書(洋書) ノルウェイの森 2 講談社英語文庫 村上 春樹著 講談社 1989/11 913.6 ○ 262 図書(和書) ノルウェイの森 下 村上 春樹/著 講談社 1987/09 913.6 ○ 263 図書(和書) ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン ダーグ・ソールスター/著 中央公論新社 2015/04 949.63 ○ 264 図書(和書) ノーベル文学賞にもっとも近い作家たち いま読みたい38人の素顔と作品 青月社/編 青月社 2014/09 902.05 ○ 265 図書(和書) はいほー! 村上朝日堂 村上 春樹/著 文化出版局 1989/05 914.6 ○ 266 図書(和書) 走ることについて語るときに僕の語ること 村上 春樹/著 文藝春秋 2007/10 914.6 ○ 267 図書(和書) 走ることについて語るときに僕の語ること 文春文庫 村上 春樹/著 文藝春秋 2010/06 914.6 ○ 268 図書(和書) 話しベタですが… 暮らしの文藝 浅田 次郎/[ほか]著 河出書房新社 2018/06 914.68 ○ 269 図書(和書) ハリス・バーディック年代記 14のものすごいものがたり C.V.オールズバーグ/ほか著 河出書房新社 2015/08 933.78 ○ 270 図書(和書) ハリス・バーディックの謎 クリス・ヴァン・オールズバーグ/絵と文 河出書房新社 1990/11 726.6 ○ 271 図書(和書) Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち 辛島 デイヴィッド/[著] みすず書房 2018/09 910.268 × 272 図書(和書) ハルキ・ムラカミと言葉の音楽 ジェイ・ルービン/著 新潮社 2006/09 910.268 ○ 273 図書(和書) はればれ、お寿司 おいしい文藝 嵐山 光三郎/[ほか]著 河出書房新社 2019/03 914.68 ○ 274 図書(和書) 反知性主義とファシズム 佐藤 優/著 金曜日 2015/05 304 × 275 図書(和書) ハーバードの日本人論 中公新書ラクレ 佐藤 智恵/著 中央公論新社 2019/06 361.42 ○ 276 図書(和書) バット・ビューティフル ジェフ・ダイヤー/著 新潮社 2011/09 33.7 ○ 277 図書(和書) バビロンに帰る 村上春樹翻訳ライブラリー ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック スコット・フィッツジェラルド/著 中央公論新社 2008/11 933.7 ○ 278 図書(和書) バビロンに帰る ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック 2 スコット・フィッツジェラルド/[著] 中央公論社 1996/04 933.7 ○ 279 図書(和書) バビロンに帰る ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック 2 中公文庫 フィッツジェラルド/著 中央公論新社 1999/09 933.7 × 280 図書(和書) バースデイ・ガール 村上 春樹/著 新潮社 2017/11 913.6 ○ 281 図書(和書) バースデイ・ストーリーズ 村上 春樹編訳 中央公論新社 2002/12 933.78 ○ 282 図書(和書) バースデイ・ストーリーズ 村上春樹翻訳ライブラリー 村上 春樹/編訳 中央公論新社 2006/01 933.78 ○ 283 図書(和書) パン屋を襲う 村上 春樹/著 新潮社 2013/02 913.6 ○ 284 図書(和書) パン屋再襲撃 村上 春樹/著 文芸春秋 1986/04 913.6 ○ 285 図書(和書) 日出る国の工場 村上 春樹/著 平凡社 1987/04 914.6 ○ 286 図書(和書) 日出る国の工場 新潮文庫 村上 春樹/著 新潮社 1990/03 914.6 ○ 287 図書(和書) 日の名残り カズオ・イシグロ/著 早川書房 2018/04 933.7 ○ 288 図書(和書) 比較文学を学ぶ人のために 松村 昌家/編 世界思想社 1995/12 901.9 ○ 289 図書(和書) 羊をめぐる冒険 上 講談社文庫 村上 春樹/[著] 講談社 2004/11 913.6 ○ 290 図書(和書) 羊をめぐる冒険 下 講談社文庫 村上 春樹/[著] 講談社 2004/11 913.6 ○ 291 図書(和書) 羊をめぐる冒険 村上 春樹/著 講談社 1982/10 913.6 × 292 図書(和書) 羊男のクリスマス 村上 春樹/文 講談社 1985/11 913.6 ○ 293 図書(和書) 必要になったら電話をかけて レイモンド・カーヴァー/著 中央公論新社 2000/09 933.7 ○ 294 図書(和書) 必要になったら電話をかけて 村上春樹翻訳ライブラリー レイモンド・カーヴァー/著 中央公論新社 2008/07 933.7 ○ 295 図書(和書) 「ひとつ、村上さんでやってみるか」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける490の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか? Asahi Original 村上 春樹/[著] 朝日新聞社 2006/11 914.6 ○ 296 図書(和書) 日々の光 ジェイ・ルービン/著 新潮社 2015/07 933.7 ○ 297 図書(和書) ビギナーズ 村上春樹翻訳ライブラリー レイモンド・カーヴァー/著 中央公論新社 2010/03 933.7 ○ 298 図書(和書) ファイアズ 村上春樹翻訳ライブラリー レイモンド・カーヴァー/著 中央公論新社 2007/05 938.78 ○ 299 図書(和書) フィリップ・マーロウの教える生き方 レイモンド・チャンドラー/著 早川書房 2018/03 930.278 ○ 300 図書(和書) ふしぎな図書館 村上 春樹/文 講談社 2005/01 913.6 ○301 図書(和書) ふしぎな図書館 講談社文庫 村上 春樹/[著] 講談社 2008/01 913.6 ○ 302 図書(和書) ふたりの村上 村上春樹・村上龍論集成 吉本 隆明/著 論創社 2019/07 910.268 ○ 303 図書(和書) 冬の夢 村上春樹翻訳ライブラリー スコット・フィッツジェラルド/著 中央公論新社 2011/11 933.7 ○ 304 図書(和書) 冬の夢 スコット・フィッツジェラルド/著 中央公論新社 2009/11 933.7 ○ 305 図書(和書) フラニーとズーイ 新潮文庫 サリンジャー/[著] 新潮社 2014/03 933.7 ○ 306 図書(和書) BOOKMARK 翻訳者による海外文学ブックガイド 金原 瑞人/編 CCCメディアハウス 2019/10 902.3 × 307 ✓文学 2019 日本文藝家協会/編 講談社 2019/04 913.68 ○ 308 ✓文芸春秋短篇小説館 文芸春秋/編 文芸春秋 1991/09 913.68 ○ 309 図書(和書) 「文藝春秋」にみる平成史 半藤 一利/監修 文藝春秋 2019/05 210.77 ○ 310 図書(和書) 文壇アイドル論 斎藤 美奈子/著 岩波書店 2002/06 910.264 ○ 311 図書(和書) プレイバック レイモンド・チャンドラー/著 早川書房 2016/12 933.7 ○ 312 図書(和書) 辺境・近境 村上 春樹/著 新潮社 1998/04 915.6 ○ 313 図書(和書) 辺境・近境 写真篇 新潮文庫 松村 映三/著 新潮社 2000/06 748 ○ 314 図書(和書) 辺境・近境 新潮文庫 村上 春樹/著 新潮社 2000/06 915.6 ○ 315 図書(和書) ベンの見た夢 C・V・オールズバーグ/絵と文 河出書房新社 1996/04 E ○ 316 図書(和書) ペット・サウンズ CREST BOOKS ジム・フジーリ/著 新潮社 2008/02 764.7 ○ 317 ✓図書(和書) ペンギン・ブックスが選んだ日本の名短篇29 ジェイ・ルービン/編 新潮社 2019/02 913.68 ○ 318 図書(和書) 星のあひびき 丸谷 才一/著 集英社 2010/12 914.6 ○ 319 図書(和書) 螢・納屋を焼く・その他の短編 改版 新潮文庫 村上 春樹/著 新潮社 2010/04 913.6 ○ 320 図書(和書) 螢・納屋を焼く・その他の短編 新潮文庫 村上 春樹/著 新潮社 1987/09 913.6 ○ 321 図書(和書) 螢・納屋を焼く・その他の短編 村上 春樹/著 新潮社 1984/07 913.6 ○ 322 図書(和書) 本当の戦争の話をしよう ティム・オブライエン 文芸春秋 1990/10 933.7 × 323 図書(和書) 本当の翻訳の話をしよう 村上 春樹/著 スイッチ・パブリッシング 2019/05 801.7 ○ 324 図書(和書) 翻訳教室 朝日文庫 柴田 元幸/著 朝日新聞出版 2013/04 801.7 ○ 325 図書(和書) 翻訳文学ブックカフェ 新元 良一/著 本の雑誌社 2004/09 904 ○ 326 図書(和書) 翻訳夜話 文春新書 村上 春樹/著 文芸春秋 2000/10 801.7 ○ 327 図書(和書) ぼくが電話をかけている場所 レイモンド・カーヴァー/[著] 中央公論社 1983/07 933.7 ○ 328 図書(和書) ポテト・スープが大好きな猫 テリー・ファリッシュ/作 講談社 2005/11 E × 329 図書(和書) ポートレイト・イン・ジャズ 2 和田 誠/著 新潮社 2001/04 764.7 × 330 図書(和書) ポートレイト・イン・ジャズ 和田 誠/著 新潮社 1997/12 764.7 ○ 331 CD ポートレイト・イン・ジャズ 和田誠・村上春樹セレクション ビリー・ホリデイ/[ほか]演奏 ソニー・ミュージックエンタテインメント 1998/06 A230 ○ 332 CD ポートレイト・イン・ジャズ 和田誠 村上春樹セレクション チャーリー・パーカー/[ほか]演奏 ポリドール 1998/05 A230 ○ 333 図書(和書) ポートレイト・イン・ジャズ 新潮文庫 和田 誠 新潮社 2004/02 764.7 ○ 334 図書(和書) マイ・ロスト・シティー 村上春樹翻訳ライブラリー スコット・フィッツジェラルド/著 中央公論新社 2006/05 933.7 ○ 335 図書(和書) マイ・ロスト・シティー フィッツジェラルド作品集 スコット・フィッツジェラルド/[著] 中央公論社 1981/05 933.7 ○ 336 図書(和書) 魔術師アブドゥル・ガサツィの庭園 C.V.オールズバーグ/絵と文 あすなろ書房 2005/09 E ○ 337 図書(和書) またたび浴びたタマ 村上 春樹/文 文芸春秋 2000/08 807.9 ○ 338 図書(和書) 魔法のホウキ C・V・オールズバーグ/絵と文 河出書房新社 1993/06 E ○ 339 図書(和書) まるまる、フルーツ おいしい文藝 青木 玉/[ほか]著 河出書房新社 2016/08 914.68 ○ 340 図書(和書) 右か、左か 文春文庫 心に残る物語-日本文学秀作選 沢木 耕太郎/編 文藝春秋 2010/01 913.68 ○ 341 図書(和書) 水と水とが出会うところ 村上春樹翻訳ライブラリー レイモンド・カーヴァー/著 中央公論新社 2007/01 931.7 ○ 342 図書(和書) 水底の女 レイモンド・チャンドラー/著 早川書房 2017/12 933.7 × 343 図書(和書) みみずくは黄昏に飛びたつ Haruki Murakami A Long,Long Interview 川上 未映子/訊く 新潮社 2017/04 910.268 ○ 344 図書(和書) MURAKAMI 龍と春樹の時代 幻冬舎新書 清水 良典/著 幻冬舎 2008/09 910.268 ○ 345 図書(和書) 村上朝日堂 改版 新潮文庫 村上 春樹/著 新潮社 2007/08 914.6 ○ 346 図書(和書) 村上朝日堂 新潮文庫 村上 春樹/著 新潮社 1987/02 914.6 ○ 347 図書(和書) 村上朝日堂の逆襲 村上 春樹/文 朝日新聞社 1986/06 914.6 ○ 348 図書(和書) 村上朝日堂の逆襲 改版 新潮文庫 村上 春樹/著 新潮社 2006/11 914.6 ○ 349 図書(和書) 村上朝日堂はいかにして鍛えられたか 新潮文庫 村上 春樹/著 新潮社 1999/08 914.6 ○ 350 図書(和書) 村上さんのところ 村上 春樹/答えるひと 新潮社 2015/07 914.6 ○ 351 図書(和書) 村上ソングズ 村上春樹翻訳ライブラリー 村上 春樹/著 中央公論新社 2010/11 767.8 ○ 352 図書(和書) 村上ソングズ 村上 春樹/著訳 中央公論新社 2007/12 767.8 ○ 353 図書(和書) 村上春樹 シーク&ファインド 村上 竜[ほか]著 青銅社 1986/07 910.268 ○ 354 図書(和書) 村上春樹 はじめての文学 村上 春樹/著 文藝春秋 2006/12 913.6 ○ 355 図書(和書) 村上春樹 ザ・ロスト・ワールド 黒古 一夫著 六興出版 1989/12 910.268 ○ 356 図書(和書) 村上春樹 群像日本の作家 加藤 典洋/[ほか]著 小学館 1997/05 910.268 ○ 357 図書(和書) 村上春樹『1Q84』をどう読むか 河出書房新社編集部/編 河出書房新社 2009/07 913.6 ○ 358 図書(和書) 村上春樹を音楽で読み解く「小説」と「音楽」をめぐる冒険。栗原 裕一郎/監修 日本文芸社 2010/10 910.268 ○ 359 図書(和書) 村上春樹をどう読むか 川村 湊/著 作品社 2006/12 910.268 × 360 図書(和書) 村上春樹を読む午後 湯川 豊/著 文藝春秋 2014/11 910.268 ○ 361 図書(和書) 村上春樹がわかる。 アエラムック 朝日新聞社 2001/12 910.268 ○ 362 図書(和書) 村上春樹雑文集 村上 春樹/著 新潮社 2011/01 914.6 ○ 363 図書(和書) 村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』をどう読むか 河出書房新社編集部/編 河出書房新社 2013/06 913.6 ○ 364 図書(和書) 村上春樹小説案内 全長編の愉しみ方 平居 謙/著 双文社出版 2010/05 910.268 ○ 365 図書(和書) 村上春樹スタディーズ 2000-2004 今井 清人/編 若草書房 2005/05 910.268 ○ 366 図書(和書) 村上春樹全作品 1 1979〜1989 風の歌を聴け・1973年のピンボール 村上 春樹/著 講談社 1990/05 913.6 ○ 367 図書(和書) 村上春樹全作品 2 1979〜1989羊をめぐる冒険 村上 春樹/著 講談社 1990/07 913.6 ○ 368 図書(和書) 村上春樹全作品 [2]-1 1990〜2000 短篇集 1 村上 春樹/著 講談社 2002/11 913.6 ○ 369 図書(和書) 村上春樹全作品 [2]-2 1990〜2000 国境の南、太陽の西 スプートニクの恋人 村上 春樹/著 講談社 2003/01 913.6 ○ 370 図書(和書) 村上春樹全作品 [2]-3 1990〜2000 短篇集 2 村上 春樹/著 講談社 2003/03 913.6 ○ 371 図書(和書) 村上春樹全作品 [2]-4 1990〜2000 ねじまき鳥クロニクル 1 村上 春樹/著 講談社 2003/05 913.6 ○ 372 図書(和書) 村上春樹全作品 [2]-5 1990〜2000 ねじまき鳥クロニクル 2 村上 春樹/著 講談社 2003/07 913.6 ○ 373 図書(和書) 村上春樹全作品 [2]-6 1990〜2000 アンダーグラウンド 村上 春樹/著 講談社 2003/09 913.6 ○ 374 図書(和書) 村上春樹全作品 [2]-7 1990〜2000 約束された場所で 村上春樹、河合隼雄に会いにいく 村上 春樹/著 講談社 2003/11 913.6 ○ 375 図書(和書) 村上春樹全作品 3 1979〜1989 短篇集 1 村上 春樹/著 講談社 1990/09 913.6 ○ 376 図書(和書) 村上春樹全作品 4 1979〜1989 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 村上 春樹/著 講談社 1990/11 913.6 ○ 377 図書(和書) 村上春樹全作品 5 1979〜1989 短篇集 2 村上 春樹/著 講談社 1991/01 913.6 × 378 図書(和書) 村上春樹全作品 6 1979〜1989 ノルウェイの森 村上 春樹/著 講談社 1991/03 913.6 ○ 379 図書(和書) 村上春樹全作品 7 1979〜1989 ダンス・ダンス・ダンス 村上 春樹/著 講談社 1991/05 913.6 ○ 380 図書(和書) 村上春樹全作品 8 1979〜1989 短篇集 3 村上 春樹/著 講談社 1991/07 913.6 ○ 381 図書(和書) 村上春樹短篇再読 風丸 良彦/[著] みすず書房 2007/04 910.268 ○ 382 図書(和書) 村上春樹とイラストレーター 佐々木マキ、大橋歩、和田誠、安西水丸 ちひろ美術館/監修 ナナロク社 2016/07 726.501 ○ 383 図書(和書) 村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ 三浦 雅士/著 新書館 2003/07 910.268 ○ 384 図書(和書) 村上春樹と私 日本の文学と文化に心を奪われた理由 ジェイ・ルービン/著 東洋経済新報社 2016/11 910.26 × 385 図書(和書) 村上春樹にご用心 内田 樹著 アルテスパブリッシング 2007/10 910.268 ○ 386 図書(和書) 村上春樹の「1Q84」を読み解く 村上春樹研究会/編著 データハウス 2009/07 913.6 ○ 387 図書(和書) 村上春樹の歌 深海 遙/著 青弓社 1990/11 910.268 ○ 388 図書(和書) 村上春樹のなかの中国 朝日選書 藤井 省三/著 朝日新聞社 2007/07 910.268 ○ 389 図書(和書) 村上春樹の100曲 栗原 裕一郎/編著 立東舎 2018/06 910.268 ○ 390 図書(和書) 村上春樹の深い「魂の物語」色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 谷崎 龍彦/著 彩流社 2014/09 913.6 ○ 391 図書(和書) 村上春樹の読みかた 石原 千秋/著 平凡社 2012/07 910.268 ○ 392 図書(和書) 村上春樹翻訳全仕事 村上 春樹/著 中央公論新社 2017/03 910.268 ○ 393 図書(和書) 村上春樹短篇再読 風丸 良彦/[著] みすず書房 2009/03 930.29 ○ 394 図書(和書) 村上春樹はくせになる 朝日新書 清水 良典/著 朝日新聞社 2006/10 910.268 ○ 395 図書(和書) 村上春樹はノーベル賞をとれるのか? 光文社新書 川村 湊/著 光文社 2016/09 902.05 ○ 396 図書(和書) 村上春樹は、むずかしい 岩波新書 新赤版 加藤 典洋/著 岩波書店 2015/12 910.268 ○ 397 図書(和書) 村上ラヂオ [1] 新潮文庫 村上 春樹/文 新潮社 2003/07 914.6 × 398 図書(和書) 村上ラヂオ 村上 春樹/文 マガジンハウス 2001/06 914.6 ○ 399 図書(和書) 村上レシピ 台所でよむ村上春樹の会/編著 飛鳥新社 2001/07 596 ○ 400 図書(和書) 村上レシピプレミアム Murakami recipi 2 台所でよむ村上春樹の会/編著 飛鳥新社 2001/10 596 ○401 ✓めくらやなぎと眠る女TWENTY-FOUR STORIES(村上 春樹)新潮社2009.11.25.1刷、500頁、1400円(✓めくらやなぎと眠る女、✓バースデイガール、✓ニューヨーク炭坑の悲劇、✓飛行機、✓鏡、✓我らの時代のフォークロア、✓ハンティング・ナイフ、✓カンガルー日和、✓かいつぷり、人食い猫、貧乏な叔母さんの話、✓嘔吐1979、七番目の男、✓スパゲティーの年に、✓トニー滝谷、✓とんがり焼の盛衰、✓氷男、蟹、蛍、偶然の旅人、ハナレイ・ベイ、どこであれそれが見つかりそうな場所で、日々移動する腎臓のかたちをした石、品川猿)402 図書(和書) メルトダウンする文学への九通の手紙 渡部 直己/著 早美出版社 2005/11 910.264 ○ 403 図書(和書) 黙約 下 新潮文庫 ドナ・タート/[著] 新潮社 2017/08 933.7 ○ 404 図書(和書) もし僕らのことばがウィスキーであったなら 新潮文庫 村上 春樹/著 新潮社 2002/11 588.57 ○ 405 図書(和書) もし僕らのことばがウィスキーであったなら 村上 春樹/著 平凡社 1999/12 588.57 ○ 406 図書(和書) コレクション 5 岩波現代文庫 学術 昔話と現代 河合 隼雄/著 岩波書店 2017/02 913.3 ○ 407 図書(和書) やがて哀しき外国語 村上 春樹/著 講談社 1994/02 914.6 ○ 408 図書(和書) やがて哀しき外国語 講談社文庫 村上 春樹/[著] 講談社 1997/02 914.6 ○ 409 図書(和書) 約束された場所で underground 2 村上 春樹/著 文藝春秋 1998/11 916 ○ 410 図書(和書) 約束された場所で underground 2 文春文庫 村上 春樹/著 文芸春秋 2001/07 916 ○ 411 図書(和書) 保田与重郎と昭和の御代 福田 和也/著 文芸春秋 1996/06 910.268 ○ 412 図書(和書) 闇夜に怪を語れば 百物語ホラー傑作選 角川ホラー文庫 東 雅夫/編 角川書店 2005/03 913.68 ○ 413 図書(和書) 夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2009 村上 春樹/著 文藝春秋 2010/09 910.268 ○ 414 図書(和書) 吉行淳之介全集 別巻3 吉行淳之介研究 吉行 淳之介/著 講談社 1985/01 918.68 ○ 415 図書(和書) 夜になると鮭は… レイモンド・カーヴァー著 中央公論社 1985/07 933.7 ○ 416 図書(和書) 夜のくもざる 村上朝日堂超短篇小説 村上春樹文 平凡社 1995/06 913.6 ○ 417 図書(和書) ラオスにいったい何があるというんですか? 紀行文集 文春文庫 村上 春樹/著 文藝春秋 2018/04 915.6 × 418 図書(和書) ラオスにいったい何があるというんですか? 紀行文集 村上 春樹/著 文藝春秋 2015/11 915.6 ○ 419 図書(和書) ランゲルハンス島の午後 新潮文庫 村上 春樹著 新潮社 1990/10 B914.6 ○ 420 図書(和書) 乱読すれど乱心せず ヤスケンがえらぶ名作50選 安原 顕/著 春風社 2003/03 910.264 ○ 421 図書(和書) ラヴ・ストーリーズ 1 チップス/編 早川書房 1989/05 933 ○ 422 図書(和書) リトル・シスター レイモンド・チャンドラー/著 早川書房 2010/12 33.7 ○ 423 図書(和書) リトル・ピープルの時代 宇野 常寛/著 幻冬舎 2011/07 361.5 ○ 424 図書(和書) 臨床文学論 川端康成から吉本ばななまで 近藤 裕子/著 彩流社 2003/02 910.264 ○ 425 図書(和書) レイモンド・カーヴァー傑作選 Carver's dozen レイモンド・カーヴァー/著 中央公論社 1994/12 933.7 ○ 426 図書(和書) レキシントンの幽霊 文春文庫 村上 春樹/著 文芸春秋 1999/10 913.6 ○ 427 図書(和書) レキシントンの幽霊 村上 春樹/著 文芸春秋 1996/11 913.6 ○ 428 図書(和書) レトリックのすすめ 野内 良三/著 大修館書店 2007/12 816.2 ○ 429 図書(和書) 魯迅 東アジアを生きる文学 岩波新書 新赤版 藤井 省三/著 岩波書店 2011/03 920.278 ○ 430 図書(和書) ロング・グッドバイ レイモンド・チャンドラー著 早川書房 2007/03 933.7 ○ 431 図書(和書) ロング・グッドバイ Raymond Chandler collection レイモンド・チャンドラー/著 早川書房 2009/03 933.7 × 432 図書(和書) ロング・グッドバイ ハヤカワ・ミステリ文庫 レイモンド・チャンドラー/著 早川書房 2010/09 933.7 × 433 図書(和書) 若い読者のための短編小説案内 村上 春樹著 文芸春秋 1997/10 910.264 ○ 434 図書(和書) 私の銀座 新潮文庫 「銀座百点」編集部/編 新潮社 2012/04 914.68 ○ 435 図書(和書) 私たちがレイモンド・カーヴァーについて語ること 村上春樹翻訳ライブラリー サム・ハルパート/編 中央公論新社 2011/06 930.278 ○ 436 図書(和書) 私たちの隣人、レイモンド・カーヴァー 村上春樹翻訳ライブラリー 村上 春樹/編訳 中央公論新社 2009/03 930.278 ○ 437 図書(和書) ワールズ・エンドポール・セロー/著 文芸春秋 1987/07 933.7 ○ 438 図書(和書) ワールズ・エンド 村上春樹翻訳ライブラリー ポール・セロー/著 中央公論新社 2007/11 933.7 ○ 読書についても映画についても、年齢がいってくれば、読むものも観るものも、それなりに進化して深められるものとずっと思い込んでいました。年月の経過が、自然にある程度のクオリティの高みを得られるものという感じです。しかし、自分が「思い込んでいた」というふうに感じていた時点で、すでにそれは単なる「楽観」でしかなかったことが、いつまで経っても、一向にそのような「穏やかな心境の変化」などみられず、ましてや人間的に成長などという「分別に満ちた高みへの移行」などに至りそうもないことをみればおのずと明らかです。この分ではおそらく、これから先も、こんなふうにあれこれと手当たり次第に「濫読」し、節操もなく「濫観」しまくるという前のめりの姿勢というのはずっと続くのだろうなという諦念を抱き始めています、しかし、半分ではそれでもいいじゃないか、「あっち」から来ないなら、むしろ開き直ることで一種の安心立命の気分に自分から無理やり浸り込むことに決めました。だいたい、自分の「濫読」「濫観」を支えているものは何かといえば、ひとことでいえば「山っ気」です。新書判程度の薄い本を読んでいる最中でも、その内容の浅墓さにゴウを煮やし、あきれ返って付いていけなくなり、そろそろ辛抱も限界にくるあたりで(その中には当然「失望して見放しす」という状況も含まれています)意識の半分は他のもっと魅力的な本に飛んでしまっていて、目の前のつまらない本に「いつまでもかかずらわっている時間」が実にもったいなくて、不当に拘束されているような苛立ちと怒りの焦燥感にかられてしまう気分に陥るからだと思います。ですので、このザワザワとした心境は、「浮気性」といっては随分と遠慮がち過ぎるので、あえて「山っ気」といってみたわけですが、これはほとんど自分のせいではないにしろ、いずれにしても端から見れば「集中力」に欠けたダレた状態であることには変わりありません。幼かった自分になにひとつ教えも与えもしてくれなかった小学校のかつての担任教師が狭量な苛立ちをこめて「通信簿」に刻印した「注意散漫で落ち着きがない実にいけすかないガキ」と殴り書きしたその予言だけはどうにか的中していて、いまではその「言い当て」が、自分にとって、傲慢で極め付きの醜女だった教師をしのぶ唯一の懐かしいヨスガになってはいます。たぶんいまごろは後輩いじめを暴かれて教師を解雇され、落ちぶれ果てた老残の醜態をさらしながら、世間から「ざまあみろ」と罵声を浴びせ掛けられ、どこか辺境の廃屋でひとり寂しく野たれ死んでいるに違いないと確信しています。ばかやろうさて、話を元に戻しますね。しかし、なんといっても手にしたその本が面白ければなんの問題もない、見始めた映画もそれが観客の好奇心をしっかりと鷲掴みできるような面白い映画ならなんの問題もないという、それくらいの言い分は自分にも当然ありますし。最近で言えば、ロバン・カンピヨ監督作品「BPM ビート・パー・ミニット」2017という作品には、実に辟易しました。解説には「1990年代のパリでエイズ患者やHIV感染者への差別に抗議した若者たちの恋と葛藤をつづる。第70回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞」とあり、「男同士の薄気味悪い恋と葛藤」の方(あの性交場面だけは、正直、どうしても正視できませんでした)はともかく、「第70回カンヌ国際映画祭でグランプリ受賞」の文言につられて、つい観てしまったのですが(自分とはそういう人間です)、結果は近来にないさんざんなものでした。途中で幾度観るのを止めようと思ったか知れないくらいです。なんですか、あれ。だってですよ、エイズにかかった青少年がやけっぱちになって(しかしその半分以上の責めは当の本人にあるんじゃないんですか)徒党をくんで製薬会社やときの政府をぶち上げ、気炎を上げて、さらに横暴な挑発や行き過ぎとしか見えない暴虐の限りをつくすという現代の日本で言えば半グレが次々と犯罪すれすれの行為をやらかすというのと同質の行為をドキュメイタリー・タッチで描いている作品なのですが、エイズに罹患したことが、あたかもなにかの特権を得たかのような傲慢な暴虐ぶりには(その描き方も含めて)、フランスという国の豊かな社会のなかで甘やかされて育ったガキどもが増長し、勝手気まま好き放題にさんざん享楽と快楽を耽り貪ったあげくの報いのような「結果」であるにもかかわらず、ただただ自己正当化に血道をあげるという身勝手な事象に追随し、引き摺られるままに無定見・無批判に描く映画の姿勢自体に疑問と不甲斐なさを感じざるを得ませんでした、いかに「第70回カンヌ国際映画祭でグランプリ受賞」といえどもです。そういう描き方は、すでに何年も前にゴダールの破綻とともにすでに終わっていることではあります。そうした放埓をちゃっかり棚にあげておいて、鬱憤晴らしのような暴虐と、だからその報いのような「お約束の死」のラストの部分だけをいやに拡大して大仰に盛り上げて描く不自然な姿勢(わが国ピンク映画の世界に冠たるお家芸「パートカラー」に匹敵する珍妙な転調)というのが、たまらなく不快だったのです。おやっさん、そりゃあ杜撰な血液製剤を垂れ流した無責任な製薬会社も悪いは悪い。どっちこっち言ってないですよ。アホらしくって、どちらにしても相手にできんですよ。かつてそういう深刻な社会的事件というものが存在し、当時にあって事件にかかわった当事者・関係者は、それぞれの立場の利害のために狂奔し懸命に取り組んだり弁解したり行動したり誤魔化そうとしたはず、良くも悪くもね。そこんとこだよ問題は。つまり「過去の存在の事実」をすべてひっくるめた「まずは敬意と目配り」という姿勢こそドキュメンタリー映画というもののあり方、ドキュメンタリー・タッチとかいうものなんじゃないんですか? えっ? ある視点に偏った幼稚な描き方じゃなくってね。まぁ、そりゃあいい、いいですよ、ただね、この映画のあり方そのものの欠落が、自分に堪らない不快感を与え苛立ちを覚えたということを知ってもらいたかっただけですから。それに長々と書いたこの部分、なにもロバン・カンピヨ監督作品「BPM ビート・パー・ミニット」を批判しようとしたわけではなくて、言いたかったのは《途中で何度観るのを止めようと思ったか分からないくらいです》のクダリです。つまらなすぎて一本の映画をじっと見続けていることに耐えられなくなった時のお話をしたかったのです。まさに「映画を止めれ!」です。以前なら映画を見始めたら、とにかく辛抱強く律儀に我慢して見通すべきものだと思っていました。映画を劇場でしか鑑賞できなかったひと昔まえなら、嫌でもそうするしかなかったわけですが、いまはいくらでも「中座・中断」の許される寛容なデジタル時代です。ついに鑑賞者の「浮気性」も「山っ気」も公然と認められたそういう時代がやって来たという感じでしょうか。それに作品の方だって、そういう気分を後押しするだけの十分なつまらない作品で満ちている現実が片方にはしっかりとあるわけですから、なにをかいわんやという感じです、いえいえ、その契機となったものが、なにもこの「BPM ビート・パー・ミニット」だといっているわけではなく、「おしなべて」自分にとって観るに耐えない酷すぎる作品があまりにも多すぎるということです。まあ、それは逆に、自分という古びた存在が「この時代」にだんだんそぐわなくなったという逆の証明であるわけで、そのくらいのことは十分にわかっているつもりではいます。しかし、それにしても、いま、自分の信条(とにかく一本の作品を最初から最後まで律儀に見通すことによって映画に対して敬意をはらうという倫理観)を裏切らなければならないというこの局面に至って一応は忸怩たる思いというのは確かにあります、がしかし、こう思い切り、吹っ切ってしまったら、いままで自分を拘束していた「良識」のタガがあっけなく外れて、解放され、ずいぶん爽快な気分になったこともまた事実です、楽になりました。ほら、かのサマセット・モームは、度し難い退屈な小説は躊躇なく何十頁も飛ばし読みして、それでも小説の勘所はしっかりと押さえ、作品の良し悪しもちゃんと分かっていたっていうじゃないですか。もっとも、モーム自身が読書巧者であるよりは創作者だったから、緊張感が途切れ思わず弛緩した創作者の「息抜く箇所」を十分に承知していたからこそ、その辺は余裕で読み飛ばすことができたのだと思います。いやいや、それは映画にだって言えることなのであって、自分としても「つまらない映画」「退屈な映画」は見通すことに別段こだわらず、その間、面白そうな他の作品をどんどん挿み入れて見てしまうという、無節操な「ちゃっかり宗旨替え」というやつを実行したわけですが、結果から言えば、もっと早くこうすべきでした。面白くない映画ならどんどん中断し、ほかの作品も見て、それがあまりにも面白ければ、たとえ原初の作品に立ち返ることができなかったとしても、そりゃあそれでいいではないか、いやいや、むしろこうした方が得るものは大きいのではないかと思います。たとえ無節操であってもね、目の前にこう作品が氾濫していて、見ようと思えば幾らでも見ることのできる状況下にあっては、ある意味、自衛のためには、やっぱり、こうして選択方法っていうのも、しょうがないことなんじゃないでしょうか。だってほら、例の「淘汰の理論」とか「市場原理」とかってあるじゃないですか、これこそまさに知的功利主義にかなった行き方というもので、だって、そもそも人気商売(結局、映画ってそうですよね)の基本原理は、まさに「そこ」にこそあったのだと思えば、十分理にかなっていることだと思います。ただ、自分としては、いままで「淘汰の理論」とか「市場原理」とかで撥ねられ、芸術的価値とは別の商業ベースで淘汰されてしまう作品というのを庇いたいという一心で「こよなく」庇護しようとした立場にいたつもりだったので、まあ、この180度変節の「宗旨替え」にはいささか一抹の寂しさがあるというか、忸怩たる思いというものがないわけではなくて、ちょっと恥ずかしいかなという部分も避けがたく、そりゃあそういうのは確かにありますヨ。そうそう、つまり、その、早い話が、えっと、なにが言いたいかというと、この「BPM ビート・パー・ミニット」に限らず、「ボヘミアン・ラプソディ」にしても「アリー/スター誕生」にしても自分的にはイマイチで(いちいち「いちゃもん」をつけるとすれば拭い難い東洋偏見の視点とか結構あります)、それらの作品を見ているあいだの「退屈の隙間」で挿み見たサブ映画の方にむしろ出色の作品がいくつもあって、そのことについて書きたかったのです。そのうちの一本が、クレイグ・ギレスビー監督の「アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル」でした。ここに登場するすべての人物は終始一貫悪辣が過ぎて「間抜け」にまで突き抜けてしまう、しかし、それでも誰一人としてその存在感はブレることなく、最後まで真人間になるなどという無様な改心(従来の作劇上からいえばそれは結末を準備するためのストーリーの歪曲と妥協という一種の自滅的な「無様な改心」とでもいうしかない破綻にすぎなかったと気づかせてくれました)などすることなく、それぞれが頑張って一途に生き抜くという、湿った抒情を一切排した乾いたハードボイルドの手法によってしか、この嫉妬と怨嗟に満ちた救いのない陰惨な傷害事件の「リアル」を表現できなかったことを証明した見事な作品だったといえると思います、これこそが目の前の素材を如何に表現しようとしたか、表現者=映像作家の苦慮と模索の見事な結実なのだなと感銘をうけた次第です。そもそも素材を与えられて表現を託された映像作家のすることといえば、素材をどうすれば観客に事件のリアルを伝えることができるか、「表現の仕方」をどうすべきかを模索すること以外、ほかにすることなどあるのだろうかと気づかされたいくらいです。この映画を見て、まさに「そこ」が従来の映画における人物設定の脆弱さ=欠点だったことに気づかせてくれました。自分にこのように感じさせたのは、西原理恵子の「パーマネント野ばら」を吉田大八が映画化した作品が脳裏にありました。あの作品を観た当初、まず思ったことは、原作者・西原理恵子自身があの作品を世間に出すことを本当に承認したのだろうかという疑問でした。そんなはずはない、あの映画は単にアラスジだけなぞっただけの、自分の知悉している「パーマネント野ばら」とは似て非なる愚劣な作品という感じを持ちました。こう言ってはなんですが自分は西原理恵子の「パーマネント野ばら」には一応の思い入れがあって、何年も前にブックオフでこの文庫本を157円で手に入れて以来、わが本棚に不動の位置を得て、折りに触れて読み返すために大切に保存している一冊です。それは「読了後は躊躇せずどんどん処分する」という自分の蔵書管理のスタイルからすれば、例外中の例外ということができます。今回、「アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル」を見、目からウロコが落ちるほどの感銘を受け、やはり、快作にして怪作「パーマネント野ばら」の世界観は、クレイグ・ギレスビーというような逸材を得なければ、とうてい表現=映像化などできなかったし、してはいけなかったのではないかと痛感しました。だいたい、ディテールを積み上げていく先にあるものが、相も変らぬ「抒情」という思い込み自体が映像作家として身の程知らずな卑力の証明なのだと自認できない限り、とうてい「パーマネント野ばら」の世界など描くことは許されないのではないか。だいたい、主人公「なおこ」の愛人「カシマ」が、最後のほうで既にもう死んでいるらしいことが明かされて、それまでの逢瀬の場面がすべて「なおこ」の追憶の妄想だったとしてしまう改変は、この作品世界の静謐を根底からぶち壊す認識不足以外のなにものでもないというほかありません。真実は、「なおこ」は、かつての多くの男たちから棄てられたように、今回もまた同じように棄てられ・見放されただけのことであって、それはこの原作の最初のページに明確に描かれています。こんなふうに・・・《空と海のあわさったなぎの海辺で、私は祖父に手をひかれあるいている。むうとしめった重い潮風。気がつくと私の手をにぎっているのは、今はもういない父親で、彼は私に何かをしゃべっているのだけれど、私は返事をするでもなく、聞くでもなく、浜辺に次々とできていく自分の足あとをみている。次に気がつくと私はまた誰かに手をひかれているのだけれど、その相手がわからない。なぎの海は静かな砂のおとがして、よく聞くとそれはこわれたラジオの音だった。》ここで仄めかされている「ひとりぽっち」は、まさに「抒情」ではなくて、「痛切な孤独」でなければならないのだと思います。そのためにこの優れた漫画の強力な推進力になっているものが「乱痴気騒ぎのハチャメチャ」の、陰惨な現実から目をそむけるような優しさなのであって、それはただアラスジをなぞっただけでは導き出すことは到底できるものではないことは、この失敗作映画「パーマネント野ばら」がおのずから証明してしまっていると感じました。まあ、ウダウダと書きなぐってしまいましたが、退屈な映画に我慢しないこの「新方式」は、当然、読書にも援用されているわけで、その「収穫」を書いておこうというのが、本日のお題「都会で挫折した君に届く母からの手紙」とアイなるわけであります。書名は「合掌のカタチ」2012年刊、著者は、多川俊映という人、wikiで検索すると、興福寺貫首とかいうエライ人です。それくらいのことが分からないまま本を読んでいるのかとなじられそうですが、片っ端から読み漁る「濫読」とはそういうものです。読んでいて感心した箇所があれば、初めてそこで立ち止まり、そのナンタルカを調べればよろしい、という感じです。というわけで、文中「親子の関係」の、小タイトル「圧倒的な母親」のなかに引用されていた阿部晃工(1906~1966、昭和の左甚五郎といわれた彫刻家)に宛てた母からの手紙、つまり、「都会で挫折した息子に宛てた母からの手紙」の全文です。《手紙を見ました。だいぶ困っているようですね。手紙はお父さんには、まだ見せません。もう帰ると書いてありますが、それはいけません。前の手紙でいってやりましたように、いま家は大変です。一銭の金も送ってやれません。母はお前を天才児として育ててきました。母は、それが誇りだったのです。今はお前も一人前の人間になりました。その一人前の人間が食べられないから帰るとは何事です。乞食でも野良犬でも食べています。お前は野良犬や乞食にも劣る意気地のない男ですか。母は、末っ子のお前を甘やかして育てたのが悪かったのですけれど、そんなそんな意気地なしには育ててない積りです。食べられなければ食べずに死になさい。なにで死ぬのも同じことです、運命なのです。病気ででもあれば、母はどんなことでもしてやりますが、一人前の男が食べられずにどうしますか。お前は母がいつまでも優しい母だと思っているのは間違いです。そんな意気地なしは見るのもいやです。帰ってきても家へは入れません。死んで死んで骨になって帰ってきなさい。私の子は勉強中食えなくなって、死んで帰ってきましたといった方が、近所へ対しても申し訳が立ちます。そして一日も早くお前の死んで帰る日を母は待っております。四月十一日 母より喜二郎どの》なるほど、なるほど。「母からの手紙」はここで終わり、そのあとすぐ著者・多川俊映の意外に凡庸な感想が記されて興ざめしてしまいますが、このままではなんだか収まりがつきませんので、あえて書いておきますね。以下の通りです。《どうでしょうか。こんなすごい手紙はちょっとありません。「死んで死んで骨になって帰ってきなさい」「そして一日も早くお前の死んで帰る日を母は待っております」どうぞがんばってくださいという気持ち、そして、最後の最後に帰ってくるところは、この母の私ですよ・・・もうなんといったらよいか、侵しがたい力を感じます。》アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル(2018)監督・クレイグ・ガレスピー、脚本・スティーヴン・ロジャース、製作・ブライアン・アンケレス、スティーヴン・ロジャース、マーゴット・ロビー、トム・アカーリー、製作総指揮・レン・ブラヴァトニック、アヴィヴ・ギラディ、クレイグ・ギレスピー、ヴィンス・ホールデン、トビー・ヒル、ザンヌ・ディヴァイン、ローザンヌ・コーレンバーグ、音楽・ピーター・ナシェル、撮影・ニコラス・カラカトサニス、編集・タティアナ・S・リーゲル(英語版)、製作会社・ラッキーチャップ・エンターテインメント、クラブハウス・ピクチャーズ、AIフィルムズ、配給・ ネオン(英語版)、 ショウゲート出演・マーゴット・ロビー(トーニャ・ハーディング)、セバスチャン・スタン(ジェフ・ギルーリー、トーニャの元夫)、アリソン・ジャネイ(ラヴォナ・ゴールデン、トーニャの母親)、ジュリアンヌ・ニコルソン(ダイアン・ローリンソン、トーニャのコーチ)、ポール・ウォルター・ハウザー(ショーン・エッカート、ジェフの友人)、ボビー・カナヴェイル(マーティン・マドックス、元「ハードコピー」リポーター)、ボヤナ・ノヴァコヴィッチ(ドディ・ティーチマン、トーニャのコーチ)、ケイトリン・カーヴァー(ナンシー・ケリガン)、メイジー・スミス(4歳のトーニャ)、マッケナ・グレイス(幼少期のトーニャ)パーマネント野ばら(2010)監督・吉田大八、脚本・奥寺佐渡子、原作・西原理恵子『パーマネント野ばら』(新潮社刊)、音楽・福原まり、撮影・近藤龍人、照明・藤井勇、美術・富田麻友美、装飾・佐藤孝之、編集・岡田久美、音楽プロデューサー・日下好明、スクリプター・柳沼由加里、スタイリスト・小里幸子、谷口みゆき、ヘアメイク・小沼みどり、助監督・甲斐聖太郎、松尾崇、今井美奈子、ロケ協力・高知県観光コンベンション協会、宿毛市、大月町、土佐清水市、四万十市、えひめフィルムコミッションほか、製作者・百武弘二、畠中達郎、財前健一郎、星野晃志、北川直樹、野嵜民夫、井上隆由、藤戸謙吾、山本邦義、プロデューサー・松本整、石田雄治、鈴木ゆたか、中村陽介、藤田滋生、エグゼクティブプロデューサー・春名慶、ラインプロデューサー・加藤賢治、企画協力・とりあたま、新潮社、配給・ショウゲート、製作プロダクション・リクリ、製作・「パーマネント野ばら」製作委員会(博報堂DYメディアパートナーズ、アミューズソフト、中央映画貿易、ソニー・ミュージックエンタテインメント、テレビ愛知、テレビ大阪、高知新聞社、高知放送、リクリ)、主題歌・さかいゆう『train』、出演・菅野美穂(なおこ)、池脇千鶴(ともちゃん)、小池栄子(みっちゃん)、江口洋介(カシマ)、畠山紬(もも)、山本浩司(ユウジ、ともちゃんの夫)、加藤虎ノ介(ヒサシ、みっちゃんの夫)、宇崎竜童(ニューお父ちゃん、カズオ)、本田博太郎(みっちゃんの父)、夏木マリ(まさ子、なおこのお母ちゃん)、霧島れいか(まさ子の若い頃)、田村泰二郎(ムロツヨシ、)、 今村昌平監督が遺した作品のなかでも特に傑出した作品といっていいこの「にっぽん昆虫記」の解説といえば、どれもが必ず「日本の戦中・戦後期を虫けらのように逞しく生き抜いた女の半生記」みたいな画一的な表現であっさりとまとめられてしまっていて、自分の中では、ずっと不満な気持ちを抱いていたことに、今回、久しぶりにこの作品を見て、あらためて気がつきました、というか、その「画一的な表現」に違和感があることを自分自身、いままで大勢に組みするかたちで無視し続けてきてしまったことに、あらためて気づかされたという感じでしょうか。確かに「日本の戦乱期を虫けらのように逞しく生き抜いた女」というのは、この作品を概括するうえで、それはそれで間違っているわけではありませんし、多くの鑑賞者たちと同じように、自分もまた「そのへんのところ」でこの作品を理解しようとした部分は確かにありました。でも、これってよく考えてみれば、到底「理解」などというものではなく、単なる「理解の妥協」にすぎなかったのではないかと思えてきたのです。単に「逞しく生き抜いた女」と言い切ってしまったら、トメというこの日本の寒村で極貧のなかで育った少女の実像を見落とすことになるのではないか、そもそもその誕生のとき、誰のタネとも分からない彼女が、くしくも間引きを免れ、無駄飯食らいの余計者として蔑みと嘲り、そして罵りのなかで成育をとげて、当然のように日常的な過酷な虐待(それはなにもトメやその娘・信子にだけ限った特別なことではなくて、極貧にあえぐ寒村においては、多くの女たち=余計者にとっては、むしろごく一般的なことだったに違いありません)に身を晒しながら、都会へと放逐されるまでの彼女の時間(生育の歴史)という「根」の部分(愚鈍ゆえにトメのことを愛し「わが娘」としてひたすら庇ってくれた父親の無垢の存在)を欠落させてしまうのではないかという危惧があったからだと思います。ウガチ過ぎといわれてしまえばそれまでですが、かつては閨房の暗闇の中だけで行われていた密室の生殖行為が、現代においては安手で安易な映像として享楽的に氾濫・駄々漏れし年端のいかない小学生までもが簡単に見ることができ、いまでは猥褻カテゴリーの商品名のひとつとでしかないまでにすっかり薄汚れて堕落してしまった「近親相姦」という、本来意味する土俗的な在り方をこの「にっぽん昆虫記」から見失うのではないかという危惧を感じたからだと思います。ウガチ過ぎといわれてしまえばそれまでですが。そのうえで、欲望を剥き出しにした村の男たちによって、まるで性玩具のように下半身をまさぐられて、淫らな薄笑いとともに性交(野合という生々しい言葉もありますが、この映画からはその「相互感」はうかがわれません)を強いられ、そして不本意で屈辱的な妊娠にいたる、そのために更なる理不尽な蔑みと卑猥な罵詈を受けて「村」の土俗的悪意によって居場所を失うというトメの「原初」からのひと続きに言及できなければ、この作品を十分に理解も解説もしたことにはならないのではないかと感じたからだと思います。それにトメ自身、たとえ都会に出て売春婦として、あるいは売春婦の元締めとしてそれなりの成功を収めたという意味で「逞しく生き抜いた女」というのなら、それはただ単に彼女の「その後のなりゆき」でしかなく、ますますこの物語の本質をはずして、逸脱することでしかないと感じたのだと思います。しかし、自分はなにもトメが、やられっぱなしの「可哀想な被害者」だといっているわけではありません。彼女がsex大好きで、その快楽と悦楽とを十分に愉しむことのできる傑出した素質を持った堂々たる立派な「ヤリマン」であることを認めないわけにはいかないし(それはトメだけではなく、男に比べて、すべての女性が兼ね備えている「傑出した資質」という意味においてです)、男たちから肉体をまさぐられ性交すること、たとえそれが嫌々強いられたものであったとしても、快楽それ自体は別のチャンネルで堪能するとこができる「傑出」なのですが、はんめん、この肉欲をタテにとって肉体が十分に売り物になることに彼女自身目覚めたとき、わが身をひさいで肉欲を金に換える錬金のタフな知識もそのスベも、そして狡猾さをも、みずから利用しようというとき、だから逆に男たちからその卓越した「知識と狡猾」を見透かされ、肉体と悦楽も逆に人質にとられ、巧妙に利用されることを、たぶん屈辱をもって許容しなければならない「拒めない旧弊な女」であるということすべてをひっくるめて過不足なく「解説」することができなければ、彼女の出自にまで遡る「誰のタネとも分からない、間引きを逃れた無駄飯食らいの余計者」が「逞しく生き抜いた女」にいたる「ひとつづきの半生」をカバーしたことにはならないのではないか、そのようにしてトメは、その時代を生き抜いてきたのだと描くこの映画の黙示録的醍醐味は、言い尽くせないと感じたのだと思います。この映画の中で、その辺のところを実に見事に、象徴的に描いているのは、村を追い出され都会に出てきたトメが進駐軍兵士の情婦の家の家政婦を経て、浄土会で売春婦の元締め・スマ(北林谷栄)と出会い、その売春宿の家政婦として雇われる一連の場面にあります。ある日、売春宿に「素人」の女を買いにやって来た客が、相手に出た女を、こいつは「素人」のデパートガールなんかじゃない、コテコテの商売女じゃないかと怒ったその穴埋めに、あわてた女主人・スマは、とっさの機転から女中・トメに着物を着せてニワカの売春婦に仕立て、男にあてがいその場をしのぎます。そもそも、売春宿に「素人」や「処女」や「清楚」や「純潔」を求めてくること自体笑えてしまうのですが、こうした「虚構とラベル」を必要とする滑稽な男の性欲の在り方を一歩引いて笑うことのできるその「乾いた客観性」が、晩年にはすっかり影を潜めてしまった今村監督の往年期の魅力だったと思います。その見事な結実が「人類学入門・エロ事師たち」だったと思っています。ここでは、スマのセリフだけをピックアップしますが、それは、スマの燦然と輝く素晴らしくタフな自己正当化・自己主張の神々しさに比べて、抗弁するトメの主張(「人権蹂躙」とか「民主主義」とか)があまりにも当たり前すぎて貧弱で弱々しく、今村監督の視点のなかでは「嘲笑」の対象でしかないような、語るに落ちるいかにも力ないものという印象を持ったからだと思います。「人権蹂躙」も「民主主義」も、その空疎さにおいて、「虚構を必要とする滑稽な男の性欲」の足元にも及ばない落ちた偶像、なんの価値もない木偶人形程度まで引き摺り下ろされて「嘲笑の的にされている」と感じたからだと思います。「お前だってまんざらでもなかったんだろ」というスマの見透かしたような嘲りの言葉に、トメは必死で言い返します「そがなごどありませんよお」と。その弱々しいトメの抗弁をうけて、激昂したスマはさらに言い募ります。「じゃ、どうしてめかしこんでノコノコ出てったのさ。誰がお白粉つけろって言ったよ、私がか。寝たくなきゃ、どんなことしたって逃れられるもんだ。なんだい大きな声出してみっともない。金か、ああ、取ったよ。それがどうしたい。えっ、この馬鹿! 売春売春っていうけどさ、買い手がありゃこそ売り手があるんだ。そんなことも分かんないのか。競馬競輪やパチンコみたいに、客からタダで金とろうってんじゃないんだこっちは。客をさんざん楽しませて帰そうってんだからね。飢えていたって、お前らが? なにいってんだいこのごくつぶしめ、三度三度たらふくメシを喰らいやがって。どのつらさげて「飢えた」だの「無理強い」だなんて言える義理かい。第一、いつ私がお前たちを縛り付けたよ、えっ、出ていきたけりゃいつでも勝手に出ていくがいいんだ。ここは赤線じゃないんだからね。私は世の中の不安を少しでもなくそうと精一杯供養しているんだ。さ、コレが不満ならとっとと出ていけ。ただし、三十すぎた女のそんなみっともない弛んだカラダでどこ行ったって、食って寝て、これだけのもんはもらえないんだよ。そこのところをよく考えろ、このウスノロ女、月々たった十回スケベな男とシコシコやりゃ、まるまる一万二千円貰えるんじゃないか。こんなうまい話がどこにある、ただ取りもいいところだ、お前だって男にしがみついて腰まで使って散々ヨガリ声あげてたくせに、まんざら嫌いなみちじゃあるまいしさ、えっ、それでも不服か、不服なのか。そうかそうか、じゃいらないんだね。そんならコレはしまっとくよ。ほらみろ、やっぱり欲しいんだろ、早くもってけ、なんだいみっともない、早くしまっちゃえよ、ただし、着物の代金は六ヶ月で差っ引くからね」上記は、その口汚さと罵倒の燦然たる輝きをイヤ増すために若干の脚色をほどこしました、念のため。でも「ああ楽しかった」という気分です。しかし、こんなふうにウダウダと書き込んだら、今村監督にどやされたうえに、やっぱりバサバサと削られたでしょうね。当然ですが。スマのもとで売春婦になったトメは、流産で入院したときに、同僚の内緒の仕事をスマに密告し彼女の信用を得て「女中頭」に取り立てられます。「ある程度まかせられんのお前くらいっきゃいないんだよ」と。しかし、入院費を工面できずに無心する素振りを見せるトメに対して、スマはきっぱりと怒りをもってはねつけます。「うちじゃ払えないよ。規則なんだからね。いい気になるんじゃないよ。なんだい女中頭にしてやるからって、そうそうつけ上がられてたまるかい。お前はね、わたしに飼われてんだってことを忘れんじゃないよ!」この恨みが原動力になって、売春婦たちの不満を密かにかき集めたすえに警察への密告となり、スマを裏切り売春婦の元締めの座を得ます。そして、この同じ過程をたどるようにして、やがてトメも配下の売春婦の密告にあい逮捕され、有罪判決を受けて服役することになります。しかし、このようなトメの生き方を見ながら、一方で、はたして人間は、一匹の虫けらのように生きることに耐えられるものだろうかと考えないわけにはいきません。トメや、そのほかの登場人物たちは、「この人生を、そんなふうにしてまで生きていく意味や価値などあるだろうか」と疑問に捉われることがないのかという疑念に捉われました。こんな軟弱なことをいえば、「生きる」ことにしか関心もなく、想定もしていないタフな今村監督には一笑に付されてしまうかもしれませんが。だってほら、トメが、製糸工場の課長補佐・松波(長門裕行)の裏切りにあい悲嘆にくれて川のほとりにうずくまり死のうとまで思いつめた(かに見えた)とき、彼女の口から出てきたものは、「ぬし去りて われただひとり 川をながめる~うッ」と詠いあげたあの、死ぬために必要な動機としての「絶望や悲嘆」を死につなげることなど理解しようとしないトメは、むしろそれどころか、ただ生きるために必要なもの=滑稽な活力に変えてしまう天性の大らかさで武装していることを示しています。ウタに読み込まれた彼女の見当違いで薄っぺらな詠嘆は、そのタフさにおいて「生きることの疑問」などハナから近づかせる隙をあたえるような種類のものでないことを明確に示しているだけです、実に迂闊でした。映画の最終章、トメは仲間の裏切りから密告されて売春斡旋の罪で捕まり服役し、刑期をようやく終えて刑務所から出てからの頼る先といえば、やはりパトロンの唐沢以外にはなく、しかし、いまさら唐沢の世話にもなりにくい。そうかといって、マエがあるので警察の目も厳しく、ふたたび昔の商売をするわけにもいかないというどん詰まり状態のトメが、結局、頼りにできるのは、自分を棄てた唐沢が、いまではすっかりその若い肉体に耽溺し執着しているわが娘・信子に、屈辱的ではあっても、すがるしかないという状況です。しかし、映画からはそういう経緯をうけたことによる感情の屈折や高揚など一向にうかがわれず、利にさといトメは、すっかり従順な下僕のように嬉々として唐沢に付き従っている感じです(明らかにそう見えます)。好色さを剥き出しにした唐沢は、信子に店を持たせる約束をチラつかせながら愛人関係を必死につなぎとめています。その信子は、唐沢と一緒になるためには、とにかく一度帰郷して「開拓村」との関係をはっきり清算してこなければ断ち切ることはできないと言い出します。そのためにも、それなりの金が必要だと、唐沢から金を引き出そうとしています。しかし、信子の肉体に執着する唐沢は、彼女の帰郷を不安がり、もし帰らせたらこれきり帰ってこないのではないかという疑心暗鬼にかられ、開拓村から帰ってくれば残りの半金を渡すという条件で信子の帰郷を許します。しかしその渡されなかった「半金」は、信子がちゃっかりアパートの敷金を引き出して充当していたことが、あとで判明します。こうしてこの映画は、それきり開拓村から帰ってこない信子を、唐沢のたっての願いを受けて迎えにいくトメの疲れきった様子のシーンで幕を閉じるのですが、ある映画サイトの感想を読んでいたら、この場面について、とんでもない解釈のコメントに遭遇しました。このシーン、トメは信子と暮らすために開拓村に向かっているのだというのです。そりゃあないでしょう、それこそ拡大解釈というか、過剰解釈だと思います。開拓村に向かった悪路をたどるトメは泥濘に足を突っ込み、下駄が割れ、足袋も泥で汚してしまうという場面、「畜生、くそいまいましい」と怒りに舌打ちしてみずからを毒づきます。その誰にとも向けられたわけではないトメの「悪態」は、どう見ても娘と暮らす希望に満ちた新天地に夢を膨らませてむかっている母親の姿ではありません。むしろ、唐沢の言うままに動かされて、こんなド田舎まで来て足を汚してウロウロしている忌々しいすべてに対して腹を立て癇癪を起している姿といったほうが、あるいは近いのかもしれません。しかし、そう言い切ってしまったら、「それが、すべてではない」という気が、さらに湧き起こってくることも否定できません。否定に継ぐ否定の果てに、かろうじての落ち着きどころといえば、この映画の冒頭「虫が泥の中をひたすら前に突き進んでいる」シーンとの一致を思い浮かべるくらいでしょうか。この作品のタイトル「にっぽん昆虫記」とあるのは、多分このことを示唆しているんだなと、なんとなく察せられるくらいです。(1963日活)監督・今村昌平、脚本・長谷部慶次、今村昌平、企画・大塚和、友田二郎、撮影・姫田真佐久、美術・中村公彦、音楽・黛敏郎、録音・古山恒夫、照明・岩木保夫、編集・丹治睦夫、スチール・斎藤耕一、英題《The Insect Woman》、映画倫理管理委員会成人映画指定(映倫番号13220)出演・左幸子(松木とめ)、岸輝子(松木りん)、佐々木すみ江(松木えん)、北村和夫(松木忠次)、小池朝雄(松木沢吉)、相沢ケイ子(松木るい)、吉村実子(松木信子)、北林谷栄(蟹江スマ)、桑山正一(小野川)、露口茂(本田俊三)、東恵美子(坂下かね)、平田大三郎(上林芳次)、長門裕之(松波守男)、春川ますみ(谷みどり)、殿山泰司(班長)、榎木兵衛(若い衆A)、高緒弘志(若い衆B)、渡辺節子(高羽製糸女工A)、川口道江(高羽製糸女工B)、澄川透(正心浄土会A)、阪井幸一朗(正心浄土会B)、河津清三郎(唐沢)、柴田新三(タクシーの運転手)、青木富夫(東北本線の客A)、高品格(東北本線の客B)、久米明(警察の取調官)、炎加世子、1963.11.16 10巻 3,366m 123分 白黒 モノクロ/シネスコ(1:2.35)35mmベルリン国際映画祭銀熊賞(左幸子)(1964年) 第37回キネマ旬報ベスト・テン 日本映画第1位第14回ブルーリボン賞作品賞、監督賞、脚本賞、主演女優賞第18回毎日映画コンクール監督賞、女優主演賞、音楽賞追伸当初、以下に掲げる文章からこの小論を始めようとしたのですが、映画「にっぽん昆虫記」が、自分が一度は引き付けられた「哀しいことをいっぱい知っている女は、叩かれたくらいで泣きはしない」程度の一文がもたらす甘々な女性像のイメージくらいでは、この作品の描くトメの半生が到底納まりきるものではなく、文脈の発展性にもつながらなかったので、ついに使用することを諦め廃棄した一文です。掲記することになんらかの意味があるかどうかは分かりませんが、断ちがたい「未練」もあるので掲げることにしました。《今村昌平監督が残した言葉として、ときおり思い出すものがあります。「哀しいことをいっぱい知っている女は、叩かれたくらいで泣きはしない」これがどの作品を撮影した際に放った言葉だったのか、すっかり忘れてしまいましたが、愁嘆場を演ずる新人女優が、緊張のあまりステレオタイプの大仰な感情表現しかできないことに苛立ち、今村監督が言った言葉だったことを「にっぽん昆虫記」を見ながら不意に思い出しました。》【今村昌平・参考文献】☆にっぽん昆虫記 : 今村昌平作品集 今村昌平 著. 三一書房, 1964にっぽん昆虫記 / 7豚と軍艦 / 67果てしなき欲望 / 123☆にっぽん昆虫記/西銀座駅前 (今村昌平日活作品全集 ; 1) 映像資料 パイオニアLDC, c1963 SIDE1-3 にっぽん昆虫記(監督:今村昌平 出演:左幸子,北村和夫,吉村実子,北林谷栄) SIDE4 西銀座駅前(監督:今村昌平)☆日本人の原型の追求「にっぽん昆虫記」 雑誌記事 品田 雄吉 映画評論 21(1) 1964.01 p.44~47☆年鑑代表シナリオ集 1963年版 シナリオ作家協会 編. ダヴィッド社, 1964 太平洋ひとりぼっち(和田夏十) 五番町夕霧楼(鈴木尚之,田坂具隆) 江分利満氏の優雅な生活(井手俊郎) にっぽん昆虫記(長谷部慶次,今村昌平) 暴動(星川清司) / 251江分利満氏の優雅な生活 井手俊郎 / 290にっぽん昆虫記 長谷部慶次/今村昌平 / 322暴動 星川清司 / 359 ☆日本名作シナリオ選 下巻 第2版 日本シナリオ作家協会「日本名作シナリオ選」出版委員会 編. 日本シナリオ作家協会, 2016.10シナリオを読む 加藤正人 著 切腹 橋本忍 著 にっぽん昆虫記 長谷部慶次, 今村昌平 著 飢餓海峡 鈴木尚之 著 総長賭博 笠原和夫 著 少年 田村孟 著☆日本名作シナリオ選 下巻 日本シナリオ作家協会「日本名作シナリオ選」出版委員会 編. 日本シナリオ作家協会, 2016.2シナリオを読む 加藤正人 著 切腹 橋本忍 著 にっぽん昆虫記 長谷部慶次, 今村昌平 著 飢餓海峡 鈴木尚之 著 総長賭博 笠原和夫 著 少年 田村孟 著☆脚本日本映画の名作 第2巻 佐藤忠男 編. 風濤社, 1975にっぽん昆虫記(今村昌平,長谷部慶次) 河内山宗俊(山中貞雄) 悲しみは女だけに(新藤兼人) 非行少女(石堂淑朗)☆今村昌平の映画 : 全作業の記録 芳賀書店, 1971盗まれた欲情,西銀座駅前,果しなき欲望,にあんちゃん,豚と軍艦,にっぽん昆虫記,赤い殺意,人類学入門,人間蒸発,神々の深き欲望,にっぽん戦後史. 解説 今村昌平と原始的心性☆現代日本映画論大系 4 (土着と近代の相剋) 冬樹社, 1971欲望は土着の底へ 今村昌平 ボクの『にっぽん昆虫記』論(斎藤竜鳳) 『にっぽん昆虫記』と日本政治(松下圭一) 今村昌平(浦山桐郎) 私たちは同質か異質か(石堂淑朗) 映画対文学・市民☆日本シナリオ大系 第4-5巻 シナリオ作家協会 編纂. マルヨンプロダクションシナリオ文庫, 1973-1974 座頭市物語(犬塚稔) 新選組始末記(星川清司) 誇り高き挑戦(佐治乾,深作欣二) にっぽん昆虫記(長谷部慶次,今村昌平) 恐喝(田坂啓) 独立機関銃隊未だ射撃中(井手雅人) 大殺陣(池上金男) ☆出版ニュース = Japanese publications news and reviews : 出版総合誌 (632);1964年8月下旬号 出版ニュース社, [1964-08] 12~12今村昌平著 にっぽん昆虫記 三一書房/ / ☆映画芸術 13(11)(218) 編集プロダクション映芸, 1965-11日本の恥部を見せてはいけないか「にっぽん昆虫記」と「赤い殺意」 / 長谷部慶次 / p60~61☆映画芸術 12(3)(197) 編集プロダクション映芸, 1964-03様式をいかに発見するか「エレクトラ」「にっぽん昆虫記」 / 戸井田道三 / p77~79 ☆映画芸術 12(2)(196) 編集プロダクション映芸, 1964-02特集:1964への対決 『にっぽん昆虫記』と日本政治 / 松下圭一 / p7~10特集:1964への対決 父親のイメイ...学 円谷美学からホーム・ドラマまで / いいだ・もも / p40~43ボクの『にっぽん昆虫記』論 / 斎藤竜鳳 / p44~47女蕩しと反独占思想 / 関根弘 / p51☆映画芸術 12(1)(195) 編集プロダクション映芸, 1964-01わが心境と自己批判 / 大島渚 / p31~33ニッポン昆虫記/特集批評 にっぽん昆虫記・批判 / 石堂淑朗 / p87~88ニッポン昆虫記/特集批評 二大惨事☆映画芸術 11(12)(194) 編集プロダクション映芸, 1963-12シネマ・エロテイシズム テキサスの四人・ソドムとゴモラ・女と男のいる舗道・春のめざめ・新夫婦善哉・にっぽん昆虫記 / p55~56 ☆芸能画報 13(11) サン出版社, 1963-11邦画 話題作に取組む監督『にっぽん昆虫記』『砂の女』 / ☆映画評論 21(1) 新映画, 1964-01日本人の原型の追求「にっぽん昆虫記」 / 品田雄吉 / p44 ☆雑誌 シネ・フロント社, 1993-03戦後日本映画の系譜(9)秋津温泉/にっぽん昆虫記 / 木崎敬一郎 / p66~71 ☆映画撮影 (9) 日本映画撮影監督協会, 1964-01撮影報告 「にっぽん昆虫記」 / 姫田真左久 / p4~9撮影報告☆シナリオ : 映画芸術の原点 : Scenarioの月刊誌 26(9)(267) 日本シナリオ作家協会 監修. 日本シナリオ作家協会, 1970-09シナリオ にっぽん昆虫記 / 長谷部慶次 ; 今村昌平 / p141~187 (0071.jp2)「にっぽん戦後史」製作意図☆シナリオ : 映画芸術の原点 : Scenarioの月刊誌 20(9)(195) 日本シナリオ作家協会 監修. 日本シナリオ作家協会, 1964-09 「今村昌平作品集・にっぽん昆虫記」<ブック・レビュー> / 金坂健二 / p89~89☆朝日ジャーナル 6(36)(287) 朝日新聞社 [編]. 朝日新聞社, 1964-09にっぽん昆虫記 / 佐藤忠男 / 65 ☆映画情報 28(12)(136);12月号 国際情報社, 1963-12『にっぽん昆虫記』の話題/ / ☆映画情報 28(11)(135);11月号 国際情報社, 1963-11 /特集『女の歴史を肌で描く異色作』/ /砂の女・母・にっぽん昆虫記をめぐって/ /グラマー女優変遷史 (8)/南部僑一郎 / ☆遊撃の思想 斎藤竜鳳 著. 三一書房, 1965 欲望の組織者=今村昌平という男 / p37基層社会の〝性〟=『にっぽん昆虫記』のテーマ / p44退却段階の日本映画=64年の総括 / p53☆シナリオ教室 八住利雄 著. ダヴィッド社, 1964 人のもの / 202 VI シナリオと演出 / 205一 にっぽん昆虫記 / 207 (0108.jp2)二 シナリオは半製品か? / 212 (0111.jp2)三 ☆怠惰への挑発 石堂淑朗 著. 三一書房, 1966 イマン=今村昌平<仮空>対談 / p32庶民の存在論―性の無意識部分の解放『にっぽん昆虫記』 / p43日本的サレムの魔女はどこへ行く―グロテクスなユーモア『パラジ』☆映画ストーリー 13(1)(149)雄鶏社, 1964-01世界最後の秘境ガラパゴス / 日本ヘラルド / p64~65 (0032.jp2)誌上封切 邦画 にっぽん昆虫記 / 日活 / p146~149誌上封切 邦画 恐怖の時間 / 東宝 / p1☆キネマ旬報 臨時増刊 キネマ旬報社, 1982-05五番町夕霧楼 / 滋野辰彦 / p312~313にっぽん昆虫記 / 滋野辰彦 / p314~315砂の女 / 滋野辰彦 / p316~317☆キネマ旬報 (355)(1170) キネマ旬報社, 1964-01編集室 / 嶋地 / p192~192〔日本映画批評〕 にっぽん昆虫記 / 井沢淳 / p106~106〔日本映画批評〕 江分利満氏の優雅な生活 /☆キネマ旬報 (353)(1168) キネマ旬報社, 1963-11 続・ニッポン珍商売 丹下左膳 女の歴史 われらサラリーマン 巨人 大隈重信 眠狂四郎殺法帖 にっぽん昆虫記 真白き富士の嶺 鬼検事 母 激しい女たち / p81~87☆キネマ旬報 (352)(1167) キネマ旬報社, 1963-11 新作グラビア にっぽん昆虫記 / p7~7新作グラビア 女の歴史 / 沢鳥忠 / p8~9 ☆にっぽん昆虫記 : 今村昌平作品集 今村昌平 著. 三一書房, 1964 ―神々と豚々― / 183赤い殺意 / 267座談会 今村昌平の人と作品 江藤文雄 斎藤竜鳳 山内久 / 329 ☆教育者・今村昌平 今村昌平 著, 佐藤忠男 編著. キネマ旬報社, 2010.12 ☆今村昌平全映画 解説と自作を語る (巻頭特集 追悼 映画監督 今村昌平) 雑誌記事 今村 昌平 キネマ旬報 (1463) 2006.8.上旬 p.27~37☆今村昌平監督,自作を語る (特集 うなぎ) 今村 昌平 シネ・フロント (通号 247) 1997.05 p.4~7☆HOT TALK 今村昌平--父への鎮魂歌の映画を通して非人間的な現代医療を憂う 今村 昌平ばんぶう / 日本医療企画 編 (通号 209) 1998.11 p.2~5☆THE FACE′89--「黒い雨」をめぐって--〔今村昌平〕今村 昌平, 品田 雄吉 キネマ旬報 (通号 1009) 1989.05.01 p.p51~55☆今村昌平 : 映画は狂気の旅である (人間の記録 ; 175) 今村昌平 著. 日本図書センター, 2010.2 ☆豚と軍艦 (今村昌平日活作品全集 ; 1)今村昌平 監督, 長門裕之, 吉村実子, 丹波哲郎, 三島雅夫 出演. パイオニアLDC, c1961 ☆にあんちゃん (今村昌平日活作品全集 ; 1) 安本末子 原作, 今村昌平 監督, 長門裕之, 松尾嘉代, 小沢昭一, 吉行和子 出演. パイオニアLDC, c1959 ☆女衒 (今村昌平DVD collection)今村昌平 監督. 東映ビデオ, 2004.5企画:三堀篤/滝田五郎 プロデューサー: 杉山義彦/武重邦夫/大庭二郎 脚本:今村昌平/岡部耕大 撮影:栃沢正夫 音楽:池辺晋一郎 出演:緒方拳/倍賞美津子/レオナルド熊/殿山泰司/ ☆盗まれた欲情 今村昌平監督作品今村昌平 監督. ジェネオンエンタテインメント, 2003.12撮影:高村倉太郎 音楽:黛敏郎 出演:長門裕之/南田洋子/柳沢真一/西村晃/小沢昭一 原案・脚本:今村昌平 撮影:藤岡粂信 音楽:中川洋一 出演:柳沢真一/西村晃/小沢昭一/堀恭子/山岡久乃/フランク永井 ☆豚と軍艦 今村昌平監督作品 今村昌平 監督. ジェネオンエンタテインメント, 2003.12☆果しなき欲望 (今村昌平日活作品全集 ; 1) 藤原審爾 原作, 今村昌平 監督, 長門裕之, 中原早苗, 渡辺美佐子, 殿山泰司 出演. パイオニアLDC, c1958☆映画監督 今村昌平を追う (特集「赤い橋の下のぬるい水」) 垣井 道弘, 今村 昌平 キネマ旬報 (1343) 2001.11.上旬 p.50~55☆赤い殺意 (今村昌平日活作品全集 ; 2) 藤原審爾 原作, 今村昌平 監督, 西村晃, 春川ますみ, 露口茂, 楠侑子, 近藤宏, 北村和夫, 加藤嘉, 赤木蘭子, 北原文枝 出演. パイオニアLDC, c1964☆盗まれた欲情 (今村昌平日活作品全集 ; 1) 今東光 原作, 今村昌平 監督, 長門裕之, 南田洋子, 柳沢真一, 滝沢修 出演. パイオニアLDC, c1958 ☆果しなき欲望 今村昌平監督作品 今村昌平 監督・脚本. ジェネオンエンタテインメント, 2003.12 ☆にあんちゃん 今村昌平監督作品 今村昌平 監督・脚本. ジェネオンエンタテインメント, 2003.12 ☆ドキュメンタリーは格闘技である : 原一男vs深作欣二 今村昌平 大島渚 新藤兼人 原一男 著. 筑摩書房, 2016.2深作欣二 述 映画にとって〈虚構〉とは何か 深作欣二, 小林佐智子 述 『人間蒸発』と体験的女優論 今村昌平 述 キャメラマンから見た『人間蒸発』の現場 石黒健治 述 『忘れられた皇軍』の〈真実〉☆神々の深き欲望 (今村昌平日活作品全集 ; 2) 今村昌平 監督, 三国連太郎, 河原崎長一郎, 北村和夫, 沖山秀子, 松井康子, 加藤嘉, 小松方正, 嵐寛寿郎 出演. パイオニアLDC, c1968 ☆ええじゃないか 今村昌平 原作, 今村昌平, 宮本研 脚本, 今村昌平 監督. 松竹ビデオ事業室, [2004.3]監督・原作・脚本:今村昌平 脚本:宮本研 撮影:姫田真佐久 照明:岩木保夫 録音:吉田庄太郎 音楽:池辺晋一郎 美術:佐谷晃能☆「うなぎ」対「HANA-BI」--今村昌平 (コマネチ! ビートたけし全記録 ; ビートたけし 三大激突対談) ビートたけし, 今村 昌平 新潮45 / 新潮社 [編] 17(別冊) 1998.02 p.112~121☆カンゾー先生 (今村昌平DVD collection) 坂口安吾 原作, 今村昌平 監督. 東映ビデオ, 2004.5監督・脚本:今村昌平 原作:坂口安吾 脚本:天願大介 撮影:小松原茂 音楽:山下洋輔 出演:柄本明/麻生久美子/ジャック☆今村昌平論 渡辺 浩 映画評論 20(3) 1963.02 p.66~71☆人類学入門 「エロ事師たち」より (今村昌平日活作品全集 ; 2) 野坂昭如 原作, 今村昌平 監督, 小沢昭一, 坂本スミ子, 田中春男, 佐川啓子, 近藤正臣, 西村晃, ミヤコ蝶々, 中村鴈治郎 出演. パイオニアLDC, c1966 ☆今村昌平論 佐藤 重臣 映画評論 16(12) 1959.12 p.30~35☆今村昌平,川島雄三作品を語る (没後30年--川島雄三はサヨナラを言わない 特集 〔含 ビデオグラフィ〕) 今村 昌平, 桂 千穂, 阿部 嘉昭 構成 キネマ旬報 (通号 1108) 1993.06.15 p.p111~114☆豚と軍艦 脚本/山内久 監督/今村昌平 1961年、日活作品 山内 久 シナリオ 68(10)=771:2012.10 p.134-169☆今村昌平との仕事 『豚と軍艦』 山内久/玲子 山内 久, 山内 玲子, 渡辺 千明 他 シナリオ 68(10)=771:2012.10 p.124-133☆風船大仏次郎 原作, 今村昌平 脚本, 川島雄三 監督・脚本. 日活, 2006.3 監督・脚本:川島雄三 原作:大仏次郎 脚本:今村昌平 撮影:高村倉太郎 美術:中村公彦 衣裳デザイン:森英恵 出演:森雅之/三橋達也/北原三枝/左幸子/☆因果と丈夫なこの身体 : 加藤武 芝居語り(11)今村昌平と仲間たち 市川 安紀 キネマ旬報 (1713):2016.4.上旬 p.111-114☆復讐するは我にあり 佐木隆三 原作, 馬場当 脚本, 今村昌平 監督. 松竹ビデオ事業室, [2004.3] 撮影:姫田真佐久 美術:佐谷晃能 録音:吉田庄太郎 照明:岩木保夫 音楽:池辺晋一郎 監督:今村昌平 出演:緒方拳,小川真由美,倍賞美津子,フランキー堺,北村和夫,ミヤコ蝶々,清川虹子,三國連太郎 ☆今村昌平の製作現場 垣井道弘 著. 講談社, 1987.8 ☆幕末太陽傳 コレクターズ・エディション 田中啓一, 今村昌平 脚本, 川島雄三 監督・脚本, フランキー堺 [ほか]出演. 日活, 2005.10監督・脚本:川島雄三 脚本:田中啓一,今村昌平 撮影:高村倉太郎 美術:中村公彦,千葉一彦 録音:橋本文雄 音楽:黛敏郎 出演:フランキー堺,左幸子☆没後10年・生誕90年 今村昌平のもう一つの遺産 : 日本映画学校・卒業制作傑作選 佐藤 忠男 キネマ旬報 (1725):2016.8.下旬 p.119-121☆今村昌平の世界 増補版 佐藤忠男 著. 学陽書房, 1997.7 ☆今村昌平伝説 (人間ドキュメント) 香取俊介 著. 河出書房新社, 2004.2 ☆講座日本映画 6 (日本映画の模索) 今村昌平 [ほか]編. 岩波書店, 1987.6 過去帳/田村孟/86『日本の夜と霧』前後/石堂淑朗/106ドキュメンタリー・未帰還兵を追って/今村昌平/118『神々の深き欲望』助監督体験/藤田伝/150ゆらぎはじめた王座[日本シナリオ史6]/新藤兼人☆講座日本映画 8 (日本映画の展望) 今村昌平 [ほか]編. 岩波書店, 1988.8 大阪的風土と映画/田辺聖子/106運動の記録としての映画/鎌田慧/116現代映画と性/新藤兼人 ; 今村昌平/130極私的戦後映画史その2/馬場当/152映画の忠臣蔵/御園京平 ; 佐藤忠男/168 ☆神の耳を持つ男 : 録音技師 紅谷愃一(第7回)今村昌平との運命の出会い 紅谷 愃一, 金澤 誠 キネマ旬報 (1791):2018.10.上旬 p.86-89☆女の勝利が女自身しか笑えないコメディ : 今村昌平の「重喜劇」・『赤い殺意』をめぐって モルナール レヴェンテ 北海道大学大学院文学研究科研究論集 / 北海道大学大学院文学研究科 編 (17):2017 p.209-228☆今村昌平論 金坂 健二 映画評論 21(9) 1964.08 p.37~45☆今平犯科帳 : 今村昌平とは何者 村松友視 著. 日本放送出版協会, 2003.6☆今村昌平を読む : 母性とカオスの美学 清水正 著. 鳥影社, 2001.11 ☆今村昌平監督作品リスト (今村昌平作品研究(特集)) シナリオ 26(9) 1970.09.00 p.33~34☆復讐するは我にあり (あの頃映画the best松竹ブルーレイ・コレクション) 佐木隆三 原作, 馬場当 脚本, 今村昌平 監督. 松竹, [2015.1] ☆今村昌平作品研究(特集) シナリオ 26(9) 1970.09.00 p.21~34☆現代映画の時間と空間--大島渚と今村昌平 北村 美憲 新日本文学 / 新日本文学会 [編] 16(3) 1961.03 ☆年鑑代表シナリオ集 1962年版 シナリオ作家協会 編. ダヴィッド社, 1963にっぽんのお婆あちゃん(水木洋子) 破戒(和田夏十) キューポラのある街(今村昌平,浦山桐郎) 秋津温泉(吉田喜重) おとし穴(安部公房) 切腹(橋本忍) 人間(新藤兼人) 秋刀魚の味(野田高梧,小津安二郎) 私は二歳(和田夏十) 昆虫記(長谷部慶次,今村昌平) 破戒 和田夏十 / 76キューポラのある街 今村昌平/浦山桐郎 / 108秋津温泉 吉田喜重 / 140おと...243私は二歳 和田夏十 / 271にっぽん昆虫記 長谷部慶次/今村昌平 / 295作品解説 / 330 1962年度シナリオ作家☆貧困と差別に集約する眼--今村昌平の「パラジ」と映画にふれて 羽山 英作 部落 15(1) 1963.01 p.143~145☆今村昌平の現場 (巻頭特集 追悼 映画監督 今村昌平) キネマ旬報 (1463) 2006.8.上旬 p.24~26☆教育者としての今村昌平 (巻頭特集 追悼 映画監督 今村昌平) 佐藤 忠男 キネマ旬報 (1463) 2006.8.上旬 p.68~71☆今村昌平のもうひとつの仕事 佐藤 忠男 文芸春秋 85(3) 2007.2 p.80~82☆今村昌平と原爆の表象 野坂 昭雄 原爆文学研究 / 原爆文学研究会 編 (通号 2) 2003.08 p.24~31☆よみがえれ! 今村昌平--追悼シンポジウム「今村昌平を語る」井上 和男, 北村 和夫, 佐藤 忠男 他 演劇映像 / 早稲田大学演劇映像学会 編 (48) 2007 p.75~96☆今村昌平 日活作品全集1特典ディスク ジェネオンエンタテインメント, 2003.12 撮影:松根広隆,竹腰正次 出演:今村昌平,天願大介 ☆戦後史の中の"棄てられた民"をもとめて(テレビ・ドキュメンタリィ無法松故郷に帰るを撮り終えた) 今村 昌平 シナリオ 30(2) 1974.02.00 p.44~47☆ヨコスカ裏街道の住人たち今村 昌平 文芸春秋 57(9) 1979.09 p.p260~271☆今村昌平における戦後史の感覚 (今村昌平作品研究(特集)) 河原畑 寧 シナリオ 26(9) 1970.09.00 p.22~28☆"俳優"河野洋平氏について 今村 昌平 月刊新自由クラブ / 新自由クラブ政策委員会 編 5(44) 1981.03 p.p107~109☆〔「楢山節考」(今村昌平監督)〕 (「楢山節考」 特集 ) キネマ旬報 (通号 859) 1983.05.01 p.p55~70☆映画に生命をふき込むには 今村 昌平 映画評論 16(12) 1959.12 p.24~29☆おりんの生と死の追求で知りたい人生の意味の究極 (「楢山節考」 特集 ) 今村 昌平 キネマ旬報 (通号 859) 1983.05.01 p.p49☆復讐するは我にあり 今村昌平 監督. 松竹, c1979 ☆豚と軍艦 今村昌平 監督. 日活, 2002.11 ☆今村昌平における映画方法論の展開 (今村昌平作品研究(特集)) 岡田 晋 シナリオ 26(9) 1970.09.00 p.29~33☆映像文化とはなにか(24)今村昌平論(2) 佐藤 忠男 公評 43(8) 2006.9 p.92~99☆映像文化とはなにか(25)今村昌平論(3) 佐藤 忠男 公評 43(9) 2006.10 p.96~103☆今村昌平--1966年野性派代表 浦山 桐郎 日本 9(1) 1966.01 ☆今村昌平監督インタビュー (新・世界の映画作家と新作研究-11-今村昌平〔含 フィルモグラフィー〕) 垣井 道弘 キネマ旬報 (通号 1224) 1997.06.01 p.107~109☆映像文化とはなにか(23)今村昌平論(1) 佐藤 忠男 公評 43(7) 2006.8 p.94~101☆今村昌平--日本の映画作家-2- 長部 日出雄 映画評論 21(9) 1964.08 p.46~61☆巻頭特集 追悼 映画監督 今村昌平 キネマ旬報 (1463) 2006.8.上旬 p.23~73☆今村昌平の映画 : 全作業の記録 芳賀書店, 1971,豚と軍艦,にっぽん昆虫記,赤い殺意,人類学入門,人間蒸発,神々の深き欲望,にっぽん戦後史. 解説 今村昌平と原始的心性(長谷部慶次) 石が浮かねばならない(平岡正明) 帰って来た男(長部日出男) ☆女衒--女衒・伊平治は企業戦士・若王子さんの大先輩である(AJライブ) 今村 昌平 他 Asahi journal / 朝日新聞社 [編] 29(35) 1987.08.14 p.p105~111☆「人間蒸発」はかく作られた--創作の秘密に対し八ヶ条の質問状(インタビュー) 今村 昌平 他 映画評論 24(9) 1967.09.00 p.44~46☆楢山節考(今村昌平)(シナリオ時評-13-) 八住 利雄 シナリオ 39(6) 1983.06 p.p89~91☆講座日本映画 5 (戦後映画の展開) 今村昌平 [ほか]編. 岩波書店, 1987.1 ☆講座日本映画 4 (戦争と日本映画) 今村昌平 [ほか]編. 岩波書店, 1986.7 ☆講座日本映画 7 (日本映画の現在) 今村昌平 [ほか]編. 岩波書店, 1988.1 ☆講座日本映画 3 (トーキーの時代) 今村昌平 [ほか]編. 岩波書店, 1986.3 ☆講座日本映画 1 (日本映画の誕生) 今村昌平 [ほか]編. 岩波書店, 1985.10 ☆現代日本映画作家論10今村昌平論 佐藤 忠男 映画評論 30(10) 1973.10.00 p.117~123☆宮崎緑の斬り込みトーク-- 映画監督 今村昌平 週刊読売 57(49) 1998.10.25 p.120~124☆うなぎ 完全版 今村昌平 監督・脚本. ケイエスエス, 2004.1 ☆講座日本映画 2 (無声映画の完成) 今村昌平 [ほか]編. 岩波書店, 1986.1☆今村昌平と『カンゾー先生』 (特集 カンゾー先生) 小沢 昭一 シネ・フロント 23(9) 1998.09 p.3、18~21☆飢渇の存在--「人間蒸発」と今村昌平 西江 孝之 映画評論 24(9) 1967.09.00 p.40~43☆年鑑代表シナリオ集 1959年版 シナリオ作家協会 編. ダヴィッド社, 1960 暗夜行路(八住利雄) 独立愚連隊(岡本喜八) 人間の壁(八木保太郎) にあんちゃん(池田一朗,今村昌平) 野火(和田夏十) 作品解説 人間の壁 八木保太郎 / 250にあんちゃん 池田一朗/今村昌平 / 285野火 和田夏十 / 321)作品解説 / ☆追悼インタビュー (巻頭特集 追悼 映画監督 今村昌平) キネマ旬報 (1463) 2006.8.上旬 p.38~65☆今村昌平の謎なぞ--イマヘイ伝説を解剖する 長部 日出雄 映画評論 24(8) 1967.08.00 p.80~84☆発掘シナリオシリーズ 競輪上人行状記 大西 信行, 今村 昌平 シナリオ : 映画芸術の原点 : Scenarioの月刊誌 / 日本シナリオ作家協会 監修 73(9)=830:2017.9 p.75-107☆にっぽん昆虫記/西銀座駅前 (今村昌平日活作品全集 ; 1) パイオニアLDC, c1963 SIDE1-3 にっぽん昆虫記(監督:今村昌平 出演:左幸子,北村和夫,吉村実子,北林谷栄) SIDE4 西銀座駅前(監督:今村昌平 出演:柳沢真一,堀恭子,西村晃,山岡久乃) ☆今村昌平に"気違い"にされた私(猛烈人間のプライバシー) 沖山 秀子 潮 / 潮出版社 [編] (通号 108) 1969.03.00 p.144~148☆果して岩は落ちたのか--今村昌平の「神々の深き欲望」長部日出雄 映画評論 26(1) 1969.01.00 p.38~41☆映画は狂気の旅である : 私の履歴書 今村昌平 著. 日本経済新聞社, 2004.7☆今村昌平監督追悼行事「よみがえれ!今村昌平」主催:早稲田大学、2006年7月15日~8月2日 碓井 みちこ 映像学 / 日本映像学会 [編] (通号 77) 2006 p.81~85☆年鑑代表シナリオ集 1964年版 シナリオ作家協会 編. ダヴィッド社, 1965 黒い河(新藤兼人) 帝銀事件・死刑囚(熊井啓) 越後つついし親不知(八木保太郎) 赤い殺意(長谷部慶次,今村昌平) われ一粒の麦なれど(松山善三) 甘い汗(水木洋子) 非行少年(佐治乾,河辺和夫) 越後つついし親不知 八木保太郎 / 122赤い殺意 長谷部慶次/今村昌平 / 156われ一粒の麦なれど 松山善三 / 194 ☆撮る : カンヌからヤミ市へ 今村昌平 著. 工作舎, 2001.10 ☆TALK ABOUT CINEMA 偏愛的戦後映画選(第3回)今村昌平『豚と軍艦』 三角 忠 リプレーザ / 「Ripresa」編集委員会 編 (3) 2007.Sum p.230~240☆今村昌平監督の弟子が撮った「楢山節考」の極道版か!? 塩田 時敏 シナリオ 59(8) (通号 661) 2003.8 p.20~22☆〔「ええじゃないか」(今村昌平監督)〕 (「ええじゃないか」 特集 ) キネマ旬報 (通号 806) 1981.03.01 p.p70~93☆映像文化とはなにか(85)韓国で今村昌平を語る 佐藤 忠男掲載誌 公評 49(3):2012.4 p.64-71☆遥かなる日本人 (同時代ライブラリー ; 259) 今村昌平 著. 岩波書店, 1996.3 ☆現代の肖像 今村昌平(映画監督)--銀幕に映らなかった「今村映画」 鎌田 慧 Aera 11(43) 1998.10.26 p.52~56☆今村昌平の眩惑術--謎なぞシリーズ第2弾(対談) 長部 日出雄 他 映画評論 24(9) 1967.09.00 p.19~35☆「人類学入門」の中の"他人"--今村昌平論のためのノート 長部 日出雄 映画評論 23(6) 1966.06 p.101~108☆楢山節考(83東映/今村プロダクション) 映像資料 東映ビデオ, 2002.7〈映像特典〉フォトギャラリー 監督:今村昌平 出演:緒方拳/坂本スミ子 ☆年鑑代表シナリオ集 1963年版 シナリオ作家協会 編. ダヴィッド社, 1964 五番町夕霧楼(鈴木尚之,田坂具隆) 江分利満氏の優雅な生活(井手俊郎) にっぽん昆虫記(長谷部慶次,今村昌平) 暴動(星川清司) 江分利満氏の優雅な生活 井手俊郎 / 290にっぽん昆虫記 長谷部慶次/今村昌平 / 322暴動 星川清司 / 359作品解説と展望 /☆日本映画の二人の監督--黒沢明と今村昌平 雑誌記事 羽山 英作 新日本文学 / 新日本文学会 [編] 15(4) 1960.04☆今村昌平の汎神論的世界 (特集「赤い橋の下のぬるい水」) 佐藤 忠男 キネマ旬報 (1343) 2001.11.上旬 p.56~60☆今村昌平(映画監督)--齢70を超えて未だ現役。その"濃い"人生 プレジデント 36(11) 1998.11 p.280~282☆新・世界の映画作家と新作研究-11-今村昌平〔含 フィルモグラフィー〕 キネマ旬報 (通号 1224) 1997.06.01 p.106~122☆日活ポルノ裁判ルポー91-今村昌平証人への尋問 斎藤 正治 キネマ旬報 (通号 718) 1977.10.01 p.p179~181☆みゅーじかる死神 : 今村昌平の原作による / 蘆原コレクション [オールスタッフプロダクション], [19--] ☆年鑑代表シナリオ集 1968年版 シナリオ作家協会 編. ダヴィッド社, 1969 地獄篇(寺山修司,羽仁進) 首(橋本忍) 日本の青春(広沢栄) 肉弾(岡本喜八) 神々の深き欲望(今村昌平,長谷部慶次) 祗園祭(鈴木尚之,清水邦夫) 砂の器 特別賞 (橋本忍,山田洋次) / 206肉弾 岡本喜八 / 254神々の深き欲望 今村昌平/長谷部慶次 / 285祇園祭 鈴木尚之/清水邦夫 / 328 ☆吾体感的三文戦後芝居史(第6回)モロッコ・クーデター・今村昌平(後) 藤田 傳 悲劇喜劇 62(11) (通号 709) 2009.11 p.49~51☆今村映画の魅力 (新・世界の映画作家と新作研究-11-今村昌平〔含 フィルモグラフィー〕) 石坂 昌三 キネマ旬報 (通号 1224) 1997.06.01 p.117~119☆小沢昭一インタビュー (新・世界の映画作家と新作研究-11-今村昌平〔含 フィルモグラフィー〕) 轟 夕起夫 キネマ旬報 (通号 1224) 1997.06.01 p.112~115☆エロ事のすすめ--今村昌平監督「人類学入門」"エロ事師たち"より 柾木 恭介 新日本文学 / 新日本文学会 [編] 21(5) 1966.04 p.106~111☆今村昌平の笑い (抱腹絶倒学入門(乱世のシナリオ講座-1-)(特集)) 押川義行 シナリオ 27(6) 1971.06.00 p.54~59☆深沢七郎「楢山節考」(監督:今村昌平) (映画の文学誌 ; 小説・シナリオ・映画) 雑誌記事 日高 昭二 國文學 : 解釈と教材の研究 / 學燈社 [編] 28(10) 1983.08 p.p96~97☆吾体感的三文戦後芝居史(第5回)モロッコ・クーデター・今村昌平(前) 藤田 傳 悲劇喜劇 62(9) (通号 707) 2009.9 p.47~49☆林真理子対談 マリコの言わせてゴメン!(89)今村昌平「『うなぎ』は本当は直したかった」 週刊朝日 102(27) 1997.06.20 p.46~50☆「講座 日本映画(1~4巻)」今村昌平,佐藤忠男,新藤兼人,鶴見俊輔,山田洋次編集 雑誌記事 岡 保生 文学 / 岩波書店 [編] 55(5) 1987.05 p.p128~134☆全集・現代文学の発見 第6巻 (黒いユーモア) 大岡昇平 等編. 学芸書林, 1969(泉大八) あ丶無情(坂口安吾) マッチ売りの少女(野坂昭如) 鳥獣戯話(花田清輝) 果てしなき欲望(今村昌平,山内久) 解説(花田清輝)鳥獣戯話 / 403今村昌平・山内久 /果てしなき欲望 / 453花田清輝 /☆年鑑代表シナリオ集 1966年版 シナリオ作家協会 編. ダヴィッド社, 1967 女の中にいる他人(井手俊郎) 人類学入門(今村昌平,沼田幸二) 893愚連隊(中島貞夫) 紀ノ川(久板栄二郎) 白昼の通り魔(田村孟) 本能(新藤兼人)目次 /女の中にいる他人 井手俊郎 / 2人類学入門 今村昌平/沼田幸二 / 37 893愚連隊 中島貞夫 / 75紀ノ川☆幕末太陽傳 田中 啓一, 川島 雄三, 今村 昌平 シナリオ 68(1)=762:2012.1 p.22-67☆〔「復讐するは我にあり」(今村昌平監督)〕 (「復讐するは我にあり」 特集 ) 雑誌記事 キネマ旬報 (通号 759) 1979.05.01 p.p100~123☆山内久/玲子 聞き書き(オーラルヒストリー)(第11回)今村昌平との仕事(2) 山内 久, 山内 玲子, 渡辺 千明 他 シナリオ 67(7) (通号 756) 2011.7 p.68~78☆山内久/玲子 聞き書き(オーラルヒストリー)(第10回)今村昌平との仕事(1) 山内 久, 山内 玲子, 渡辺 千明 他 シナリオ 67(6) (通号 755) 2011.6 p.71~81☆神話と街の間--「神々の深き欲望」をめぐって (「神々の深き欲望」が喚起するもの) 雑誌記事 今村 昌平, 馬場 当 シナリオ 25(3) 1969.03.00 p.12~27☆27年ぶりの「楢山節考」 今村 昌平, 深沢 七郎中央公論 98(5) 1983.05 p.p278~285☆「復讐するは我にあり」の犯人像とその周辺 (「復讐するは我にあり」 特集 ) 雑誌記事 今村 昌平, 佐木 隆三 キネマ旬報 (通号 759) 1979.05.01 p.p86~91☆年鑑代表シナリオ集 1967年版 シナリオ作家協会 編. ダヴィッド社, 1968 日本春歌考(大島,田村,佐々木,田島) 上意討ち(橋本忍) 陽の出の叫び(広瀬襄,藤田繁矢) 人間蒸発(今村昌平) 性の起原(新藤兼人) 日本のいちばん長い日(橋本忍) 華岡青洲の妻(新藤兼人) 乱れ雲(山田信夫)陽の出の叫び 広瀬襄/藤田繁矢 / 107人間蒸発 今村昌平 / 132性の起原 新藤兼人 / 195日本のいちばん長い日☆〔「キューポラのある街」今村昌平,浦山桐郎著,浦山桐郎監督〕 (浦山桐郎の思い出) シナリオ 42(3) 1986.03 p.p141~174☆地獄に堕ちた人間達を凝視する今村昌平の透徹した眼--「復讐するは我にあり」論 雑誌記事 貞永 方久 キネマ旬報 (通号 763) 1979.06.15 p.p98~100☆新人監督を輩出する日本映画学校の近況 (日本映画の新人監督地図-1-監督デビューが続く日本映画学校) 今村 昌平, 垣井 道弘 キネマ旬報 (通号 1060) 1991.06.15 p.p59~61☆「ええじゃないか」で現代の"根"を描く(潮インタビュー) 今村 昌平, 白井 佳夫 潮 / 潮出版社 [編] (通号 263) 1981.04 p.p53~61☆混沌とした時代に生きる下層庶民の生命力 (「ええじゃないか」 特集 ) 今村 昌平, 佐藤 忠男掲載誌 キネマ旬報 (通号 806) 1981.03.01 p.p58~63☆今村昌平における「棄民」の思想 (特集 日本映画、新しい視点から) 柴田 緑 映画学 / 映画学研究会 [編] (通号 23) 2009 p.45~69☆幕末太陽傳 川島雄三 監督・脚本. 日活, 2002.11 脚本:田中啓一/今村昌平 音楽:黛敏郎 出演:フランキー堺/南田洋子/左幸子/石原裕次郎/芦川いづみ/小林旭 ☆仕事の師であり人生の恩人 (巻頭特集 追悼 映画監督 今村昌平 ; 追悼インタビュー) 紅谷 愃一掲載誌 キネマ旬報 (1463) 2006.8.上旬 p.63~65☆シネマの記憶喪失(第18回)ドキュメンタリータッチという形式と再現の問題『ユナイテッド93』と今村昌平 阿部 和重, 中原 昌也 文學界 60(8) 2006.8 p.288~294☆「うなぎ」作品評 (新・世界の映画作家と新作研究-11-今村昌平〔含 フィルモグラフィー〕) 佐藤 忠男, 北川 れい子 キネマ旬報 (通号 1224) 1997.06.01 p.110~111,116☆キューポラのある街 浦山桐郎 監督・脚本. 日活, 2002.11 原作:早船ちよ 脚本:今村昌平 音楽:黛敏郎 出演:吉永小百合/浜田光夫/北林谷栄/東野英治郎/殿山泰司/小沢昭一 ☆阿川佐和子のこの人に会いたい-199-今村昌平(映画監督)--「うなぎ」がグランプリなんておかしいですよ 週刊文春 / 文芸春秋 [編] 39(21) 1997.06.05 p.50~55☆犯罪の中の現代 今村 昌平, 中央公論編集部 掲載誌 中央公論 94(6) 1979.06 p.p324~329☆飢餓海峡 浦山桐郎, 恩地日出夫 監督. SEN PLANNING, 2003.7 DISC1 第1回~第4回 DISC2 第5回~第8回 原作:水上勉 脚本:石堂淑朗/富田義朗 企画:今村昌平 出演:若山富三郎/山崎努/藤真利子 ☆今村昌平 社会の底辺を描き続けた"不良監督" 生涯ウジ虫を撮り続けてやる! (特集 不良老人伝(PART3)) 香取 俊介 望星 39(4) (通号 467) 2008.4 p.11~16☆今村昌平 俳優・長門裕之が明かすイマヘイのHな青年時代 (2006追悼ワイド 天国まで何マイル?) 週刊朝日 111(66) (通号 4792) 2006.12.29 p.31~32☆魅惑の美女はデスゴッデス! : 落語「死神」を艶笑オペラに (日本オペラシリーズ ; no. 71) 図書 池辺晋一郎 作曲, 今村昌平 台本, 藤田傳 脚色. 日本オペラ振興会, [2010] ☆市川崑の世界 今村 昌平, 森 遊机, 石坂 浩二 キネマ旬報 (通号 1091) 1992.10.01 p.p84~88☆あした来る人 井上靖 原作, 菊島隆三 脚本, 川島雄三 監督. 日活, 2005.10 監督:川島雄三 助監督:今村昌平 原作:井上靖 脚本:菊島隆三 撮影:高村倉太郎 美術:中村公彦 音楽:黛敏郎 出演:山村聰,三橋達也☆今村昌平の「楢山節考」と自然順応文化論--映画と原作の比較に基づいて 李 活雄 比較文化研究 (75) 2007.1.31 p.55~61☆飢える魂 完全版 丹羽文雄 原作, 柳沢類寿 脚本, 川島雄三 監督・脚本. 日活, 2006.5 監督・脚本:川島雄三 原作:丹羽文雄 脚本:柳沢類寿 撮影:高村倉太郎 美術:中村公彦 助監督:今村昌平 衣装デザイン:森英恵 録音:橋本文雄 音楽:真鍋理一郎 出演:三橋達也/南田洋子/轟夕起子/大坂志朗☆わが町 織田作之助 原作, 八住利雄 脚本, 川島雄三 監督. 日活, 2006.5 監督:川島雄三 原作:織田作之助 脚本:八住利雄 撮影:高村倉太郎 美術:中村公彦 助監督:松尾昭典/今村昌平 録音:橋本文雄 音楽:真鍋理一郎 出演:辰巳柳太郎/南田洋子/三橋達也/大坂志郎/殿山泰司/小沢昭☆みなと紀行 朝日新聞社 編. 朝日新聞社, 1976 小樽(清岡卓行) 酒田(森敦) 宇和島(杉浦明平) 横須賀(今村昌平) 境港(難波利三) 堺(足立巻一) 八戸(三浦哲郎) 石垣(佐木隆三) 小木(水上勉) ☆オリジナル・サウンドトラックによる武満徹映画音楽 5 黒澤明・成島東一郎・豊田四郎・成瀬巳喜男・今村昌平監督作品篇 武満徹 [作曲]. ビクターエンタテインメント, 2006.2 ☆脚本日本映画の名作 第2巻 佐藤忠男 編. 風濤社, 1975 にっぽん昆虫記(今村昌平,長谷部慶次) 河内山宗俊(山中貞雄) 悲しみは女だけに(新藤兼人) 非行少女(石堂淑朗,浦山桐郎)☆弘兼憲史 僕の漫画を生んだこんな映画、こんなシーン--森繁の「社長漫遊記」から「007」、黒澤明、今村昌平、キューブリックまでの興奮 (悠々として急げ) 弘兼 憲史 文芸春秋 84(14) (臨増) 2006.10 p.186~193☆名作映画の周辺(第4回世田谷フィルムフェティバルより) 山内久--映画「豚と軍艦」他を巡って--川島雄三、今村昌平、浦山桐郎監督らとの仕事 山内 久, 水野晴郎 掲載誌 シナリオ 59(3) (通号 656) 2003.3 p.51~61☆作品論(佳作)〔悪人譚/今村昌平の「復讐するは我にあり」(新井裕)〕 (キネマ旬報創刊60周年記念企画 ; キネマ旬報創刊60周年記念論文発表) キネマ旬報 (通号 774) 1979.11.15 p.p74~76☆愛・夢 : ピエロ・リマルディ写真集 ピエロ・リマルディ 著, 今村昌平 監修. ノーベル書房, 1970 ☆今村昌平『神々の深き欲望』論--作品イメージと安達征一郎をめぐって (特集 1950年代文学の可能性を探る1955年体制が創り出したもの/隠したもの) 柳井 貴士 社会文学 / 『社会文学』編集委員会 編 (33) 2011 p.118~130☆日本映画シナリオ選集 1983 映人社, 1984.3 西岡琢也,チエコ・シュレイダー著. ダブルベッド 荒川晴彦著. 積木くずし 新藤兼人著. 楢山節考 今村昌平著. 竜二 鈴木明夫著. 1983年日本映画封切作品リスト:p251~254 ☆年鑑代表シナリオ集 1957年版 シナリオ作家協会 編. 三笠書房, 1958 あらくれ(水木洋子) 異母兄弟(依田義賢) 幕末太陽伝(田中啓一,川島雄三,今村昌平) 爆音と大地(八住利雄) 喜びも悲しみも幾歳月(木下恵介) 純愛物語(水木洋子) 気違い部落(菊島隆三)☆サヨナラだけが人生だ : 映画監督川島雄三の一生 今村昌平 編. ノーベル書房, 1969☆赤い橋の下のぬるい水(01「赤い橋の下のぬるい水」製作委員会) バップ/「赤い橋の下のぬるい水」製作委員会, 2002.5 密着メイキング映像/予告編(特報・本予告)/TVスポット/NECO情報Pack「生きるか死ぬか」/今村昌平監督X三池崇史監督師弟対談DVD特別編 製作総指揮:中村雅哉 製作:豊忠雄/伊藤梅男/石川富康 プロデューサー:飯野久 監督・脚本:今村昌平 原作:辺見庸 脚本:冨川元文/天願大介 撮影:小松原茂 照明:山川英明 録音:紅谷愃一 ☆年鑑代表シナリオ集 1983年版 シナリオ作家協会 編. ダヴィッド社, 1984.4 卍(まんじ) 馬場当著. セカンド・ラブ 田中晶子,東陽一著. 楢山節考 今村昌平著. きつね 井手雅人著. 十階のモスキート 内田裕也,崔洋一著. オキナワの少年 中田信一郎ほか著☆それは三島の死に始まる : 対談集 小川徹 編. 立風書房, 1972 戦争映画と終末感(武田泰淳,開高健) 日本人の性意識(若松孝二,浦山桐郎) わが性の原体験と祭(今村昌平,小川徹) 性器に個性はあるか(吉行淳之介,佐伯彰一) 大陸帰りと東京派(鈴木清順,実相寺昭雄) ☆現代日本戯曲大系 第6巻 (1963-1965) 三一書房編集部 編. 三一書房, 1971パラジー神々と豚々(今村昌平,長谷部慶次) 新版四谷怪談(広末保) 明治の柩(宮本研) 消えた人(大橋喜一) 冬の時代(木下順二)☆Matar al padre : Shohei Imamura + Bo Widerberg Jaime Alonso de Linaje Verdugo. Semana Internacional de Cine de Valladolid, 2008 ☆全集・現代文学の発見 第6巻 (黒いユーモア) 学芸書林, 1976.6 ああ無情(坂口安吾) マッチ売りの少女(野坂昭如) 鳥獣戯話(花田清輝) 果てしなき欲望(今村昌平,山内久) 解説(花田清輝) ☆日本シナリオ大系 第4-5巻 シナリオ作家協会 編纂. マルヨンプロダクションシナリオ文庫, 1973-1974 釈迦(八尋不二) 豚と軍艦(山内久) 駅前団地(長瀬喜伴) 切腹(橋本忍) キューポラのある街(今村昌平,浦山桐郎) 憎いあンちくしょう(山田信夫) 座頭市物語(犬塚稔) 新選組始末記(星川清司) 誇り高き挑戦(佐治乾,深作欣二) にっぽん昆虫記(長谷部慶次,今村昌平) 恐喝(田坂啓) 独立機関銃隊未だ射撃中(井手雅人) 大殺陣(池上金男) 幕末残酷物語(国弘威雄)☆現代日本映画論大系 4 (土着と近代の相剋) 冬樹社, 1971欲望は土着の底へ 今村昌平 ボクの『にっぽん昆虫記』論(斎藤竜鳳) 『にっぽん昆虫記』と日本政治(松下圭一) 今村昌平(浦山桐郎) 私たちは同質か異質か(石堂淑朗) 映画対文学・市民対庶民(倉橋由美子) 土着派の生理☆頂上対談 (新潮文庫) ビートたけし 著. 新潮社, 2004.7 柳美里 述 格闘技には、想像力と創造力がいる 桜庭和志 述 『うなぎ』対『Hana-bi』 今村昌平 述 究極のプロ野球巷談 古田敦也 述 あんたはセンスがいいのよね 淀川長治 述 ☆日本名作シナリオ選 下巻 日本シナリオ作家協会「日本名作シナリオ選」出版委員会 編. 日本シナリオ作家協会, 2016.2 シナリオを読む 加藤正人 著 切腹 橋本忍 著 にっぽん昆虫記 長谷部慶次, 今村昌平 著 飢餓海峡 鈴木尚之 著 総長賭博 笠原和夫 著 少年 田村孟 著 砂の器 橋本忍, ☆日本名作シナリオ選 下巻 第2版 日本シナリオ作家協会「日本名作シナリオ選」出版委員会 編. 日本シナリオ作家協会, 2016.10 シナリオを読む 加藤正人 著 切腹 橋本忍 著 にっぽん昆虫記 長谷部慶次, 今村昌平 著 飢餓海峡 鈴木尚之 著 総長賭博 笠原和夫 著 少年 田村孟 著 砂の器 橋本忍, ☆黒いユーモア (全集現代文学の発見 : 新装版 ; 第6巻) 石川淳 [ほか]著. 學藝書林, 2003.7 ああ無情 坂口安吾 著 マッチ売りの少女 野坂昭如 著 鳥獣戯話 花田清輝 著 果てしなき欲望 今村昌平, 山内久 著 解説 白磁鳳首瓶 花田清輝 著 ☆佐々木基一全集 7 (新編・映像論) 佐々木基一 著, 佐々木基一全集刊行会 編纂, 古市雅則, 福島紀幸 編. 河出書房新社, 2013.1 山本薩夫「真空地帯」 黒沢明のシナリオについて 混沌のなかの可能性 大島渚「日本の夜と霧」 今村昌平「人間蒸発」 スナップ的方法・序 映画理論の前衛性 前衛映画は今日に生きうるか 映画と現代 映画と文学☆現代日本映画論大系 2 (個人と力の回復) 図書 冬樹社, 1970 可能性で論じた増村保造論(飯島耕一) 座談会・映画は前進する!(中平康,増村保造,今村昌平,荻昌弘) それは突破口か?(大島渚) 『女殺し油地獄』を見て(北原武夫) 被害者意識のパターン☆坂口安吾全集 別巻 坂口安吾 著. 筑摩書房, 2012.12 大和屋竺, 曾根中生, 荒井晴彦 著 不連続殺人事件〈テレビドラマ〉 安倍徹郎 著 カンゾー先生 今村昌平, 天願大介 著 白痴 手塚眞 著 坂口家の系図について 坂口献吉 著 阪口寿庵 阪口五峰 著☆村岡伊平治自伝 (講談社文庫) 講談社, 1987.8 ☆カンゾー先生 掲載誌 キネマ旬報 (通号 1269) 1998.11.01 p.94~101☆シネ・フロント 23(9)(263) シネ・フロント社, 1998-09 特集 カンゾー先生 / / p3~3今村昌平監督、演出を語る / / p4~5話題の人・訪問 / 麻生久美子 / p6~9...先生』と映画『カンゾー先生』 / 半田茂雄 / p14~17今村昌平と『カンゾー先生』 / 小沢昭一 / p18~21 今村昌平監督フィルモグラフィ / / p22~23シナリオ『カンゾー先生』完全版 /☆シネ・フロント 22(5)(247) シネ・フロント社, 1997-05 特集 うなぎ / / p4~17今村昌平監督、自作を語る / / p4~7 話題の人・訪問 / 佐藤允☆シネ・フロント (161) シネ・フロント社, 1990-03)シネフロント・ベストテン / p24~24受賞者インタビュー / 今村昌平 ; 依田義賢 ; 三國連太郎 ; 田中好子 / p25~34) ☆シネ・フロント (151) シネ・フロント社, 1989-05 特集 黒い雨 / 今村昌平 / p7~12今村昌平監督、演出を語る / p7~12今平と作品を語る / 北村和夫 / p13~☆シネ・フロント (84) シネ・フロント社, 1983-08 オキナワの少年 完成台本 / p12~28浦山桐郎インタビュー今村昌平と出会いからの『暗室』まで / 木崎敬一郎 / p29~39山田太一インタビュー☆シナリオ : 映画芸術の原点 : Scenarioの月刊誌 45(5)(490) 日本シナリオ作家協会 監修. 日本シナリオ作家協会, 1989-05 創作ノート / 石堂淑朗 / p130~130 シナリオ 監督 今村昌平 原作 井伏鱒二 主演 田中好子 製作 今村プロ 林原グループ 黒い雨 / 石堂淑朗 ; 今村昌平 / p131~166 シナリオ 「もっともあぶない刑事」シナリオ☆シナリオ : 映画芸術の原点 : Scenarioの月刊誌 44(3)(476) 日本シナリオ作家協会 監修. 日本シナリオ作家協会, 1988-03 特集1 演出メモ&処刑事件調査資料 / 今村昌平 ; 小林佐智子 ; 原一男 ; 栗林豊彦 ; 鍋島惇 ; 安岡卓治 ; 大宮浩一 ; 高村俊昭 ;☆シナリオ : 映画芸術の原点 : Scenarioの月刊誌 43(10)(471) 日本シナリオ作家協会 監修. 日本シナリオ作家協会, 1987-10 シナリオ / 佐藤武光 / p124~124シナリオ 監督/今村昌平 製作/東映+今村プロ 女衒 / 今村昌平 ; 岡部耕大 / p125~166☆シナリオ : 映画芸術の原点 : Scenarioの月刊誌 42(3)(452) 日本シナリオ作家協会 監修. 日本シナリオ作家協会, 1986-03 映画史上に残る青春映画の傑作! 浦山桐郎監督 早船ちよ原作 吉永小百合主演 キューポラのある街 / 今村昌平 ; 浦山桐郎 / p141~174浦山桐郎の思い出 /<浦山桐郎の思い出> 蛇の如く粘れ、頑張れ、へっこむな! / 今村昌平 / p140~140新連載 レポート・エッセイ 映画製作現在進行形☆シナリオ : 映画芸術の原点 : Scenarioの月刊誌 37(5)(394) 日本シナリオ作家協会 監修. 日本シナリオ作家協会, 1981-05 前田陽一 ; 鈴木清順 / p115~115〔連載〕 日本映画月評 今村昌平監督作品「ええじゃないか」 / 佐藤忠男 / p120~121 ☆映画芸術 38(2)(358) 編集プロダクション映芸, 1989-11 特集「黒い雨」は本当にいい映画なのか 長谷川和彦「黒い雨」と今村昌平を語る / 荒井晴彦 / p4~23 特集「黒い雨」は本当にいい映画なのか 特集 私はこれで決めました。 / 池田敏春 ; 石堂淑朗 ; 井筒和幸 ; 伊藤俊也 ; 今村昌平 ; 上垣保朗 ; 大林宣彦 ; 大山勝美 ; 柏原寛司 ; 金子修介 ; 河崎義祐 ; 神代辰巳☆映画芸術 23(2)(304) 編集プロダクション映芸, 1975-04 ルポ批評 雌伏5~8年の企画・そしてこの夏こそは☆脚光を浴びる旧ライバル・ふたりの教祖 今村昌平と鈴木清順 ぼくは8周期ですよほか / 今村昌平 ; 鈴木清順 / p27~39 批評特集 これらが日本映画のまぎれもない現状だ☆映画芸術 19(5)(283) 編集プロダクション映芸, 1971-05 特集1 今村昌平<黒念仏殺人事件>について 前近代でなく反近代 / 内村剛介 / p27~31特集1 今村昌平<黒念仏殺人事件>について 今村昌平の共同体論 / 北村皆雄 / p31~34特集2 ヤクザ映画と若松映画の両立☆映画芸術 17(10)(266) 編集プロダクション映芸, 1969-10全面特集 日本映画 この生きている10年史 '68(昭43) 今村昌平とオキナワ<東シナ海>は失敗したが / 磯見忠彦 / p71~73 ☆映画芸術 17(6)(262) 編集プロダクション映芸, 1969-06 全面特集 現代芸術の前近代への郷愁は何か 内なる前近代と映画(3)今村昌平と武智鉄二 今村の血は透明となった / 大和屋竺 / p28~29全面特集現代芸術の前近代への郷愁は何か 構造主義と日本映画 土着・ブラックユーモア・構造主義--新藤兼人・今村昌平・土方巽の作品に触れて / 伊東守男 / p57~60新しい欧米映画☆映画評論 30(10) 新映画, 1973-10 ブレヒト / 扇田昭彦 / 94現代日本映画作家論-10-今村昌平論 / 佐藤忠男 / 117アンダーグラウンド・シネマの密儀☆映画評論 29(4) 新映画, 1972-04 邪宗門 / 寺山修司 / p105未帰還兵を追って / 今村昌平 / p127 SOFT FOCUS / p15 ☆映画評論 27(8) 新映画, 1970-08 狂気が彷徨う / 奥村昭夫 / p89につぽん戦後史 / 今村昌平 / p108原点にもどる秘やかな悦楽 / 田山力哉 / p74 ☆映画評論 26(1) 新映画, 1969-01 スティバル総評 / 佐藤重臣 / 36果して岩は落ちたのか--今村昌平の「神々の深き欲望」 / 長部日出雄 / 38鈴木清順と「肉体の門」☆映画評論 25(2) 新映画, 1968-02 7 パリのめぐり逢い / クロード・ルルーシュ / p89神々の深き欲望 / 今村昌平 / p125シネ・ダイアリー / p173☆変った種族研究 吉行淳之介 著. 講談社, 1965 戸川昌子 / p117殿山泰司 / p127今村昌平 / p137加賀まりこ / p147柳家三亀松 / p☆キネマ旬報 (1269)(2083) キネマ旬報社, 1998-11 黒田邦雄 ; 吉村英夫 / p86~93特集 カンゾー先生 今村昌平監督インタビュー 柄本明インタビュー 作品評/垣井道弘 ; 金澤誠 ; 村川英 / p94~101☆キネマ旬報 (1224)(2038) キネマ旬報社, 1997-06 原郁子 / 54~57 (11)新・世界の映画作家と新作研究 今村昌平 今村昌平監督インタビュー「うなぎ」作品評-小沢昭一インタビュー-今村映画の魅力--フィルモグラフィ 北川れい子 ; 轟夕起夫 ; 石坂昌三 / p106~121今村昌平監督インタビュー / 垣井道弘 / 107~109「うなぎ」☆キネマ旬報 (1108)(1922) キネマ旬報社, 1993-06 特集 没後30年一川島雄三はサヨナラを言わない / p108~110特集 今村昌平、川島作品を語る/桂千穂 / p111~114特集 大映時代☆キネマ旬報 (1091)(1905) キネマ旬報社, 1992-10 特集 市川崑の世界 / / p84~87仕掛人の辯 / 今村昌平 / p84~84市川崑入門 / 森遊机 / p85~86 ☆キネマ旬報 (1089)(1903) キネマ旬報社, 1992-09 三國連太郎 ; 宮下順子 ; 水の江滝子 ; マキノ雅広 ; 蔵原惟繕 ; 舛田利雄 ; 今村昌平 ; 長谷部安春 ; 神代辰巳 ; 高村倉太郎 ; 姫田真左久 ; 八森稔 / p15~15☆出版ニュース = Japanese publications news and reviews : 出版総合誌 (818) 出版ニュース社, 1969-12 赤児のようないい男 / 今村昌平 / p21~21わが著書を語る / 坂崎乙郎 ; 寺田透 ; 水上勉 ; 宮☆出版ニュース = Japanese publications news and reviews : 出版総合誌 (632);1964年8月下旬号 出版ニュース社, [1964-08] 今村昌平著 にっぽん昆虫記 三一書房/ / 12~13 ☆逓信協会雑誌 9月(676) 逓信協会, 1967-09 今村昌平「人間蒸発」 / 岩瀬好三 / p42~43嘉村礒多「途上」その他 /☆みんけん : 民事研修 (7)(459) 民事研修編集室, 1995-07 安吾と私と青春 / 今村昌平 / p3~11☆By the way 7(5)(37) 産業情報研究会 編. ライフ社, 1997-08 時の人 カンヌ金賞を受賞した今村昌平 / 品田雄吉 / p20~21☆怠惰への挑発 石堂淑朗 著. 三一書房, 1966 見えざる敵―『山猫』 / p29私たちは同質か異質か―ベルイマン=今村昌平<仮空>対談 / p32庶民の存在論―性の無意識部分の解放『にっぽん昆虫記』状況を日本の外にありとする者は誰か?―『日本列島』批判 / p67今村昌平の睪丸―なぜ作家たちはエロチシズムを追い求めたか / p71愚かしいテクニック☆視聴覚芸術方法試論 当利和成 著. 同成社, 1968 裏切りの季節 / p180ゴダールと今村昌平の作品世界に於ける可能性 / p183日常の慣習と時間の輪舞 / p185 ☆月刊新自由クラブ 5(44) 新自由クラブ政策委員会 編. 新自由クラブ, 1981-02 石井光義 / p84~92"俳優"河野洋平氏について / 今村昌平 / p107~109この町この味-8完-松島 / 室生朝子☆遊撃の思想 斎藤竜鳳 著. 三一書房, 1965 遊び人になるための映画のすすめ / p31欲望の組織者=今村昌平という男 / p37基層社会の〝性〟=『にっぽん昆虫記』のテーマ / p44☆新潮45 17(別冊) 新潮社, 1998-02 釜山彷徨 / 三島正 / p103~110「うなぎ」対「HANA-BI」 / 今村昌平 / p112~121 さくらももこ、岸本加世子、大杉漣☆軍事史学 23(2)(90) 軍事史学会 編. 錦正社, 1987-10 ウジ・ナルキス『エルサレムに朝日が昇る』 / / p119~120今村昌平ほか編『戦争と日本映画』 / / p120~120信夫清三郎『江戸時代 鎖国』☆新評 14(6) 新評社, 1967-06 恥部を暴くランパーツ誌 / 本誌編集部 / 256今様助平のアウトサイダー・今村昌平 / 藤本義一 / 144 2DK時代のアジテーター・白土三平 / いいだもも☆日本映画は崩壊するか 金坂健二 著. 三一書房, 1968 幽霊は生きている=小林正樹 / p173非構成の構成=今村昌平 / p188後進国の思想=大島渚 / p201☆Clinic bamboo = ばんぶう 日本医療企画, 1998-11 HOT TALK 今村昌平--父への鎮魂歌の映画を通して非人間的な現代医療を憂う / 今村 昌平 / 2~5 ☆現代にとって児童文化とは何か 佐野美津男 著. 三一書房, 1965 テレビのなかの大衆文学 / 193人は虫になり得るか―部分的今村昌平論 / 201巷に雨の降る如く、わが心にも涙ふる―東映児童劇映画について /☆映画情報 47(11)(復刊363) 国際情報社, 1982-11 雑談えいが情報 / 視根馬雷太 / (0026.jp2)話題作の現場から(3)今村昌平監督の『楢山節考』 / 原寛行 /『この子の七つのお祝いに』『蒲田行進曲』☆運動族の意見 : 映画問答 花田清輝, 武井昭夫 著. 三一書房, 1967 戦後を超える思想 / p7戦後を超える /今村昌平の批評精神 /ダブル・スパイの立場 /模索と明晰 /☆リクルートキャリアガイダンス 18(4)(208) リクルート, 1986-05 Monthly Interview人間を心底から好きになってほしい / 今村昌平 / p62~62☆日活1954-1971 : 映像を創造する侍たち 野沢一馬 編. ワイズ出版, 2000.12『ビルマの竪琴』映画化をめぐって/市川崑/42裕次郎時代の幕開けについて/井上梅次/43日活映画回顧録/今村昌平/45日活黄金期に得た貴重な体験の数々/井本俊康/47照明一筋、担当した日活映画は八十余本/岩木保夫☆栗田勇著作集 第1 (現代の空間・映像の美学) 新書館, 1968 大島渚と吉田喜重―実存主義と映像 / p406 今村昌平―現実と幻想 / p415☆魔と残酷の発想 大島渚 著. 芳賀書店, 1966 面接試験にいた面々 / Sの死 /今村昌平と屋台へ /闘争に暮れた京大時代 /重い挫折感を抱いて☆別册文藝春秋 (220) 文藝春秋, 1997-07 新連載エッセイ われら映画に死す 大島渚や今村昌平と同時代を生きた脚本家が回想する「やぶれかぶれ戦後日本映画史」 / 石堂淑朗 / p408~420☆暮しの手帖 第3世紀 (27) 暮しの手帖社, 1990-08 水・川・黒い雨 / 今村昌平 ; 岡田正人 / 46~51☆すばる 17(9) 集英社, 1995-09 エッセイ「黒い雨」映画化のこと / 今村昌平 / p168~169 ☆月刊世界政経 5(1) 世界政治経済研究所, 1976-01 三人の未帰還兵のこと / 今村昌平 / p14~15 ☆別府と占領軍 : ドキュメント戦後史 佐賀忠男 [著], 「別府と占領軍」編集委員会 編. 「別府と占領軍」編集委員会, 1981.8 目次 / 「佐賀さんの芯を見た」 今村昌平 / ☆東京人 6(4)(43) 都市出版, 1991-04 東京の女(24)田中好子/今村昌平 ; 大倉舜二 / p111~113 ☆面白倶楽部 11(16) 雑誌 光文社, 1958-12 果てしなき欲望(日活) 今村昌平 / 大暴れ女俠客陣(新東宝) 毛利正樹 / ☆社会人 (156) 社会人社, 1962-04 映画のページ「キューポラのある街」「黙示録の四騎士」 / 日活 ; 早船ちよ ; 今村昌平 ; 浦山桐郎 ; ジュリアン・ブローステイン ; ビンセント・ミネリ ; ロバート・アードリー /☆世代'64 2(2) 学習研究社, 1964-02 奇人伝 今村昌平 / X / p105~105☆日仏映画往来 遠藤突無也 著. フライングボックス, 2017.5 小林正樹//34258 増村保造//34659 岡本喜八//34860 中平康//35061 今村昌平//35362 勅使河原宏//35763 蔵原惟繕//36164 羽仁進//36365 篠田正浩/☆新聞集成昭和編年史 昭和37年版 1 (自1月-至2月) 明治大正昭和新聞研究会 編集制作. 新聞資料出版, 2014.11 第一回日本映画記者会賞受賞作「豚と軍艦」を演出した今村昌平//一四八 前回のブログに書いた「日本のいちばん長い日」で、岡本喜八の論考「体験的戦争映画・試論」から一文を引用するとき、原文と照合するために論稿の掲載されている岩波書店刊「講座・日本映画 第5巻 戦後映画の展開」を久しぶりに書棚から引っ張り出しました。やはり、原文との照合というのは、引用者の当然の責務だと思っているので、転記に際しては誤記のないよう細心の注意を払って、慎重のうえにも慎重を期しています。以前、自分もヒト様の書いた「引用文」を全面的に鵜呑みにし、そのまま「孫引き」した結果、それが結構デタラメなもので大変な目にあったことがありました。そのときから原典との照合はしっかりしなくてはと、キモに銘じています。でも、こうして岩波の「講座・日本映画」を手にするのは、なんだか本当に久しぶりです、書棚から引っ張り出したとき、本の周囲をうっすら覆っているホコリのマクに指の跡がつくのを見て、この本を開かなかった歳月の長さには胸に迫るものがありました、大袈裟ではなくて、なんだかこの本を片時も離すことなく手元に置いて夢中で読みふけっていたかつての自分と遭遇したような切ない感慨に捉われました。まあ、ついでにと言ってはなんですが、懐かしさもあってパラパラと頁を繰ってみました。当の岡本喜八の小論は、本の最後のほうに掲載されているので、頁を繰るのも自然と最後の頁から見ていくという感じになります。余談ですが、どの本についてもそうですが、本の全体を眺めようというとき、最後のほうからパラパラ眺めていくというのが自分の流儀です。こうすると本の全体像というのが不思議と的確につかめるような気がして、なんだか物凄く合理的な感じがします。単なる想像にすぎませんが、書く側にしても、いざ執筆を始めようという作業の起動時においてなら書く動機も構想もしっかり固まっているので、モチベーションも高く当然リキも入っていてガンガン書き始めるでしょうけれども、そのうちネタも尽き息切れもしてきて、最後のほうになるとだんだん構想が途切れて、イタズラニ素材をふやかして間延びさせるとか、「はしょる」とかして、終わりを急いで、最後のほうになると安直にまとめてしまうというのが世の常だと思うので(実際のところ、そういう本は実に多いのです)、だから本を終わりのほうから眺めるというのは、その「痕跡」を見つけ易いそれなりに理にかなった方法で、その本の熱の「途切れ」を測ることのできる優れた本の鑑定法ではないかと自負しています。もちろん、これはどこまでも自分の経験から割り出した独善的な私見にすぎませんので、どこまで信憑性があるかは分かりません、念のため。しかし、それにしても、こうしてこの「講座・日本映画」を実際に手にしてみると、とにかくこの岩波本「講座・日本映画」という書籍は、写真やイラストが豊富に掲載されていて(もちろん、収録されている論文はどれも映画史的に貴重で重要なものであることを前提にしてのハナシです)、こんなことをいっては失礼かもしれませんが、暇つぶしにただ写真や図版をつらつら眺めているだけでも楽しくて、いつの間にか時間を忘れてしまうくらいです、かつてそうやってこの本を傍らに置いて常にスチール写真をながめていた自分の習慣をはっきりと思い出しました。スマホや電子書籍やアマゾンに挟撃されて惨憺たる状況にある現在の逼迫した出版業界において、金儲けとは無縁のこれほどの学術的な仕事をするのは、いまとなっては投入する費用と労力を考えれば、もはや「実現不可能」な、会社にとっては相当なリスクを負うとても困難な事業になることは間違いありません。しかし、放っておけばいつの間にか散逸し、失われかねない映画関係の貴重な論稿やかけがえのない資料をこういうかたちで残そうというのは、まさに文化遺産保護の名に値する意義ある仕事です、いまになってよく分かりました。あらためてこの本の奥付をながめると、なるほど、刊行年は1987年11月4日となっています。なるほど、まだまだゆとりのあった当時だから出来たのかなとも思いますが、しかし、心ある出版社なら、出せば売れるチャラチャラしたキワモノの写真集ばかりでなく、30年経とうと40年経とうと、こうして手にとり、読むに値する後世に残る意義ある仕事を切に望むところです・・・なんてね、宮使いの身でそんな奇麗事が通用しないのは、長年窮屈な思いをしながらご奉公してきたこの自分がいちばんよく分かっていますので、まあ、ただの老人の繰り言というか、あり得ない夢物語と聞き流してくだされば結構です。とにかく、これほど優れた本なわけですから、少なくとも、ホコリで指の跡がついてしまうまで放ったらかしにするなんてことは、今後は決して許されないぞと自戒しつつ、我がキモに銘じた次第です。さて、この「講座・日本映画 第5巻」のいちばん最後に掲載されている論稿は、廣末保の「映画と日本の古典」でサブタイトルには「西鶴の場合」とあります。日本映画において西鶴がどのように描かれてきたか、と論証する論文らしいのですが、冒頭には三枚のスチール写真が掲げられていて、それぞれの写真に付せられたキャプションというのはこんな感じです。〔上段〕「大阪物語」1957演出中の吉村公三郎〔中段〕「好色一代男」1961演出中の増村保造、右は市川雷蔵〔下段〕「好色五人女」の構想を語る加藤泰(1984年8月)上段の「大阪物語」は、溝口健二が撮る予定だったところ、溝口監督が急逝したので吉村公三郎があとを引き継いだ作品だそうですが、物語のテーマの「えげつない吝嗇振り」が前面に出すぎていて原作のアクの強さばかりに振り回され、なんだか上滑りに終わってしまったような印象を持ちました。やはり溝口健二のように強烈な「こだわり」や「毒」がないと、映画は途端にストーリーの焦点がぼやけて、単に粗筋をなぞるだけの緩みを見せはじめ、結局どっちつがずの淡白な作品になってしまうんだなあと感じた記憶があります。それにひきかえ、なんといってもいちばんに目を引くのは、中段に掲載されている写真、実に艶やかな町人姿でポーズをとっている市川雷蔵と、その左に立つ増村保造がなにやら話しかけている写真、1961年大映作品「好色一代男」だなとすぐに分かりました。実は、自分は「好色一代男」の作品論をこのブログの早い時期に書いたことがあります。過酷な運命に翻弄され、男たちの身勝手な欲望とエゴによって堕ちるところまで堕ちつくす被虐的な溝口健二の「西鶴一代女」に比べて、自らの運命を自分の意思で選び取っていく強烈な「意思の物語」、まるで、たとえ地獄に堕ちるにしろ、どこまでも自分の意思で運命を選び取って堕ちていくことの爽快さを西鶴の物語のなかに読み取り、まるでイタリア映画のような明るさと活力に満ちた増村作品「好色一代男」をかつて手放しで評価したことを、この写真を見ながら思い出しました。なるほど、なるほど、なんかいいじゃないですか、この本。こうして、ただ眺めているだけでも、どんどん勝手に思い出が湧いてきて、はてしなく連想がつながり、ただただ妄想に身をゆだねていられる快感にしばし捉われていたのですが、でも、ちょっと待ってくださいよ、溝口健二の助監督を経験し、すぐれた溝口健二論も多く執筆したほどの増村保造です、その彼が撮った「好色一代男」を「西鶴一代女」と比較して論じるくらいの、ただそれだけのことなら、これってきっと誰もが容易に思いつくに違いない実に陳腐に関係づけた発想にすぎなかったのではないか、もし「好色一代男」という作品自体に真正面から対峙し論じようというなら、溝口作品と比較するなんていうのは単なる「端緒」にすぎず、もっと「その先」を苦しんで切り開いて論を展開させていくことこそが、オリジナリティというものではなかったのか、などとぼんやり考えていたのは、このとき同時に、黒澤明の「生きものの記録」1955をうっすらと連想し思い浮かべていたからかもしれません。原水爆の恐怖に捉われノイローゼになって、いつ自分を見舞うかもしれない恐怖から遂に自分が経営する小さな町工場に放火したあの老いた工場主は、死の恐怖から逃れるためにブラジルに移住することばかり考えていました。「好色一代男」において、無粋で過酷な社会の現実に絶望した世之介は、こんな愚劣な俗世なんかにさっさと見切りをつけて、優しい女しか存在しない平和な夢の島「女護が島」を目指して船出するというのが、たしか映画のラストだったと記憶しています。ほら、このあたりなんか、どう見ても「生きものの記録」とそっくりじゃないですか。いや、似てます、似てます、そっくりです。あっ、そんなこというなら、今村昌平の「人類学入門 エロ事師たちより」1966のラストなんかどうなのよと。あの作品こそは、モロこの流れに影響されているじゃないですか。「な~る、そうか、そうなんだよなあ」などとひとりで感心し、まるで金脈を掘り当てたかのように興奮してブツブツと呟き、さらに「講座・日本映画 第5巻」をペラペラと遡上していきました。この廣末論文「映画と日本の古典 西鶴の場合」の直前に掲載されている論稿は、亀井文夫と土本典昭の対談「ドキュメンタリーの精神」です、その話されている内容の、実に気が重たくなるほどの真摯な重厚さ(なにせこの二人です、そうならないわけがありません)に迷い込むまえに、まずは亀井文夫と土本典昭の取り合わせなんて、思わず、へえ~、こんな対談があったんだ、と今から思うとまるで「夢の対談」みたいに思われるこの傑出した企画の「そっち」の方にむしろ感心してしまいました。しかし、いざ読みだしてみると、土本典昭が深刻でディープなイデオロギー的なものを引き出そうと必死にミズを向けるのに、亀井文夫の反応は、その論点の矛先をいなすように、むしろ技術論とか、常時撮影を監視していた軍部とどう折り合いをつけて作業を続けたかという、いわば作品は「妥協の産物だった」みたいな話ではぐらかしている印象を受けました。それもこれも、(対談当時)この二人ともが「撮りたいものを撮る」ための傍流の資金稼ぎの「仕事」に忙殺されるという本末転倒な境遇に同じように晒されていて、そのリアルで愚劣な経済的葛藤に疲れ、面白くもないPR映画を何本も撮らねばならないことに心底うんざりされられているという、共通する「背景」が会話の過程で次第に浮かび上がってくる部分があります。とくに、この場の亀井文夫の疲労は実に深刻で「ドキュメンタリー映画を撮りたい」という切実なモチベーションなど既に失っているのではないかという兆しも随所に窺われるくらいです。果たしてドキュメンタリー映画なんかで本当に現実を抉り取ることなどできるのかという深刻な懐疑と、既に映画そのものに興味を失い始めているらしい「なげやり」とが同居し、ここで語られようとしているかつての「仕事」の栄光など、土本典昭が感激しているほどには亀井は感興を催していないどころか、もしかすると数々のドキュメンタリー映画の「名作」に対してさえも随所で自嘲気味に懐疑をもらし、そのことを土本典昭自身もまた会話を通して薄々気づき始めるという奇妙な関係と無残な過程、いわば「堕ちた偶像」のいかがわしさを憧憬者と当事者によってひとつひとつ暴き検証するという倒錯がこの「対談」の実体のような気がしてきました。こう考えると、この対談そのものこそが、彼らがかつて共通して求めていた真実に肉薄して暴きだす「ドキュメンタリー映画」の優れた手法で進行しているような感じも受けたくらいです。むしろ、この対談で面白かったのは話の傍流、たとえばカメラマン・三木茂との「無能な監督なんかいらねえよ」という「キャメラ・ルーペ論争」とか、「基地の子たち」における「農家を改造した売春宿」と題された三枚のスチール写真など、過酷な状況下、国家に見捨てられた庶民が、開き直ってふてぶてしく生きる痛ましくも逞しい姿を活写して、実に感動的でした。それらの写真のなかには「米兵を案内する小学生」というのも写っていて、その農家の「nock-open」と殴り書きされている障子戸を開けて顔を見せているごく若い娼婦(障子にはエミーという名前も書かれているのが見えます)と、客引きらしい少年(肩から白い布カバンをさげていて、いま学校から帰ってきたばかりという様子です)が親しげに話している写真を見ると、もしかすると彼らは実の姉弟だったのではないかとさえ邪推してしまいました。さらに、本をさかのぼっていくと、論稿は、その土本典昭の「亀井文夫・『上海』から『戦ふ兵隊』まで」と、谷川義雄の「十五年戦争下の『文化映画』」、そして、岡本喜八の「体験的戦争映画・試論」、増村保造の「市川崑の方法」と続いていきます。どれも熟読しなければならない重要な論稿ですが、とくに日本ドキュメンタリー映画史の白眉、谷川義雄の「十五年戦争下の『文化映画』」は、たっぷりと時間をかけて読んでみたいと思いながら、次の論稿、いよいよ(というか、「やっと」ですが)当コラムの本筋、廣澤榮の「『七人の侍』のしごと」に到達しました。この「遡上読み」の醍醐味は、論者が苦心して積み上げた「理由」を義理堅く最初から辿ったり、もったいぶった論者の前振りの「焦らし」に付き合わされることなく、その大切な核の部分の「結論」だけをちゃっかり先取りし、美味しいところだけをまずは頂いてしまおうという、あくまでも読者の側に立った実にC調な都合のいい読み方なのであります。こうなるともう最初から論文のクライマックスに一気に突入です。これこそ煩わしいマクラなしの「一気読み」の醍醐味です。《その最終カット。久蔵、菊千代が討死し、野武士はことごとく斃れふす。そのとき勝四郎が甲高い声で狂気のように「野武士は、野武士は!」と叫ぶ。と、勘兵衛が「もうおらん、野武士はもうおらん」という。それを聞いて勝四郎がそのまま、泥水の中にくたくたと崩折れて泣く。そのとき木村功は声を震わせ激しい声でせぐりあげていた。その顔は涙と鼻水と泥でくしゃくしゃの顔だった。そして「カット」の声をきいても、そのままいつまでも泣きじゃくっていた―あれはもう演技ではなかった。なぜなら、それを見守る我らスタッフもその場に崩折れて泣き出したい思いだったから。3月20日の夜―すべての撮影が終了した夜、スタッフルームに集まった一同の一人一人にテンノウは冷酒をつぎながら「苦しい仕事だったな、ありがとう」そして、いった。「『七人の侍』はみんなでつくった仕事だな」その言葉とともに『七人の侍』はそれぞれみんなの胸の奥そこに生きている。32年前、おれはあの仕事をやったんだ、わが青春をかけて懸命になって、まぎれもない「本物」をつくったのだと、いま誇らかに思うのである。》どうです、このどこの世界に、そして誰が、ただ与えられた仕事をこなしていくだけのことなら、「あのときおれは紛れも無い本物を作ったのだ、やりきったのだ」なんて言い切れるものじゃありません、そんなサラリーマンなど、そんじょそこらには居るわけがありません。一度でもそんなふうに言い切れる充実した仕事と時間を経験できた人のそういう人生は、そうじゃなかった僕たちに到底分かろうはずもありません。ここで語り尽くされている達成感と充実感のクダリには、敬意を表するなんてよりも先に、ただただ羨望の思いを抱くばかりです。同時にその最終頁に掲げられているスチール写真の3枚を見ながら、この感動の文章を読むと、感興はさらに格別なものがあります。ちなみに、スチール写真3枚のキャプションは以下の通り。「雨の中の戦闘シーンにて、上 黒澤明」雨に打たれながらラストシーンの撮影に臨んでいる黒澤明は、笑みさえ浮かべた穏やかな表情です。「雨の中の戦闘シーンにて、下 三船敏郎と宮口精二」菊千代と久蔵が死力を尽くして種子島に立ち向かい、そして相次いで種子島に撃ち倒される直前の壮絶な場面です。その野武士を打ち倒すために誰かが死ななければ、この戦いはいつまでも決して終わらなかったかもしれないという絶望的な最後の死闘が描かれています。その「誰か」こそが、この七人のサムライの物語において、勝四郎とともに僕たちが最も思い入れを強めた菊千代と久蔵で泣ければならなか痛切と痛恨が、この「七人の侍」のラストにおいて、感慨を示した当論文の論者にして現場の当事者・廣澤榮ならずとも、僕たちをもまたあの「聖域」に立ち会ったという思いにさせてくれたのだと思います。泥水の中に片手片足をついて蹲り、必死の断末魔の抵抗を見せる野武士を鬼気迫る形相で見据える菊千代、そして久蔵は、タメをつくっていままさに斬りかかろうというド迫力のなか、二人が同時に後方に振りかざした刀は激しい軌跡のなかで偶然にも共に虚空で均しく並びあい、美しい均衡を一瞬留めてみせていたことにこの写真は気づかせてくれました。まるで小津監督が、架空の物差しで虚空を1ミリ、2ミリと計り示し、僕たちにこの頼りなく儚い世界の虚無の瞬間・迫りくる美しい死の影を垣間見せてくれたみたいに。「雨の中の戦闘シーン最終カットスナップ。右から志村喬、加藤大輔、木村項、一人おいて黒澤明」この写真が、前に引用した《勝四郎が甲高い声で狂気のように「野武士は、野武士は!」と叫ぶ。勘兵衛が「もうおらん、野武士はもうおらん」という。それを聞いて勝四郎がそのまま、泥水の中にくたくたと崩折れて泣く。》に当たる写真ですね。そうですか、よく分かりました。さてと、ここはこのくらいで、またまた次の頁へと遡上しますか、と頁を繰ったところに、あっ、ありました、ありました。これですよ、これ。見開いて左、偶数頁側(277頁)の下段に「キクさん」と書かれたその写真はありました。野武士に身内を殺され一人取り残された老婆(久右衛門の婆様)は、村はずれの打ち棄てられたようなみすぼらしい小屋で、村人の気まぐれな施しと薄い温情にすがって辛うじて命をつないでいるという、「ただ家畜のように生かされている」というだけの惨めな棄民の老婆の姿を、黒澤監督は怖いほどの凝りに凝ったメイキャップで見せています。それにしても物凄い形相に仕上がっていますよね。本編中まずいちばんに久右衛門の婆様の印象が強烈に残ってしまうのも当然です。きっとその「物凄さ」は、いかに技術さんのメイキャップ力をもってしても、なにせ出発があれほどの絶世の美女「津島恵子」ですから、無理やりに汚して男装させたとしても、せいぜいがあんなところ、どこまでいっても「美女」からは明らかに逸脱できないのですが、久右衛門の婆様を演じる老婆は(きっと)普段でもすでに物凄い容貌怪奇のババ様だったので、同じメイキャップ力でも出発のそのフライング度も加味して、あれだけダントツに効果を発揮できたのだと思います。そのことが「生きものの記録」や「影武者」のような描きすぎの「行き過ぎ感」を免れた理由だったに違いありません、久右衛門の婆様の仕上がりは十分リアルの範囲内にとどまっていて、それだけに見るものの印象も鮮烈だったのだと思います。シーンとしては、勝四郎が志乃に握り飯を差し出す場面から、「それ」は始まります。村を守るための侍を雇う条件として「侍たちには米の飯を食わせる」があり、そのぶん「百姓は稗や粟(麦だったかも)を食って耐え忍ぶ」というのが、この「七人の侍」という物語を貫いている重要なテーマです。勝四郎も志乃が日頃米の飯を口に出来ないでいることを十分に知っていて、逢瀬の場に密かに握り飯を持ってきたという設定です。しかし、志乃は「オラ、食わねえ」と拒み、「これ、久右衛門の婆様に持っていく」と言い返します。この二人の様子を物影から久蔵がじっと見ている場面に続いて、侍たちの食事のシーン。勝四郎は、「利吉、いまは腹が一杯だ。またあとで食う」と言うと、久蔵が「いいから、お前は食え。今度は俺が残す」勝四郎は驚いて久蔵を見つめ、侍たちも不審気に久蔵を見つめます。勘兵衛「どうした? なにかわけがありそうな様子だが」そして、老婆のいる「久右衛門の家」のシーンに続きます。シナリオには《ひどい! まったく荒れ果てて、いまにも潰れそうな小屋。病みほうけた老婆が、ただ藁を敷いただけの寝床に起き上がって、その枕元に一椀の飯と汁を差し出す勝四郎と、その後ろに並んだ勘兵衛たちを拝んでいる》という場面説明があって、勘兵衛「ひどいの! 身寄りはないのか?」利吉「はい、野伏せりに・・・みんな」勘兵衛「うむ」老婆は、なにかに謝るような悲しい調子で訴えかけます。「オラ、早く死にてえだよ。早く死んで、こんな苦しみ、逃れてえだよ」と。侍たちは、じっとその老婆を見つめています。老婆「でもなあ、あの世にも、やっぱり、こんな苦しみはあるべえなあ」と語る一連のシーン、流れとしては、このエピソードが、すぐあとに続く生け捕りにした野武士を恨み骨髄の百姓たちがなぶり殺しにしようと殺到してくるのを、勘兵衛たちは、同じ侍としての同情から(せめて誇りある死に方を与えてやれと)懸命に制止しているところに久右衛門の婆様が鍬を振りかざして静かに現れるという場面です。前の場面で家族を奪われた久右衛門の婆様の惨めさと怒りを十分に知っている侍たちには、この老婆だけは制止できず、野武士に鍬が打ち下ろされるのを静観するしかないという痛切な場面でした。老婆が野武士を殺すこの場面がかなり衝撃的なので、ついこちらに目が捉われてしまいがちで、そのぶん前出の「久右衛門の小屋の場面」の印象がどうしても薄まってしまうのですが、この廣澤榮の論文「『七人の侍』のしごと」において、この小屋のシーンを撮るにあたってのエピソードの詳細が特別大きく扱われていて、そのリキが入っている分だけ、どうしても紹介せずにはいられません。それは「第4章」、「『七人の侍』で苦労したのは役者の方も同じであろう。」の一文から始まっています。そこではまず、亡くなった役者たちのことが語られます。《「なんだかまた一年兵隊にいったような気分でした」と、亡くなった加東大介がそう言っていた。加東のほか、志村喬、宮口精二、木村功、稲葉義男ももう故人になり、生き残っているのは三船敏郎、千秋実だけになった。そのほか百姓の役をやった高堂国典、左ト全、小杉義雄も亡くなった。》この論文が書かれた当時には、まだ三船敏郎も、千秋実も元気だったことが分かります。そして、村の百姓たちを演じた有名無名の俳優たちのことが語られたあとに、こんな一文が出てきます。《一人だけ俳優ではなく老人ホームのおばあさんが重要な役で出演している》と。そして語られるのが久右衛門の婆様のエピソードです。《それは台本では「久右衛門の婆さま」となっている役で、いろいろ年輩の女優さんを連れてきたが、テンノウは「みんな芝居くさくてダメだ」という。そして「本物の百姓の婆さんをつれてこい」という。そこで私が杉並区高井戸にある浴風苑という老人ホームに婆さまさがしに行った。数多い婆さまの中からこれぞというのを見つけた。骨太のがっちりした体つきで眼がぎょろっと利く。浅草寺の境内で鳩の豆売りをやっていた人でキクさんという。かなりの年輩らしいが、「年がいくつだったかもう忘れたよ」という。撮影所に連れてきて見せると一ぺんで気に入った。そして「ひとつ、仕込んでくれ」という。さあ大ヘンなことになった―この役は野武士に身寄りのすべてを殺されて一人暮らしをしている老婆で、やってきた侍たちにわが身の不遇を訴え「もう生きてる甲斐がねえ、早く死にてえ」という長い台詞がある。もう一つ、生捕りにされ村の広場に引き据えられた野武士にこの婆は「慄える手に鍬をもち、憤怒の形相で鍬を振り下ろす」というシーンもある。そこでキクさんを撮影所の近くの旅館に泊めて、私とネコ(前出、同僚の助監督)と二人がかりで特訓をはじめる。ここに至ってキクさんは漸く「活動のネタ取りのため」出演するのだと理解できる。そこで台詞を教えるが、それがなかなかのみこめない。そしてすぐ疲れてコロンと横になってしまう。仕方がないから眠気ざましに身の上ばなしを聞く。と、キクさんは東京大空襲のときB29が落す焼夷弾の炎の中で倅夫婦と別れたまま、いまだにその消息がわからないという―しめた! では劇的境遇と全く同じだ、同じなら感情移入ができる。そこで、「キクさんの気持をそのまま言えばいいんだよ」という―どうやらだんだん感じがでてきた。そして数日後にセット入りとなる。ところがキクさんは、丹精こめてボロボロにした衣裳を見てイヤだという。折角「活動」に出るのならもう少しマシな着物を着たいという。それを何とか説得してセットに入れる。疲れるからテストは私が代ってつとめ本番だけキクさんに代わる。まるでハリウッドのスタアなみである。さて、キャメラが回り出すと、キクさんは「身寄りがB29の為に殺されて」という―たちまち雷のような声がとどろく。「いったい何をしこんだのだッ!」私は狼狽してキクさんに台詞の訂正をする。ところが何べんやってもB29が出てくる。そのうちショーイダンまで飛び出してきた。なんせそう思いこんでしまったのだからどうにもならない。と、テンノウは「表情は感じが出ているからOKにしよう」といってくれた。だからこのシーンは台詞だけ三好栄子さんが吹替をやっている。さて、無事に大役を終ったキクさんは貰ったギャラに目を丸くして、「こんなにたんといただけるのなら、デパートへ行って着物でも買いたい」という。そのデパートは浅草松屋がいいという。そこで私がその買い物のおともをする。会社差しまわしのハイヤーで浅草松屋へ乗りつける。そこでキクさんはうんと安物の銘仙を取り「これがいい」という。その銘仙をしっかり抱えご機嫌で浴風苑へ帰ったが、もう一つ後日談がある。「七人の侍」の撮影が終って一年ほど後、キクさんが亡くなった。そのいまわの際に「トラという人に会いたい」という電話があったという。生憎私は別の映画で地方ロケに行っていた。帰京してから浴風苑を訪ねたら、キクさんはもう白木の位牌になっていた。その位牌の傍に「七人の侍」に出演したときのスチールが飾ってあった。あの嫌がっていたボロボロの衣裳を着た姿で―キクさんは「七人の侍」に出演したことが生涯を通じてなによりもたのしい思い出だったと、亡くなる前にそう語っていたという。》原典でこの一連のエピソードを読んだとき、この老婆のボケ振りが面白くて、その部分だけが自分の中で誇張されて、一種の「面白い引用」としての効果ばかりを考えていたのですが、こうして一連の成り行きを通して転写してみると、この論文そのものが映画「七人の侍」に関わった関係者たちが次々と鬼籍に入っていった死の影に覆われた記録=過去帖であったことに気づかされ慄然としました。いや、そもそも、この論文の当の執筆者・廣澤榮自身が既に1996年2月27日に亡くなっていることを改めてwikiで知り、おびただしく「失われつつある」進行形のうえに映画「七人の侍」の存在が保たれていることを痛感せざるを得ませんでした。果たして、映画「七人の侍」は、関係者がすべて亡くなったあとも、依然、不滅の名作としてこの地球上に永遠に残るだろうかという疑問と感慨に捉われたとき、なんの脈絡もなく不意に、カフカの短編「プロメテウス」を想起しました。ごく短いので前文、転写してみますね。《プロメテウスについて、四つの言い伝えがある。第一の言い伝えによれば、彼は神々の秘密を人間に洩らしたのでコーカサスの岩につながれた。神々は鷲をつかわし、鷲はプロメテウスの肝臓をついばんだ。しかし、ついばまれても、ついばまれても、そのつどプロメテウスの肝臓はふたたび生え出てきたという。第二の言い伝えによれば、プロメテウスは鋭いくちばしでついばまれたので苦痛にたえかね、深く深く岩にはりついた。その結果、ついには岩と一体になってしまったという。第三の言い伝えによれば、何千年もたつうちに彼の裏切りなど忘れられた。神々も忘れられ、鷲も忘れられ、プロメテウスその人も忘れられた。第四の言い伝えによれば、誰もがこんな無意味なことがらには飽きてきた。神々も飽きた。鷲も飽きた。腹の傷口さえも、あきあきしてふさがってしまった。あとには不可解な岩がのこった。言い伝えは不可解なものを解きあかそうとつとめるだろう。だが、真理をおびて始まるものは、しょせんは不可解なものとして終わらなくてはならないのだ。》(池内紀訳)ここでいう「プロメテウス」をそのまま「七人の侍」と言い換えたらどうだろうか、「永遠」の意味を語るとき、ちょっとした誘惑を感じてしまう自分好みのカフカの短編です。いずれにしても、この世にとどまりながら「忘却」によって空虚に蝕まれ「消滅」も果たしてしまうという「永遠」についての「真理」の話にほかなりません。 8月に戦争映画の放映が多いのは、「終戦記念日」があるからですが、これを契機に戦争で死んだ英霊のミタマを悼む厳粛な気持ちにならなければと思うより先に、惰性で繰り返される固定化・マンネリ化した戦争映画の放映というお約束の「企画」自体が、いつもながら随分と安直な発想だなとシラケ返り、げんなりさせられ、イマイチ厳粛な気持ちになれないでいました。だいたい、「戦争映画」とひとくちにいっても、そのスタイルや内容がさまざまであるように見えて、実は、作られ方自体は画一化されていて、迎合するにしろ反発するにしろ、「ご時勢(権力者から大衆まで)」の微妙な鼻息を窺いながら作られているという独特のクサミがどうしても鼻について、素直に見ることができませんでした。それは、たとえばサキの大戦を懐古する好戦的な映画から、人道主義を持て余したどっちつかずの中途半端な映画まで、いやいや「反戦映画」といわれるタグイの作品群においても、おしなべてそれはいえることのような気がします。だいたい「反」とはいっても権力へ擦り寄る媚態という部分ではなんら変わらない、隠微なシナを作ったオモネリの姿勢はみえみえで同質、結局それはどこまでもただの免罪符とか踏み絵でしかなく、だから一層いかがわしい印象を拭えないまま嫌悪さえもよおし、いずれにしても自分としてはこの「戦争映画」一色に染められた「戦争映画月間」というダレた季節を、どちらにも組みすることもできないまま、落しどころのない苛立ちを抱えて、どうにかやり過ごさなければならないというのが、この「8月」の毎年の過ごし方でした。もし、キューブリックやオリバー・ストーンの戦争映画を知らないで、これらの低レベルな邦画に晒され続けたとしたら、辛抱の足りない自分などは、とっくのむかしに、きれいさっぱり映画へのこだわりなど放棄できていたと思います。しかし、そんな作品群のなかにもたったひとつの例外、いわば「救い」という意味での例外的な作品というのはありました、岡本喜八の「独立愚連隊」です。「戦争」という忌避の固定観念から「アクション映画」という視座を得て切り込み、従来の硬直した贖罪と被虐趣味に隷従していたストーリーを解き放ち、自由な発想とスタイルをもって免罪符でも踏み絵でもない映画、客観的に「戦争」を別の角度から照射してそこにこそ「何もの」かを気づかせてくれることのできた作品、欺瞞に満ちた嘘八百の「深刻さ」ではなく、もちろんベタベタのお涙頂戴の「被虐趣味」なんかでもなく、むしろ「諧謔」や爽快な「誇張」によってしか表現し得ないそのスタイルによって、より「真実」に近づくことのできた映画、それが岡本喜八の「独立愚連隊」でした。日本においては本当に稀有なことですが、スタイルの発見というかたちで「作家性の発揮」を僕たちに見せ付けてくれた数少ない作品だったと思います。この作品の公開当時、作品に浴びせられた大方の批判(はっきりいって「非難」ですが)は、描き方に対する「戦争に対する不謹慎」という罵声でした。しかし、その非難は、そのまま発言の批判者自身でさえ気がつかなかっただけの(「戦争」はかく描くべきと断じ偏執した愚にもつかない囚われ)、薄汚れた日本的情緒を持て余していた従来の日本映画なら決して作りえなかった作品、優れて突出した異質な作品に対する驚愕と動揺と条件反射的に異物を排斥せずにおられない狭小で愚劣な情動の証しにすぎなかったことは、この国の映画史がとっくのむかしに証明してしまっていることでもあります。とまあ、こんな感じで今年も「独立愚連隊」でも見て、せいぜいすっきり救われようかと月間プログラムを楽しみに開いたのですが、なんと「独立愚連隊」の放映予定などどこにもアップされていませんでした。なんだよ、全然わかっちゃねえなあと心底がっかりしてしまいました。それならいったいなにがあるんだと見たところ、やっぱ派手派手のあの「日本のいちばん長い日」1967は、しっかりとアップされていました。しかし、それにしても、これはどう贔屓目にみても原田眞人作品を引き立たせるための刺身のツマみたいな扱いにすぎません、もっともそれは「よく言えば」の話なので、実のところは、コタビの岡本作品のアップは「先様を褒めるために、こちらを貶す」というまるで噛ませ犬の扱いです、今後もこんな感じで作家性の希薄な「日本のいちばん長い日」は、こんなふうにして戦争懺悔の「8月の場」に引きずり出されることになるに違いありませんが、はっきりいってこれって随分と「無礼であろう」扱いです。さんざんコケにされておきながら、いまさら「無礼であろう」もありませんが、そうとでも言わなければ貸した金をネコババしておいて空とぼけシカトを決め込むつもりのずうずうしいあの愚劣な劣等民族に分からせる方法がこれくらいしかないのですから、これもまあ致し方ありませんか。南も北も他国の財産をなにかと因縁をつけ、あるいは脅しをかけてきてこそこそと掠め取ることしか知らないコソ泥根性の恥知らずの国家という意味ではよく似ています。民族でもなんでも統一して共に破綻するという浅慮を早いところ実現させて世界をすっきりさせてほしいものです。しかし、どちらにしても作家性などなかなか込める余地のなかった超大作映画「日本のいちばん長い日」ですから、作家性不在などとそれほどカリカリする必要もありません。なにしろ、この作品を撮ってストレスをいちばん強く感じたのは岡本喜八自身で、翌年、この大作の鬱憤晴らしのような低予算作品「肉弾」1968を撮って、「日本のいちばん長い日」で撮ることのできなかったもの、自分は本当のところなにを撮りたかったのか、みたいな作品を残しました。「独立愚連隊」が当時不謹慎と非難されたように、「日本のいちばん長い日」も当時あれこれと批判されたことは記憶しています。自分の手元にも、当時の代表的な批判という評文の複写というのが手元にあるのですが、迂闊にも出展を明記しておかなかったので、今となっては、これがいつ頃のどこからの引用かを明記できません、とても残念ですが、出展不明というかたちで引用させてもらいますね。そこには、「日本のいちばん長い日」について、こんな感じで書かれていました。《シナリオが戦争を賛美しているわけではない。(この少し前に「橋本忍のシナリオはさすがだ」と褒めています)演出も太平洋戦争が愚挙だったことを否定していない。戦死者200万人、非戦闘員の死100万人との字幕と重なって、戦争の惨禍を表すスチールが映され、仲代達矢の「この同胞の血と汗と涙であがなった平和を確かめ、日本人の上に再びこのような日が訪れないことを念願する」とのナレーションで映画は終わる。これが作者の観点であり、この限りでは作者の認識は間違っていない。だが軍国主義者やファシストの他民族への加害性や侵略性を批判する視点は希薄である。最重要事項を描かずにディテールだけを切り取って描くと、真に大事なものが漏れてしまう。》なるほど、なるほど。日本の安定政権が一瞬揺らいだ間隙をついたアダ花みたいな、言ってみれば当時のアサハカな「流行」として、かつて日本が戦争を起したことによってご迷惑をおかけしたアジアの諸国民に対して徹底的に謝り倒すという「はやり」があったわけですが(そのアトサキを考えない幼稚で偽善的で無責任な放言のツケを払うために窮々としている現在です)、この評文なんかもほとんどその「ながれ」に迎合した駄文にすぎないと「うっちゃって」もいいところでしょうが、まあ、その辺は「良識」から非難もせず沈黙を守っていたところ、岡本喜八自身の論考「体験的戦争映画・試論」のなかに目からウロコの落ちるようなクダリを発見しました。「やっぱ、あったじゃ~ん」という感じでしょうか。岡本喜八は、こう書いています。《1000万円映画は論外としても、日本の映画作りは、並べて、製作費にユトリが無いのだが、戦争映画作りは特にユトリが無い。拙作の中でいわゆる大作は二本しかないのだが、「日本のいちばん長い日」では、準備中、俳優費の計算に追われ、「沖縄決戦」では、白兵戦を、彼我夫々一個分隊単位でしか撮れなかったものである。従って、現場体験から言えば、「部分で全体を・・・」、言い換えれば、「戦略的な規模を狙わず、戦術的な手法を使う」といった、素材選びと処理法の方が、より「戦争」に噛りつき易いと思う。尤も、製作費にユトリのある筈のアメリカ映画でも、超大作「史上最大の作戦」より、小品「攻撃」に、より「戦争」を感じたところを見ると、製作費の多寡にかかわりなく、「部分で全体を・・・」しか手のないほど、「戦争」という奴は、やっぱり巨大な怪物なのかも知れない。》誰がどう見たって、オールスターキャストの総花的なダレきった「史上最大の作戦」より、上官への反抗と射殺というショッキングな事件を描いた「攻撃」のほうが、より優れた作品であることは自明の理です、なにが「大状況」だよ、という感じでしょうか。 8月10日の夕刊の一面に、「水の都へ、清きお濠に」という見出しで、皇居の外堀と内堀の汚染が著しいので、玉川上水に接続して抜本的に浄化しようという案が報じられていました。記事によると現在のお濠は下水道とかにもつながっていて、夏場はとくに汚染が激しく藻や悪臭が発生するそうなので、玉川上水とつないで循環させ、浄化してお濠をきれいにしようという案だそうです。この唐突な見出しを見た当初は、何十年もほったらかしにしておいて、「なにをいまさら」という気持ちしかありませんでしたが、よく読むと、それもこれも2020年・東京オリンピックをめどにして、それ以後に具体化するということです、そうと分かると「はは~ん、なるほどね」とようやく納得することができました。まあ、こういうことも婉曲的にはですが、「オリンピック効果」のひとつといえるわけで、当然「是とすべきもの」と思いますが、かつて猥雑な東京を国家的な突貫工事によってまたたくまに高速道路網を完成させ、東海道新幹線も走らせ、驚異的な速さでカラーテレビを普及させた(これについては退位したさきの天皇のご成婚時が契機だったという説もあります)あの1964年のオリンピックのときと比べると、もはや施設やインフラ、そしてソフトの面でも完成されてしまっている観のあるいまの東京では、最早することなどごく限られてしまい、為すべきものも尽きていて、仮にもしあるとしてもせいぜい「補修」とか「修繕」くらいしか考えられないので、この「玉川上水連結」など、施策担当者が「仕事はないか」と必死に探したあげくに、やっとひねり出した「妙案」だったのかも、などと感心しながら、その一方で、それにしてもずいぶんと突飛なアイデアだなと思わずクスッと笑ってしまったほどでした。だって、お堀の水など汚れている方がむしろ重厚なくらいで風格もあっていいじゃないかと思うのですが、しかし、考えてみればあの満開の桜の散る季節、花びらが滂沱と滝のように降り注ぐ千鳥が淵の荘厳な光景を思い起こし、毎年のおびただしい落花が何年にもわたって堆積し、そのままに放置されているわけで、積り積もった堀の底は手の施しようもないくらいのヘドロの層になっていることも想像され、やはりここは玉川上水を回流させるという大鉈を振るう施策というも必要なことなのかもしれないと思えてきました。などと記事を読みながら、一人このような妄想にふけりながら、また別の思いにも捉われていました。「玉川上水」といえば、すぐに連想するのは、そこで情死をとげた太宰治のことです。つい最近の映画でも、たしか「人間失格」とか「ヴィヨンの妻」が映画化されて、太宰治の根強い人気を再認識させられた印象が鮮明に残っています、しかし、自分としては、どうしてもイマイチ好きになれない作家のひとりです。自らの「不具」(社会的不適応もそのひとつですが)をことさらに誇張し、見せびらかし、売り物にして「オレはこんなにダメな人間なのだ」と同情を誘いながら、「でも、こんなオレのことがアンタは好きなんだろう? な?」みたいな、他人に媚びへつらうような取り入り方にどうしても嫌悪が先立ち、その開き直った傲慢な卑屈さには、どうにも耐えがたいものがありました。たとえば、小説「晩年」のなか、最初の「葉」の冒頭部分などは、本気なんだか、それとも傷心をよそおって読者の感心を煽るもの惜しげなテクニックだかなんだか知りませんが、どちらにしても、とても嫌なものを感じてしまいます。こんな感じです。《死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が折り込められていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。》(「晩年」の「葉」冒頭部分)こんな感じのものなら、まだまだあります。小説「姥捨」の冒頭、小説の書き出しとしては、読者の意表をつく「そのとき、」という前後になにひとつ脈絡もなく突飛な言葉で不意に始められる(奇を衒うという意味で)とても有名な冒頭部分です。《そのとき、(原文では、この言葉を際立たせるために、すぐに改行されています)「いいの。あたしは、きちんと始末いたします。はじめから覚悟していたことなのです。ほんとうに、もう。」変わった声で呟いたので、「それはいけない。お前の覚悟というのは私にわかっている。ひとりで死んでいくつもりか、でなければ、身ひとつでやけくそに落ちてゆくか、そんなところだろうと思う。おまえには、ちゃんとした親もあれば、弟もある。私は、おまえがそんな気でいるのを、知っていながら、はいそうですかとすまして見ているわけにはゆかない。」などと、ふんべつありげなことを言っていながら、嘉七も、ふっと死にたくなった。「死のうか。一緒に死のう。神様だって許してくれる。」ふたり、厳粛に身支度をはじめた。》(「姥捨」の冒頭部分)こんなふうに書いていたら、むかし、ある酒の席で、話の勢いの成り行きから、その「太宰嫌い」を披露しなければならない局面に立たされたことを思い出しました。そのとき、たまたま隣に座っていたごく若い神経質そうな文学少女に猛烈に反発され、執拗に食って掛かられたことがありました。《あなたがいまウダウダ非難した「それ」こそが、太宰治の人間的な魅力なのだと》しかし、どのようになじられても、自分としては太宰の人格的な歪みについてはどうしても受け入れられず、とうてい理解できるものではないことを繰り返すしかありませんでしたが。まあ、そういうことがあったあとでも懲りずに太宰作品は、折りに触れて少しずつ努めて読むようにしていますが、やはり、どうしても、そして、いつまでたっても自分には太宰治(人間と作品)に馴染めないということが、ますますはっきりしただけでした、それくらいが努力した読書の成果というか、収穫といえば収穫ということになります、いわば「不毛な収穫」だったわけですが、いざこうして「不毛な収穫」などと文字にしてみると「収穫」と「不毛」とは、いかにも矛盾し相反する言葉の組み合わせであることが、いまさらながら奇妙な感じです。しかし、これが自分の実感でした。自分の「嫌悪」は、太宰の世の中に対する甘ったれた姿勢もそうですが(こうストレートにいってしまうと、またまた、揚げ足をとられて非難されそうですが)、むしろ、文体とか語り口のスタイルの方にこそあったのではないかと。そもそも太宰治に馴染めないのは、どうもあの独特の「おんな言葉」で語られる軟弱な独白口調(女性独白体小説)にあるのだと、あるとき、天啓のように気がついたのです、この「気がついた」というのは、ごくごく最近のことで(自分は硬質な文体を好むので、とくにそう感じたのかもしれません)ちょっとそのあたりのイキサツを書いてみようと思います。自分のいつもの散歩コースの重要な一部に駅前の書店をのぞくというのがあります。住んでいるところは、なにせものすごい田舎です、そこにある唯一の書店なので(一度つぶれて、いまの店は代替わりした二代目ということになります)、毎日のぞいてみるといっても昨日と今日の品揃えに特別の変化があるかもしれないという懸念などいささかも必要ありませんが、自分の日常的な散歩の定例コースにあたるので、どうしても立ち寄ってしまうという事情があるくらいです。そして、のぞく売り場というのも、おもに「小説」と「映画」のところと限られているので手間もかかりません。「映画関係」のコーナーは、スペースからいえば普通です、新宿・紀伊国屋書店の売り場(別館の方)と比べても、三分の二くらいは確保されているのではないかという、それなりの扱いになっていますが、しかし、「品揃えのセンス」からいえば比べものにならないくらいの格差を感じます。そりゃあ、あなた、それは単に購買客の資質を反映しているにすぎないよと言われてしまえば、返す言葉もありません。新宿・紀伊国屋書店の「映画本」売り場で斬新な選択の魅力的な書籍に囲まれながら、それを片っ端から読みとばし世界映画史を跳梁しつくすという快楽の時間は1~2時間くらいではとうてい満足できるものではありません、3~4時間は優に必要で、実際もそうさせてもらっていて、それこそザラにあることです(立ち読みの分際でこんなことを言うのも気が引けますが、それでも時間は足りません)、それに比べてわが町の書店の「映画本」売り場などというものは、ものの3分もあれば十分通過することが可能な腐界にすぎません。なんでこんなにも韓国人俳優やタレントの愚劣な本を律儀に揃えなきゃいけないのだ、いったいこんな愚劣なものを誰が読むんだと一瞬辺りを見回して些か憤り、この見事に低劣な品揃えに心底うんざりして店をあとにしながらも、しかし、「明日」もまたここに立ち寄ることになるわが囚われの哀れな習慣が、なんだかとても可哀想になってきました。ほんとにもう、という感じです。そんな感じで、この週末、いつもの散歩の定例コースをたどって書店に入りました。そして、いつものように「小説」の売り場をゆっくり眺めながら歩いていたとき、一冊のオレンジ色の装丁の本が目に止まりました。最近ではついぞ見かけなかった本なので、思わず手に取りました。背表紙には、大きな活字で「だれも知らぬ」と書かれています。そして、さらにその上に小さな活字で、「太宰治・女性小説セレクション」とあります。いったいこりゃあなんなんだと、ペラペラと頁をめくると、目次には、見知った太宰治の小説のタイトルが羅列されています。さらに本文をパラパラ走り読みすると、どうも収録されている作品の多くは、いままで自分が敬遠してきたあの「おんな言葉」で書かれた女々しい小説が、かなりの割合で収録されている印象です。なるほど、だから「太宰治・女性小説セレクション」なんだなと。★井原あや編・太宰治女性小説セレクション「だれも知らぬ」(春陽堂書店)2019.7.10.1刷、317頁、2700円生誕110年とあるこの本は、どうも太宰治の旧作を集めたアンソロジーのようですね。まあ、太宰治亡き今となっては、どの作品も旧作には違いありません。出版社が、出版物のアイデアに枯渇すると、苦肉の策として名前の通った作家の旧作を集めてアンソロジーを出すということは、よくあることだと耳にします。それなりの売上げがあり、安定的に投入した資金の回収がみこめるからだと思いますが、それにしても、なんでいまさら太宰治なんだと訝しく思いながら、巻末の編者(井原あや)の「解説」を読んだとき、自分の抱いていた積年の疑問が一気に氷解したのでした。この本に収録されている小説と、掲載された雑誌名・掲載年月号、そして太宰独特の意表をつき、既知の場所から突然動いているストーリーを始めるように読者の関心をダイレクトに掴み取る見事な書き出しを添えて以下に書いてみますね。☆雌に就いて「若草」1936年5月号《これは後述します》☆喝采「若草」1936年10月号《書きたくないことだけを、しのんで書き、困難と思はれたる形式だけを、選んで創り、・・・》☆あさましきもの「若草」1937年3月号《こんな話を聞いた。たばこ屋の娘で、小さく、愛くるしいのがゐた。》☆燈籠「若草」1937年10月号《言へば言ふほど、人は私を信じて呉れません。逢ふひと、逢ふひと、みんな私を警戒いたします。ただ、なつかしく、顔を見たくて訪ねていつても、なにしに来たといふやうな目つきでもつて迎へて呉れます。たまらない思ひでございます。》☆I can speak「若草」1939年2月号《くるしさは、忍従の夜。あきらめの朝。この世とは、あきらめの努めか。わびしさの堪へか。わかさ、かくて、日に虫食はれゆき、仕合せも、陋巷の内に、見つけし、となむ。》☆葉桜と魔笛「若草」1939年6月号《桜が散って、このやうに葉桜のころになれば、私は、きつと、思ひ出します。と、その老夫人は物語る。いまから三十五年まへ・・・》☆ア、秋「若草」1939年10月号《本職の詩人ともなれば、いつどんな注文があるか、わからないから、常に詩材の準備をして置くのである。》☆おしゃれ童子「婦人画報」1939年11月号《子供のころから、お洒落のやうでありました。》☆美しい兄たち「婦人画報」1940年1月号《父がなくなったときは、長兄は大学を出たばかりの二十五歳、次兄は二十三歳、三男は二十歳、私が十四歳でありました。》老ハイデルベルヒ「婦人画報」1940年3月号《八年前のことでありました。当時、私は極めて懶惰な帝国大学生でありました。一夏を、東海道三島の宿で過ごしたことがあります。》☆誰も知らぬ「若草」1940年4月号《誰も知ってはいないのですが、と四十一歳の安井夫人は少し笑って物語る、可笑しなことがございました。私が二十三歳のハルのことでありますから、もう、かれこれ二十年も昔の話でございます。》☆乞食学生「若草」1940年7月号~12月号《一つの作品を、ひどく恥かしく思ひながらも、この世の中に生きていく義務として、雑誌社に送つてしまつた後の、作家の苦悶に就いては、聡明な諸君にも、あまり、おわかりになつてゐない筈である。》☆ろまん燈籠「婦人画報」1940年12月号~1941年6月号《八年まへに亡くなった、あの有名な洋画の大家、入江新之助氏の遺家族は皆すこし変つてゐるやうである。》☆令嬢アユ「新女苑」1941年6月号《佐野君は、私の友人である。私のはうが佐野君より十一も年上なのであるが、それでも友人である。》☆恥「婦人画報」1942年1月号《菊子さん、恥をかいちやつたわよ。ひどい恥をかきました。顔から火が出る、などの形容はなまぬるい。草原をころげ廻つて、わあつと叫びたい、と言つても未だ足りない。》☆十二月八日「婦人公論」1942年2月号《けふの日記は特別に、ていねいに書いて置きませう。昭和十六年の十二月八日には日本のまづしい家庭の主婦は、どんな一日を送つたか、ちよつと書いて置きませう。もう百年ほど経つて日本が紀元二千七百年の美しいお祝ひをしてゐる頃に、私の此の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしてゐたといふことがわかつたら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。》☆律子と貞子「若草」1942年2月号《大学生、三浦憲治君は、今年の十二月に大学を卒業し、卒業と同時に故郷へ帰り、徴兵検査を受けた。極度の近視眼のため、丙種でした、恥ずかしい気がします、と私の家に遊びに来て報告した。》☆雪の夜の話「少女の友」1944年5月号《あの日、朝から、雪が降つてゐたわね。もうせんから、とりかかつてゐたおツルちゃん(姪)のモンペが出来上がつたので、あの日、学校の帰り、それをとどけに中野の叔母さんのうちに寄つたの。》☆貨幣「婦人朝日」1946年2月号《私は、七七八五一号の百円紙幣です。あなたの財布の中の百円紙幣をちよつと調べてみて下さいまし。或るいは私はその中にはひつてゐるのかも知れません。もう私は、くたくたに疲れて、自分がいま誰の懐の中にゐるのやら、或るいは屑籠の中にでもはふり込まれてゐるのやら、さつぱり見当も附かなくなりました。》リストの中でいちばん掲載の多い雑誌「若草」について、編者は「右に挙げた一覧のうち、「若草」という雑誌については、ここで少し触れておきたい」と、とくに解説を加えています。《「若草」は、宝文館の「令女界」の姉妹雑誌として刊行された文芸雑誌である。その後、次第に男性読者・投書家も増えていくのだが、たとえば「雌に就いて」が掲載された前後の号には、「令女界でもよくみかけました」、「令女はサヨナラなさったの?」というように「令女界」や少女雑誌を経て「若草」にたどり着いたという読者の声もあり、創刊時の性格も踏まえて今回ここに収録した。》そして、太宰治もこのリストの一番最初にあげられた小説「雌について」の冒頭で、「若草」という雑誌に小説を掲載するについて、言い訳がましくこんな書き出しで始めています。《その若草という雑誌に、老い疲れたる小説を発表するのは、いたずらに、奇を求めての仕業でもなければ、読者へ無関心であるということへの証明でもない。このような小説もまた若い読者たちによろこばれるのだと思っているからである。私は、いまの世の中の若い読者たちが、案外に老人であることを知っている。こんな小説くらい、なんの苦もなく受け入れてくれるだろう。これは、希望を失った人たちの読む小説である。》なるほど、なるほど。この本に収録されている太宰治の「女性小説」といわれる作品が、そもそも女性読者を想定したこうした女性文芸雑誌に合うように努めて書かれたのだということがよく分かりました。そうですか、はじめて知りました、そういうことなら了解できますよね。そして、思えばそれは商業誌としてならごく当然の話ですよね。注文のあった雑誌社の方針や当の雑誌の傾向に合わせて、それなりの作品を太宰は書こうとしたのだと思います。原稿料で食べていかなければならない以上、誰しもそれは「継続的にお仕事をもらうため」には、あるていど当然の判断だと思います。作家は、なにも書きたいものだけを書いていけるわけではなく、発注者の意向をできるだけ忖度して、自分の考え方と先様の要望との兼ね合いのなかで、作品を書くことがプロの作家というものなのだと。むかし、酒の席で年端のいかない文学少女と太宰文学をめぐって大人気なく言い争うなど、最初から無益なことだったことが、やっとこれで分かりました。太宰が女性向けに書いた小説を若き女性がまっすぐに受け取り理解したそのことに関して、場外にいるにすぎない大人の部外者がなにもとやかく言う必要も、そしてその資格もなかっただと。「軟弱な文学」からも、「硬派な文学」からも究極的に受け取る本質というものはきっとただひとつか、あるいは大差なくて、ただそこにあるのは、語り口調やスタイルの違いがあるだけのはなしで、なにもむきになって目くじらを立てることもなかったのかもしれません。なんかこう書いてみると、太宰治を最初から予断を持って貶してばかりいたみたいですか、決してそんなことはありません。一時流行のように新潮社や講談社や中央公論、そして文芸春秋社や集英社が、競って出していた「日本文学全集」のたぐいの「太宰治集」からでは、とうてい読むことができなかった作品群(作品の格としてインパクト的に弱く優先順位が劣っていたということはあったかもしれませんが)がこうして読むことができたということは、やはり収穫だったと思います。今回は、太宰治のストーリー・テラーとしての多才ぶり・巧みな構成力にとりわけ感銘を受けたという一席でした。なんだよ、ほめてんじゃん。 BS放送で小津作品「東京暮色」を放映していたので、本当に久しぶりに、じっくりとこの作品を鑑賞することができました。しかし、このように簡単に「じっくりと鑑賞することができた」などと言葉にしてしまうと、いままで自分がこの作品に対して抱いていた「気持ち」とか「印象」からは、ずいぶんと隔たりのある言い方になってしまうことに気づかされます。あえて、「じっくりと鑑賞することができた」というなら、正確にはそれは、「久しぶり」ではなくて、むしろ「初めて」のことと言うべきなのではないかと。「東京暮色」は、その「救いがたい深刻さ」と「陰々滅々さ」において、多くの小津作品とは明らかに一線を画し、というか、他を圧して余りある作品ということができます。多くの小津作品においてなら、たとえ徹底的な絶望や苦々しい諦念が描かれていたとしても、それでも、そのラストでは、必ずや微かな希望もまた同時に描き込むのを忘れることなく、本編で痛切に描かれている深刻さの割には、鑑賞後の印象はさほどでもなくて、たとえば「救いがたい深刻さ」や「陰々滅々さ」の代表格のようにいわれるあの「風の中の牝鶏」においてさえ、生活苦からやむなく売春に走った妻の一時の過ちを夫が徹底的に責め苛み(戦地に行っていた夫は、自分が不在のために逼迫した家族に何も為しえなかったという責任や負い目も当然あったと思います)お互いを傷つけずにはおられないという夫婦の壮絶な葛藤が描かれたあとの荒廃で、「これでやっと俺たちも、これからどうにか生きていけそうだ」と確認し合い抱擁するというラスト(贖罪感)が描かれていたことを考えれば、やはり深い部分で僕たちは「救い」を感じることができたのだと思います。しかし、この「東京暮色」においてだけは、この最後の救いすら許されているとは、どうしても思えません。どこを探してもこの作品には「そんなもの」は、最初からないのです。次女(有馬稲子)を事故で亡くし、一時同居していた長女(原節子)も夫の元へ帰り、すべてを失った父・周吉は、一人きりの孤独のなかで生きていかねばならない姿がラストで素っ気無く描かれているだけです。なるほど、なるほど、これがまさに、自分が、《「久しぶり」ではなくて、むしろ「初めて」》と感じた、つまり長い間この作品を事実上「敬遠」してきたという本当の理由だったのだと思い至りました。思えば、小津作品に描かれている人物たちに対して、そのラストにおいて微かにではあっても「救い」を感じられたのは、その絶望や失意の一端で、「しかし、これでも自分たちは、まだまだ幸せな方なのだ」とか「これでどうにか生きていけそうだ」と思い直す部分がわずかに残されていて、その多様性こそが日常生活を生きる庶民のせめてもの才覚であり姿でもあること、母親の死に直面し、深い悲しみに動揺しながらも同時に喪服の心配ができるという、以前の自分なら「失笑」をさそわれるという反応しかできなかったもの、その矛盾を生きる人間の「なにものか」が、この世を生き抜いていく庶民の処世であり活力であり「救い」であることに気づかされたということなのかもしれません。「風の中の牝鶏」にあって、「東京暮色」に欠落しているもの、お互いが、お互いを決して許そうとしない家族のこの頑なな緊張関係が、自分が長いあいだ抱いてきた「東京暮色」への違和感であることにようやく気がつきました。しかし、では何故よりにもよってこの作品にだけは、小津監督は「微かな救い」を織り込もうとしなかったのか、そんなふうに考えていたとき、今年の四月に出た「小津安二郎大全」(朝日新聞出版)の中にも「東京暮色」を製作したときの当時の状況の記述があるので、かいつまんで書いてみますね。《1956年8月22日、骨髄性白血病で入院した溝口健二を京都府立病院に見舞った。これが最後の別れとなり、24日に溝口は亡くなった。58歳だった。当時としては特別早い死ではない。2年前には同じく交友のあった同年代の井上金太郎監督も亡くなっている。9月から再び蓼科で過ごす。土地も人々も気に入り、小津も別荘を借り受けた。そこを「無藝荘」と命名し、野田と「東京暮色」を執筆開始した。「彼岸花」を除いて、以降の作品は、蓼科で執筆することになる。執筆中は毎日のように酒を飲んだが、酔った小津は「カチューシャ」「千葉心中」「不如帰」「婦系図」などを歌い踊った。ジョン・フォード「駅馬車」のモノマネを披露することもあったという。11月末、「東京暮色」を脱稿した。「東京暮色」は、小津監督最後の白黒作品である。画面の調子は暗く、悲劇的な内容だが、カラー作品が増えている当時にあって、小津監督は白黒でしか表現できない深みのある作品を撮ろうとした。「晩春」以来共同で脚本を務めてきた野田高梧とは物語の内容をめぐって対立し、完成した作品にも批判的だった。役を演じる俳優をあらかじめ決めて脚本を書く小津だが、想定していた役者に出演を打診した結果、ほぼ全員が想定通り決定したが、想定と異なる配役があった。ひとりは父親役に考えていた山村聰で、舞台出演の時期と重なったため出演不可となり、代わりに刑事役の予定だった笠智衆が父親を演じることになった。また、主演の次女役には岸恵子を考えていたが、彼女が他作出演や仏国のイヴ・シャンピ監督(仏)との結婚の予定があって都合がつかず、こちらも出演不可となった。小津は「早春」で岸を大変気に入っており、「俺がひとりの女優のために六ヶ月もかけて書いたシナリオなんだ。これは、君のために書いたんだ。君なんかよりもいい女優はたくさんいる。でも、これは岸恵子じゃなきゃできない役なんだ」と伝えたといわれる(浜野保樹「小津安二郎」)。しかしその調整はつかず、次女役は結局有馬稲子が演じることになった。この頃の役者は皆喜んで小津作品に出演することを希望し配役には困らなかったという状況下では、これはたいへん異例のことだった。当然、キャスティングの段階で出鼻をくじかれた形になった小津監督に、なんらかの失望とダメージがあったことは否めない。作品の下敷きになったのは、前作「早春」でも広告が写り込んでいたエリア・カザン監督の「エデンの東」1955である。小津はこの作品にたいへん入れ込んでいた。偉大な父と、死んだと聞かされていた母、父親からの愛情を切望する次男などの人物設定に類似点がある。自分の境遇を下の子が苦しむ点、母親の働いている場所が社会的地位の低いいかがわしい場所・娼館や麻雀屋という点も同じだが、聖書を基調にしたこの欧米的なストーリーを日本の状況に強引に当て嵌めようとした設定には当然に無理があり、違和感は免れなかった。時はまさに石原慎太郎が衝撃的な小説「太陽の季節」を書いて太陽族が流行し、映画化もされようかという時代。「大船調」を守っていた松竹の興行成績が、新作二本立てに踏み切って時代劇ブームを起した東映に抜かれ、二位に転落し、翌年には大映にも抜かれて、翌々年には五位に凋落した。大船調を守り続ける松竹の方針に批判が高まり始めたという時代である。1957年1月、撮影開始。小津は「いままでは劇的なものは避けて、なんでもないものの積み重ねで映画を作ってきたが、今度は僕のものでは戦後初めてドラマチックな作品となろう。芝居を逃げずに、まともに芝居にぶつかるという作り方をしようと思っている。話の仕組み自体はメロドラマ的なものだが、メロドラマになるもならないも芝居の押し方次第だ。近頃は、大船調批判が厳しいようだが、正調の大船調とはこれだということを、この作品で示してみようと思っている」と語り、作品への意欲を示した。脚本執筆では、野田高梧が反対する部分もあったが、小津は押し通した。助監督によると撮影時、「そんなものが撮れるか、それは野田が勝手に書いたんだ」と小津がめずらしく声を荒げることもあったという。大幅に撮影は遅れ、小津組にはめずらしく、夜中まで撮影が続くこともあった。4月、「東京暮色」が公開された。物語も画面の調子も暗い作品となったが、「この次に撮る作品も、やはりドラマチックなものにする予定です」と語った。「東京暮色」は、小津監督が力を入れた作品だったが、批評家や若者から小津は時代遅れだとの批判があがり、キネマ旬報ベストテンでも19位という結果に終わる。それを知った小津は、「俺は19位だから」と周囲に自虐的に語った。野田ものちに、リアルに現実を表現することは無意味だとこの作品を批判した。のちに小津の脚本全集を出す井上和男からも「若者のヴィヴィッドな動きは、フィックスのローポジでは掴めない」「今の若い女子のにとって、中絶なんて非行でも無軌道でもない、日常茶飯事だ」などと批判された。生々しい不倫という情事を、女優・岸恵子が演じる軽妙さによって、現実の生臭さと深刻さとを免れた「早春」のあの独特な雰囲気をかもしだそうとした「東京暮色」も、想定していた主演女優を失い、「太陽族ブーム」のあおりを受けて、むき出しの痛切なリアルしか表出できなかったことが、負の成果としての「東京暮色」だったのかもしれないなという思いがきざしてきました。大人たち=世間と家族の冷ややかな無関心と悪意によって自滅していく「次女・杉山明子」役を、はたして(あるいは「やはり」)、岸恵子以外には演ずることができなかったのかどうか、監督の意に添わぬまま主演に抜擢された有馬稲子と、フランスの三流監督との愚にもつかない結婚のために小津安二郎作品の主演女優の座を逃した岸恵子、この二大女優がいずれもいまだ存命中だとしても、もはやどうすることもできません。(1957松竹大船撮影所)企画・山内静夫、監督・小津安二郎、監督助手・山本浩三、脚本・野田高梧、小津安二郎、撮影・厚田雄春、撮影助手・川又昂、音楽・斎藤高順、美術・浜田辰雄、装置・高橋利男、装飾・守谷節太郎、録音・妹尾芳三郎、録音助手・岸本真一、照明・青松明、照明助手・佐藤勇、編集・浜村義康、編集助手・鵜沢克巳、衣裳・長島勇治、現像・林龍次、進行・清水富二、出演・原節子(沼田孝子)、有馬稲子(杉山明子)、笠智衆(杉山周吉)、山田五十鈴(相馬喜久子)、高橋貞二(川口登)、田浦正巳(木村憲二)、杉村春子(文学座)(竹内重子)、山村聰(関口積)、信欣三(民芸)(沼田康雄)、藤原釜足(東宝)(下村義平)、中村伸郎(文学座)(相馬栄)、宮口精二(文学座)(刑事和田)、須賀不二夫(富田三郎)、浦辺粂子(大映)(「小松」の女主人)、三好栄子(東宝)(女医笠原)、田中春男(東宝)(「小松」の客)、山本和子(前川やす子)、長岡輝子(文学座)(家政婦富沢)、櫻むつ子(バアの女給)、増田順二(バアの客)、山田好二(警官)、長谷部朋香(松下昌太郎)、島村俊雄(「お多福」のおやじ)、森教子(堀田道子)、石井克二(菅井の店の店員)、菅原通済(特別出演)(菅井の旦那)、山吉鴻作(銀行の重役)、川口のぶ(給士)、空伸子(給士)、伊久美愛子(うなぎ屋の少女)、城谷皓二(麻雀屋の客)、井上正彦(麻雀屋の客)、末永功(麻雀屋の客)、秩父晴子(義平の細君)、石山龍嗣(深夜喫茶の客)、佐原康(深夜喫茶の客)、篠山正子(深夜喫茶の客)、高木信夫(深夜喫茶の客)、中村はるえ(深夜喫茶の客)、寺岡孝二(深夜喫茶の客)、谷崎純(取調べを受ける中老の男)、今井健太郎(受付の警官)、宮幸子(笠原医院の女患者)、新島勉(バアの客)、朝海日出男(バアの客)、鬼笑介(バアの客)、千村洋子(町の医院の看護婦)、 1957.04.30 15巻 3,841m 140分 白黒 《以下は、挫折し廃棄した草稿です》この「東京暮色」には、かつて母親がふたりの娘を置き去りにして駆け落ちし、家を出てしまったという一家の「その後の惨憺たる物語」が描かれています。「現代」においての小津作品に対する僕たちの大まかな印象を、無理やりひとことで括ってしまうとすれば、(自分だけかもしれませんが)やはり「明るさ」ということになると思うので、この「東京暮色」という作品の暗さはいっそう際立っていて、その意味で「例外的な作品」ということは可能なのかもしれません。自分など、その「明るさ」が過ぎて見えてしまい、むしろずいぶんと虚無的に感じてしまう部分もあったりするのですが。しかし、残念ながら(というか、むしろここでは謙虚に、「寡聞にして」とでも言うべきでしょうか)、いまに至るまで、この作品が小津作品群の中でどう例外的なのかと表明した評文というものに接した記憶がなかったので、手元の資料に二、三あたって確認してみることにしました。最初に見たガイドブックには、こう記されていました。《小津監督は、それぞれの物言わぬ肩や背中に生きることの悲哀をずっしりと感じさせ、寂莫の人生模様を、甘い感傷に溺れることなく、みごとに織り上げてみせた。》なるほど、なるほど、なんかコレ、やたらと褒めてるじゃないですか。こちらの家庭の事情で、最初から「例外的」という負の評価に照応するものだけを見つけ出し、歪んだ先入観を満足させられればいいやくらいの身勝手なものだったので、まず受けたこの「意外さ」の不意打ちは、考えればむしろ常識的で、正義にかなった正統な評価ということができるかもしれません。いつの時代にも「偏見」を振り戻し正してくれる「常識」というものは、やはり存在しているものなのだなとヒトリ感じ入った次第です。 村上春樹が、フィッツジェラルドの翻訳にこだわっていることを知ったとき、「そうだったのか」と思い当たるものがありました。あのシニカルで乾いた、独特の理屈っぽい村上春樹の文体は、自分にとって、そこがまたたまらない魅力を感じるところだったのですが、それが1920年代(~1930年代も)のフィッツジェラルドの古風な文体の影響だったと知ったときの意外は、なかなか受け入れられるものではありませんでした。しかし、今回出版された村上春樹編訳の「ある作家の夕刻」(フィッツジェラルド後期作品集というサブタイトルがついています)を読んだとき、影響を受けたのはむしろ「文体」ではなくて、その文体に染み込んでいる晩年のフィッツジェラルドの「絶望感」だったりとか「蒼ざめた諦念」や「虚無の自嘲」、もうどうだってかまわないとでもいうような「投げやりさ」などにあるのだなと、へんに納得するものがありました。村上春樹が、ヘミングウェイではなく、むしろフィッツジェラルドに魅せられたことが、なんだかとても好ましく感じました、あえていえば無防備な優しさに対するみたいな「救い」だったかもしれません。富も名声も、そして自尊心までも充たした輝かしい人生の果てで、さらに虚栄心を満たすかような自殺で締めくくったヘミングウェイに対して、世間から忘れ去られ冷笑を浴びせられながら惨憺たる晩年を不運のなかで過ごしながら、ヨワイ40歳という若さで、まるで老いた憐れなアル中みたいに(事実まさにそのとおりだったのですが)無様に野たれ死んだフィッツジェラルドに魅せられたということに、たまらないシンパシイを感じたのだと思います。この「ある作家の夕刻」の帯には、このようなコピーが記されていました。「巧みに、軽妙に、時には、早すぎる死を予期したかのように―翳りのなかにあって揺るぎなく美しい1930年代の名品群」そして「華やかな喧騒の日々から一転、三十代半ばにして迎えた不遇の時代。妻ゼルダの失調、経済的逼迫、アルコール依存、作家としての窮状さえも、フィッツジェラルドは見事に小説に結実させていった。」この本に収載されている小説は、「異国の旅人」「ひとの犯す過ち」「クレイジーサンデー」「風の中の家族」「ある作家の午後」「アルコールに溺れて」「フィネガンの借金」「失われた十年」の八編、エッセイは、「私の失われた都市」「壊れる」「貼り合わせる」「取り扱い注意」「若き日の成功」の五編で、これらのなかには、今回新たに訳し直されたものもあるということです。のちのちの自分の「覚え」のために解説を抜書きしました。★「異国の旅人」(「サタデー・イヴニング・ポスト」誌1930.10.11号)小扉の解説では、このように要約されています。《アメリカを離れ、1920年代のヨーロッパを自由に優雅に旅行する裕福な若い夫婦。ハンサムな夫と、美しい妻。イノセントで幸福な彼らの身に、異国の地でいったいどんなことが起こったのか? 来るべき長編小説「夜はやさし」1934の先触れとなるような、静かで巧妙な不穏さを秘めた物語だ。主人公たちのモデルになっているのは、もちろんスコットとゼルダだが、ヨーロッパにおける二人の友人、富裕なジェラルド・マーフィー夫妻の姿もそこに混じり込んでいる。そのへんもまた「夜はやさし」と同じだ。セーヌ川のボート上のパーティーも実際にマーフィー夫妻が主催したもので、その新奇な趣向と優雅さでパリ中の話題を呼んだという。》旅行者として訪れたヨーロッパの地で若きアメリカ人夫妻が取り澄ましたイギリス人たちとのなかで「ささやかなトラブル」に巻き込まれ、そのとき異邦人としての違和感と孤立感とを描いた作品ですが、自分の印象では、「伝統」とか「身分」とかに対する劣等感ではなく、金にあかせて「洗練」をいかに身にまとおうとも、そうした付け焼刃を「都会人(イギリス人)」からすべて見透かされ冷笑を浴び罵られた「田舎者(アメリカ人)」の屈辱感が描かれているのではないかと感じました。ゼルダの実際の写真を見たときの印象は、自分にはいかにもアメリカの田舎娘だなという印象だったことも拭えません。そして、この感覚は、やがて零落したフィッツジェラルドが、アメリカでしたたかに味わうことになった冷ややかな「軽侮」と「冷笑」と同じものではなかったのだろうかと思いました。★「ひとの犯す過ち」(「サタデー・イヴニング・ポスト」誌1930.1.18号)小扉の解説では、このように要約されています。《原題のTwo Wrongsは、人の犯す過ちに、過ちをもって対しても、決してよい結果は生まないという意味だ。ここでは夫婦の間の危機が描かれているが、それは現実にフィッツジェラルド夫妻の身に起こったことだ。スコットの浮気と、ゼルダの不貞。一種の「楽園追放」とも言うべき出来事であり、それはスコットの飲酒を促進し、ゼルダの精神を無残に蝕んでいくことになる。この頃からフィッツジェラルドの書く小説は否応なく、後戻りのきかない絶望を、そして深い傷を負った心からにじみ出る独特の美しさを含むようになる。それは「夜はやさし」という長編小説の中に見事に結晶していくわけだが。》この小説のタイトル「ひとの犯す過ち」が、とても気に入って、この小文のタイトルに(ちゃっかり)採用させてもらいました。ここに描かれているのが「自己顕示欲」とか薄っぺらな「うぬぼれ」であったとしても、さらにその奥には、どのようにしても他人とコミュニケーションがとれない孤絶と苛立ちがあって、自分のその不全と無力感に対して「どうしてなんだ」と問い続けるフィッツジェラルドの素直な愚かさに、処世巧者のヘミングウエイなどは、たまらない苛立ちを感じたのだなと思いました。苛立ちのあまり「罵倒のひとこと」くらい発することを抑えられなかったかもしれません。★「クレイジー・サンデー」(「アメリカン・マーキュリー」誌1932.10号)小扉の解説では、このように要約されています。《現在ではフィッツジェラルドの傑作短編のひとつとされているが、当時は十を超す数の雑誌に掲載を断られ、「アメリカン・マーキュリー」というあまりぱっとしない雑誌でようやく日の目を見た。フィッツジェラルドが筋の改変と短縮を、断固拒否したためだった。この作品には、フィッツジェラルドが1930年代初めにハリウッドで仕事をしているときに経験した幾つかの出来事が、材料として用いられている。フィッツジェラルドは、女優ノーマ・シアラーと、その夫である映画界の大物アーヴィング・タルヴァーグの主催するパーティーで、実際に主人公と同じような失敗を犯したといわれている。抑えようのない自己顕示欲が、この人の個人的な泣きどころだった。》★「風の中の家族」 (「サタデー・イヴニング・ポスト」誌1932.6.4号)小扉の解説では、このように要約されています。《竜巻に巻き込まれた南部の田舎町、才能と学識に恵まれながらも、なぜかアルコール依存症で人生を誤ってしまった医師。その外科医の姿は「夜はやさし」の主人公、ディック・ダイヴァー医師の辿った運命を思い起こさせる。なんといっても、巨大な竜巻の描写が実に見事だ。ジョゼフ・コンラッドの名作「颱風」における嵐の描写を彷彿させる。自然の圧倒的な暴力をリアルに描きながら、視線がどこまでも精密で、大げさにぶれることがない。僕(村上春樹です)は高校生のときにこの作品に出会って、その筆力に深く感心したことを記憶している。そういう意味でも個人的に好きな作品だ。今回ようやく翻訳することができて、嬉しかった。》★「ある作家の午後」(「エスクァイア」誌1936.8号)小扉の解説では、このように要約されています。《この作品を書いた当時、フィッツジェラルドは娘のスコッティーと二人で、ボルティモア市内のアパートメントに住んでいた。精神を病んだゼルダが当地の病院に入っていたためだ。仕事は思うように進まず、体調は優れず、多額の借金を抱えていた。商業誌は彼に、むかしと同じような洒落た都会風恋愛小説を求めていたが、苦境にある今の彼には、そんなお気楽な小説を書こうという気はとても起きない。そのギャップが彼を悩ませていた。そのような薄暗い日常を、フィッツジェラルドは「私小説」的に淡々と描写していく。体裁はあくまでフィクションだが、そこに描かれた心情はほとんどフィッツジェラルド自身のものだろう。そのとき彼はまだ四十歳にもなっていないのだが。》★「アルコールに溺れて」 (「エスクァイア」誌1937.2号)小扉の解説では、このように要約されています。《いまから四十年近く前に僕(村上春樹)は、この作品を「アルコールの中で」という訳題で訳出したことがある。ずいぶん昔のことなので、今回改めて訳し直した。この小説の舞台となった街の名は明かされていないが、バスが人種別の席になっているところを見ると、南部であることが分かる。たぶん彼が静養していたサウス・カロライナ州アッシュヴィルではないかと思われる。彼はそのホテルで滞在し、なんとかアルコール依存症から立ち直ろうと苦闘していた。リアルで暗い内容の話であり、普通の商業誌ならまず引き受けそうもないが、「エスクァイア」の編集長アーノルドギングリッチは、フィッツジェラルドの信奉者であり、その作品を進んで掲載することで、晩年の彼を精神的に、経済的に支えた。》★「フィネガンの借金」 (「エスクァイア」誌1938.1号)小扉の解説では、このように要約されています。《一種のユーモア小説と呼ぶべきなのだろうか。借金で首の廻らない自らの生活を、フィクションの形で戯画化している。どんなことだって片っ端から小説の材料にしてしまう作家フィッツジェラルドのタフさ(貪欲さ)に、改めて感心させられることになる。そしてまた、彼が採用している小説スタイルの驚くべき多彩さにも。どんなスタイルで書いても、この人の文章はうまい。原文の巧妙にもってまわったユーモアの感覚が、うまく日本語に移し変えられたいたら嬉しいのだが。スクリプナー社の編集長マックスウェル・パーキンズと、文芸エージェントのハロルド・オーバーが、明らかに登場人物のモデルになっているわけだが、二人はこの作品を読んでおそらく頭を抱えたに違いない。あるいはただ苦笑したか・・・。》★「失われた十年」 (「エスクァイア」誌1939.12号)小扉の解説では、このように要約されています。《これも「フィネガンの借金」と同じように自らの置かれた逼迫した状況を、フィクションとして戯画化した作品だ。駆け出し編集者の若者らしいイノセントな目を通して、ひとりの「謎の人物」が語られる。その人物が、この十年間に彼のたどってきた道のりが、少しずつ、あくまで曖昧にではあるけれど、読者にも示唆されていく。とても軽妙な文体で、短く軽い作品として仕上がっているのだが、そこで示されている内容には、深い絶望と、失われてしまったものに対する憧憬のようなものがうかがえる。フィッツジェラルドの「文章芸」を愉しむための小さなショーケースとなっている。》★「私の失われた都市」小扉の解説では、このように解説されています。《1932年7月に執筆されたが、発表されたのは死後のことだった。この作品も「アルコールに溺れて」と同じく、40年近く前に訳出したのだが、(そのときのタイトルは「マイ・ロスト・シティ」)、今回新しく訳し直した。個人的に好きな作品なので、少しでもよりこなれた、より正確な訳にしたかった。フィッツジェラルドはここで、ニューヨークというひとつの都市を軸として、自分の人生を語る。当時の彼はヨーロッパから引き上げてきたばかりで、妻ゼルダは精神を病み、入院と退院を繰り返していた。アメリカは暗い不況時代を迎え、20年代の浮かれ騒ぎはもう過去のものとなり、フィッツジェラルドの小説スタイルも時代遅れなものと見なされていた。しかし、その都市と自らを語る筆致は精密で逞しく、またリリカルだ。彼は頭ではなく、ペン先で深く考えをめぐらせているように思える。文章の説得力はおそらくそこから生まれてくるのだろう。》★「壊れる」「貼り合わせる」「取り扱い注意」(「エスクァイア」誌1936.2.3.4号)小扉の解説では、このように解説されています。《この三篇のエッセイを引き受けて掲載しただけでも、「エスクァイア」の編集長アーノルド・ギングリッチの功績は賞賛されるべきだ。僕(村上春樹)はこの三篇のエッセイが個人的に大好きで、昔から何度も読み返してきた。自分でも訳したかったのだが、それはもっと年齢を重ねてからの方がいいだろうと思って、今まで手を出さずに大事にとってきた。でもまあそろそろ良い頃合いではないかと思いなし、本書のために訳出した。僕(村上春樹)はもちろんフィッツジェラルドの小説を愛好しているが、彼の小説から何か具体的な、技術的な影響を受けたかというと、それはあまりないと思う。精神的な影響を受けたということはあっても・・・。しかしエッセイに関しては、ある程度具体的な影響を受けてきたかもしれない。長いエッセイを書くときには、僕(村上春樹)はいつもこの「壊れる三部作」と「私の失われた都市」を頭に思い浮かべるようにしているから。ヘミングウェイに「女々しい」と罵られたこのエッセイの美しさを、そしてそこに隠された芯の強さを、皆さんにも味わっていただけたらと思う。》実は、すこし前にBSでジョン・フォードの「タバコ・ロード」1941を見てそのハチャメチャぶりに驚いたことがありました。あの「これでもか」というアメリカ南部の農民の愚かさのキワミのような描き方には、心底うんざりさせられるものがあったのですが、しかし、逆に、あの飾り気のない人間の活力を凝視し、その奥にあるものを描き出すことのできるチカラこそ「アメリカ文学」の魅力であり真髄なのかもしれないと感じた部分もありました。さらに加えて、「怒りの葡萄」や「わが谷は緑なりき」に続く作品ということを知って、前の二作からジョン・フォードが「社会主義者」の傾向があるのかという噂を払拭し、「アメリカ文学」の信奉者であることの流れの中にある作品であることも知りました。あ、いつものことながら軽薄に思い立って、さっそく「計画と挫折を前提にしたような読書目標」として「安直・アメリカ文学リスト」を急ごしらえしてみました。これをどこまで読めるのかは分かりませんが、こうしてリストを作ること自体の意義というものだって別にないわけじゃありません。でも、これってやっぱ「計画フェチ」とでもいうのでしょうか。以下は、時系列など無視した「五十音順」のアメリカ文学のリストです。☆アーサー・ミラー『世界の創造とその他のこと』『セースルマンの死』『るつぼ』『橋からのながめ』☆アースキン・コールドウェル『タバコ・ロード』『神に捧げた土地』☆アーネスト・ヘミングウェイ『誰がために鐘はなる』『日はまた昇る』『武器よさらば』『老人と海』『移動祝祭日』『海流のなかの島々』☆アリス・ウォーカー『カラーパープル』『メリデ ィアン』☆アレックス・ヘイリー『ルーツ』。☆アレン・ギンズバーク詩集『吠える』『キャディシュ』『変化』『アメリカの夜』☆アン・ビーティ『ラヴ・オールウェイズ』☆アン・ブラッドストリート『第十番目の詩神』☆イシュメル・リード『自由な葬儀人足』☆ウィリアム・インジ『帰れ,愛しのシバ』『バス・ストップ』☆ウィリアム・エラリー・チャニング☆ウィリアム・カルロス・ウィリアムズ『ペイターソン』☆ウィリアム・カレン・ブライア ント詩集『ブライアント詩作集』「死生観」☆ウィリアム・H・ギャス 『アメリカの果てに』☆ウィリアム・サロイヤン『空中ブ ランコに乗る勇敢な若者』『我が名はアラム』☆ウィリアム・スタイロン『闇の中に横たわりて』。 ☆ウィリアム・ディーン・ハウェルズ『サイラス・ラバムの良心』☆ウィリアム・バロウズ 『裸のランチ』☆ウィリアム・フォークナー『アブサロム,アブサロム』『サートリス』『響きと怒り』☆ウィリアム・ブラッドフォード『ブリマス植民地』☆ウォーレス・スティーブンス詩集『ハルモニューム』☆ウォルト・ホイットマン詩集『草の葉』☆ウラジミール・ナボコフ『ロリータ』『アーダ』☆エイミ・タン『ジョイ・ラック・クラブ』。 ☆エズラ・パウンド『版画』『詩篇(カントーズ)』☆エドガー・アラン・ポウ短編『黒猫』『黄金虫』『アーサー・ゴードン・ビム』『アナベル・リー』『ユリイカ』☆エドガー・L・ドクトロウ『ニューヨーク万国博覧会』『ビリー・バスゲイト』など。☆エドガー・リー・マスターズ『スプーン・リヴァー・アンソロジー』☆エドゥイン・アーリントン・ロビンソン『ザ・マン・アゲインスト・ザ・スカイ』☆エドワード・アルビー『ヴァージニア・ウルフなんか怖くない』☆エドワード・オルビー『海辺の風景』 。☆T.S.エリオット『荒地』『四つの四重奏』☆エリザベス・ビショップ『詩集―北と南,冷たい春』☆エルマー・ライス『街の風景』『計算機』など。☆カースン・マッカラーズ『心は孤独な狩人』『結婚式のメンバー』など。☆カート・ヴォネガット『チャンピオンたちの朝食』『青ひげ』『母なる夜』『ローズウォーター氏に神の祝福を』『 殺場 5号』 ☆E.E.カミングズ詩集『チューリブス・シムニーズ』☆クリフォード・オデッド『レフティを待ちつ つ』『月へのロケット』☆ゲィリー・スナイダー『亀の島』。☆ケン・キージー『カッコウの巣』☆コットン・マザー『アメリカにおけるキリストの大いなる御業ニューイングランド教会史』☆サミュエル・シューアル『日記』☆ジェームス D.サリンジャー『ライ麦畑で捕まえて』『フラニーとズーイ』『大工たちよ,屋根の梁 を高く上げよ,シーモア・序章』☆ジェイムズ・ジョーンズ『地上より永遠 に』。☆ジェイムス・T・ファレル『若きロニガン』『審判の日』☆ジェイムズ・フェニモア・クーパー 革脚絆物語―『鹿猟師』『モヒカン賊最後の砦』『道を開く者』『開拓者』『大草原』☆ジェイムズ・ボールドウィン『山に登りて告げよ』『ジョバンニの部屋』『もう一つの国』『チャーリイ氏の ためのブルース』☆ジェイムス・ミッチナー『トコリの橋」☆シドニー・キングスレイ『白衣の人々』『デッド・エンド』☆シャーウッド・アンダソン『オハイオ州ワインズバーグ』『貧乏白人』☆ジャック・ケルアック『路上』『禅ヒッピー』☆ジョイス・キャロル・オーツ『国境の向こう』『ベルフロール』『光の天使』『マラヤ,一人の人生』『彼ら』『愛の車輪』☆ジョゼフ・ヘラー『キャッチ 22』☆ジョナサン・エドワーズ『意思自由論』☆ジョン・アーヴィン『ガーブの世界』『ホテル・ニューハンプシャー』『メアリー・オウエンに祈りを』☆ジョン・アシュベリー『凸面鏡に映った自画像』☆ジョン・アップダイク『帰ってきたウサギ』『金持ちになったウサギ』『さよならウサギ』『イーストウィックの魔女たち』『走れウサギ,走れ』『ケンタウロス』『カップル ズ』☆ジョン・ウールマン『私記』☆ジョン・ウィンスロップ『ニューイングランドの歴史』☆ジョン・オハラ『サマーら〔ラ〕の町で会おう』☆ジョン・ガードナー 『キングス・インディアン』『オクトーヴ〔バ〕ア・ライト』など。☆ジョン・スタインベック『二十日ねずみと人間』『怒りの葡萄』『エデンの東』『怒りの葡萄』☆ジョン・スミス『ヴァージニアとイングランドとサマー諸島の一般史』☆ジョン・チーヴァー『短編集』☆ジョン・ド・クレヴクール『アメリカ農夫便り』 ☆ジョン・ドス・パソス『三人の兵士』☆ジョン・ハーシー『アダノの鐘』『ヒロシマ』など。☆ジョン・バース『キメラ』『サバティカル』など。 ☆ジョン・バース『氷上オペラ』『路の果て』『タバコ商人』『山羊少年ジャイルズ』☆シルヴィア・プラス詩集『エアリアル』『冬の木立ち』 。☆シンクレア・ルイス『メイン・ストリート』『バビッド』☆スーザン・ソンタグ『エッセイ』『私のエトセトラ』『隠喩としての病エイズとその隠喩』☆スティーヴ・エリクソン『彷徨う日々』 。 ☆スティーブン・クレイン『街の女マギー』『怪物』☆セオドア・ドライザー『シスター・キャリー』欲望三部作『財界人』『巨人』『克己の人』『アメリカの悲劇』☆セオドア・レトキ詩集『目覚め』『風に向かっての言葉』☆ソートン・ワイルダー『我が町』☆ソール・ベロー『学生部長の 12月』『オーギー・マーチの冒険』『雨の王ヘンダーソン』『ハ ーツォグ』『サムラー氏の遊星』☆チャールズ・ブロックデン・ブラウン『ウィーランド』『エドガー・ハントレー』☆デイヴィッド・マメット『シカゴの性的倒錯』『グレンギャリー・グレン・ロス』。☆テネシー・ウィリアムズ『イグアナの夜』『ガラスの動物園』『欲望という名の電車』『バラの刺青』『熱いトタン屋根の上の猫』☆ドス・パソス『U.S.A.』三部作『北緯 42度 線』『1919 年』『ビッグ・マネー』 。 ☆ドナルド・バーセルミ『罪深き愉 しみ』『パラダイス』『帰っておくれ,ガリガリ博士』『白雪姫』『都市生活』☆トニー・モリスン『青い目がほしい』『ソロモンの 歌』『タールベイビィ』『ビラウド』☆トマス・ウルフ『天使よ故郷を見よ』『時と川について』☆トマス・ジェファスン『ヴァージニア覚書』☆トマス・ビンチョン『重力の虹』『ヴィインランド』『V.』『競売ナンバー 49 の叫び』☆トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』『冷血』『遠い声,遠い部屋』 。☆ナサニエル・ウェスト『パルソー・スネルの夢の生活』『いなごの日』 ☆ナサニエル・ホーソーン『緋文字』『トワ イス・トールド・テールズ』☆ニール・サイモン『カリフォルニア・スウィート』『ブライトン海岸のメモリー』Come Blow Your Horn,Bare Foot in the Park,The Odd Couple ,The StarSpangled Girl, Plaza Suite ,Last of the Red Hot Lover。☆ノーマン・メイラー『死刑執行人の歌』『女性とそのエレガンス』『古代の夕べ』『裸者と死者』『バーバリの岸辺』『鹿の園』『ぼく自身のための広告』『アメリカの夢』『なぜ僕ら はヴェトナムへ行くのか』☆ハート・クレイン詩『ブリ ッジ』☆ハーマン・ウォーク『ケイン号の反乱』。☆ハーマン・メルビル『白鯨』☆フィリッブ・フレノー『サンタクルズの美しい人』☆フィリップ・ロス『さようならコロンバス』『ポートノイの不満』『解き放たれたザッカーマン』など。 ☆フラナリー・オコナー『賢い血』。 ☆フランク・ノリス『マクティーブ』小麦三部作『オクトバス(たこ)』『小麦取引所』『狼』☆フランシス・フィッツジェラルド『楽園のこちら側』『偉大なるギャッツビー』☆ベルナルド・マラマッド『魔法の樽』『アシスタント』『もう一 つの生活』『フィクサー』。☆ベンジャミン・フランクリン『貧しきリチャードの暦』『自叙伝』☆ヘンリー・アダムズ『アメリカ合衆国史』『ヘンリー・ アダムズの教育』☆ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』『使者たち』『黄金の盃』☆ヘンリー・デービッド・ソロー『森の生活』☆ヘンリー・ミラー『北回帰線』『南回帰線』『サクセス』『ネクサス』☆ポール・オースター『ガラスの都市』『最後の者たちの国で』など。☆ポール・グリーン『アブラハムの胸』☆A.S.マーウィン『エイシアン・フィギュア』 。☆マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』『ハックルベリー・フィンの冒険』☆マイケル・ウィグルワース『最後の審判の日』☆マクシン・ホーン・キングストン『チャイナタウンの女武者』など。☆マクスウェル・アンダスン『ウィンターセット』『上院下院』☆ユージン・オ ニール『氷人来る』『カリブ島の月』『地平線の彼方』『毛猿』『楡の木陰の欲望』☆ラルフ・ウォルド・エマソン『自然論』『アメリカの学者』『神学部講演』『代表的人物論』☆ラルフ・エリスン『見えない人間』☆リチャード・ライト『アメリカの息子』『アウトサイダー』☆リリアン・ヘルマン『子供の時間』『子狐たち』☆レイモンド・カーヴァー『大聖堂』『僕が電話をかけている場所』など。 ☆ロナルド・スーキニック『小説の死』 ☆ロバート・フロスト『ボストンの北』『証の樹』 すこし前、2019年6月7日(金)朝刊の訃報欄にこんな記事が掲載されていました。《岸富美子さん(きし・ふみこ=映画編集者)5月23日午前0時33分に老衰のため東京都小平市の病院で死去した、98歳だった。葬儀と告別式は近親者で済ませた。喪主は長女千蔵真理さん。女性の映画編集者の草分け的存在だった。1920年(大正9年)中国奉天省営口生まれ。家計を助けるために15歳で京都の第一映画社に入社し編集助手となる。溝口健二「浪華悲歌」(1936)で後に女性監督の草分けとなる助監督・坂根田鶴子の下で編集助手を務め、さらに伊藤大輔といった巨匠作品を手伝った後、JOスタヂオの伊丹万作のもとでアーノルド・ファンクの日独合作映画「新しき土」(1937)に参加した。ドイツの女性編集者アリス・ルードヴィッヒに最新の編集技術を学ぶ。その後、1939年に満州(現中国東北部)に渡り、当時「甘粕正彦が君臨し、李香蘭が花開いた満映」といわれた国策映画会社・満洲映画協会に入社、編集助手として李香蘭主演の「私の鶯」など数多くの作品に関わった。満映崩壊時、ソ連軍侵攻による玉砕覚悟の必死の籠城も経験した。その後、中国の内戦に巻き込まれ、内田吐夢監督らと共に東北電影製片廠に残り中国共産党の映画製作に協力・従事した。中国共産党による「精簡」(人員整理)や炭鉱労働、学習会での自己批判など過酷な状況の中で出産。国民的映画「白毛女」(1950)に編集者として参加、アリス・ルードヴィッヒから学んだ編集技術を教えて多くの女性編集者を育て、新中国の映画草創期に映画製作の礎を築いた。しかし、日本人が製作に貢献したという事実は伏せられ、2005年まで「安芙梅」という中国名で記録された。戦中の国策映画で学んだ技術が戦後の新中国で花開くという皮肉にも波瀾万丈の人生は、まさに戦前戦後の激動の映画史を駆け抜けた生き証人といえた。1953年に日本に帰国、帰国後はレットパージのためフリーランスとして主に独立プロで映画編集を手がけた。2015年(平成27年)映画技術者を顕彰する「一本のクギを讃える会」から長年の功績を表彰された。手記の「満映とわたし」(共著)は舞台化された。》もう何年も前に見たTVのドキュメンタリー番組で、戦時中、満映で映画製作に携わっていた日本の映画人のうち、戦争が終わっても依然として中国の地にとどまり、中国映画の製作に協力した日本の映画人がいたことは知っていました。その中に岸富美子さんの名前も入っていて、その6月7日付の社会面に載っていた訃報記事を見たとき、すぐにある程度の反応ができたのだと思います。その記事を読んだあと「満映」をキイワードにして検索をかけたところ、たまたま満映作品「迎春花」をyou tubeで見られることを知りました。たしか、当時の満映作品というのはことごとく失われてしまっていて、いまでは作品を見られないと聞いていたので、もう少し調べてみると、日本との提携作品とかなら見ることができると分かりました。まず、スタッフ・キャストのデータを書いてしまうと、こんな感じです。冒頭の字幕を見ながら転記したので、判読困難な字(なにせ、どれもかなりの達筆です)は、見当で転写したので、誤記の可能性は大いにあります。(1942満映、撮影協力・松竹)監督・佐々木康、脚本・長瀬喜伴、撮影・野村昊、森田俊保、中根正七、美術・磯部鶴雄、音楽・万城目正、録音・中村鴻一、現像・富田重太郎、平松忠一、編集・濱村義康、台詞指導・王心斎、製作担当・大辻梧郎、磯村忠治、撮影事務・安井正夫、出演・李香蘭、近衛敏明、浦克、木暮実千代、藤野季夫、吉川満子、那威、張敏、日守新一、戴剣秋、袁敏、曹佩箴、干延江、周凋、王宇培、関操、三和佐智子、路政霖、江雲逵、宮紀久子、下田光子、瀧見すが子、1942.03.21 9巻 74分 白黒 なるほど、なるほど。この作品「迎春花」も「撮影協力・松竹」だったので現在でも見ることができるというわけですね。まだ初々しい木暮実千代(「お嬢様」ふうの我儘っぽい持ち味は最初からだったことがこれでよく分かりました)や、小津作品でおなじみの吉川満子とか、黒澤作品「生きる」で鮮烈な印象のある日守新一の顔も見ることができます、そのほかにも日本名の俳優さんたちがかなり出演している作品です。タイトルの「迎春花」は、中国旧正月(2月)に咲く「黄梅」のこと、ストーリーも「春を待つ感じ」の冬の奉天(瀋陽)が舞台です。ある日、日本の建築会社奉天支社に支店長の甥・村川武雄(近衛敏明)が東京から赴任してきます。支店長の娘・八重(木暮実千代)はひそかに彼に想いを寄せているという設定ですが、見た感じ「ひそか」というには、いささか御幣があります。まあ、「もし相手が言い寄ってきたら、そのときは受けてあげてもいいわ」くらいの感じなので、武雄に対する関心度は傍からもあからさまですが、彼女には気高いプライドもあり、あくまでも優位に立ちたいペンディング状態なので、なんらの意思表示や働きかけができないでいるという描かれ方です。しかし、武雄は、同じ事務所で通訳を務める中国人事務員・白麗(李香蘭)に惹かれていますが、決定的な意思表示をするまでには至りません。彼がなにに躊躇しているのか、とくにその理由の説明もありませんし、中国人の白麗もまた、日本人の八重に気兼ねして武雄との付き合い方の距離を測りかねてはいるものの、激しく拒絶するということはなく、親密そうに歌を歌ったりする場面もあるところを見ると、もしかしたら白麗は、武雄に対してなんらかの「可能性(未練)」を残そうとしているのではないかとも考えたものの、ほかに説明がないというのは、武雄や八重のときの描かれ方と同質の、この映画自体の「煮え切らなさ」に通じてしまうようなものを感じました。ただし、唯一、武雄がはっきりとした意思をもって「言明する」という場面がありました。武雄は八重に「白麗は、日本人であるあんたに遠慮してホッケーの試合にでないといっているぞ、彼女にそんなことを思わせることをどう思うのだ」と激しく問い詰めています、日頃は「昼あんどん」みたいな温厚な男(しかも、好意さえ寄せていました)から、そんなふうに言われたら、そりぁ相当なショックだと思います、彼の口から白麗をかばい自分を非難する一方的な言葉を浴びせかけられたわけですから、彼女のダメージは相当なものがあったと思います。会社の命令で、武雄のハルビン出張に通訳として同行するよう指示されたとき、白麗は、彼らのこじれた関係を取り持とうと八重にも同行を誘いますが、結局、どこまでも煮えきらない武雄の態度に苛立ちを募らせて八重は東京へ戻ってしまいます。そして、これを契機に白麗も北京へ去り、武雄は奉天にひとり帰り、仕事の合間に近所の中国人の子供たちを集めて剣道を教える元の生活に戻ります。このラストの全員離別の急展開に「なんだ、こりゃ」と、思わず呆れ声をあげた人の感想を読んだことがありましたが、自分としては、物語の収束の性急さを除けば、こういう終わり方もアリかなとは思います。八重の気持ちも白麗の気持ちも、そして、武雄の優柔不断さは、十分に理解の範囲内にあります。ただ、気に掛かるのは、登場人物のそれぞれが抱え持っているあの「煮え切らなさ」でした。ここまで、書き進んできて、そうそう、あることを思い出しました。確かあのドキュメンタリー番組を見たときも、いまと同じように「満映」に興味をもって、自分のブログでも取り上げようかとあれこれ調べてみましたが、資料があまりにも少なすぎて、手掛かりというか、これだという取っ掛かりがどうしてもつかめずに、結果的には平凡な報告みたいなものしか書けなかったのだと記憶しています。たぶん、どうにかこうにか書きあげたものの、文章にしたものは、番組の内容紹介のようなものにすぎず、自分としては不本意なかたちで終わったという感じでした。そもそもなにが頓挫した原因だったのかといえば、その理由ははっきりしています。戦争が終わったというのに、日本の映画人(のなかの幾人か)がなぜ中国にとどまり中国の映画づくりに協力したのか、不可解というよりも、なんだか割り切れない「奇妙」な乖離感のようなものを感じたからだと思います。彼らが中国から協力を要請されとして、その実体は、「半分暴力的にとどまることを強いられたのではないか」という思いから、「日本人の側から祖国への帰還を先送りしてまで、あくまで善意で中国の地にとどまって映画作りに援助する途を選んだのか」まで、その辺の事情をはっきりと知りたかったのだと思います。もし、前者の場合(強制留置)なら、そりゃあ、戦勝国ソ連の「捕虜を抑留して酷寒の地に追いやり奴隷のように死ぬほど強制的に酷使した」という例もあるくらいですから、中国にだって、たぶんそいうことなら大いにあり得るだろうなと、かえって納得できる部分はあります、もし、前者ならね。しかし、仮に後者の場合(善意の協力)だとすると、実に「奇妙」な思いに囚われざるを得ません。戦時中にあっては、当時の日本の映画批評家たちの「満映」作品を論難する痛烈にして冷淡な反応のその語調だけ見ても、満映作品の稚拙さ・劣悪さは、おおかたの察しがつく冷やかなものばかりです。「論ずるにさえ値しない」という、もはや門前払いの印象です。例えば、1939年製作の満洲映画協会作品に『知心曲』という作品があります、監督は高原富士郎、解説によるとこの作品を撮る以前は文化映画を撮っていた人とかで、これが最初の劇映画だとありました、「トォキィ技巧概論」1935という著作もあると書き添えてありましたが、「日本映画監督全集」(キネ旬1976)には残念ながらその名を見つけ出すことはできませんでした。映画についての著作もあるくらいですから、ズブの「素人」ではなかったでしょうが、劇映画には経験の浅かったこういう人でも、当初のころの「満映」では、国策と「中国人慰撫」の緊急の必要から、たとえ経験がどうあれ、意欲さえあれば、どんどん採用していったことがこれだけで推察できます。この映画『知心曲』をハルビンの映画館で見た岩崎昶は、まずは「失望した」と書き残しています、これが満映の傑作では困る、と。上映した館の中国人の支配人もこの作品には大層不満で、こんな感想を彼に話しました。「満映の映画は、上海映画に比べて、既に半分の価値しかない。そのうえ、その演出にはなんのリアリティも感じられない。スクリーンに展開されるアクションや会話について、そもそも満人はあのような場合にあのようには言わない、あの身振りや心理の動きは、まさに日本人のものであって中国人としては不自然なものだ」と。岩崎はその中国人の率直な感想を聞いていちいち納得し、いまさらのように満映の仕事の容易ならざる困難を痛感します。日本からどんなに優れたプロデューサーや映画人が来ても、中国人の生活や生の言葉をまるで理解しないところで、はたしてこれ以上の仕事ができるだろうか。誰もが、満州の映画がこのままでいいと思っているはずはない、岩崎は、そこにこそ満映の製作首脳部の苦悩があると指摘します、どんなに優れた芸術家でも、その国の民衆の生活様式や心理や感情を知ることなしに「芸術」として民衆の生態を表現することは不可能だと。そう分かってはいるものの、どうにもできないでいる現地の状況というものを述懐しています。読んでみると、いささか腰が引けた遠慮がちな岩崎の、牙を抜かれた不甲斐ない述懐ですが、ときは戦時下、意のある部分を汲み取って真意の片鱗だけはどうにか理解できるような気がします。しかし、なにもこうした思いは日本人だけのものではなく、中国人もまた、異国からの支配者・侵略者が、政策として強権をもって押さえにかかってくる象徴として、どこの国のことを描いているのやら分からない「奇妙な映画」(かつての日本映画を片っ端から焼き直したわけですからそれは当然で、無国籍映画と表現しています)を見ることを強いられ、内心では屈辱感と敵意と苦々しい怒りを秘めながら、ウワベは従順を装って微笑を浮かべているという、植民地における被支配者・中国人にとっての「嘘とたてまえ」の象徴として「映画」があったのだと思います。こうした知識人の賢しらな「だから満映作品はダメなんだ」という迷いに対して、例えば今日出海は、「支配の論理」をむき出しにして、こう一石を投じています。「文化などまるでない所、そもそも町の姿もろくに無かった所に町を建設し、文化を樹立しようとしてゐるのだ。内地から機構設備や工人をもたらして、内地並みの写真を作ろうと心がけて成功するとも思われない。五民族が、あるいは以上の民族がひとつの国家を作ろうというのに、文化のほうが先にできたなどというとんでもない話があるだろうか。(中略)一朝に建国の実が揚がったとは誰も思うまいが、個々のことになると進歩がない、それをもって文化が低いと断じるとは、どうしたことか。一朝にして成った文化など一体どんなものか、想像すらできぬではないか。(中略)思想が形象化する過程は複雑を極めている。映画は技術だという世迷言は撮影所人種の泣き言にすぎぬ。ぼくは監督たちにも会った。(中略)彼らは傑作を出さぬかも知れぬ。しかし要は傑作ではなく、こうした誠実が文化を支持する柱石であり、文化を育む温床であるということだ。」支配する側と支配される側とのあいだで、決して埋めることの出来ない溝と亀裂のうえで、互いに本音を隠し虚偽と架空のタテマエで成り立っている「映画」でしかないことを誰もが内心では薄々気がついているのに、それでも、終戦後、日本の映画人たちが「祖国への帰還を先送りしてまで、あくまで善意で中国の地にとどまり中国の映画作りに協力する」なんてことが、あり得るだろうかというのが、自分の素直な疑問でした。中国人にしたって、満映作品に対して「いい気なものだ」とひそかに冷笑していたに違いない彼らがその怒りの乖離を清算して、日本人の「協力」を受け入れたものとはなんだったのか、いろいろな資料を読んでいく過程で、こんなふうに考えてみました。満映作品に対して「いい気なものだ」と感じるのは、それは、あくまで抑圧されていた中国人の、あくまで鑑賞者としての態度であって、映画を作る側に現場で身を置いていた中国映画人たち、まだまだ技術的には未熟で、日本人から技術を学び習得しなければならなかった中国人たちにとっては、違った考えを持っていたのかもしれないと。それこそ「タテマエ」と「本音」です。いままで読んできたものは、植民地にあって、支配する側とされる側のどちら側から見るかという二極的な論点ばかりで、「満映作品」を自立した映画作品として見ようという立場からは、程遠い論議のように感じます。関東軍がどうの、満州建国や甘粕正彦がどうのというところから語り始められた歴史の本や、大局的なところから論じた戦争史なら、それこそ嫌というほど存在しているのに、当の満映で作られた作品そのものについて言及した資料がほとんどなく、例えば、どういう作品が作られたのか、具体的・逐事的に列挙したような資料が手にすることができなかったからだと思います。しかも、そのなかでも手にすることのできた限られた資料から読み取れるものといえば、どれもがふたつに引き裂かれているような矛盾と乖離に満ちたものばかりだったということもあります。日本の植民地支配・管理者にとっての「満映」で作られた作品は、単に、中国人を日本人化しようという目的で作られたふたつの顔(強圧と慰撫)を持っていたものであることが分かります。当時、上海で中国人が撮っていた抗日映画に包囲されている状況下において、対内的にも対外的にも日本の当局者が植民地支配を正当化し対抗するための「宣伝」がどうしても必要とされて、そのひとつが「映画」だったにすぎず、内容的には、中国人への「日本教育」とか「飼い馴らし」にあったのであって、作品の質なんかは二の次、実際、日本の当時の批評家が、この「植民地映画」をまともに論じた(難詰した)ものも幾つかあって、ぼくたちはその惨憺たる評文を孫引きによって読むことができます。日本国内にあって批評家たちに「満州映画」が箸にも棒にも掛からない愚作だと酷評されていたときに、はたして満映の撮影現場にあっても、意気消沈したり反省したり、みずからの無能さに失望したり自己嫌悪におちいったかどうか、佐藤忠男の「キネマと砲聲」(岩波現代文庫)という本を読み始めたときに痛感したことがありました。副題に「日中映画前史」とあるこの本は、満映を調べているいまの自分の調査にはまさに打って付けの本だと、飛びつきました。自分は、中学のときに教えられた通り、新たな本を読む場合は、最初に「まえがき」を読み、「目次」を眺め、「あとがき」に眼を通してから、おもむろに本文を読み始めるというプロセスをずっと堅持・励行しているのですが、まあ、この本に「まえがき」(著者の執筆意図を知るうえでの早道とかつて教えられました)こそありませんでしたが、「目次」を見ると、書かれているのは、おもに中国映画全般にわたっていて(当然です)、「満映」について書かれている部分といえば、「7、『満州』に日本が夢の工場を作る」と「14、満映が活動する」のふたつの章でした。なるほど、なるほど。そして、巻末の「著者ノート」には、衝撃的に一文がありました。「私はこの本を、日中友好のために書いたのであって、現在の中国映画界に無用の波風を立てるために書いたのではない。何人かの中国の友人から、この点について憂慮に充ちた忠告を受けたが、この本を読んでいただければ私の真意は理解していただけると思う。日本の占領下に生きた中国映画人の苦難と苦悩の責任はすべて日本側にある。この本はその日本側において可能な限り中国に友情を保とうとした何人かの日本の映画人の存在を強調したが、だからといって日本人の全体の責任を軽減しようとはまったく思っていない。」この文章には、映画「迎春花」に感じた「煮え切らなさ」と同質のものが脈々と受け継がれているような気がしました。●満洲映画協会 全仕事【1938年(昭和13年)】★『壮志濁天』(1938満洲映画協会)原作・脚色・監督・坪井與、脚本・仲賢礼、撮影・大森伊八、出演・王福春、鄭暁君、劉恩甲、張敏、戴剣秋、匪賊に襲われ、肉親や親友を失った村の青年・劉得功は、匪賊首の馬徳堂を討つために満州国軍に入ることを決意する。恋人の瑞坤は得功を励ましたが、年老いた母や叔父は反対していた。しかし、吉林の第二軍管区に入隊した得功は、やがて伍長に昇進した。そしてある年の匪賊討伐でついに馬徳堂を倒した。得功も深い傷を受けたが、国防婦人会の看護を受けて間もなく治癒した。やがて除隊となって村へ帰ると、村人全員が彼を英雄として迎えた。この作品は、仮スタジオ完成前のために新京郊外と吉林でのオールロケでほとんど作られた。元マキノ映画の撮影の大森伊八(元P・C・L)のほかは、監督の坪井與(元満州日報社記者)も含めてほとんど素人ばかりで、出演者も近藤伊與吉の特訓を受けた新たに募集したニューフェイスばかりだった。脚本を書いた仲賢礼は、政府の弘報処の役人で映画も満州国軍が活躍する軍の宣伝臭の強い作品になった。この作品は、劇場公開されず、縦貫映画に使われただけなので試作品というところ。嵐寛プロで山中貞雄と仕事(戸波長八郎、磯の源太・抱寝の長脇差)をしたカメラマンの藤井春美は、後輩吉田貞次に「あんなもの、映画のテイをなしておらん」と一蹴し、一度は渡満の要請を蹴ったものの、のちに吉田とともに満映に入社する。★『明星的誕生』(1938満洲映画協会)原作・脚色・監督・松本光庸、撮影・竹内光雄、照明・松田藤太郎、出演・何奇人、張敏、孟虹、曹佩箴、高翮、田舎の青年男女が映画俳優に憧れ、都会に出て首尾よく俳優になることができた。その俳優生活は想像していたようなものではなく、明朗健全なもので彼らのその生活ぶりが展開されていく。坪井與とともに、満映に入社した松本光庸の作品で、彼はそれまで、満日新聞記者として映画評論を書いていた。★『七功図』(1938満洲映画協会)監督・矢原礼三郎、原作・脚色・裕振民、撮影・杉浦要、出演・高翮、季燕芬、孫李星、王宇培、劉恩甲、孫仁の経営する選択屋で働く李意は、その店の娘小茹をひそかな思慕を抱いていた。孫仁は、失業している青年建築家の趙吉、そしてその友人の銭祥に家を貸していた。二人は家賃を払えずに困っているが、小茹は趙吉に同情していた。小茹は趙吉から、李意が自分の事を熱愛していることを聞かされた。★『満里尋母』(1938満洲映画協会)原作・脚色・監督・坪井與、撮影・大森伊八、出演・葉苓、郭紹儀、王丹、戴剣秋、か弱い少年が、母を訪ねて、ただひとりの老人の庇護を頼りに流浪の旅を続け、ついに母にめぐり会う。ヴィクトル・マローの小説「家なき児」を坪井與が脚色し、主演の少年役には女優の葉苓が扮した。娯楽作品として主題歌が挿入され、レコードも吹き込まれた。★『知心曲』(1939満洲映画協会)監督・高原富士郎、脚本・重松周、撮影・杉浦要、録音・井口博、出演・杜撰、李鶴、季燕芬、劉恩甲、王宇培、不良の趙国傑は、ダンスホールで働く恋人の梅麗に、まともな生活をするように説得され、これからは改心してまともになると心に誓った。国傑はある日、子供を轢いて逃げる自動車を目撃した。その自動車を張氏の家まで追うと、その正義心を張氏に惚れ込まれて彼の息子の家庭教師となった。その息子がギャングにさらわれる事件が起こったが、国傑と警官の活躍で解決した。負傷した国傑を看護するのは、国傑に思いを寄せる張氏の令嬢。貧しい花束を抱いて見舞いに来た梅麗は、国傑の将来を思い、身を引こうとした。しかし、国傑は、梅麗のアパートに帰ってきた。それまで文化映画を撮っていた高原富士郎の始めての劇映画で、著書には「トォキィ技巧概論」1935がある。この映画をハルピンの映画館で見た岩崎昶は失望したと書いている、これが満映の傑作では困る、と。上映した館の支配人も大層不満で、彼からこんな感想を聞く。「満映の映画は、上海映画に比べて既に半分の価値しかない。そのうえ、その演出において何のリアリティも感じられない。スクリーンに展開されるアクションや会話について、そもそも満人はあのやうな場合にあのやうには言わない、あの身振りや心理の動きは、まったく日本的で不自然である」と個々に注釈をつけて不満をもらした。ぼくはそれを聞いていちいち頷ながら、いまさらのように満映の仕事の容易ならぬ難しさを思い知ったのだった。いまのところ、日本からどんなに優れたプロデューサーや芸術家が出かけていったとしても、すぐにこれ以上の仕事はできないに相違ない。しかも、満州の映画がこれであってはいけないこともはっきり分かっているのである。そこに満映の製作首脳部の苦悩がある。どんな国民でも、その生活様式や心理や感情の隅々までを知らずに、これを芸術に表現することは不可能である」だから満映作品はダメだというこの風評に、今日出海は一石を投じます。「文化などまるでない所、そもそも町の姿もろくに無かった所に町を建設し、文化を樹立しようとしてゐるのだ。内地から機構設備や工人をもたらして、内地並みの写真を作ろうと心がけて成功するとも思われない。五民族が、あるいは以上の民族がひとつの国家を作ろうというのに、文化のほうが先にできたなどというとんでもない話があるだろうか。(中略)一朝に建国の実が揚がったとは誰も思うまいが、個々のことになると進歩がない、それをもって文化が低いと断じるとは、どうしたことか。一朝にして成った文化など一体どんなものか、想像すらできぬではないか。(中略)思想が形象化する過程は複雑を極めている。映画は技術だという世迷言は撮影所人種の泣き言にすぎぬ。ぼくは監督たちにも会った。(中略)彼らは傑作を出さぬかも知れぬ。しかし要は傑作ではなく、こうした誠実が文化を支持する柱石であり、文化を育む温床であるということだ。」★『大陸長虹』(1938満洲映画協会)原作・脚色・監督・上砂泰蔵、監督助手・周暁波、撮影・玉置信行、出演・玉福春、杜撰、鄭暁君、季燕芬、積鴻は不良の仲間に入り、警察署に留置されたりするので、妹の秀娟はいつも心配していた。積鴻は家に帰った晩、金を持ち出そうとしてあやまってランプの火から火事を起してしまう。秀娟は許婚の李慶恩に救われたものの、慶恩は悪徳警官の策略で放火犯として連行されてしまう。そこに満州建国となった。秀娟は賄賂の金を持って警察へ行ったところ、新国家の警官は正しい者の味方で賄賂など受け取らないと説諭された。慶恩も釈放され、みずからも警官になることを望み、新京の警察官訓練所に入った。妻となった秀娟を連れて、警官となった慶恩は、田舎町に赴任した。渡し舟で子供が溺れたのを慶恩が助けたことから、架橋問題が持ち上がった。やがて橋ができ、町の人々と慶恩夫婦の喜びは大きかった。監督の上砂泰蔵は、同志社大から新興キネマに入り溝口健二、村田実、内田吐夢の助手を務め、「敵艦見ゆ」1934などを撮ったのち満映に入社した。【1939年(昭和14年)】★『蜜月快車』(1939満洲映画協会)監督・上野真嗣、原作・脚色・重松周、撮影・池田専太郎、録音・井口博、出演・李香蘭、杜寒星、張敏、周凋、戴剣秋、馬旭儀、子明と淑琴は列車に乗って新京から北京への新婚旅行に出発する。奉天で寝台車に乗り換えたところ、向かいのベッドの男は泥棒で、淑琴のトランクが盗まれてしまう。しかし、泥棒がベッドから転げ落ちてひと騒動おきる。子明と淑琴のあいだでも早くも痴話喧嘩がはじまる。列車が錦県駅に入ると、情婦を連れて北京に向かおうとしていた実業家の孫氏が、ヒステリーの夫人に見つかりひと悶着おきる。さまざまなトラブルを巻き起こして列車は北京へと走り続ける。北京に着いて、ふたりはようやく幸せになる。李香蘭のデビュー作。大谷俊夫監督「のぞかれた花嫁」(日活多摩川作品)の翻案作品である。日本のB級映画を片っ端から換骨奪胎し満映映画を作った。質より量の、いわば大量生産体制の確立を象徴する一本である。監督の上野真嗣は上砂泰蔵とともに1937年満映に入社した。淑琴を演じた李香蘭は「デビュー作の辛かったこと、恥ずかしかったことは今でも忘れられない」と、自伝に記した。以後、5本立て続けに出演し、李香蘭は人気と名声を高める。そして昭和14年、東宝と提携した渡辺邦男監督「白蘭の歌」「熱砂の誓ひ」が、日本で公開された結果、満映の李香蘭の名は爆発的に高まった。しかし、このことによって、皮肉にも李香蘭は、あくまでも「中国人」でいなければならなかった。彼女の苦悩はここから始まった。★『田園春光』(1939満洲映画協会)監督・高原富士郎、原作・脚色・山川博、撮影・杉浦要、出演・李鶴、杜撰、張敏、崔徳厚、満州の都市と田舎とが背景となり、若い男女の恋がついに田園に実を結び、地方農業の開発に力を注ぐ、満州の農村建設を謳った国策的恋愛映画。★『國法無私』(1939満洲映画協会)監督・水ケ江龍一、原作・脚色・楊正仁、撮影・池田専太郎、出演・郭紹儀、李明、薜海樑、張敏、法と愛情の岐路に立たされた検察官が、法のために全ての至上をなげうつ。満州国における法の神聖さを謳った水ケ江龍一の入社第一回作品。日活映画「検事とその妹」の翻案である。★『国境之花』(1939満洲映画協会)監督・水ケ江龍一、原作・脚色・楊正仁、撮影・藤井春美、出演・隋尹輔、王麗君、王福春、徐聡、青年アルタンの父母はソ連外蒙軍にスパイ容疑で射殺され、アルタンは叔父に連れられて内蒙で成長した。やがてアルタンは軍学校に入り、卒業すると見習い士官となって帰郷した。アルタンが思いを寄せている西宝が、アルタンの配属されている守備隊を訪ねた。その帰り、西宝は連行されソ連兵に守備隊に関してのことを尋問される。なにも答えない西宝は夜中に密書を奪って逃走した。その密書により某事件の企みが判明する。日本軍はその先手を打って勝利を収めることができた。アルタンも戦闘中に傷を負ったが、西宝が看病した。★『富貴春夢』(1939満洲映画協会)監督山内英三・上野真嗣・鈴木重吉〈プロローグ〉監督・鈴木重吉、脚本・荒牧芳郎、〈第一話〉監督・山内英三、脚本・図斉与一、〈第二話〉監督・上野真嗣、脚本・津田不二夫、〈第三話〉監督・上野真嗣、脚本・長谷川清、〈第四話〉監督・上野真嗣、脚本・木村能行、〈第五話〉監督・上野真嗣、脚本・荒牧芳郎、〈エピローグ〉監督・鈴木重吉、脚本・荒牧芳郎、撮影・藤井春美、出演・李香蘭、杜撰、張敏、戴剣秋、百万円という大金を手にした人々のさまざまな物語。第一話は、罪を犯した子と逞しい母親の愛情との双曲線。第二話は、いつも怒鳴られてばかりいる小僧が手にした百万円。第三話は、帝政時代をしのぶイワン将軍の儚い夢。第四話は、豪華な料理よりは焼き芋が大好物の大王少年。第五話は、百万円は手にしたが、その代わりに恋を失う・・・彼方の空中楼閣で、金の神と貧乏の神とが、それらの人々の姿を眺めては人間を幸福にするものはいったい何なのか、首をひねっている。★『冤魂復仇』(1939満洲映画協会)監督・大谷俊夫、原作・脚色・高柳春雄、撮影・大森伊八、出演・張書達、劉恩甲、李香蘭、周凋、満映最初のお化け映画で勧善懲悪の意思を持つお化けが活躍する。佐藤忠男は「キネマと砲聲」で、当時の野口久光の「満映作品に望む」を紹介している。「ここにはアメリカ製喜劇の型をそのままに、李香蘭をヒロインに、張書達、劉恩甲をコメディアンに見立てた仕草をやらしている。ピンからキリまで、てんでアメリカ映画の模倣なのだ。ローレル、ハーディの二巻物の同じ単純な構成、いや全然これは二巻物の台本である。その二巻物の台本を九巻に撮ってしまったのだからたまらない。これが映画に訓練されていない満人大衆に理解させるための映画手法というなら、もう何も言う言葉はない。・・・日本は将来の満州国の幸福を約束しなければならないと同様、満州映画の芸術発展を全責任を持って当たらなければならない」(キネ旬「日本映画監督全集」の「大谷俊夫」項中、岸松雄の記述からの孫引き)★『慈母涙』(1939満洲映画協会)監督・水ケ江龍一、原作・脚色・荒牧芳郎、撮影・藤井春美、出演・李明、張敏、李鶴、杜撰、崔徳厚、王宇培、周凋、趙玉佩、美貌の歌手・李麗淬は、資産家の息子・曹鳳閣との子・兆鵬を産む。しかし、鳳閣は、麗淬との結婚を両親が許さない。そして鳳閣は曹愛茄と結婚させられてしまう。麗淬は、乳飲み子を抱えて吉林の友人を訪ねるが友人は既に転居していた。行く当てもなく吹雪の中をさまよったあげく倒れていた麗淬母子は成財夫婦に助けられる。わが子を成財夫婦に預け、麗淬は、奉天に働きに出る。八年たっても子宝に恵まれない鳳閣は、成財夫婦を騙して兆鵬を連れ去る。事情を聞いた麗淬は兆鵬を取り戻すが、しかし、兆鵬は成財夫婦になついており、麗淬にはなつこうとしない。麗淬は兆鵬の幸福を祈りながら、ふたたび北満へと働きに出てゆく。本作品は曽根純三監督「母三人」(新興キネマ)の翻案作品である。★『真仮姉妹』(1939満洲映画協会)監督・高原富士郎、脚色・長谷川清、撮影・島津為三郎、音楽・長沼精一、出演・李明、鄭暁君、王宇培、杜撰、張敏、徐聡、季燕芬、吉林の片田舎、郁芬と郁芳の姉妹は年老いた母の手一つで育てられた。その母は、臨終の床で姉の郁芬に遺言書を渡し、それを妹に見せるように言い残して息絶えた。郁芬がその遺言書を盗み読むと、そこには妹がある大金持ちの娘で、郁芬の母はその乳母であることが記されていた。郁芬は遺言書を破り捨てると、ある日、母の告白により自分は金持ちの娘であることが分かったと妹に語る。姉の言葉を信じた妹の郁芳は、姉の留守にふと目にした新聞の尋ね人が姉のことと知り、その広告主に手紙を出す。やがて姉は周佑臣に引き取られ、そして佑臣の甥の李家璧と婚約する。しかし、かつての恋人の王琦が現れて郁芬に結婚を迫る。相手にされなかった王琦は、嵐の夜に郁芬を殺し、自らも命を絶った。死の間際、息も絶え絶えの郁芬は、皆に真実を話すと息を引き取った。★『煙鬼』(1939満洲映画協会)監督・水ケ江龍一、原作・坂田昇、脚色・中村能行、撮影・藤井春美、出演・周凋、李顕廷、馬旭儀、季燕芬、張翊、徐聡銀行員をしている依健章の娘小菊は周家に嫁ぐ。しかし、周家は阿片屋の王某に借金があり、父の健章は、そのために不当貸付をし、自らも阿片屋へと入っていく。小菊は虐待から逃れるために家出をし、戒煙所に勤める。健章の息子・萬年は警官だが、父の不始末に耐え切れず辞表を出す。しかし、所長に諭されて思いとどまる。健章は、王某から逃れることができずに、ケシ畑の管理をさせられている。やがて萬年の所属する警官隊がここを襲い、健章は死ぬ。萬年は父の死を悲しみながらも、阿片の害悪と闘う決意を新たにする。題名の「煙鬼」とは阿片患者のこと。満州の阿片断禁政策を強調するための吉林省からの委嘱作品で公募脚本を助監督・古賀正二が手を加えた。★『東遊記』(1939満洲映画協会・製作提携・東宝映画)監督・大谷俊夫、原作・脚色・高柳春雄、撮影・大森伊八、出演・劉恩甲、李香蘭、霧立のぼる、原節子、高峰秀子、藤原釜足、沢村貞子、小島洋々、満州の片田舎に住む陳と宋は、東京で華やかな生活を送っている友人・王からの手紙に心躍らされ東京へ行く決心をする。東京へ着くとサンドイッチマンの仕事をしながら友人・王を探す。やがてあたりの仕事が認められて化粧品会社の宣伝の仕事につき、美人タイピストの麗琴が通訳として付けられる。その後、二人は昭和映画の俳優となり、ある日、満州料理店で王と出会う。通訳の麗琴は王の妻の姉であり、しかも日本人の愛人がいることが分かった。その麗琴の結婚を機に、二人はふたたび満州へ帰って働くことを決意した。満州国民に日本を紹介する目的で、当方の協力の下に作られた。日本公開は1940年。東遊記 1939満映系 李香蘭★『鐡血慧心』美しき犠牲(1939満洲映画協会)監督・山内英三、脚本・高柳春雄、撮影・杉浦要、出演・李香蘭、趙愛蘋、姚鷺、劉恩甲、杜撰、隋尹輔、李顕廷、密輸業者を討伐する警士の献身的な活躍を描く。1941年「美しき犠牲」の題名(日本映画貿易株式会社提供)で日本でも公開された。山口猛の「幻のキネマ・満映-甘粕正彦と活動屋群像-」(平凡社)19頁には、日本公開時のポスター(大写しの李香蘭)を掲載していて、その本文の解説では中国における「満映」の微妙な立場に言及している。《戦前のプロキノ運動の中心的メンバーであり、満州の製作に関係して、戦後もジャーナリストとして活躍した北川鉄夫(当時は西村隆三と名乗っていた)は、はっきりと言い切っている。「『満映』は日本の映画史における恥部である」と。一方この満映作品については、今日見ることができないこともあり、評価をすることは難しい。ただ、当時の一般的な作品評価はきわめて低く、「映画旬報」でも、酷評に近いものが多い。たとえば「鐡血慧心」にしても、「映画旬報」(昭和16.10.21号)では、「すぐれた映画を紹介するのが輸入業者の公徳心ならこの作品は輸入しない方がいい」、さらには「この映画の内容は粗悪」とまで評されている。ならば、満映は芸術性とは無縁だったのかといえば、これには、はっきり「否」と答えることができる。・・・いわば、満映の芸術的価値は、その時点で結実しなくとも、未来ということでは、大きな貢献をしたのである。国内的には、内田吐夢、加藤泰から吉田貞次、坪井誠といった、日本を代表するまでになる多くの監督、技術者を生み出したことを見れば十分だろう。のみならず、中国に対してでも、その後の中国映画に旧満映の人々が及ぼした影響は大きなものがある。すでに、彼(亡くなる一年程前の八木保太郎)には、かつての豪傑の面影はなく死因の直接的な箇所である足がかなり痛そうで、話すのも辛そうだった。それでも、満映について、彼は悲痛にこう叫んだ。「あそこの写真は違うんだ!」日本人が関わりながら、中国人のための映画制作をしている奇妙さ。できあがった国籍不明の混血児とも言うべき作品。ここで、彼は筆を取ることなく、製作事務に励んでいた。だが、八木は、思想では正反対であるはずの甘粕の信奉者であることを隠そうともしなかった。不思議なことに立場として正反対にいる人も、八木同様、ほとんど例外なく、この甘粕正彦に対して親近感を示す。「満映は恥」とする北川鉄夫でさえ、甘粕が魅力的であることを否定しないどころか、「人物の大きさは首相級」と、人間的魅力を、むしろ誰よりもよく語っているほどである。こうした矛盾。それは満映という国策映画会社のもつ本質ではなかったのだろうか。満州という侵略国家の中の文化的象徴としての満映、橋頭堡としての満映が、片や中国人の映画を育て、密接な人間関係が成立してしまった。満映には、そうした矛盾が、至るところに渦巻いていたのである。右翼や軍人に対してはもちろん、左翼の人々に対しても、驚くほど深い洞察力を持っていた甘粕正彦に、それは凝縮していたかもしれない。》鉄血慧心 1939満映系 李香蘭★『白蘭の歌 前篇』製作・森田信義、演出・渡辺邦男、製作主任・斎藤久、脚色・木村千依男、原作・久米正雄、撮影・友成達雄、音楽・服部正、演奏・P.C.L.管弦楽団、主題歌・「白蘭の歌」(詞・サトウ・ハチロー、曲・竹内信幸、歌・伊藤久男、二葉あき子)、「いとしあの星」(詞・久米正雄、曲・服部良一、歌・渡辺はま子)、装置・北猛夫、録音・鈴木勇、照明・岸田九一郎、編集・岩下広一、満語監修・首藤弘、製作=東宝映画(東京撮影所)1939.11.30 日本劇場 2,128m 78分 35mm 白黒 出演・長谷川一夫(松村康吉)、斎藤英雄(次弟 徳雄)、中村英雄(末弟 克之)、中村健峰(三人の父)、山根千世子(三人の母)、山根寿子(松村京子)、霧立のぼる(松村杏子)、悦ちゃん(悦子)、清川虹子(芸者歌丸)、高堂国典(建設局長 八丁)、小杉義男(康吉の親友 秋山三郎)、御橋公(康吉の叔父)、江波和子(その娘)、榊田敬治(移民村団長)、谷三平(移民村の隣人 世話役安田)、加藤欣子(その女房)、原文雄(測量隊長 大森)、大杉晋(隊員 鈴木)、手塚勝巳(隊員 三浦)、李香蘭(李雪香)、王宇培(雪香の父 李苑東)、崔徳厚(李苑東の義弟 程応棋)、徐聡(その息子 程資文)、趙書琴(下婢)、芦芸庭(趙祐臣)、李林(苦力場)、張翊(山荘の下男)、薫波(密偵)、宋来(敗残兵A)、当波(敗残兵B)、華愚(敗残兵C)、進藤英太郎(義勇軍訓練所長 後藤)、小島洋々(満鉄総裁)、生方賢一郎(副総裁)、藤田進(満鉄理事)、藤輪欣治(満鉄理事)、柏原徹(満鉄理事)、江藤勇(運輸局長)、伊藤洋(文書課長)、横山運平(下男)、三條利喜江(カフェーのマダム)、★『白蘭の歌 後篇』製作・森田信義、演出・渡辺邦男、製作主任・斎藤久、脚色・木村千依男、原作・久米正雄、撮影・友成達雄、音楽・服部正、演奏・P.C.L.管弦楽団、主題歌・「白蘭の歌」(詞・サトウ・ハチロー、曲・竹内信幸、歌・伊藤久男、二葉あき子)、「いとしあの星」(詞・久米正雄、曲・服部良一、歌・渡辺はま子)、装置・北猛夫、録音・鈴木勇、照明・岸田九一郎、編集・岩下広一、満語監修・首藤弘、製作=東宝映画(東京撮影所)1939.11.30 日本劇場 1,812m 66分 35mm 白黒 出演・長谷川一夫(松村康吉)、斎藤英雄(次弟 徳雄)、中村英雄(末弟 克之)、中村健峰(三人の父)、山根千世子(三人の母)、山根寿子(松村京子)、霧立のぼる(松村杏子)、悦ちゃん(悦子)、清川虹子(芸者歌丸)、高堂国典(建設局長 八丁)、小杉義男(康吉の親友 秋山三郎)、御橋公(康吉の叔父)、江波和子(その娘)、榊田敬治(移民村団長)、谷三平(移民村の隣人 世話役安田)、加藤欣子(その女房)、原文雄(測量隊長 大森)、大杉晋(隊員 鈴木)、手塚勝巳(隊員 三浦)、李香蘭(李雪香)、王宇培(雪香の父 李苑東)、崔徳厚(李苑東の義弟 程応棋)、徐聡(その息子 程資文)、趙書琴(下婢)、芦芸庭(趙祐臣)、李林(苦力場)、張翊(山荘の下男)、薫波(密偵)、宋来(敗残兵A)、当波(敗残兵B)、華愚(敗残兵C)、進藤英太郎(義勇軍訓練所長 後藤)、小島洋々(満鉄総裁)、生方賢一郎(副総裁)、藤田進(満鉄理事)、藤輪欣治(満鉄理事)、柏原徹(満鉄理事)、江藤勇(運輸局長)、伊藤洋(文書課長)、横山運平(下男)、三條利喜江(カフェーのマダム)、満鉄の優秀な技師・村松はが熱河の豪族の娘と恋に落ち、上司の娘や父が遺言で薦めた養女との縁談も断る。長谷川一夫と初共演の李香蘭は、生粋の満州娘として登場し、大陸の理想化されたイメージと一体化して絶大な人気を博した。長谷川一夫にとっては東宝入社以来、初めての現代劇だった。☆あるサイトで「白蘭の歌」を東宝との提携作品と表示しているものがありましたが、jmdbによると、どうも「製作=東宝映画(東京撮影所)」らしく、あきらかに「製作・提携東宝映画」は誤りのようですが、満映映画の常連俳優が多数参加しており、満映にとっても重要な重要な作品だと思うので、当一覧に加えることにしました。白蘭の歌・前後篇 1939東宝系 李香蘭【1940年(昭和15年)】★『愛焔』(1940満洲映画協会)監督・山内英三、脚本・楊葉、撮影・遠藤灊吉、出演・李明、李顕廷、王福春、趙愛蘋、李警士の妹・素雲は村の豪農の息子・王景福の児を産むが、王の両親は二人の結婚を許さない。素雲は子どもを他へ預け、新京で看護婦となって働く。しかし、留守中に子どもは病死してしまう。そして王には別の女との結婚話が持ち上がっていた。警士は妹を思って王の両親に結婚を許してくれるよう頼むが無駄だった。王の結婚式の日がきた。なにも知らない素雲は、子どもと王に会うのを楽しみにかえってきた。恋人に裏切られたことを知った素雲は、思い余って王の家に放火してしまう。やがて兄の言葉に従い、墓に眠る子供に別れを告げると、裁きを受けるために自首して出るのだった。★『現代日本』(1940満洲映画協会)監督・脚本・大谷俊夫、撮影・杉浦要、出演・周凋、隋尹輔、徐聡、白玫、中田弘二、風見章子、日暮里子、宋と陳は、それぞれ満州国と中華民国の村長をしている。そして宋の息子・英福、陳の娘・桂芳もそれぞれに日本に留学中である。恋人同士のふたりの誘いで、宋と陳は日本見物の旅に出る。一緒に神戸に着いた宋と陳は、英福と桂芳の案内で神戸、大阪、奈良、京都と見物し、日本の美しさに感心する。旅はさらに名古屋、東京へと続く。東京では、皇紀二千六百年紀念の祝典の真っ最中で、宋と陳はすっかり日本通になる。英福と桂芳の結婚も手っ取り早く取り決めると、飛行機に乗って帰国の途についた。★『如花美眷』(1940満洲映画協会)監督・脚本・荒牧芳郎、撮影・池田専太郎、出演・郭紹儀、隋尹輔、白玫、陶滋心、身寄りのない麗仙と麗英の姉妹は楊家に引き取られて生活していた。楊家には会社員の兄・克勤と絵の勉強のために洋行している弟・克明がいた。克勤と麗仙とは相愛の中だったが、克明が帰国すると麗仙の心は克明に移っていった。克勤は二人の仲を知って、自ら東辺道の支社へと転勤していった。麗仙は克明と結婚したが、克明の放蕩、そしてむかしの愛人の出現から悲観のあまり家出をする。しかし、克勤に諌められてふたたび固く結ばれる。やがて克勤も麗英と結ばれて新しい生活を始めた。 ★『情海航程』(1940満洲映画協会)監督・水ケ江龍一、脚本・熙野(八木寛、長畑博司、張我権)、撮影・藤井春美、出演・徐聡、季燕芬、白玫、崔徳厚、王世寛は、幼少のころに両親を失い、張家の世話を受けていた。世寛を見込んだ張家は、世寛が大学を卒業したのち、娘の素琴と結婚させることを約束して、彼を日本へ留学させた。世寛がいなくなったのを幸いに、かねてより素琴に横恋慕していた李永禄は金の力で無理やり素琴と結婚してしまう。世寛は、急いで帰国したものの学生の身分では何もできるはずもなく、自暴自棄になって、高利貸・鄭夫人の手先となった。素事の夫は放蕩三昧の生活から、商売も破綻、世寛より金の援助を受けることになる。そして世寛の悪辣さに逆上し彼を射殺しようとするが、素琴に阻まれてかえって自ら死んでしまう。素琴も自責の念から命を絶とうとするが救われる。病床の素琴を前に、世寛はふたたび人生に幸福を見出す。日満脚本家共同による第一回作品で、熙野は三人の共同のペンネーム。満映が洪熙街にあったことに由来する。なお坪井與の記録では、荒牧芳郎の脚本とある。★『誰知她的心』(1940満洲映画協会)監督・朱文順、脚本・熙野(八木寛、長畑博司、張我権)、撮影・谷本精史、出演・葉苓、王麗君、李顕廷、白玫、小英は、周家の女中として働いていたが、きれいな着物も着られず、化粧ひとつすることのできない今の境遇が情けなく、周家の娘のような令嬢生活に憧れていた。折りしも周一家が旅行に出ることになり、広い豪邸の留守を預かる女中の小英と王媽のふたりは、伸び伸びとした日を迎える。周家の娘の着物を着てすっかり令嬢気取りの小英を、趙喆生は周家の令嬢と誤解して、ふたりの仲は急速に発展する。小英が本当のことを言い出すことができないうちに、とうとう一家が旅行から帰ってくる日がきた。騙されたことを知った趙喆生は怒り、小英も田舎に帰る決心をする。しかし、一度は起こった趙喆生も純情な小英が犯した夢を許して、改めて彼女の手を固く握りなおすのだった。周暁波に次ぐ満州側の二人目の監督による作品。★『有明自遠方来』(1940満洲映画協会)監督・水ケ江龍一、脚本・張我権、撮影・藤井春美、出演・徐聡、杜撰、白玫、李鶴、陶滋心、徐緩と佩娟の新婚家庭に、徐緩の同窓で鉱山師として山を渡り歩いている豪傑の趙自強が突然闖入してきた。この闖入者、一日中酒ばかり飲み、酔うと金鉱主の令嬢を助けた武勇談を繰り返す。二人は夫婦喧嘩の芝居をしてなんとか追い出そうとするが、俺が新しい女房を世話すると言い出して佩娟を追い出し、金鉱主の令嬢秀敏との見合いの段取りまでする。見合いの席上、徐緩は白痴を装って難を逃れると、金鉱主は娘の結婚相手は趙自強と決め、押し問答となる。さすがの豪傑も困ってふたたび鉱山に逃げ去り、徐緩と佩娟にも甘い新婚生活が戻ってきた。★『風潮』(1940満洲映画協会)監督・脚本・周暁波、撮影・谷本精史、出演・張敏、徐聡、季燕芬、趙愛蘋、女工の小香は、社長の弟である俊明と相愛の仲だった。やがて二人は結婚、娘雪苓も生まれて楽しい日々を送っていた。しかし、俊明が研究のために日本へ行っているあいだ、財産目当てから二人の結婚にも反対した社長の妾は、小香に姦通の濡れ衣を着せ、家から追い出してしまう。小香は雪苓を同善堂に預けると自活の道を求めた。それから二十年、雪苓は同善堂で乳児の世話をしながら、女学校に通っている。雪苓の学友美英の兄紹華は、雪苓との結婚を望んでいるが、両親から素性のはっきりしない女はダメだと反対されている。美英の乳母となっている小香はそれを知って、同善堂長を通じて雪苓が俊明の子であることを知らせる。やがて、雪苓と紹華の結婚式の日がくる。小香は母と名乗れぬ悲しみを胸に二人の幸福を祈っていた。満州側監督・周暁波による初めての作品で脚本もオリジナル。★『芸苑情侶』(1940満洲映画協会)監督・大谷俊夫、脚本・荒牧芳郎、撮影・池田専太郎、出演・季燕芬、白玫、杜撰、徐聡、周凋、憧れの新京での舞台を目前にして、火災のために解散した旧劇芝居の一座の花形女優李碧雲は、育ての親である陳百歳、それに蘭芳、連栄とともに自分を捨てた両親を探しに新京にきた。碧雲は連栄を愛していたが、連栄は蘭芳に心惹かれていた。しかし、蘭芳は苦しい生活から逃れるため金持ちの元へ走った。残った二人の生活もいよいよ窮した。しかし、運良く碧雲の美声が放送局に認められ、専属となって放送されたことから両親ともめぐり会うことができた。碧雲は李家に引き取られることになったが、幼いときから辛酸をともにした一座の人々と芸への執着を諦められず、両親の許しを得て一座を再興する。そして、一座の憧れであった新京の舞台を踏む日がきた。★『流浪歌女』(1940満洲映画協会)監督・山内英三、脚本・楊葉、撮影・福島宏、出演・李明、陶滋心、李顕廷、戴剣秋、周凋、淑玲、淑瑯の姉妹は、瞼の母に逢える日を唯一の楽しみとして、冷酷な呉のもとで太鼓叩きの芸人として働いていた。内気なふたりだったが、呉が淑瑯を売り飛ばそうとしたのに堪りかね、呉のもとを逃れる。そして妹は盲目の姉の手を引き、奉天にいるという母を探し求めて流浪の旅に出た。歌をうたって僅かな稼ぎを得ながら苦しいたびを続けるふたりは、ときには諍いを起こしながらも遂に母にめぐり会い、薄幸のふたりにもようやく楽しい日々が訪れる。★『人馬平安』(1940満洲映画協会)監督・高原富士郎、脚本・中村能行、周藍田、撮影・福島宏、出演・劉恩甲、張敏、張書達、王麗君、呼玉麟、城内の裏長屋に住む馬車夫の張は、酒好きで仕事嫌いのその日暮しをしていた。今朝も女房に叩き起こされて仕事には出たものの、人通りの少ないところを選んで流すので客はさっぱり寄り付かない。ところがある夜、酔っぱらいの客が代金のかわりにおいていった籤が一万円の当選と分かり、有頂天になって豪遊する。しかし、家に帰ると、女房から番号が一桁違うと教えられ今度は真っ青になる。それからは心を入れ替えて真面目に働くようになった。懸命に働いたので生活にも余裕ができてきた一年後、女房が突然張の前に一万円を差し出す。あのときに張が一万円を握ったらますます怠け者になると思って女房が嘘をついたのである。同時に子供ができたことを知らされ、張はもっと精を出して仕事をするのだった。高原富士郎の始めての喜劇作品。★『王属官』(1940満洲映画協会)監督・高橋紀、藤川研一、原作・牛島春子、脚色・高柳春雄、撮影・杉浦要、出演・趙剛、王三、馬雪筠、張剣秋、満州建国後、日も浅い頃、属官の王文章は恋人麗英の待つ故郷へ帰ってきた。この村ではまだ地方官吏が税金を不当に徴収するなどの横暴が行われている。麗英の父も娘に人並みの結婚をさせてあげたいばかりに趙牌長の手先となって不正を働いている一人である。不正に気がついた王は麗英との結婚を延期して急ぎ帰任した。発覚を恐れた趙は虚偽の報告書を提出したものの、非を悔いた王の父が一味の名簿を盗み出して王に手渡そうとした。しかし、一味に見つかって半殺しの目にあい、名簿を麗英に渡すと息絶えた。証拠を手にした王は一味を検挙して事件は解決する。王は喜びのむんみんに迎えられ、麗英と結婚式場に向かった。新聞に連載されて好評を博した小説が原作。作者の牛島春子は満州国官吏夫人。新京の大同劇団によるユニット出演作品。★『新生』(1940満洲映画協会)監督・高原富士郎、原作・姜学潜、脚色・周藍田、撮影・遠藤灊吉、出演・董波、劉恩甲、徐聡、孟虹、青年訓練所の出現は、昔ながらに営々と働く老人たちの間では、反対の声が多かったが青年たちからは大いに歓迎された。その青年訓練所を卒業した王維国、章郎、呉漢の三人が村に帰ってきた。そして彼らによって奉仕隊が組織されて各地の刈入れなどに派遣されると、青年たちの心もようやく老人たちに通じた。派遣地では、そこで知り合った村の娘・毛蘭香と呉漢との結婚が発表された。満州の協和会青年運動を描いた作品。★『現代男児』(1940満洲映画協会)監督・脚本・山内英三、撮影・池田専太郎、藤井春美、出演・杜撰、崔徳厚、陶滋心、王影英、自動車修理工の梁国平は国兵徴兵検査に合格、妻の雪英に励まされて入営する。国平の田舎の地主は国平の妹・小麗に思いを寄せているが、その思いが叶わないので、梁一家に恨みを抱いていた。刈入れの季節が来て、梁一家も家族総出で野良仕事に励むが、兄の国英が病気で働けないために、なかなか捗らない。そこへちょうど帰郷した国平も刈入れを手伝うが、帰営時間に遅れてしまう。わけを聴いた体調の情けで翌日に特別休暇が許される。帰郷してふたたび刈入れに精を出ていると、隊長と戦友たちが手伝いにきてくれた。またたくまに刈り入れは進んでいった。夕陽の沈む頃、刈入れを終えた国平は感激の涙を浮かべて村民に送られ戦友たちと兵営に帰っていった。★『地平線上』(1940満洲映画協会)監督・脚色・荒牧芳郎、原作・宮本陸三、撮影・谷本精史、出演・劉白、王潔衷、白苹、馬黛娟、レンガ積みの現場で働く苦力頭の郭は忠実に黙々と仕事をしていたが、もうひとりの苦力頭の修は事業主に賃金の値上げを要求していた。その修の横恋慕に、現場監督の楊と郭の娘・蘭光の恋は急速に進展する。賃上げ要求が通らず、恋にも破れた修は、手下の苦力を連れて現場から引き上げてしまう。困った楊が郭に相談すると、郭は徹夜してでも工事を期日までに仕上げることを約束した。ある日、楊が銀行に工事の金を受け取りに、蘭光と一緒に楽しそうに歩いていく姿を見た修は、銀行の帰りを狙って大金を奪おうとする。王は重傷を負いながらも現場まで逃げ帰るが、金を井戸に投げ込むと息絶える。犯人は修とにらんだ郭は、井戸の金を取りにきた修を待ち伏せし、格闘の末に修を射殺。しかし、郭もまた修の銃弾に倒れた。★『大地秋光』(1940満洲映画協会)監督・島田太一、脚本・高森文夫、撮影・南田常治、出演・崔徳厚、李顕廷、李景秋、葉苓、農夫の崔は、古い頭の持ち主で、息子の明徳が勧める新しい耕作法には耳を貸さず、依然として昔ながらの農法に頼っていた。一方、李はそれとは正反対で、県の技術員の指導を受けて積極的に科学的な農法を取り入れていた。李の娘・小蘭は、親同士が両極端ながらも明徳とは仲が良かった。秋の収穫、李は賞状を受けるほど豊作だったが、崔の家はさんざんで、家畜も病気になっていた。目の前のどうすることもできない現実には、さすがの崔も考えを改めないわけにはいかなかった。そして、来年からは新しい農法に切り替えていくことを明徳と小蘭のふたりに誓うのだった。★『劉先生回顧』(1940満洲映画協会)監督・山内英三、撮影・遠藤灊吉、出演・崔徳厚、安琪、葉苓、趙愛蘋、劉は立派な腕を持つ彫刻の職人だったが、賭博に夢中になり、今日も祭りに着せる娘・素琴の着物を質に入れてしまった。母親の王梅が、娘の着物を質から出してくれるよう別の質草を都合したのだが、途中に賭博場が立っていることを知ると、ふらふらと入り、無理して工面した金をすべて使ってしまった。金に窮した劉は素琴を抵当にして高利貸しから金を借りる。しかし、期日が来ても劉には返すあてがない。素琴は父の素行と一家を救うために自ら身を売る決心をする。それを聞いた素琴の恋人・宋は、自分の蓄えで素琴を救う。ようやく自分の過ちに気づいた劉は、ふたたび仕事に腕を振るう決意を新たにするのだった。★『都市的洪流』(1940満洲映画協会)監督・脚本・周暁波、撮影・島津為三郎、出演・杜撰、孟虹、鄭暁君、王宇培、鳳姐は、町の金貸しの手代・李四に借金のかたとして連れて行かれることになった。鳳姐は恋人の小三子も連れて行くことを条件に村を離れた。李四の主人で好色漢の林は、さっそく鳳姐を自分の女中にしてちょっかいを出す。虚栄に目のくらんだ鳳姐は、やがて放蕩ナ生活に溺れていく。金の魅力に負けて恋人を棄て林と結婚した林太太は鳳姐の出現で自分の座を奪われることとなり、同じく自棄になっている小三子と不倫の関係に陥る。数年後、爛れ腐敗した生活に疲れた鳳姐と小三子は、むかしの二人に戻って村に帰ろうとするが、鳳姐は、いまの自分にその資格がないことを書き残して姿を消した。小三子は彼女が残していった着物を抱え、丘の上に立ち尽くしていつまでも鳳姐の呼び続けた。★『胖痩閙三更』(1940満洲映画協会)監督・脚本・新田稔、撮影・谷本精史、出演・那娜、劉恩甲、張書達、二巻ものの短編喜劇★『黎明曙光』(1940満洲映画協会・製作提携・松竹、大同劇団)監督・山内英三、原作・脚色・荒牧芳郎、撮影・遠藤灊吉、出演・季燕芬、徐聡、笠智衆、周凋、杜撰、西村青兒、王宇培、惆長渹、満州建国当時、東辺道にて匪賊絶滅工作のさなかに殉職した警察官・清水裕吉の物語。松竹との提携第一回作品。満映初のオーンプンセットが組まれた。満州帝国国務総理製作指定作品、満映・松竹・大同劇団提携映画。ポスターには、「建国の聖業に当たり、烈々たる精神を以って人柱となりし英霊は、いま、安らかに眠る。王道楽土の国の礎は永遠に堅く、その栄光は銀幕に燦たり」とある。支那の夜・前後篇 1940東宝系 李香蘭熱砂の誓ひ 1940東宝系 李香蘭孫悟空 1940東宝系 李香蘭【1941年(昭和16年)】★『籬畔花香』(1941満洲映画協会)監督・宋紹宗、脚本・熙野(八木寛)、撮影・島津為三郎、出演・張静、劉潮、杜撰、王影英、張敏、孟虹、魏雄飛は、童養媳婦児(他人の娘を幼少のときよりもらって女中として使い成長の後、息子に娶る妻のこと)の小鈴を嫁にもせずに、情婦を引っ張り込んでいた。ある日、情婦に愛想をつかされた雄飛は、小鈴に挑みかかるが、小鈴は魏の家を逃げ出し、李の家の門前で気を失って倒れてしまう。しかし、李の娘・敏華に助けられ、やがて李家の女中として働くようになった。夏になると李の息子・頌華が新京の大学から帰郷してきた。小鈴と頌華の二人はやがて離れられぬ間になっていった。小鈴が李家にいることを知った雄飛は図図しく金をせびりにきた。そして小鈴がすでに頌華の子供を孕んでいることを知ると、それをタネに李夫人をゆすった。はじめて事情を知った李夫人は、臨月の小鈴を追い出してしまった。頌華を頼って新京に出るが、急いで帰郷する頌華と入れ違いになり、旅館で産気づいて倒れる。小鈴のお産は重かったが、孫の顔を見て李夫人もようやく二人の結婚を許した。★『她的秘密』(1941満洲映画協会)監督・脚本・朱文順、撮影・島津為三郎、出演・王麗君、徐聡、隋尹輔、呉菲菲、梅雪音の父は、彼女を金持ちの尊重の息子に嫁がせようとして田舎に呼び寄せた。しかし、雪音は、家を飛び出して恋人・程大鵬のもとへ走った。大鵬の父が病死すると程の家は没落した。大鵬も学業を続けることができなくなった。かねてより大鵬に思いを寄せる歌手の宋丹馥は彼に学費を援助することで結婚を迫った。大鵬は断ったものの、それを知った雪音は、大鵬の将来を思って姿を消した。大鵬は宋丹馥と結婚した。それから二十年、大鵬とのあいだに雪音が生んだ子・懐音は、大鵬のもとで立派な青年となり結婚の話も進んでいる。大鵬は偶然に新京で雪音に出逢い、再びむかしの思いが甦る。それを知った懐音の結婚相手の親は、縁談を拒否してきた。懐音は自分の母親とも知らずに雪音を責める。雪音は何事も語ることなく再び身を引く。懐音の結婚式の夜、雪音が着とくとの知らせが届いた。懐音は大鵬と病床に駆けつけるが、懐音から「お母さん」と呼ばれるのを聞きながら、雪音は静かに息を引き取った。★『雙妹涙』(1941満洲映画協会)監督・水ケ江龍一、脚本・安龍斉、出演・季燕芬、馬黛娟、隋尹輔、李栄春は白華と相愛の仲だったが、白華の父から貧しさゆえに結婚を反対され新京へ働きに出る。白華は李を追って新京へ向かうが、すでに李は引っ越したあとだった。白華は百貨店に勤めながら、李を探すことを決めると、そこで同年輩の秀蘭と仲良くなった。李はある工場で働いていたが、その隣が病む祖父を抱えた秀蘭の家だった。親切に面倒を見てくれる李を秀蘭は兄と呼び、その噂を白華にもするのだが、白華はそれが李であるとは知らないでいる。秀蘭の祖父はやがて秀蘭を李に託して息を引き取る。しかし、今度は李が過労のために倒れる。秀蘭は自分のみを犠牲にして李を入院させようとすると、それを知った白華は彼女を助け、そして、兄と呼ばれている人が李であることを初めて知る。しかし、李は二人に見守られつつ息絶える。白華と秀蘭は互いに力を合わせて職場に生きることを誓い合った。★『新婚記』(1941満洲映画協会)監督・朱文順、脚本・熙野(八木寛)、撮影・福島宏、出演・劉恩甲、白玫、李景秋、関克武は社長の娘・宵音と結婚したが、お嬢様育ちの宵音は、気の弱い克武をこきつかう。田舎の父から訪問するという便りに、惨めな生活を見られたくない克武は、同僚の張に相談する。張は、家庭での暴君的な亭主振りを克武に見せ付けるが、しかし、実は張も恐妻家で腕時計を買ってやるという約束で妻と一芝居演じたのだった。克武は宵音に哀願して、やっと父を安心させて田舎に返すことができた。ある夜、社宅の隣組精神を宵音が冒涜したことから、日頃から苦々しく思っていた同僚たちの怒りが爆発した。社長の娘だからと躊躇する主任を押し切り、克武を後押しして宵音を懲らしめる。宵音は起こって実家に帰ってしまうが、かつて恐妻家だった父親に諭され、ようやく自分の非を悟った。晴れた日曜日、隣組同士のピクニックでは、皆が明るく合唱した。坪井與の記録では、脚本の熙野は、八木寛、張我権、長畑博司の三人の共同になっている。★『天上人間』(1941満洲映画協会)監督・周暁波、脚本・張南、撮影・遠藤灊吉、出演・季燕芬、杜撰、陶滋心、張奕、蹴球の選手・呉廷玉は、妹の友人である趙芸芳と愛し合っている。しかし、芸芳の父母は、彼女の卒業を待って従兄と結婚させるつもりでいる。やがて学校を終えた芸芳は耐え切れずに家出して廷玉のもとに走る。二人の固い決意に両家は結婚を許すことにする。ところが、子供もでき、平凡な家庭生活が訪れると、廷玉は飽きてしまい茶社の歌手・艶紅に心引かれ、毎日のように通うようになる。彼女にそそのかされてハルピンに駆け落ちした廷玉は艶紅と情夫の孫根に計られて金を巻き上げられ、阿片密売者の汚名を着せられることになる。ハルピンに駆けつけた廷玉の父の力で無実が判明し、一方、艶紅と情夫の孫根は捕らえられた。悪夢から覚めた廷玉は病床の妻に心から詫びるのだった。★『雨暴花残』(1941満洲映画協会)監督・山内英三、脚本・劉果全、撮影・島津為三郎、出演・李顕廷、張静、趙愛蘋、劉潮、鄭暁君、東京で二年余りの研究を積んで新京へ帰った新進の画家・汪仁良は、自分を待っているはずの愛人・桂芳が、親友の作家・週明敏と同棲していることを知った。汪は、桂芳のために身を引く決意をするが、実は桂芳はいまでも汪を愛し、気弱さから執拗な周の誘惑に勝てないでいるのだった。汪は周に桂芳を託して去っていった。やがて周は自分の戯曲があル劇団によって上演されるようになり、その劇団の女優・麗娜と深い仲になる。身重の桂芳は、周の心を再び取り戻そうとするが、病に倒れてしまう。桂芳の友人・玉華からの知らせを受けた汪は、新京へかけつけると、死に瀕している桂芳を前に、誓いを破った周を激しく責めた。自分の非を思い知らされた周は、悄然と雨の中を去っていく。そのとき、麗娜を周に奪われた劇団員の俳優の刃に刺されて倒れる。その頃、汪と玉華の看病も空しく桂芳は息絶えた。★『巾幗男児』(1941満洲映画協会)監督・王則、脚本・梁孟庚、撮影・遠藤灊吉、出演・王麗君、李顕廷、張奕、戴剣秋、張敏、小珍珠は母をつれて父を訪ねるため、父・張国祥のいる炭鉱の鉱夫募集に、男装して応募する。採用された小珍珠は父母と一緒に暮らすようになるが、しかし、賭博好きの父はいつも借金のために料理屋の馬二虎から責められている。ある夜、小珍珠は馬に女であることを見破られ脅迫されて馬の店で女給として働かされた。組頭の斉は、馬と共謀して鉱夫への配給品を私腹におさめていたが、それも露見する日がきて、呉大福が組頭になった。小珍珠にしつこく言い寄る馬は、呉大福に倒され、呉大福は初めて小珍珠の男装の秘密を知る。そして二人の間には幸福が訪れた。★『運転時来』(1941満洲映画協会)監督・高原富士郎、原作・鈴木重三郎、脚色・張我権、撮影・池田専太郎、出演・劉恩甲、張書達、季燕芬、仲の良い街頭商人の劉と張は、茶社の女・蘭芳の気を引こうと、商売に身が入らないほどお互いに張り合っている。挙句の果てに一攫千金を夢見て北満の鉱山に出かけるが、山の酒場に蘭芳とそっくりの鳳珍がいて、二人はここでも張り合うことになる。大晦日の夜、二人は財布をはたいて鳳珍を招待するが、吹雪にまぎれて迷い込んできたのは虎だった。ますます激しくなる吹雪に小屋ごと二人は谷底に転落する。しかし、かろうじて助かった二人は金塊を発見して、一躍大金持ちになる。モーニング姿の金持ちになったふたりは、蘭芳のいる茶社を再び訪れるが、そこに蘭芳と鳳珍がいて、姿かたちがそっくりならと、それぞれに仲良く収まる。★『明星日記』(1941満洲映画協会)監督・脚本・山内英三、撮影・福島宏、出演・劉恩甲、葉苓、李顕廷、ホテルのガラス拭きの劉と、エレベーターガールの葉苓は互いに淡い恋心を抱いて仲良く働いていた。劉は、いつの日にか映画スターになることを夢見ていた。そして、その苦労が報われて、ようよっと端役で映画に出演できることになった。しかし、葉苓には主役を得ることができたと嘘の手紙を書いてしまう。ところがある日、撮影所の重役と監督の徐が、葉苓のいるホテルに宿泊した。そして、葉苓をひと目で気に入り、女優としてスカウトし入社させた。劉は嘘がばれるので戸惑っていると、徐からラヴシーンのセリフをつけてもらっている葉苓を見てカッとなり、彼女を殴りつけてしまう。葉苓から事情を聞いた徐は劉を抜擢し主役にする。そして葉苓も一本撮り終えたら家庭の人となることを約束して二人はまた元の仲に戻る。★『黄金夢』(1941満洲映画協会)監督・大谷俊夫、脚本・安関、撮影・福島宏、出演・蕭大昌、趙愛蘋、姚鷺、葉苓、劉恩甲、張書達、金鉱掘りに全財産をつぎ込み、借金で首の廻らなくなった王所斉は、支配人から有望な鉱脈が発見されたという知らせを受けるが、五千円の資金の都合がつかない。王の娘・麗芳をひそかに思う高利貸しの銭銅秀は、麗芳が自分の息子の家庭教師になることを条件に出資を引き受ける。王は理学博士の牛米国を連れて鉱脈の鑑定に赴くが、牛博士は実は考古学の学者で鉱脈の鑑定どころではなくなる。皆が悲嘆しているところへ次男が、第二夫人に五万円の富くじが当たったことを知らせにきた。さらに、鉱脈も金こそ出なかったが、契丹の古都であることが牛博士によって発見された。★『鏡花水月』(1941満洲映画協会)監督・谷俊(大谷俊夫)、脚本・姜衍、撮影・池田専太郎、出演・浦克、馬黛娟、常発の父は、小さな別荘以外は何の財産も残さずに死んだ。隣家の娘・桂芬に再会を約し、常発は仕事もない村をあとに都会に出て行った。しかし、お人よしの常発はやっとある会社の計算係に就職したものの、同僚や酒場の女に騙されて三ヶ月でクビになった。悄然として帰郷し、桂芬の家に居候するが、ある日、桂芬の父から自分の別荘に幽霊が出るという話を聞く。常発は別荘に入ると、一巻の奇書を発見した。それによって忍者の隠身術を体得する。そこで再び都会へ行き、かつて自分を騙した者たちを片っ端からやっつける。しかし、ふと目覚めると、それはすべて夢の中の出来事。常発は桂芬の愛情を感じながら田舎で働くべきだと思い直す。★『花瓶探索』(1941満洲映画協会)監督・水ケ江龍一、脚本・呂平(長畑博司)、撮影・藤井春美、出演・劉志人、董波、鄭暁君、陶滋心、探偵事務所を開いている劉と張は、隣の家の富豪・李の娘の姉妹とそれぞれに仲が良い。その李が遺産のありかをかいた紙片を残して死ぬと、正夫人と第二夫人との間で争いが起き正夫人と二人の娘は追い出されてしまう。一週間ほどして、李から遺言状を預かっていた弁護士が現れ、紙片の絵は李が愛蔵していた花瓶であることが判明した。しかし、その花瓶は既に売り払ってしまっていた。映画会社が買い取ったことを突き止めると、花瓶をめぐって第二夫人の息の掛かった無頼漢と、スタジオの中で争奪戦を繰り広げる。ようやく花瓶を取り戻し、探偵二人は遺産を受け継いだ姉妹二人とめでたくゴールインする。★『患難交響楽』(1941満洲映画協会)監督・張天賜、撮影・谷本精史、出演・周凋、趙成巽、浦克、王瑛、裏町のみすぼらしい旅社に住む音楽家、小説家、画家の三人は、貧乏暮らしで家賃の支払いも半年以上滞っている始末である。しかも仲が悪くて喧嘩ばかりしている。ある日、音楽家が、自分の友人を頼って歌の修行に出てきた女を、宿がないので旅社に連れて帰ってくる。旅社の住民がそれぞれに好奇の目を向けるが、彼女が仲に入ることによって三人の仲も良くなり、力を合わせて精進することになる。そこへ旅社の主人が借金で困っていることを聞き、三人は恩返しにと芝居の興行を思い立つ。台本は小説家、音楽は音楽家、装置は画家、出演者は旅社の住民全員、そして出し物は「孟姜女」と決まる。この思い切った興行は大当たりをとり、主人の借金どころか一躍成金になり、そのうえ方々から出演の依頼が殺到し引っ張りだこになる。★『幻夢曲』(1941満洲映画協会)監督・脚本・周暁波、撮影・島津為三郎、出演・徐聡、孟虹、杜撰、白玫、有名な歌手・白萍のステージを見た微娜と麗々は、彼の美貌と美声に心惹かれた。麗々は毎日のように白萍を訪れるが、白萍のほうは微娜に心を寄せていて、彼女が閨秀詩人であることから自分の歌の作詞を依頼する。二人の恋は急速に発展するが、古風な考えの微娜の母親は二人の結婚を許さず、外出することさえ禁じた。白萍は奉天での公演を終えると微娜の作詞による「幻夢曲」の発表会のために新京に帰ってくる。しかし、面会を拒絶されると、自分を捨てたものと誤解し、ステージで倒れてしまう。麗々は病の白萍を西洋に誘い出すと、それを聞いた微娜も家を抜け出してあとを追う。しかし、二人の仲の良いところを見ると悄然として帰郷し、そのまま病床についてしまった。娘の憔悴した姿を見た父親は白萍に手紙を出す。白萍は微娜の病床を訪れ、母親もようやく二人の結婚を許した。★『鉄漢』(1941満洲映画協会)監督・山内英三、脚本・尚元度、撮影・撮影・遠藤灊吉、出演・李顕廷、季燕芬、奉天城の城壁に近い貧民外に住む鍛冶屋の趙は、このあたりの顔役・王大全の子分として綿布の闇取引に一役買っている。趙はトラックの修理を頼んできた運転手の劉も加担させようとするが、劉はきっぱりと拒否する。闇取引の夜、小鳳は養父の趙に強要されて警察の目を誤魔化す役をするが、事情を知らない劉が通りかかって小鳳を助け、自宅に連れ帰ってしまう。闇取引は失敗する。起こった王は小鳳を連れ去る。劉は王の家が城壁の真下にあるのを幸いに、上からロープを使って屋敷に忍び込み、小鳳を救い出すことに成功する。必死にロープを伝って城壁を登ると、古びた城壁の一部が悪人たちの頭上に崩れ落ちていき、二人は無事に逃れることができた。奉天協和劇団の脚本による。坪井與の記録では撮影は気賀靖吾になっているという。★『家』(1941満洲映画協会)監督・脚本・王則、撮影・池田専太郎、出演・張敏、周凋、劉潮、鄭暁君、姚鷺、代々が鍛冶屋の王家は、父の死後、老母の姚氏、長男の家福が仕事を継いでいた。そして生活の因習的でつつましくそのために洋画を勉強している家禄や女学生の桂芬はいつも兄・家福とぶつかっていた。家福にとっては姉の桂芳がいつも生活費の無心を言ってくることが不満で、なにかと波風が絶えない。ある日、桂芳の夫が新事業のために千円の融資を頼んできたことから家福もついに怒りを爆発させてしまう。老母は皆のいざこざから神経衰弱で倒れ、やがて重体に陥る。皆は老母の病気を前にしてようやく目が覚め、家福も、そして家禄や桂芬も老母を中心にして家を守っていくことを誓うのだった。★『園林春色』(1941満洲映画協会)監督・周暁波、脚本・熙野(長畑博司)、撮影・谷本精史、出演・杜撰、孟虹、候志昂、林檎園の管理人の家には、桂芬と和甫の姉弟がいたが、親戚の孤児・小蘭が引き取られてくる。農園には作男の進財もいて、四人はすぐに仲良くなる。ある日、農園の持ち主は和甫の気性に惚れ込み、町の農学校に入学させて、卒業後は管理を任せる約束をする。十年の歳月が流れて和甫は学業を終えて再び農園に帰ってくる。小蘭は美しい娘に成長していて、和甫は妹としてではなく小蘭を娘として見るようになるが、小蘭から進財を愛していることを聞かされて苦悩する。しかし、嫉妬する自分を恥じて父母に二人が結婚できるように説く。なにも気づいていない小蘭は、和甫に感謝しつつ進財のもとに嫁いでいった。★『奇童歴険記』(1941満洲映画協会)監督・徐紹周、脚本・王智侠、撮影・遠藤灊吉、出演・趙愛蘋、葉生、戴剣秋、王兆義、馬曼麗、幼いときに両親をなくした王宏模少年は、継母の宋氏に育てられていた。宋氏は王少年につらく当たっていた。王少年の仲良しは馮兄妹、それに墓守の谷平老人だった。ある夜、馮少年と王少年は、村の不良・趙が墓地で金持ちを刺殺、谷平老人に口止めしているところを目撃した。谷平老人にかかる嫌疑を、王少年は訴えでて趙が犯人であることを証言する。趙は山の中に姿を隠すが、山遊びに行って皆とはぐれた王少年と馮菊児が迷い込んだ洞窟が、趙の隠れ家だった。しかし、趙は誤って谷底に落ち、王少年は洞窟の中に貴重な古鼎を発見して表彰される。継母もようやく前非を悔い、王少年を可愛がるようになった。★『荒唐英雄』(1941満洲映画協会)監督・脚本・張天賜、撮影・谷本精史、出演・浦克、張暁敏、馬黛娟、王大凡は大学を出て三年経つが、まだ就職もできない。恋人の麗華のすすめで体育雑誌社の記者に応募し、運良く就職することができた。運動のことなど皆目分からぬ大凡を主任は首にしようとするが、大凡はあるマラソン退会の取材中に犬に終われて選手団にまぎれ、間違って優勝者にされてしまったことから、社長の信任を得ることになった。そこで運動界の権威・馬博士の奉天での講演の随行を命じられるが、馬博士は汽車に乗り遅れ、大凡ひとりが奉天にいく。大凡が馬博士とそっくりなことから間違えられて大歓迎を受ける。じきに化けの皮が剥がれるが、町外れで馬車夫にハンドバックを奪われようとしている令嬢をたすけると、それが社長の令嬢と分かって一躍課長に抜擢され、晴れて麗華と結婚することになった。★『満庭芳』(1941満洲映画協会)監督・王則、脚本・張我権、撮影・池田専太郎、出演・徐聡、王麗君、孟虹、李顕廷、隋尹輔、梁其祥は娘二人の嫁いだあと、まだ国民学校に通う息子の成長を楽しみに余生を送っている。姉の玉敏は請負師の周誠に嫁いだが、夫が事業に失敗して貧乏していた。妹の玉鳳は、建築会社で働く林長華に嫁いでいるが、夫が薄給でもかまわず虚栄心が強くて濫費を重ね、やがて夫が会社の金を使い込むまでになる。林は退職金で清算するつもりで、其祥にすべてを打ち明けた。もとはといえば自分の娘の濫費から出たこと、其祥は千五百円の金を出してやる。しかし、林は周がようやく落札した請負工事の保証金に困っていることを知り、その金を周に貸し与えてしまう。周からその話を聞いた其祥は、林の思いやりに感動して改めて林に金を与え玉鳳も自分の非を悟るのだった。★『青春進行曲』(1941満洲映画協会)監督・張天賜、脚本・張我権、出演・董波、趙成巽、張奕、張暁敏、孟虹、蒋達夫は母を失い田舎の祖父母のもとで育てられていたが、大学卒業とともに、会社の支配人をしている父・実甫に呼ばれて都会に出てくる。父は達夫を試練のために平社員として入社させる。達夫は同僚の高佩時とアパートに同居するが、佩時が管理人の娘・秀琳を思っているのを知り、橋渡しをしてやる。ところが、秀琳は達夫に思いを寄せていた。一方、達夫は、集金の際に顧客の柳と取っ組み合いの喧嘩をするが、柳の娘・柳莉が中に入っておさめ、この柳莉からも達夫は好意を寄せられる。秀琳は嫉妬から佩時に気持ちが向いていく。ある日、達夫と佩時は副支配人が同業者と結託して、経理をごまかそうとしていることを知ると、二人の活躍でその証拠を掴み陰謀を暴く。実甫は大手柄の息子を支配人に、佩時を副支配人に任命した。やがて達夫と柳莉、佩時と秀琳の二組は幸福を掴む。★『王麻子膏薬』(1941満洲映画協会)監督・朱文順、脚本・張我権、撮影・福島宏、出演・周凋、劉志人、陶滋心、張氷玉、劉恩甲、街の一角にある平民娯楽場の市場に覗き眼鏡屋の店を出している王麻子、手品師の王俊子は、さっぱり客が入らず金にならない。一方、京韻太鼓の桂芬と桂香の姉妹は人気を呼んでいる。4人は同じ田舎から出てきた仲間である。王麻子は、儲からない覗き眼鏡屋を諦め、市場の主人・牛若旦那から金を借りて王麻子膏薬屋をひらく。王俊子も負けてはならじと、桂香の援助でその向かいに老王麻子膏薬屋をひらく。仲の良かった二人も商売上の争いから喧嘩を始める。桂芬と桂香がとりなして、今度は共同して店を持つことになる。しかし、桂芬に手を出そうとして逆に王麻子たちに袋叩きにされた牛若旦那は、王たちの店を叩き潰してしまう。追い出された4人は、街を捨てて再び仲良く田舎へと帰っていった。★『小放牛』(1941満洲映画協会)監督・王則、撮影・遠藤灊吉、出演・世枢、孟虹、牛飼いの朱曲が郊外で放牛していると、村娘の雲姐が通りかかり、杏花村への道を尋ねる。朱曲は道を教えるかわりに、娘に歌を歌ってくれるように頼む。仕方なく娘は歌いだすが、一曲終えると、また頼まれる。そのうちに朱曲も歌いだし、二人は歌のやり取りに連れて踊り、舞い始める。京劇の舞台をそのまま撮影した巡回映写用の作品で四巻の短編。この牛飼いの役を演じては他に並ぶものがないといわれた王長林の、その高弟・世枢が主役を務める。世枢は、王長林亡きあとの第一人者といわれた。★『玉堂春』(1941満洲映画協会)監督・王心斉、指揮・大谷俊夫、撮影・池田専太郎、島津為三郎、出演・趙嘯瀾、尚富霞、朱遇春、朱徳奎、金持ちの息子・王金龍は、源氏名を玉堂春と名乗る芸妓の蘚三と相愛の仲となって金を使い果たしてしまう。蘚三はひそかに王金龍に金を与え都に上って出世し自分を再び迎えに来てくれるように頼む。王金龍は途中で強盗に金を奪われるが、再び蘚三から金を与えられて都へ急ぐ。その後、蘚三は妾として売り飛ばされるが、売られた先の男の女房には情夫がいて、女房は情夫と共謀のうえ夫を毒殺、その罪を蘚三になすり付ける。蘚三は巡按署で裁判を受けることになる。裁判の日、巡按使としてこの事件を裁くのは王金龍であった。王金龍は犯人として出廷したのが蘚三だったので、その場で気絶してしまう。医者の手当てを受けて再び開廷されるが、王金龍は、自分の過去まで明るみに出され、私情を挟むことは許されないので、上司の裁断を乞う。そして心を鬼にして、慕い寄ろうとしてくる蘚三を退廷させる。「小放牛」と同様、京劇の舞台をそのまま撮影したもので、巡回映写用として作られた。映画は前半の部分の舞台劇をカット、裁判の場面の後半のみを作品にしている。王心斉の監督昇進第1回作品で、主役の蘚三を演じた趙嘯瀾は、梅蘭芳と並ぶ四大名女形のひとりといわれる尚小雲の高弟である。巡回で民衆に大好評を得た。★『夜未明』(1941満洲映画協会)監督・脚本・張天賜、撮影・福島宏、出演・周凋、馬黛娟、趙恥、浦克、北満の小さな町で旅行者を営む楊は、温厚な人柄だったが、裏では、呉服屋と称して時おり新京から訪れる王から阿片を仕入れる密売者だった。しかし、楊自身は古い人々と同様に阿片を売ることを罪悪だとは考えていなかった。楊は妻を亡くしたあと、娘の小蘭を目に入れても痛くないような可愛がり様だったが、その小蘭が新京での学業を終えて帰ってくることになった。ある日、小蘭は、父の阿片を見つけると、新時代の教養を身につけた彼女は父を責めて阿片の密売をやめさせる。小蘭が留守のあいだに訪れた王はふたたび阿片の密売を続けさせようとして楊と争い、誤って自分の刃で自らの命を落す。楊は死体を始末するが、やがて王の息子・棟材が父を探しに来た。楊は良心の呵責から、自殺する積りで家を出た。遺書を見た小蘭と棟材は楊を追って馬車を走らせるのだった。坪井與の記録では昭和16年の項に収録されている。★『春風野草』(1941満洲映画協会)監督・水ケ江龍一、脚本・楊葉、撮影・藤井春美出演・隋尹輔、白玫、劉志人、陶滋心、会社員の周超の妻・芳梅は、ある日、周の帰宅が遅かったことから喧嘩となり家を飛び出して、親友の華の家に駆け込む。しかし、華も小説家の夫・李博文と夫婦喧嘩の最中だった。突然転がり込んできた芳梅を前に、喧嘩を一時中断、李夫婦は甘ったるい芝居を打つ。それを見せ付けられた芳梅は堪らずふたたび夫の元へ帰っていく。芳梅が帰ると、李夫婦もさっきまでの喧嘩はやんで、李は明日までといわれていた放送劇を、たったいま体験したばかりの二組の夫婦喧嘩をネタにして書き上げた。翌日の夜、二組の夫婦はそれぞれに放送劇を楽しんで聞いていた。坪井與の記録では昭和16年の項に収録されている。★『龍争虎闘』前篇・後篇(1941満洲映画協会)監督・水ケ江龍一、脚本・姜衍(姜学潜)、撮影・藤井春美、出演・徐聡、蕭大昌、張敏、白玫、崔徳厚、張暁敏、隋尹輔、(前篇)李懐玉は、老母と兄・懐風との三人で貧しい生活を送っている。しかし幼児から山野を駆けあるいは、経書に親しみ、文武両道に秀でた青年に育っていた。官吏登用令が発せられて武芸にすぐれたものを募集することを知って、懐玉は受験の意を固めるが、かつて婚約を結んだ月英の父・呉員外に旅費を借用にてったところ、呉は小銭をやって追い返そうとする。呉の若い後妻・艶雲がを引き止めて歓待すると、呉は二人の間を誤解し、さらに月英との縁を断つために懐玉の暗殺を企てる。月英は小間使いから暗殺の話を聞くと懐玉の部屋にしのんできた刺客を殺し、懐玉に旅費を与えて出発させる。兄・懐風は懐玉の帰りの遅いのを心配して呉の家に談判に赴き、はずみで召使を傷つけてしまう。怒った呉は老母と懐風を捕らえるが、男装した月英の働きで逃げ出す。月英は懐玉を追うが、出会うことができずに、山中で匪首の白狼に襲われる。(後篇)女ながらも武芸で鍛えた月英に白狼はあっさりと屈服した、義兄弟の縁を月英に乞う。一方、懐玉は、途中で道連れになった葛欽洪と雨宿りのためにある寺に立ち寄る。月英もこの寺に宿を求めるがこの寺は賊の巣窟で、葛欽洪は殺されてしまう。乱闘の末、懐玉は、月英と知らずにまた別れてしまう。やがて試験の日、懐玉は及第するが、遅れてきた月英は、相手を懐玉と知らずに試合を申し込む。試合が始まって月英は、相手が懐玉と気づいたものの懐玉は、男装している月英に気づかず、真剣勝負を挑む。月英は、わざと試合に負け、ようやく一切を知った懐玉は、月英、老母、兄・懐風を伴って故郷へと帰っていった。唐代の武侠小説をヒントにした満映最初の古装片(時代劇)、日本のチャンバラ映画のテクニックを導入して「胭脂」とともに日本でも高く評価された作品である、興行的にも記録破りの好成績をおさめた。この作品の脚本を書いた姜衍(姜学潜)は、甘粕正彦が満映に入れた人物、満映で中国脚本家として養成された。実は秘密国民党員だったことから、日頃憲兵に目をつけられ、ある日、憲兵に連れ去られた、八木保太郎がそのゆくえを必死になって探したというエピソードが残っている。結局、甘粕の尽力で彼を無事取り返すことができるのだが、探し回る八木が満州における公安機関が林立し、あまりにも複雑すぎて、どこから探せばいいのか分からなかったという「複雑な連れ去られた先」を紹介している。満州内には当時、日本特務機関、日本憲兵隊、満州国憲兵隊、満州国国家警察、市警察、日本領事館警察、刑事警察、満州国特務機関、鉄道警察、と計9機関もあり、それぞれが独立して活動して縄張り争いがはげしく、たがいに反目しているので、結局どこを探せばいいのか途方にくれたという。満映で働く中国人もそこで職を得ているからといって、なにも保護されたり特別扱いされているわけではなく、中国人は日本の官憲に始終目をつけられ監視されており、街の本屋で左翼系の本(そもそもそれが仕掛けられた罠で)を立ち読みしてだけでも、特務機関とつながっている店主から密告されてすぐさま拘束され、ひどい拷問にあったという。蘇州の夜 1941松竹系 李香蘭【1942年(昭和17年)】★『迎春花』(1942満映、撮影協力・松竹)監督・佐々木康、脚本・長瀬喜伴、撮影・野村昊、森田俊保、中根正七、美術・磯部鶴雄、音楽・万城目正、録音・中村鴻一、現像・富田重太郎、平松忠一、編集・濱村義康、台詞指導・王心斎、製作担当・大辻梧郎、磯村忠治、撮影事務・安井正夫、1942.03.21 9巻 74分 白黒 出演・李香蘭、近衛敏明、浦克、木暮実千代、藤野季夫、吉川満子、那威、張敏、日守新一、戴剣秋、袁敏、曹佩箴、干延江、周凋、王宇培、関操、三和佐智子、路政霖、江雲逵、宮紀久子、下田光子、瀧見すが子、佐藤忠男は「キネマと砲聲」のなかで、当時「キネマ旬報」に掲載されたこの作品の批評として「・・・それにしても之は何という貧しい作品であろう。之は観客を喜ばしめ、楽しませるものを僅かしか持っていない。物語は先ずよいとしても、映画表現の貧困さは、結局、此映画が、李香蘭を売りものにした興業価値に頼る以外に取り柄の無いという感じを与える。二人の女性に日満夫人を象徴せしめた脚本の組み立ては大船映画の常道であるとしても、此処には二人の女の心は明確に汲み取れるほどには描かれていない。・・・満映作品には、之に及ばぬものが数限りなくあるには違いないが、松竹スタッフの全面的な生産である点、それが満映作品としての輝かしい存在理由を持たぬ点に、何よりの不備が感じられる。」(1942.4.21号・村上忠久)とこの作品を酷評するだけでは足りず、満映の一般の作品は、さらに水準が低いはずだと決め付けられたと紹介している。★『胭脂』(1942満洲映画協会)監督・谷俊、脚本・柴田天馬、撮影・池田専太郎、出演・鄭暁君、隋尹輔、趙愛蘋、杜撰、候志昂、郭宛、浦克、終日刺繍をして孝行している胭脂は、向かいに住む龔の妻・王氏と日頃から仲が良いが、王氏は軽口の女だった。ある日、遊びに来ていた王氏を送るために通りに出たところ、通りかかった青年・顎秋隼を見そめる。行商人の夫が留守がちなのを幸い、王氏は宿介という青年と深い仲になっていたが、宿介が顎と同学であることから王氏は仲を取り持つ約束をした。その話を聞いた宿介は、胭脂の家に顎だと偽って忍び込み、胭脂に迫った。胭脂に撥ね付けられたものの、鞋を盗んで逃げる。鞋を男に渡すことは女が全てを許すしるしとされている。しかし、宿介は途中で鞋を落としてしまい、毛大、張三、李四の誰かがそれを拾う。そして拾った人物は胭脂の家に忍び込むが、部屋を間違えて起きてきた父親を殺してしまう。胭脂は鞋を持ち去った男が顎だと思っていたので、それを供述すると嫌疑は顎に掛かった。しかし、裁判ののち、毛大、張三、李四も捕らえられその中から真犯人も判明した。やがて胭脂と顎はめでたく結ばれる。原作は、清代の小説「聊斎志異」で、京劇「胭脂判」としてもよく知られた怪異譚。脚色の柴田天馬は「聊斎志異」の研究家で、そして大の映画ファンでもあり、満映の嘱託になっていた。坪井與の記録では昭和17年(康徳9年)の項目におさめられている。佐藤忠男の「キネマと砲聲」には、「従来、北京語映画として作られながら、東北三省(満州)以外に公開されなかった満映の劇映画(娯民映画)から優秀作品を選んで、上海ではじめて公開した。それは「龍争闘虎」と「胭脂」の二本であり、ことに後者は情感のある秀作であった。」と高く評価されたことを紹介している。★『瓔珞公主』(1942満洲映画協会)監督・山内英三、脚本・姜衍、撮影・島津為三郎、出演・李顕廷、劉潮、趙成巽、安琪、徐聡、趙愛蘋、張静、遠い昔、魁量とよばれる国は、土地は肥え、五穀は豊穣、民は太平を謳歌し、国王は仁慈の心厚く、城下は賑わっていた。国王夫妻は19歳になる公主に婿を取ることが唯一の望みである。そこで4人の重臣達の公子から婿を選ぶことに決め、親書を送った。やがて、何声春、馬得勝、厳重福、魏鳴が集められたが、魏鳴ひとりだけが献上物も持たずに逞しい体を粗衣に包んだだけで現れた。公主は、それぞれに魔鬼山に棲む龍の目を取ってくるように難題を与えると、何声春、馬得勝、厳重福の三人は龍に近づくこともできず偽の龍眼を持ち帰って公主を欺こうとするが、魏鳴は龍を倒して龍眼を手に入れる。公主は三人の偽物をすぐに見抜き、魏鳴はめでたく公主を得て、魁量国の王位を継いだ。この作品は、坪井與の記録には昭和17年(康徳9年)の項目に収録されている。★『黄河』(1942満洲映画協会)監督・脚本・周暁波、助監督・徐紹周、撮影・谷本靖史、美術・伊藤彊、出演・周凋、徐聡、張奕、孟虹、王麗君、隋尹輔、王影英、李香蘭、王字培、孫唯倹は先祖代々より黄河畔に住む農民だが、盲目の母と妹を抱えて貧乏のどん底生活をしている。わずかな麦畑さえ地主・万才の抵当に入っている。妹の小玉は万才の三男・発泉と許婚であるが、万才はもはや喜んではいなかった。麦畑の刈り入れがきて、唯倹は抵当をめぐって趙と争い、誤って傷つけてしまったことから流浪の旅にでる。その頃、日支の戦いは激烈を極め、敗走する中国軍は黄河を決壊させて日本軍の進路を阻んだ。唯倹は故郷に帰ってみると、家は跡形もなく、村から遠くはなれたところで、ようやく母や妹にめぐり会えた。発泉の兄・発有は中国軍の遊撃隊長だが、民衆の苦しみを眼前にして悩んでいる。しかし、さらに破壊工作の命令が下る。躊躇する発有は、政治局員に狙われるが、それを知った次男の発源が殺されてしまう。発有は政治局員を射殺して日本軍に協力する態度をしめす。決壊された黄河に、軍民協力のもとで新たな堤防が作られ始めた。黄河 1942満映系 李香蘭★『歌女恨』(1942満洲映画協会)監督・朱文順、原作・樑孟庚、脚本・丁明(山内英三)、撮影・藤井春美、出演・白玫、浦克、趙愛蘋、楊恵人、李景秋、呉菲菲、劉恩甲、張静、江雲達、蕭大昌、若く美しい譚小黛の率いる譚一座は、旅興行の途中、馬車を引く馬が足を痛めて動けなくなってしまった。そこへ通りかかった騎馬の青年・王仲菲は、事情を知って譚小黛を駅まで送り届けた。都会に帰ったある夜、小黛はふたたび王仲菲にめぐり会った。彼はある地主の息子で、叔父の娘・淑鳳と結婚することになっていたが、この再会から二人は愛し合うようになる。二人の秘密を知った義母は、王の叔父と王の通う学校へ密告し二人の仲を割こうとした。叔父は小黛を訪れ、王の将来のために別れてくれるように頼んだ。小黛は願いを聞き入れ王に絶縁状を送った。小黛は旅先の宿で好色の銭に力づくで迫られたが、そのとき、銭に棄てられた妾が飛び込んできて銭を撃った。小黛は、子供を抱いた妾を哀れに思って、自分で罪を着ようとし、裁判を受けた。しかし、真犯人は名乗り出て、小黛は犯人の子供を育て上げることを誓うのだった。★『一順百順』(1942満洲映画協会)監督・脚本・王心斎、撮影・福島宏、出演・浦克、張奕、葉苓、周凋、陶滋心、王安、大順は、子供のときに両親を失い、いまは自動車掃除夫をしている。大順はタイピストの小萍を愛しているのだが、彼女の父が欲張りで金のない大順の結婚を許さない。大順は、自動車掃除夫をやめて、海水浴場の救護員の仕事につく。しかし、彼は泳ぐことができない。ある日、舟の中で遊んでいると、突然助けを求める声がした。自分が泳げないことも忘れて、夢中で海に飛び込む。無事に助けた相手は前の会社の社長令嬢だった。社長からお礼として千円を送られた大順は、ふたたび前の会社に復職できた。そしてめでたく小萍とも結婚することができた。★『雁南飛』 : 監督楊葉★『皆大歓喜』 : 監督王心斎★『黒痣美人』(1942満洲映画協会)監督・劉国権・笠井輝二、脚本・佐竹陸男、撮影・気賀靖吾、防諜をテーマとした三巻の短編映画。★『花和尚魯智深 水滸伝初集』(1942満洲映画協会)監督・水ケ江龍一、脚本・何群、張我権、撮影・中根正七、出演・陳鎮中、李顕廷、徐聡、蕭大昌、戴剣秋、張静、劉恩甲、浦克、杜撰、趙愛蘋、白玫、金翠蓮と父親は酒楼で琵琶を弾き歌を唄うことで生活している。金翠蓮は愛人の趙が東京に行くための旅費を鎮関西に借りている。一方で鄭に妾のなるように責め立てられている。鄭はある日、場銭の取立てに来て、棒使いの豪傑・李忠、李忠の弟子・史進と争い大騒ぎを起す。そこへ乱暴者の魯達も加わり鄭の一味を追い払う。李忠、史進、魯達の三人は意気投合して酒楼にあがる。そこで翠蓮親子の話を聞いた三人は金を出し合い親子を東京の趙のところへ旅立たせる。翠蓮は趙と出会い、いままでのイキサツを語る。魯達は懸賞を懸けられ追われるが、趙にかくまわれ、やがて五台山文殊院の智真長老を頼って出家し、智深と法名を名乗る。しかし、大酒を飲んで手に負えず、大相祥寺にやることにする。魯智深は長老に感謝し、預けていた禅杖と戒刀を受け取るために旅にでる。★『娘娘廟』(1942満洲映画協会)監督・水ケ江龍一、脚本・姜衍、撮影・遠藤灊吉、出演・曹佩箴、張静、馬黛娟、徐聡、張奕、張敏、趙愛蘋、戴剣秋、王瑛、張望、陳鎮中、劉恩甲、郭範、鄭暁君、張暁敏、張氷玉、陶滋心、呉菲菲、周凋、何奇人、王影英、馬旭儀、蕭大昌、王母娘娘の大殿で三人の天女・碧宵、瓊宵、雲宵が唄い踊っている。これを見た来客の九天娘娘は、三人に天露の酒を与える。酔った三人は、王母娘娘の怒りに触れて下界に追放される。そして、それぞれに下界で生まれ変わり育つ。やがて文武両道を教えられ、ある夜、馬賊が襲来するが、三人の娘は撃退する。そして王娘娘の声で「早く天に帰れ」という夢を見る。三人の娘が歩き疲れていると、若者の馬車に救われ、お礼の歌を唄うと、天に昇っていく。若者は、村人にこのことを告げると、村では娘たちの座っていた石の上に廟を建て三人を祭った。満鉄広報部で、カメラマン藤井静が隣の丘にカメラをすえ、ズームレンズの威力を駆使して、大石橋の娘々廟に詣でる素朴な農民の姿を精密にとらえた「娘々廟会」(製作は満鉄映画制作所で日本初の文化短編映画とされている)とは別の作品で、解説を中村伸郎が語っている。この娘々廟は、満人の信仰厚く、満州各地にあるが、なかでもこの大石橋郊外迷鎮山の祭りは一番にぎやかで、春になれば農民たちは遠くからこの祭りのためにやってくるその様子が沿道の屋台店とともに親愛を込めて描かれている。この作品を編集・構成したのは名編集者・芥川光蔵、本作は彼の代表作のひとつである。このほか「ガンジュール」、「草原バルガ」、「秘境熱河」があり日本国内でも高く評価され、いずれも佳作としてベストテンを賑わし、あるいはランクされた。彼は青地忠三とともに戦前の日本を代表する記録映画作家のひとりである。1930年の「ガンジュール」は、北蒙古最大のラマ廟の祭礼を記録したもので、美文調のタイトルと原住民の情緒的な描き方が注目された。「草原バルガ」は、満州コロンバイル、バルガ地方の草原風景と遊牧蒙古人の生活をフォトジェニックにとらえ、茫洋として果てしない大陸の風景を巧みに活写した。★『愛的微笑』(1942満洲映画協会)監督・丁明、脚本・荒牧芳郎・佐竹陸男、撮影・中根正七、美術・堀保治、出演・葉笙、曹佩箴、王芳明、李唐、干延江、江運達、張敏、畢影、楊春生は家は貧しかったが、学校では首席を通して董先生に愛されていた。同じ組の達元は、そんな春生を妬んでいて、いつも意地悪だた。組で万年筆が紛失したときも、春生のせいにした。学校ではグライダーを飛ばすのが流行っているが、買ってもらうことができない春生は、肯定の隅からさびしく眺めているだけだった。しかし、ある日、誘惑に負けて玩具店からグライダーを盗んでしまった。姉はそれを知って、グライダーを店に返させた。店の主人は正直な行為に感心して、かえって大きなグライダーをくれた。生徒たちが写生に出かけた日のこと、達元の画用紙が風に飛ばされて河の中に落ちてしまった。春生は河に入ってそれを拾おうとするが、溺れそうになり、董先生に助けられた。それからは達元と春生は友達になって、運動会では肩を組んで二人三脚に出場するのだった。★『雁南飛』(1942満洲映画協会)監督・楊葉、脚本・荒牧芳郎、撮影・池田専太郎、出演・李顕廷、鄭暁君、李景秋、李雪娜、趙恥、陶滋心、杜撰、張愛蘋、蕭大昌、李映、発動船の機関夫をしている楊徳成は、船主の銭世忠の娘・王華と愛し合っている。しかし、世忠は二千円の金を持ってこなければ、娘との結婚は許さないと楊徳成に言い渡す。楊は、金を稼ぐために地方に出かけて行く。王華と楊とのあいだには、名吉という子供も生まれていたのだが、八年という歳月が流れ、王華の父母は新しい船長の劉源泉との結婚を娘に勧めた。父親のいない名吉を不憫に思って王華は結婚を決意する。三人は幸福だった。そんにところに楊が二千円の金を貯めて帰ってきた。王華は自分の不実を詫びたが、楊は承知できなかった。しかし、劉を実の父親だと信じている名吉の姿を見て、自分から身を引くのだった。そして金をためる九年のあいだ、自分を励ましてくれた義侠の女・静英を懐かしく思い出だしていた。★『皆大歓喜』(1942満洲映画協会)監督・王心斎、脚本・八木寛、撮影・福島宏、出演・張敏、徐明徳、劉婉淑、趙愛蘋、浦克、徐頴、王安、田舎のおばあさんの所へ新京にいる長女・喜英と次男・克定から、建国十周年祝賀行事に来るよう誘いがくる。喜英は病院長の夫人だが、ヒステリーで嫉妬深い。祖母が来たら夫を困らせようと企んでいる。克定は新聞記者で、祖母に結婚の許しを得ようと思っている。三男は博覧会場で会計兼ボーイの仕事につき、妻があるが祖母には隠している。博覧会場で落ち合った一家は、すべてをおばあさんがうまく裁いて、まるい収めてくれる。おばあさんはまた、豊年の喜びに湧く田舎へと帰っていった。★『恨海難塡』(1942満洲映画協会)監督・朱文順、脚本・丁明、撮影・竹村康和、出演・徐聡、李顕廷、張静、張慧、趙成巽、隋尹輔、葉苓、陶滋心、検事・楊国は、妻・秀娟、そして子供の春生と平穏な日々を送っている。そこへ、長年外国で暮らしていた弟の国祚が帰ってきた。かつては秀娟と愛を語ったことのある国祚は、秀娟に金を要求した。そして、もし金を出さなければ、昔もらった秀娟からの手紙を楊国にばらすと脅迫した。秀娟はやむなく信托証書を渡すが、国祚はさらに兄の実印を使って金を手に入れる。しかし、悪党の馮に撃たれて金も証書も奪われる。馮は秀娟の美貌にも目をつけ脅迫する。やがて秀娟は全てを告白して裁きを待つのだった。★『黒瞼賊 前篇 後篇』(1942満洲映画協会)監督・張天賜、脚本・丁明、姜衍、撮影・藤井春美、出演・周凋、白崇武、劉恩甲、畢影、王宇培、趙愛蘋、陶滋心、張奕、馬黛娟、戴剣秋、ある県域で武士ばかりが狙われる殺人事件が起こる。犯人は黒瞼賊と思われているが、捕手頭の高順には手に負えない。高順は呂明と呼ばれるせむしの画家を、その腕を見て武芸達者の者と判断した。呂明は妓館の紫花を描いている。夏輝と名乗る青年武士も足しげく通ってくる。父を黒瞼賊に殺された青年剣客の魏良は、やがて夏輝と一騎打ちをする。高順は夏輝を殺人事件の犯人と見て家を襲うが、夏輝は平然として奥に消えると入れ替わりに黒瞼賊が現れる。高順は地下室に突き落とされ、黒瞼賊の高笑いが響き渡る。やがて犯人が追い詰められるときがくる。呂明は変装をとると夏輝になり、そして、その正体は黒瞼賊であることを自ら暴いて倒れる。張天賜の監督による初めての古装片。前篇 後篇に分かれ、張奕が呂明、夏輝、黒瞼賊の三役を演じている。★『豹子頭林冲 水滸伝第二集』(1942満洲映画協会)監督・朱文順、脚本・熙野(八木寛、長畑博司、張我権)、撮影・深田金之助、出演・周凋、王麗君、王芳蘭、李顕廷、趙成巽、陳鎮中、徐聡、近衛兵の槍術の師範・林沖は、教頭・張の娘・貞娘と許婚だった。ある日、林沖は街中で鉄の禅杖を振り回している一人の僧を押し留めた。有名な花和尚・魯智深であった。二人はすぐに意気投合して酒楼で義兄弟の縁を結ぶと花和尚の大相祥寺へ出かけた。そのとき、ちょうど貞娘が大相祥寺へお参りに来ていたが、貞娘は狩猟の帰りらしい立派な服装の若者に言い寄られて楼上に連れ込まれようとしていた。林沖は若者を打ち倒そうとしたところ、自分の上官・高大尉の息子・高衛内であることから許してやる。高衛内は林沖をなんとかして陥れようと画策する。新しい刀を購入した林沖は、高大尉の使いが、自分の刀と比べたいことを伝えに来たので役所へ出向く。しかし、役所には誰もいず、白虎節堂の中まで入ってしまった。そこは軍の規律で誰も入ってはならない場所だった。そこへ高大尉があらわれ、林沖を取り押さえる。計られた林沖は裁判の後、滄洲へ流罪となる。高衛内の部下は、林沖の護送途中で殺してしまうよう役人に金を与える。しかし、これを花和尚が聞きつけ、やがて衛内もその部下を斬り捨てる。駆けつけた貞娘は、うれし泣きに泣いて林沖と抱き合うのだった。★『五千万人の合唱』(1942満洲映画協会)監督・大谷俊夫・朱文順、製作・伊東弘、監修・多田満男(牧野満男)、脚本・谷俊・爵青、撮影・藤井春美・福島宏、美術・堀保治、録音・大森伊八、編集・石野誠三、満州建国十周年の紀念映画として企画された。詳細は不明。坪井與の記録には「作られなかったのではないか」との記述がある。★勤労的女性(1942満洲映画協会)監督・坂根田鶴子、★健康的小国民(1942満洲映画協会)監督・坂根田鶴子、【1943年(昭和18年)】★『誓ひの合唱』(1943満洲映画協会)製作・藤本真澄、監督・脚本・島津保次郎、撮影・鈴木博、音楽・服部良一、美術・松山崇、録音・鈴木勇、照明・平田光治 出演・李香蘭、黒川弥太郎、鳥羽陽之助、清水将夫、河野秋武、石島房太郎、浅田健三、佐山亮、冬木京三、西村慎、生方明、中村彰、黒井洵、載剣秋、灰田勝彦、製作=東宝映画=満州映画協会 1943.08.12 紅系 10巻 2,321m 85分 白黒 誓ひの合唱 1943満映系 李香蘭★『碧血艶影』(1943満洲映画協会)監督・劉国権、脚本・丁明、撮影・気賀靖吾、出演・徐聡、周凋、張奕、浦克、趙成巽、張静、陳鎮中、李瑞、金富貴という富豪の家に十万円を要求する脅迫状が届いた。現金を指定の場所に置くと警官が張り込んでいたにもかかわらず持ち去られてしまう。何文才の手下の一人・張甲祖とその女房・蘇秀麗、そして羅子安の三人組が企てた事件だった。終われる犯人の一人・秀麗は、寺の僧に返送して隠れていたが、何文才に突き止められる。そこへ警官が踏み込んできた。金を隠した場所を言わない秀麗を何文才が撃つ。秀麗は倒れながらも何文才を撃ち、金の場所を示す言葉を残して死ぬ。蘇秀麗は、金富貴の家で働く女中・秀麗の姉だった。二人で仲良く暮らすことを夢見て犯した過ちだった。★『求婚啓事』(1943満洲映画協会)監督・王心斎、脚本・佐竹陸男、撮影・福島宏、出演・周凋、葉苓、杜撰、浦克、江雲達、梅秋、趙愛蘋、大順百貨店主の呉国卿は、十年前に妻を失い、いまでは一人娘の芳娥の成長を楽しみにしている。芳娥は、父が再婚しない限りは、一生父のそばにいる積りであった。しかし、ある日、百貨店で逢った田華圃に心惹かれる。国卿は、紅蓮という女の元に通い詰めていたが、紅蓮とその情夫に金をゆすられる。ある日、新聞の求婚広告を見て、国卿は、その相手と会うことになる。しかし、相手の方女史を訪ねたところ、広告のことは何も知らないという。その犯人は芳娥だった。方女史は芳娥の女学校時代の先生だった。やがて国卿と方女史、芳娥と華圃の二組の夫婦がめでたく誕生する。★『銀翼恋歌』(1943満洲映画協会)監督・大谷俊夫、脚本・長畑博司、撮影・竹村佐久象、出演・徐聡、戴剣秋、王麗君、趙成巽、陳鎮中、張奕、浦克、趙愛蘋、孟虹、馬黛娟、袁敏、林志人と秦大華の操縦する小型飛行機が鏡泊湖畔に不時着した。そこで知り合った可憐な乙女・小鳳は、母を失い、叔父を頼って新京に出てきて李家の女中となって働いた。下男として働く従兄の金吾は小鳳をものにしようと狙い、叔母は売り飛ばそうともくろんでいる。ある日、小鳳は、街に出て志人と再会し、飛行場を訪ねて飛行機に乗せてもらう。小鳳は、志人から結婚を申し込まれるが、その頃、金吾は金を使い込んで李家をグビになり、小鳳も家を追われた。全てを諦めて小鳳は身売りすることを承知し、代金はそのまま志人に研究費として送るのだった。落ち込んでいる志人を大華は花街を連れて行く。そこで、いまは雪梅と名乗っている小鳳だった。小鳳は、鏡泊湖に逃げ帰った。志人もあとを追ったが、ときすでに遅く、湖上に小鳳の清らかな姿を見つけた。小鳳は、志人の腕の中で静に息絶えた。★『白馬剣客』(1943満洲映画協会)監督・張天賜、脚本・八木寛、撮影・藤井春美、出演・張奕、呉恩鵬、浦克、華影、張暁敏、周凋、戴剣秋、王英影、城主・陳大守には、白爵のほかに、側室の段氏の子・実念の二人の子供がいた。大守は、跡継ぎを白爵と決めていた。段氏は自分の子供を立てたいという念願で一杯だった。その頃、白爵のみを案ずる重臣たちが、黒衣隊と称する騎馬隊に次々と殺された。白爵派は、黒衣隊を討つには周志傑の帰りを待つよりほかなかった。しかし、帰ってきた志傑は、黒衣隊に恐怖心さえ抱いている様子で、一同は大いに失望した。志傑の恋人・勝姑の父・呂悦まで黒衣隊に殺されるに及んで、勝姑も志傑の不甲斐なさに憤慨する。段氏側は、大宴会を開きその席で大守暗殺さえ企てる。そこへ白馬剣客が現れ、賊を倒す。白馬剣客の仮面の下は志傑その人であった。勝姑は彼の忠誠にただ涙を浮かべた。★『富貴之家』(1943満洲映画協会)監督・脚本・周暁波、撮影・福島宏、出演・張敏、王宇培、白玫、周凋、呉菲菲、常娜、梅枝、隋尹輔、張奕、馬黛娟、江雲達、何奇人、陳鎮中、劉恩甲、大家族丁家の長男・世業は、一家の権力者として家事の一切を妻・大嫂に任せている。次男・世家は、遊び好きで密かに女を作っている。長女・治範は楽天的である。大嫂は、治範を邪魔者扱いして早く嫁にやろうとする。三男・世勤は日本留学中、次女・治平も女学生で学友の桂芬は、兄・世勤と意気投合している。暗い雰囲気の家庭を、帰国した世勤は改革しようとする。しかし、大嫂は治平に結婚を強制しようとして、治平を自殺に追い込む。世勤は大嫂と口論の末、大嫂を殺してしまう。家の財産を自分のものにしようとたくらんでいた長兄の反省を、ようやく牢獄につながれている世勤は知る。桂芬の同情を得て、未来の新生に希望をつないでいる。★『却後鴛鴦』(1943満洲映画協会)監督・脚本・朱文順、出演・浦克、張静、徐聡、趙愛蘋、孟虹、張奕、王麗君、王宇培、曹佩箴、江雲達、袁敏、金持ちの息子・唐鴻志の家には、孤児で従妹の陶英華が引き取られている。英華はすでに鴻志のタネを宿しているが、継母は自分の姪・玉茹と鴻志を結婚させて家を牛耳ろうと思っている。しかし、鴻志が承知しないので英華を弟の家に追いやってしまう。英華は死を考えたこともあるが、腹の中の子供のために仕事を転々としながら、仕事場の同僚の家で出産する。ふたたび鴻志とめぐり会ったとき、子供はすでに死んでいた。鴻志の父は、自分の非を悔いて、財産の一部で貧しい子供たちのために平民学校を創立する。ようやく鴻志と英華の二人も幸せをふたたび取り戻すのだった。★『千金花子』(1943満洲映画協会)監督・王心斎、撮影・福島宏、詳細不明★『燕青と李獅子』水滸伝第三集(1943満洲映画協会)監督・張天賜、脚本・八木寛、撮影・島津為三郎、燕青は任侠の若者、縁あって梁山泊の宋江の世話になる。宋江は、自分たち梁山泊の連中は悪党ではなく、正義と義侠のために挺身していることを天子に奏上するため、東京城に向かう。しかし、天子は面会しようとはしない。天子の愛している芸妓・李獅子が、宋江に従ってきた青燕に惚れ込んでしまう。李獅子の手引きでようやく宋江は目的を果たすことができる。★『白雪芳踪』(1943満洲映画協会)監督・朱文順、脚本・馮宝樹、撮影・竹村佐久象、音楽・満映国楽研究部、出演・張敏、趙成巽、白玫、張素君、華影、戴剣秋、金持ちの紳士・魏以康は、妻の死後、十回忌の夜、社交界の花形である燕影と再婚するために、女中の呉媽に縁を切ることを伝える。呉媽とのあいだに仲明という男の子までもうけた関係だったが、家を追われて呉媽は仲明の手を引き街をさまよう。ある日、歌う唄いの少女・蓮芳とその祖父との二人連れと知り合い、互いに力を合わせて生活することになる。蓮芳は、歌手としてある茶館と契約した。すこしは収入も安定して仲明も小学校へ通うことができる。それから十二年、仲明は大学生になり、蓮芳と相愛の仲になっている。その頃、魏以康は、燕影との生活にも失敗し、さらに投機にも失敗して破産してしまう。ある夜、魏以康は、茶館で蓮芳を見初め、家に連れ込んで手篭めにしてしまう。魏の家で蓮芳は呉媽と仲明が写っている写真を見つけ、呉媽の告白から過去を知ることになる。蓮芳は汚れた体になったいま、家を出て仲明から去っていく。祖父の死を契機に蓮芳は看護婦となって働くが、ある日、病院に危篤の身となった魏以康が運ばれてくる。魏以康は過去を悔いて呉媽と仲明に会いたいと訴えるが、仲明は自分の過去を知って怒り、会おうとしない。やがて魏以康は息を引き取った。仲明は蓮芳を探したが、ふたたび蓮芳は仲明の前から姿を消して遠くへ去っていった。★『今朝帯露帰』(1943満洲映画協会)監督・楊葉、脚本・原健一郎、詳細不明★『サヨンの鐘』(1943松竹(下加茂撮影所)・台湾総督府・満州映画協会)監督・清水宏、脚本・長瀬喜伴、牛田宏、斎藤寅四郎、撮影・猪飼助太郎、音楽・古賀政男、挿入歌・「サヨンの歌」詩・西条八十、曲・古賀政男、唄・李香蘭、「なつかしの蕃社」唄・霧島昇 菊池章子、「サヨンの鐘」唄・渡辺はま子、美術・江坂実、装飾・井上常次郎、録音・妹尾芳三郎、編集・猪飼助太郎、斎藤寅四郎、衣裳・柴田鉄造、字幕・藤岡秀三郎出演・李香蘭(サヨン)、近衛敏明(武田先生)、大山健二(村井部長)、若水絹子(その妻)、島崎溌(サブロ)、中川健三(モーナ)、三村秀子(ナミナ)、水原弘志(豚買・サヨンの父)、中村実(ターヤ)、応援参加・桜蕃社 1943.07.01 紅系 9巻 2,520m 92分 白黒 サヨンの鐘 1943満映系 李香蘭★『萬世流芳』(1942・公開1943中華聯合製片公司=中華電影=満映)監督・張善琨・卜萬蒼・朱石麟・馬徐維邦・楊小仲、出演・陳雲裳(靜嫻)、袁美雲(玉屏)、李香蘭(鳳姑)、高占非(林則徐)、王引(潘達年)、阿片戦争 (1840-1842) 百周年記念作品で、中国のトップ俳優4人と李香蘭が共演した話題作。当時広東で阿片の取締りにあたっていた英雄的な大臣林則徐の伝記映画として製作された。中華聯合製片公司と中華電影 (中華電影公司) は日本占領下の上海の国策映画会社 (1943年に合併して中華聯合電影公司) で、満州の国策映画会社満映 (満州映画協会) との共同製作。当初、「反英」のコンセプトで製作されたが、中国人は「抗日映画」と読み替えてヒットしたという。硬質な官憲の伝記映画というよりは、あまいメロドラマと割り切ってみた方が楽しめる。登場する女性3人は女優陣が演技を競う。林則徐が最初に客として招かれた福建巡撫の家の娘靜嫻は林則徐に縁談を断られ、尼寺に篭って阿片中毒を直す薬「戒煙丸」作りに精を出す、阿片戦争が始まると民衆軍を率いて戦い戦死する。福建巡撫の後に林則徐が客として招かれた元県令の家の娘玉屏は、病に倒れた林則徐を看病し、その縁で妻となる。玉屏は母の阿片中毒を直すために「戒煙丸」を求めることで靜嫻と出会い、阿片と戦う林則徐を共に支える。李香蘭が演じるのは阿片窟に出入りする飴売りの娘鳳姑で、阿片中毒で身を崩した潘達年(林則徐の学友)を支えて社会復帰させる妻を演じている。潘達年の阿片中毒を直すために「戒煙丸」を求める鳳姑も靜嫻と知り合う。林則徐の出世や、潘達年の阿片中毒や社会復帰の描写は淡白に描かれているが、女性の成就しない恋、献身、微妙な三角関係と女性間の友情を描いた部分はメロドラマ色が強い。阿片窟で飴売りする靜嫻が阿片窟で飴売りのふりをして『売糖歌』を歌う場面が印象的である。林則徐らの阿片の害毒と国を憂う直接的なセリフよりも、むしろ李香蘭の歌の方が、むしろ説得力があると評された。萬世流芳 1943満映系 李香蘭★戦ひの街 1943松竹系 李香蘭★開拓の花嫁(1943満洲映画協会)監督・坂根田鶴子、★野菜の貯蔵(1943満洲映画協会)監督・坂根田鶴子、★暖房の焚方(1943満洲映画協会)監督・坂根田鶴子、【1944年(昭和19年)】★『虱は怖い』(1944満洲映画協会)演出・加藤泰通、脚本・今井新、撮影・吉田貞次、動撮(アニメーション)・笹谷岩男、森川信英、音楽・金城聖巻・新京音楽団、照明・山根秀一、2巻 14分 白黒 原題:子虱的怕可加藤泰(通)が満映で撮った文化映画。実写部分のさまざまな映画技法や当時としては高水準のアニメーションを駆使することによって面白い作品になっている。満映時代にはもう1本『軍官学校』(1944)という作品もある。(原題;子虱的怕可)』(アニメーション;2巻14分)★『軍官学校』(1944満洲映画協会)演出・脚本・加藤泰通、撮影・黒田武一郎製作・満州映画協会 白黒 ★『晩香玉』(1944満洲映画協会)監督・周暁波、脚本・姜学潜、撮影・藤井春美、王福春、出演・浦克、白玫、寒梅、屠保光、徐聡、寒梅は、大連の出身でこの作品でデビューした新人。この一本でスターとなり、「蘇少妹」の主役に抜擢されることになる。★『緑林外史』(1944満洲映画協会)監督・王心斎、脚本・栗原有三、撮影・近藤稔、出演・浦克、陳鎮中、曹佩箴、建国前に監獄に入っていた緑林出身の馬賊が、建国後に出獄して都会に出てくるが、以前の社会とは一変。勝手が違って失敗ばかりする。★『好孩子』(1944満洲映画協会)監督・池田督、脚本・館岡謙之助、撮影・竹村康和、出演・干延江、少年教育を目的とした少年院を舞台とした物語。多くの中学生がエキストラとして参加した。★『愛與讐』(1944満洲映画協会)監督・笠井輝二、原作・原健一郎、脚本・熙野(八木寛、長畑博司、張我権)、撮影・岸寛身、出演・孟虹、杜撰、張敏、徐聡、張奕、文芸作品で、国務院芸術賞を受けた。★『血濺芙蓉』(1944満洲映画協会)監督・広瀬数夫、脚本・原健一郎、撮影・竹村康和・王福春、出演・徐聡、白姍、隋尹輔、芦田伸介、活劇物で監督・広瀬数夫が俳優・ハヤブサ・ヒデト時代のアクロバット芸を披露している。新京放送局放送劇団員の芦田伸介が出演している。★『夜襲風』(1944満洲映画協会)監督・広瀬数夫、脚本・原健一郎、撮影・福島宏、周凋、張奕、隋尹輔、李顕廷。活劇物。助監督の池田督が作った予告編から優れていて好評だった。★『映城風光』(1944満洲映画協会)監督・大谷俊夫、撮影・深田金之助、撮影風景を面白く見せる風景映画。★『妙掃狼煙』原題:王順出世記(1944満洲映画協会)監督・脚本・大谷俊夫、撮影・深田金之助詳細不明。★『化雨春風』(1944満洲映画協会)監督・不明、脚本・佐竹陸夫・片岡董、良家の子だが、臆病な小学生が、遠足に行ってグライダーを見学。そのプロペラを傷つけてしまう。小学生は心配のあまり荒野をさまようが、やがて父の力で気丈夫な子供に成長していく。★『一代婚潮』(1944満洲映画協会)監督・周暁波、脚本・楊輔仁、出演・孟虹、杜撰、張敏、周凋、冯露、丹江、云逵、★『百花亭』(1944満洲映画協会)監督・張天賜、張奕、寧波、顧萍、寒梅、王人路。★『月弄花影』(1944満洲映画協会)監督・広瀬数夫、脚本・原健一郎、撮影・深田金之助、音楽・竹内輪治、出演・李顕廷、顧萍、王宇培、満映第一回の歌謡映画。歌の上手な人気少女を新京放送局よりスカウトし、顧萍という名前でデビューさせた。★『私の鶯』(1944満洲映画協会)監督・脚本・島津保次郎、企画製作・岩崎昶、原作・大仏次郎、撮影・福島宏、音楽・服部良一、助監督・池田督、製作提携東宝、出演・李香蘭、千葉早智子、黒井旬(二本柳寛)、進藤英太郎、グリゴリー・サヤーピン、ヴィクトル・ラウロフ、ニコライ・トルストホーフ、オリガ・エルグコーア、満州事変で北満にいた日本人一家はそれぞれにはぐれてしまい、母をなくした娘は日系ロシア人の交響楽団員の一人に拾われる。やがて娘は歌手となり、父ともふたたびハルビンでめぐり会う。しかし、養父は最後の舞台で倒れて、娘に看取られて息を引き取る。娘は墓前でひとり「私の鶯」を歌う。戦争の中で家族の別離と再会を描いた東宝との提携作品。内地から演技指導の厳しい名匠島津保次郎を迎え、満映の総力をあげて作った自信作といえる。原作は大仏次郎による「ハルビンの歌姫」。主題歌のほか、李香蘭が次々と名曲を歌う音楽映画。当時、ハルビンの劇場で活躍していた白系ロシア人の歌手を多数出演させ、オペラやロシア歌謡を盛り込み、本編で交わされる会話はほとんどロシア語という異色のミュージカル映画である。しかし、この作品は、昭和19年3月に完成しても一般公開されなかった。内務省の検閲で時局に会わずという理由で公開見送りとされ、満州でもそれに倣ったとされている。しかし、昭和59年に「放浪の歌姫」と改題されたプリントが発見された、当初二時間近くあったものが、半分ほどに再編集されたプリントで、昭和61年6月「私の鶯 ハルピンの歌姫」として一般にも公開された。再編集された短縮版とはいえ脚本は残っているので欠落部分の類推は可能である。一説によると、戦勝国(ソビエト、中国)に差しさわりのある部分は遠慮してカットしたとみられる。満映作品として現在唯一見ることのできる満州映画協会娯民映画である。この作品の撮影中、昭和18年3月に、内田吐夢が脚本家・新藤兼人と「陸戦の華・戦車隊」のロケハンのために渡満していて、島津保次郎の撮影隊と会ったという。1960年代の初めに北京の中国電影資料館の外国映画の整理の仕事をしたアメリカ人の映画史家ジェイ・レイダは、この映画をボルシェヴィキを攻撃・非難している反共映画とした。しかし、元の完全版を見ている大塚有章は、「未完の旅路」五巻で「しかし、あの映画自体は愚劣だったな。シナリオも島津氏が書いたと聞いていたが、仮にも反共映画を作ろうというのなら、少なくとも監督は共産主義のABCくらいは勉強してかからねば駄目だと思うな。ハルビンのキャバレーを舞台にして共産主義者が暗躍しているところを描いたつもりだろうが、あそこまでお粗末では張り合う気も起こらんな」と述懐した。★室内園芸(1944満洲映画協会)監督・坂根田鶴子、★野戦軍楽隊 1944松竹系 李香蘭【1945年(昭和20年)】★『虎狼闘艶』(1945満洲映画協会)監督・大谷俊夫・池田督、脚本・館岡謙之助、撮影・深田金之助、進行主任・牧野寅太郎、出演・王心賂、薛素煕、森林匪賊の物語。虎の出てくる場面が見せ場となるはずだったが、動物園の虎を借りることができず、縫いぐるみと実写のカットバックを用いた。京劇の舞台女優・薛素煕を抜擢して、龍井から森林鉄道で入った奥地で撮影を開始したが、その鉄道で監督の池田督が足を挟まれ大怪我をするという事故があった。急遽、進行主任の牧野寅太郎が、池田督の書いた絵コンテをカメラマンの深田金之助に渡して撮影は続けられた。撮影末期には池田が5月の大量応召で戦地へ向かうこととなり、さらに深田金之助も撮影終了と同時に招集されたが甘粕が軍に掛け合い南嶺からの外出を許されて完成作品を見ることができた。この作品の完成は、池田の師・広瀬数夫によってなされた。池田督は、甘粕からの特別な書状を持っていたにもかかわらず、誰にも見せることなく、ソ連参戦、日本敗戦で捕虜になり、シベリアへ送られた。★『芝蘭夜曲』(1945満洲映画協会)監督・朱文順、脚本・周暁波、撮影・杉浦要、音楽・武川寛海、出演・曹佩箴、大石橋、娘娘廟を背景とする地での男女の甘い恋物語。★『蘭花特攻隊』(1945満洲映画協会)監督・笠井輝二、脚本・館岡謙之助、撮影・岸寛身、音楽・武川寛海、出演・水島道太郎、小杉勇、昭和20年1月以来、上記のスタッフ・キャストで製作を進行、しかし5月になって笠井輝二監督の応召、そして飛行機の不足から製作中止となった。★『蘇少妹』(1945満洲映画協会)監督・木村荘十二、脚本・姜学潜・長畑博司、撮影・杉山公平、音楽・武川寛海、出演・寒梅、題名の蘇少妹は、宋の詩人・蘇東坡の妹をさすが、実際には妹はなく、伝説中の人物。セットを組み、撮影を開始したところで終戦、未完成に終わった。杉山公平撮影技師は、藤フィルムと交渉して、ラストの部分をカラーにしたい希望があったという。★『大地逢春』(1945満洲映画協会)監督・周暁波出演・水島道太郎、小杉勇、★『夜半鐘声』(1945満洲映画協会)監督・王心斎出演・王芬蘭★『租界的夜景』仮題(1945満洲映画協会)脚本・笠井輝二、昭和19年より満映と華北電影との提携、大東亜省協力作品として笠井輝二が脚本を書き上げた。「脚本が大東亜省の許可を得たので、満映の中村監督、気賀キャメラマン等が華北へ出張、製作スタッフは満映、俳優は華北の企画のもとに天津租界を背景として英国の謀略を描くもの」と、雑誌「日本映画」に紹介された。●満映における中国人俳優たち杜撰、周凋、浦克、白玫、江雲逵、王宇培、王安、王影英、王瑛、王麗君、王芳蘭、王芳明、楊恵人、干延江、呉菲菲、劉恩甲、何奇人、戴剣秋、徐聡、李映、李顕廷、李景秋、李雪娜、季燕芬、李唐、李瑞、陳鎮中、曹佩箴、陶滋心、蕭大昌、孟虹、張静、張敏、張望、張奕、張暁敏、張氷玉、張素君、馬黛娟、趙愛蘋、趙成巽、趙恥、趙嘯瀾、張慧、朱徳奎、葉苓、葉笙、隋尹輔、鄭暁君、董波、馬旭儀、安琪、高翮、朱遇春、畢影、杜寒星、劉潮、郭範、尚富霞、候志昂、顧萍、寒梅、袁敏、常娜、梅枝、梅秋、徐明徳、劉婉淑、徐頴、白崇武、李香蘭、【「満州映画協会」関係文献】国立国会図書館調べ★満洲映画 [復刻版] 雑誌 ゆまに書房, 2012-2013 東京関西 冊子体 ★満州の記録 : 満映フィルムに映された満州 図書 集英社, 1995.8 東京関西 冊子体 ★満映男演員名簿 図書 [満洲映画協会], [1940] 東京 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 冊子体 / オンライン ★満映女演員名簿 図書 [満洲映画協会], [1940] 東京 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 冊子体 ★「満州映画協会」研究史の整理と今後の展望 雑誌記事 池川 玲子 掲載誌 Image gender : イメージ ジェンダー研究会機関誌 7 2007.3 p.99~103 東京 冊子体 ★満州映画協会の繁栄と悲劇--大スター李香蘭と甘粕理事長の自決 雑誌記事 掲載誌 政経人 47(5) 2000.05 p.66~74 冊子体 ★満映 : 甘粕正彦と活動屋群像 幻のキネマ 図書 山口猛 著. 平凡社, 1989.8 東京関西 冊子体 ★幻のキネマ満映 : 甘粕正彦と活動屋群像 (平凡社ライブラリー ; 588) 図書 山口猛 著. 平凡社, 2006.9 東京 冊子体 ★「満州」移民映画とジェンダー : 満州映画協会女性監督・坂根田鶴子を中心として 博士論文 池川玲子 [著]. [池川玲子], [2006] 関西 冊子体 ★映画随談(第14回)満州映画協会 : 配給部配給係が観た満州とシベリア(1) 雑誌記事 佐伯 知紀 掲載誌 映画撮影 (219):2018.11 p.70-73 東京関西 冊子体 ★映画随談(第15回)満州映画協会 : 配給部配給係が観た満州とシベリア(2) 雑誌記事 佐伯 知紀 掲載誌 映画撮影 (220):2019.2 p.60-63 東京関西 冊子体 ★甘粕正彦と李香蘭 : 満映という舞台 図書 小林英夫 著. 勉誠出版, 2015.7 東京関西 冊子体 ★満映とわたし 図書 岸富美子, 石井妙子 著. 文藝春秋, 2015.8 東京関西 冊子体 ★新中国映画の形成 : 旧満州映画協会から東北電影制作所 博士論文 向陽 [著]. [向陽], [2008] 関西 冊子体 ★岸富美子(きしふみこ)(元満州映画協会編集者) 甘粕正彦と満洲映画「94歳最後の証言」 雑誌記事 石井 妙子 掲載誌 文芸春秋 92(12):2014.10 p.320-330 東京関西 冊子体 ★満映 : 国策映画の諸相 図書 胡昶, 古泉 著, 横地剛, 間ふさ子 訳. パンドラ, 1999.9 東京関西 冊子体 / オンライン ★文化映画 雑誌 文化映画協会 東京 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 オンライン ★文化映画 1(5) 雑誌 文化映画協会, 1938-06 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 オンライン ★文化映画 1(4) 雑誌 文化映画協会, 1938-05 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 冊子体 ★初期満映の活動に関する資料--雑誌『月刊満洲』の映画関連記事 (特集 ヴィジュアリズムの光と影--〈満洲〉 東京) 雑誌記事 有馬 学 掲載誌 朱夏 : 文化探究誌 / 『朱夏』編集部 編 (22) 2007.10 p.36~58 東京 冊子体 / オンライン ★映画技術 雑誌 映画出版社 [編]. 映画出版社, 1941-1943 雑35-335 関西 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 オンライン ★映画技術 6(1) 雑誌 映画出版社 [編]. 映画出版社, 1943-07 雑35-335 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 冊子体 / オンライン ★教材映画 雑誌 十六ミリ映画教育普及会 東京 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 オンライン ★教材映画 (64) 雑誌 十六ミリ映画教育普及会, 1940-06 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 冊子体 ★講座日本映画 4 (戦争と日本映画) 図書 今村昌平 [ほか]編. 岩波書店, 1986.7 フィリピン映画/寺見元恵/290日本占領下のインドネシア映画/ユサ・ビラン ; 翻訳/浜下昌宏/300満州映画協会/佐藤忠男/312満映崩壊後の日々/森川和雄 ; 鈴木尚之 ; 新藤兼人/324戦後の大衆文化/鶴見俊介 東京関西 冊子体 / オンライン ★朱夏 : 文化探究誌 雑誌 『朱夏』編集部 編. せらび書房, 1991-2007 東京関西 デジタル 国立国会図書館限定 オンライン ★朱夏 : 文化探究誌 (7) 雑誌 『朱夏』編集部 編. せらび書房, 1994-08 .jp2)中薗英助「わが北京留恋の記」 / 田中益三 / p50~51 (0027.jp2)「証言 満州映画協会」を観る / M・T生 / p58~59 (0031.jp2)小特集<サラワク州の今・昔> サラワク デジタル 国立国会図書館限定 冊子体 / オンライン ★文化映画 雑誌 映画日本社 東京関西 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 オンライン ★文化映画 2(9)(20) 雑誌 映画日本社, 1942-09 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 オンライン ★文化映画 2(5) 雑誌 映画日本社, 1942-05 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 冊子体 ★満洲行政経済年報 昭和17-18年版(康徳9-10年) 図書 日本政治問題調査所行政調査部 編. 日本政治問題調査所, 昭和17-18 14.5-944 関西 オンライン ★満洲行政経済年報 昭和18年版(康徳10年) 図書 日本政治問題調査所行政調査部 編. 日本政治問題調査所, 昭和17-18 14.5-944 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 オンライン ★満洲行政経済年報 昭和17年版(康徳9年) 図書 日本政治問題調査所行政調査部 編. 日本政治問題調査所, 昭和17-18 14.5-944 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 冊子体 ★満洲行政経済年報 昭和17-18年版 図書 日本政治問題調査所行政調査部 編. 日本政治問題調査所, [19--] 317.9225-M178-N 関西 オンライン ★満洲行政経済年報 昭和18年版 図書 日本政治問題調査所行政調査部 編. 日本政治問題調査所, 〔19--〕 317.9225-M178-N デジタル 国立国会図書館限定 オンライン ★満洲行政経済年報 昭和17年版 図書 日本政治問題調査所行政調査部 編. 日本政治問題調査所, 〔19--〕 317.9225-M178-N デジタル 国立国会図書館限定 冊子体 ★矢原礼三郎--経歴及び著作目録 雑誌記事 与小田 隆一 掲載誌 久留米大学文学部紀要. 国際文化学科編 / 久留米大学文学部 [編] (25) 2008.3 p.39~49 東京 冊子体 ★満洲から筑豊へ : 幻灯『せんぷりせんじが笑った!』(1956)をめぐる「工作者」たちのゆきかい 雑誌記事 鷲谷 花 掲載誌 映像学 / 日本映像学会 [編] (96):2016 p.5-26 東京関西 冊子体 / オンライン ★映画テレビ技術 = The motion picture TV engineering 雑誌 日本映画テレビ技術協会, 1965- 東京関西 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 オンライン ★映画テレビ技術 = The motion picture TV engineering (465) 雑誌 日本映画テレビ技術協会, 1991-05 『夜の鼓』(1) / 都築政昭 / p40~46 (0028.jp2)長春映画制作所訪問・報告 残影・満州映画協会(下) / 八木信忠 / p47~51 (0031.jp2)TVニュースの現場から 湾岸情勢取材を終 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 オンライン ★映画テレビ技術 = The motion picture TV engineering (464) 雑誌 日本映画テレビ技術協会, 1991-04 長春映画制作所訪問・報告--残影・満州映画協会(上) / 八木信忠 / p18~22 (0015.jp2)湾岸戦争のなかの国際映画祭--テヘランか デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 冊子体 / オンライン ★満洲国策会社綜合要覧 図書 満洲事情案内所, 1939 335.49-M178m 関西 デジタル インターネット公開 冊子体 ★図説満州帝国の戦跡 (ふくろうの本) 図書 太平洋戦争研究会 編, 水島吉隆 著. 河出書房新社, 2008.7 首都//94長春の街を歩く 和洋中を折衷した「満州風」建築物の数々//98東洋一のスタジオを擁した満州映画協会//104第5章 ハルビンロシアが築いた国際都市//110ハルビンの街を歩く ヨーロッパの香り漂う 東京関西 冊子体 / オンライン ★映画国策の前進 図書 山田英吉 著. 厚生閣, 1940 778-Y158e 関西 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 冊子体 / オンライン ★映画国策の前進 図書 山田英吉 著. 厚生閣, 昭15 773-91 関西 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 マイクロ / オンライン ★映画国策の前進 3版 図書 山田英吉 著. 厚生閣, 昭和15 特219-301 東京関西 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 冊子体 / オンライン ★満洲国策会社綜合要覧 康徳6年度 (満洲事情案内所報告 ; 第54号) 図書 満洲事情案内所 編. 満洲事情案内所, 康徳6 789-94 関西 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 冊子体 / オンライン ★滿洲映画. Manchou movie magazine 日文版 雑誌 滿洲映畫發行所, 1937-[1939] 東京 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 オンライン ★滿洲映画. Manchou movie magazine 2(8) 日文版 雑誌 滿洲映畫發行所, 1938-09 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 オンライン ★滿洲映画. Manchou movie magazine 2(5) 日文版 雑誌 滿洲映畫發行所, 1938-05 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 冊子体 ★満洲帝国 : 満鉄・満映・関東軍の謎と真実 (洋泉社MOOK) 図書 洋泉社, 2014.11 東京関西 冊子体 / オンライン ★ダイヤモンド産業全書 第13 図書 ダイヤモンド社, 昭13 744-83 関西 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 マイクロ / オンライン ★映画戦 (朝日新選書 ; 13) 図書 津村秀夫 著. 朝日新聞社, 昭和19 778-Ts74-9ウ 東京関西 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 冊子体 / オンライン ★映画戦 (朝日新選書) 図書 津村秀夫 著. 朝日新聞社, 1944 778-Tu735e7 関西 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 冊子体 ★メディアのなかの「帝国」 (岩波講座「帝国」日本の学知 ; 第4巻) 図書 山本武利 責任編集. 岩波書店, 2006.3 東京関西 冊子体 / オンライン ★帝国の銀幕 : 十五年戦争と日本映画 博士論文 Peter Brown High [著] p236 (0126.jp2)2「王道楽土」への招待 / p238 (0127.jp2)3 李香蘭と満州映画協会 / p241 (0128.jp2)4「支那人を描け!」 / p246 (0131.jp2)第8章 関西 デジタル 国立国会図書館内/図書館送信 冊子体 ★写真集成近代日本の建築 7 図書 ゆまに書房, 2012.3 東京関西 冊子体 / オンライン ★特殊会社準特殊会社法令及定款集 康徳5年 (調資B5 ; 第10号) 図書 満州中央銀行調査課, 1938 東京 デジタル インターネット公開 冊子体 ★二〇世紀満洲歴史事典 図書 貴志俊彦, 松重充浩, 松村史紀 編. 吉川弘文館, 2012.12 東京関西 冊子体 ★秘密のファイル : CIAの対日工作 下 図書 春名幹男 著. 共同通信社, 2000.4 ,155,162,164,330マルコムX//(上)56丸紅//(下)390丸山真男//(上)432満州映画協会(満映)//(上)351満州国//(上)235,351,411 (下)79,162,164満州国通信 東京関西 冊子体 ★新聞集成昭和編年史 昭和15年度版 1 図書 明治大正昭和新聞研究会 編集製作. 新聞資料出版, 1992.10 四七〇津田左右吉博士の取調べ一段落//四七一「ロツパと兵隊」三月の北野劇場//四七一「満州人の少女」満州映画協会//四七一八日ソ連の対芬平和提議・社説//四七一銃後の自粛・社説//四七一ソ連・フィンランド和平交渉 東京関西 冊子体 ★新聞集成昭和編年史 昭和14年度版 4 (十月~十二月) 図書 明治大正昭和新聞研究会 編集製作. 新聞資料出版, 1992.8 年度輸入洋画百二十本に決る//七三一青年アジア連盟、問題の映画ガンガデイン上映反対に請願書//七三一満州映画協会、映画で日本紹介//七三一蒙古活仏大阪朝日新聞社来訪//七三一元ひとのみち事件結審//七三一二三日議 東京関西 冊子体 ★新聞集成昭和編年史 昭和15年度版 4 図書 明治大正昭和新聞研究会 編集製作. 新聞資料出版, 1993.4 壮丁武道大会//三〇〇新考案「祝典結び」//三〇〇馬の売上二十五万円・日本競馬会阪神競馬場//三〇〇満州映画協会、上映も直営に//三〇〇八日蘭印の驕慢を戒しむ・社説//三〇〇米大統領第三期施政への片鱗//三〇一ブ 東京関西 冊子体 ★新聞集成昭和編年史 昭和13年度版 3 図書 明治大正昭和新聞研究会 編集製作. 新聞資料出版, 1991.8 /三七四満蒙、意外な大収穫・演劇行脚の一行帰途へ//三七五仏文豪ジイド氏の作品映画化に横槍//三七五満州映画協会、支那を舞台に進出//三七五映画ニユース・「雪山のアルバム」他//三七五五日国境事件の折衝・社説// # by sentence2307 | 2019-07-15 14:04 | 満映 Comments(0) パソコンの前に座ると、最近、まず、することといえばyou tube動画をひとわたりチェックするということになります。地上波テレビの間延びした(そのくせ内容空疎な)バラエティ情報番組より、よほど気が利いていて、作る側の「見せる努力と意欲」も十分に感じられ、大変すがすがしく、ダレたテレビなどより、よほど信頼できるというものです。オレオレ詐欺の犯罪者集団だかなんだか知りませんが、陰ながらその筋からお小遣いを頂戴してほくそえみ、テレビでは善人に見せかけて世間を欺きふんぞり返っているような、くそ面白くもないお笑い芸人が馬鹿ヅラした馬鹿笑いが癇にさわって仕方ありません。謹慎くらいで済ませるなという感じです。しかも、さも新ネタみたいに自慢げに吹聴している話にしても、そこらの芸能週刊誌にいくらでも載っていそうな陳腐な話題の焼き直しなのはミエミエで、その思い上がった愚劣な馬鹿騒ぎに付き合うくらいなら、活力とアイデア、ナマの声に満ち満ちたyou tube動画を見ていた方が、まだしも有益で新鮮、短くとも充実した時間を過ごせるというものです。テレビには、つくづく愛想が尽きました。あんなもの。草の根的なyou tube動画の隆盛は、荒廃したテレビの在り方そのものを脅かしているというのに、そして、いまのままではカナラズヤ近い将来、確実に大衆から飽きられ、テレビの存在価値そのものが根底から覆されて、消滅しかねないと危ぶまれているというのに、この激動の「変革期」もカイモク理解できず相も変わらず愚劣な番組を十年一日量産し垂れ流している思い上がった無知と醜態にはもうこれ以上耐えられません。というか、自分などはもう何年も前からとっくに見放していて、せいぜい見るものといえば、映画かスポーツくらいです。とまあ、そんな感じでここのところyou tube動画を見ているのですが、これも日常的に見ていると、なんだかひとつの傾向みたいなものを感じるようになりました。それってまさか、例えばあの、見ているうちになんだか自然とコーラが飲みたくなってしまうみたいな「心理的誘導操作」が巧みに仕組まれているとかいう「あれ」なんがではないとは思いますが、最近、そんな感じでwebの森をさまよっていて感じたことがあるので、そのことについて若干書いてみますね。you tube動画といえば、すこし前までは、北海道のインターアーバンさんという方が製作した、北海道の各本線をたどりながらすべての駅を自動車で走破するというyou tube動画に嵌っていました。北海道の各線・各駅が必ずしも国道・道道に整然と平行して走っているわけではないので、ときには、とんでもない脇道を迂回しなければならなかったり、人も通わない狭い田んぼ道や雑木林に迷い込んだりと、北海道の原野をこれでもかというくらい堪能できるスグレモノの動画で、傍らに置いた北海道鉄道路線図の各駅にチェックを入れながら日々見ていくうちに全ての駅にチェックが入ってしまいました。新幹線が停車することによって華麗に整備された駅とか、大都市をひかえた近郊で乗降客が増えて急に手狭になるなど、そういう幸運な駅は、むしろ例外で、ほとんどの駅は、特急列車にスルーされて、停車する電車は日に2~3本くらい、それもだいたいは無人駅で、乗降客は日に数人(その人数に合わせて停車しているらしいのですが)、過疎化が進む辺境の地にあれば、端から徐々に秘境駅となり、やがてバタバタと廃駅となるというのが北海道の鉄道の運命と進行形の現状なのだなと感じさせられるスグレモノの動画です。そうそう、この動画に出会ったのは、あのカーリングの聖地・北見市常呂町がどういう町かと検索し、また「北見駅」がどういう駅かと眺めていたときに、そのままの流れで「石北本線」の各駅をめぐるこの動画に出会ったのでした。もうほとんど秘境駅という感じの「西女満別駅」とか、「下白滝駅」から「上白滝駅」にかけての荒涼とした原野にある駅が廃駅となる前後の経緯を描いたドキュメンタリー番組を絡めて見たこともありました。なんといっても実際の自然の風景や街路のたたずまいなど、世界の隅々まで居ながらにして見せてくれるこの手の「ストリートビュー動画」は、インターネットのすぐれた特性だと思います。北海道の原野の魅力にすっかり魅入られてしまったので、二回目、三回目のインターネット北海道周遊を再びする可能性は大だと思います。こう考えると四国八十八ヶ所巡礼の魅力というのも、こういう感じなのかもしれません。全部のお寺を踏破するリアルな動画というのは存在するのでしょうか、たいへん興味があります。しかし、この一連のyou tube動画は、見たい動画をピンポイントで語句指定して特定して見ていたわけですが、現実はなにもそんな律儀なことをしているだけではなくて、多くの場合、特に目的も指定もすることなくナニゲに見流す(こんな言葉はありませんが、昔風にいえば、いわばネットサーフィンです)目の前にある面白そうな動画を次々とたどっていくというダラダラした感じがむしろリアルです。そしてこの場合の「興味を引く」というそのキモの部分は人それぞれに異なると思いますが、自分の場合は、「ものすごく気持ち良くしてくれる」ということが最優先のポイントということになります。この「ポイント」に当たる動画を具体的に個々に上げていかなければ、「ものすごく気持ち良くしてくれる」という抽象の説明にはならないと思うので、まあ、キリがありませんが、そのうちの2~3を上げてみることにしますね。そのひとつには、なんといっても「外人さんの日本褒め」という動画があります。とにかく、日本好きの外人さんが日本のことをやたら褒める。長い間日本に憧れていてやっと観光で来たという人から、もう何年も住み着いてしまっている人まで、それも欧米人、アジア人、中近東からアフリカまで、それこそ多種多彩の人種がいて、それこそ、やれ財布を落したら無事に返ってきただの、中身の金も手付かずだっただの、道に迷っていたら親切なタクシーの運転手さんが空港まで送ってくれて飛行機に間にあったうえに料金も受け取らなかっただの、日本では黒人なのに差別をされなかっただの、日本で生まれた黒人の少女が渡米したら始めて差別を知って差別されない日本社会に改めて感激しただの、いわば日本人の善良さ・規律正しさをあげるものとか、いやいや、まだありました、日本の風景(サクラとか)をベタほめし、温水洗浄トイレに喜声をあげ、スクランブル交差点と竹下通りと歌舞伎町、築地市場や浅草寺をレンタル着物でさまよい歩き、秋葉原のメイドカフェをのぞき、林立する自動販売機の数を数え、モノレールに乗り、新幹線のスピードにびっくりし、日本食の美味さ加減に大仰にのけぞってみせ(それも寿司や神戸牛、スキヤキや天麩羅ならともかく、お好み焼き・たこ焼き・ラーメンのたぐいにまでデリシャスやトレビアンの連発なのですから、そこまでいくと揶揄されているのではないかと疑心暗鬼になるのは当然で、それにしてもなにがなんだかわけがわかりません)、そして、ツアーのコースにでもなっているのか必ず伏見稲荷の赤鳥居のトンネルを嬉々としてくぐり、奈良公園の鹿に餌をあげてお辞儀をさせ、大仏を見て喜ぶという、そうした動画が延々累々と続きます。まあ、来日観光客数というのが年々増大しているということですから、この動画のすべてが「眉唾」とは思いませんが、「本当かよ」という気持ちは、どうしても拭えません、それほどのことなのかよ、とこうなります。ならざるを得ません。しかし、そう思いながらも、この似たような動画を飽きもせずに延々と見ることができるのは、やはりそこに「外人さんの日本褒め」の心地よさがあることは確かです。とにかく日本人は外人さんに褒められることにとても弱くて、だから大好きなのだと思います。自分も含めてね。それは日本人の中に業のように根深い外国コンプレックスとかがあって(だからいつまでたっても英語が喋れないのかもしれません)、外人に褒められると罪を贖われたように感激して、なんでも許してしまえる部分があるからだと思います。それを外人さんは日本人の善良さと誤解しているフシもあって、その双方のボタンの掛け違え感がまたなんとも言えない心地よさなのです。そして、この流れで延々と動画を見ていくと、やがて「究極の動画」というのに行き着きます。つまり、いわゆる極め付け、それが「舞妓さんウォッチ」です。これも日本観光ツアーのコースになっているのではないかと思うくらい、外国人観光客がぞろぞろと四条通りから花見小路あたりのお茶屋さんや置屋さんの前をなんとなくぶらついて、あきらかに舞妓さんや芸妓さんが通り掛るのを待ち伏せしてタムロしているふうで、そして、突如、舞妓さんが「出現する」(実際は、お茶屋さんに出向くだけなのですが)となると、まるで「怖いもの見たさ」で遠目からチラミをする遠慮深い人から、すれ違いざまに至近距離でカメラを向け、それでも飽きたらずに血相変えて追っかけまわすという正直にずうずうしい人までいろいろいて、この様子を見ているだけでも外人さんたちの「舞妓さん」に向ける興味と感心の高さがうかがわれます。聞くところによると、このずうずうしい追っかけの観光客の誰もが必ずしも善人というわけではなく、後ろからカンザシや髪飾りを引き抜いて盗んだり、ひどいのになると襟からなにかを入れたりするというとんでもないやつもいるとかで、舞妓さんたちもいい迷惑で、いくら注目の的になっているからといって、必ずしも善良に受け止めて悦に入っている場合ではない油断ならない部分もあるそうなのです。これではまるで野鳥観察ではないかとも思ってしまうのですが、しかし、残念ながら「品」と「距離感」と「好奇心の質」の面においては、「舞妓さんウォッチ」の方は、はるかに「品」に欠け「危険な距離感」で「善良さに欠ける好奇心」によって、美しく見せるために無抵抗なのに付け込まれ、それをいいことに盗みや小暴力の危険や被害にさらされるという実に生々しい人間的な善悪の彼岸にいることを感じました。自分がこの一連の動画を見ていて直感したのは、むかし、小売店の開店祝いの宣伝のために近所を賑やかに練り歩いた白塗りの顔のチンドン屋のあとを子供たちがぞろぞろとついて歩いていたあの景色でした。なによりも子供心には、あの「白塗りの顔」の物珍しさというのは、非日常のヨコハマメリーさん風な「異様さ」と同じものだったと思います。むかし、天井桟敷や状況劇場の芝居をみたとき、「白塗り」の顔を異様と受け止めたあの感性と同じものを見たのだと感じました。いやいや、「チンドン屋」の白塗りと「舞妓さん」の美しい白塗りを比較するなんて、なんという不見識だとお叱りを受けそうですが、子供心に思ったことなので、なにとぞお許しください。考えてみれば、自分がいままで舞妓さんの白塗りを、そうした美しさの面から見たことがまったくなくて、むしろ「異様さ」からしか見ていなかったという、それくらい遠い世界の存在だったということなのだと思います。ですので、多くの舞妓さんたちが語る「舞妓さんになろうと思った動機」が、修学旅行のときに美しい舞妓さんを見て自分もなりたいと思ったというコメントなど、自分的にはどうにも実感の伴わない空疎なものに聞こえてしまって仕方ありませんでした。そういえば、この「はるかに遠い存在」感は、水田伸生監督「舞妓Haaaan!!!」2007や周防正行監督「舞妓はレディ」2014を見たときも、「なぜ、いまさら、舞妓さんなんだ?」という唐突さと違和感しかなく、正直「意味、分かんねえ」という思いしか抱けませんでした。無理もありませんよ、遠い祇園のお茶屋遊びのことなど空想するにも手掛かりがなく「無」の状態だったのですから、興味がどうのこうのという段階にさえ至ってなかったわけで、ですから「舞妓さん」など、存在それ自体が現実とは考えられない存在だったのはしごく当然のことだったと思います。その意味でいえば自分など、あの「善良さに欠ける悪意の好奇心に満ちた観光客」にもおよばない、それより以下の日本人にすぎませんでした。(注)劇場版映画は以下のとおり。舞妓はんだよ全員集合!!(1972年 松竹 ザ・ドリフターズ、吉沢京子主演)舞妓はん(1963年、松竹、橋幸夫、倍賞千恵子主演)舞妓物語(1987年、松竹、岡本舞子主演)舞妓物語(1954年、東宝、峰幸子主演)(ストーリーは上とまったく違う)祇園小唄絵日傘(1930年、マキノプロダクション、桜木梅子主演)祇園囃子(1953年、大映、若尾文子主演)祇園囃子(1934年、松竹、飯塚敏子主演)おもちゃ(1999年、東映、宮本真希主演)SAYURI(2005年、松竹配給、チャン・ツィイー主演)舞妓Haaaan!!!(2007年、東宝配給、阿部サダヲ、堤真一、柴咲コウ主演)舞妓はレディ(2014年、東宝配給、上白石萌音主演)そんな感じで、外国人観光客の「舞妓さん追っかけ動画」を見ていたのですが、しかし、その手の動画のなかには、なにも興味本位のものばかりとは限らず好意的に舞妓さんや芸妓さんを美しく撮ろうという好事家の撮った動画もあることに気がつきました。満開のサクラの下での撮影会とか。奉納舞とか。イベントとか。そこで驚天動地の、とてつもなく美形の芸妓さんを見つけてしまいました、さっそく名前をメモりました。そこには、祗園東の「つね桃さん」と書いてあります。とにかく、ものすごい美人。というか、そのキップの良さは、どう見ても柳橋とか赤坂芸者のイメージで、上品でおとなし目の芸舞妓さんが多い京都らしからぬ鋭さがあって、そのことを本人も一向に隠そうとしない明け透けなところが却って清々しく、好感を持ちました。どうすれば自分を美しく見せられるか(髷で白塗りの裾引き)を熟知しているプロに徹した賢さと自信と開き直りも、見るものを安心させるものがあります。さっそくアレコレと検索をかけてみました。山口県萩市出身 1987.2.6生2002 祇園東「繁の家」に仕込みさんとして入る。2003.3.3 舞妓さんとしてデビュー、桃の節供にちなんで「つね桃」に。2008.11.28 21歳で襟変え(ということは、1987年生まれということですか)なるほど、なるほど。検索していくにつれて、このヒトが、「超」のつく売れっ子芸妓さんということは、画像と動画の多さからでも容易に分かりました(むしろ、知らなかったのは自分だけだったのかという気分にさえ段々なってきたくらいです)が、そんなふうに調べ進むうちに、新しいコメントの調子が、なんだか過去形で書かれているようなのが少し気に掛かり始めたとき、「つね桃さんの結婚式」という記事に遭遇しました。どうも結婚を機に引退されたような感じです。なるほどね、そりぁそうですよ、なにしろこの美形です、男たちが放っておくわけがありません。外国人観光客が、舞妓さんの追っかけくらいでは気が納まらず、舞妓さんに成り切るコスプレ(和装レンタルと髷と白塗りの化粧がセットになっています)まで結構繁盛している意味もこれでよく分かりました。●京都五花街の舞妓さん・芸妓さん名前一覧 2019.04.17 現在しらべ★祇園甲部【舞妓】小純 こすみ 廣島家鈴乃 すずの 福嶋まめ樹 まめじゅ 多麻豆結 まめゆい ニンベン美羽子 みわこ 西村佳つ笑 かつえみ 小田本槇里子 まりこ 西村市紘 いちひろ 中支志小奈都 こなつ 中支志あすか あすか つる居菜乃葉 なのは 多麻豆誉 まめよ 新井瑞乃 みずの 福嶋佳つ桃 かつもも 小田本佳つ春 かつはる 小田本豆沙弥 まめさや 柴田多都葉 たつは 多麻ゆり葉 ゆりは 多麻豆珠 まめたま イ小なみ こなみ 中支志朋子 ともこ 西村小花 こはな 枡梅美月 みつき つる居まめ衣 まめきぬ 多麻佳つ花 かつはな 小田本小衿 こえり 廣島家まめ春 まめはる 多麻【芸妓】まめ柳 まめりゅう 多麻茉利佳 まりか つる居市晴 いちはる 中支志紫乃 しの 福嶋実佳子 みかこ 西村佳つ江 かつえ 小田本豆純 まめすみ 亻市十美 いちとみ 中支志佳つ雛 かつひな 小田本豆六 まめろく 新井恵里葉 えりは 多麻真咲 まさき 美の八重佳つ智 かつとも 小田本紗月 さつき つる居章乃 ふみの 福嶋千紗子 ちさこ 西村豆まる まめまる 柴田小芳 こよし 廣島家つる葉 つるは 多麻紗矢佳 さやか つる居小扇 こせん 廣島家市有里 いちゆり 中支志槙子 まきこ 西村有佳子 ゆかこ 西村真生 まお 美の八重小愛 こあい 廣島家満友葉 まゆは 多麻【引退】紗貴子 さきこ 西村亜矢子 あやこ 西村まめ章 まめあき 多麻豆こま まめこま 柴田真希乃 まきの 美の八重豆千佳 まめちか 新井清乃 きよの 福嶋知余子 ちよこ 西村佳つ扇 かつせん 小田本由喜葉 ゆきは 多麻夢乃 ゆめの 福嶋まめ藤 まめふじ 多麻まめ菊 まめきく 多麻佳之介 かつのすけ 小田本杏佳 きょうか つる居★祇園東【舞妓】満彩尚 まさなお まん叶久 かのひさ 叶家叶千代 かのちよ 叶家富千英 とみちえ 富菊涼真 りょうま 栄政満彩野 まさの まん叶紘 かのひろ 叶家【芸妓】雛佑 ひなゆう 岡とめ富津愈 とみつゆ 富菊富多愛 とみたえ 富菊まりこ 岡とめ美晴 みはる 岡とめつね有 つねゆう 繁の家つね和 つねかず 繁の家満彩希 まさき まん涼香 りょうか 榮政豊壽 とよひさ 榮政美弥子 みやこ 叶家【引退】満佐子 まさこ まん雛菊 ひなぎく 岡とめ文音 ふみね 岡とめ満彩美 まさみ まんつね桃 つねもも 繁の家富久春 ふくはる 岡とめ叶菜 かのな 叶家駒子 こまこ 岡とめ叶笑 かのえみ 叶家★宮川町【舞妓】とし菜穂 としなほ 駒屋とし菜希 としなぎ 駒屋叶笑 かなえみ 川久ふく典 ふくのり しげ森君咲 きみさき 本城小晶 こあき 花傳ふく友梨 ふくゆり 堀八重君萌 きみもえ 利きみとし七菜 としなな 駒屋とし菜実 としなみ 駒屋千賀染 ちかそめ 駒屋菊咲奈 きくさな 花ふさふく那 ふくな 河よ志ふく香奈 ふくかな 河よ志ふく千華 ふくちか 堀八重富美梗 ふみきょう よし富美小えん こえん しげ森菊弥江 きくやえ 花ふさ千賀明 ちかさや 駒屋千賀遥 ちかはる 駒屋ふく弥 ふくや 河よ志とし恵美 としえみ 駒屋叶幸 かなゆき 利きみふく珠 ふくたま しげ森叶子 かなこ 川久ふく朋 ふくとも 堀八重小はる こはる しげ森【芸妓】ふく音 ふくね 河よ志とし純 としすみ 駒屋小梅 こうめ 花傳里春 さとはる 川久ふく兆 ふくちょう しげ森田ね文 たねふみ 高よし富美夏 ふみか よし富美君綾 きみあや 本城弥千穂 やちほ 花傳ふく恵 ふくえ 河よ志ふく紘 ふくひろ しげ森小ふく こふく しげ森美恵雛 みえひな 春富ふく尚 ふくなお 石初ふく鈴 ふくすず 石初ふく光 ふくてる 堀八重とし真菜 としまな 駒屋とし夏菜 としかな 駒屋とし輝 としてる 駒屋菊志乃 きくしの 花ふさ里香 さとか 川久【引退】君さ代 きみさよ 本城ふく英 ふくはな しげ森富美苑 ふみその よし富美富美芳 ふみよし よし富美小凛 こりん 花傳君有 きみゆう 本城君とよ きみとよ 利きみ君ひろ きみひろ 利きみふく乃 ふくの 河よ志小よし こよし しげ森千賀すず ちかすず 駒屋とし桃 としもも 駒屋ふく苗 ふくなえ しげ森美恵菜 みえな 石初ふく真莉 ふくまり 堀八重とし日菜 としひな 駒屋とし智 としとも 駒屋★先斗町【舞妓】秀眞衣 ひでまい 雅美家秀華乃 ひでかの 雅美家市愛 いちあい 舛之矢市すみ いちすみ 山口市沙登 いちさと 舛之矢もみ香 もみか 山口光はな みつはな 丹美賀市結 いちゆう 勝見市彩 いちあや 舛之矢【芸妓】多香 たか 山口久桃 ひさもも 井雪もみ福 もみふく 山口あや野 あやの 山口久鈴 ひさすず 舛之矢市福 いちふく 舛之矢【引退】市奈菜 いちなな 山口もみ陽菜 もみひな 丹美賀市照 いちてる 舛之矢あや葉 あやは 勝見市駒 いちこま 丹美賀★上七軒【舞妓】 尚舞 なおまい 中里 市梅 いちうめ 市 市ぎく いちぎく 市勝貴 かつき 大文字梅たえ うめたえ 梅乃ふみ幸 ふみゆき 勝ふみ市彩 いちあや 市梅ひな うめひな 梅乃市多佳 いちたか 市【芸妓】尚絹 なおきぬ 中里尚可寿 なおかず 中里【引退】梅叶菜 うめかな 梅乃勝音 かつね 大文字市まり いちまり 市梅なな うめなな 梅乃梅はな うめはな 梅乃梅ちえ うめちえ 梅乃市こま いちこま 市市知 いちとも 市尚あい なおあい 中里勝奈 かつな 大文字勝也 かつや 大文字梅蝶 うめちょう 梅乃梅咲久 うめさく 梅乃勝瑠 かつる 大文字 伝記映画が好きなので、目の前に「パニック映画」とか「冒険活劇」、「西部劇」、「オカルト映画」があって見る選択をしなければならないときに真っ先に見るのは、やはり「伝記映画」ということになります、加えてそれが「歴史もの」となれば躊躇する理由などいささかもありません、でも考えてみれば、映画って多かれ少なかれ「伝記映画」みたいなものかもしれませんね。なので、今回は問題なく、どの作品よりも優先して「チャーチル ノルマンディーの決断」を見ることにしました。この「ノルマンディー上陸作戦」なら、ぼくたちの映画の鑑賞経験からいっても、幾らでもド派手に作ることのできるオールスター・キャストが可能な超大作映画になる題材なのに、「イギリスが作るとなると、こうなるか」の見本みたいな、自分たちのバラ色の固定観念の横っ面を思い切り張り倒してくれたスコブル後味の悪い、常人にはちょっと理解しがたい映画を見てしまいました。それは、結局、どんな題材でもシェイクスピア風にまとめてしまうという「お座敷芸」といってしまえばそれまでですが、はっきり言ってそれは彼の国の「悪弊」以外のなにものでもありません。とくに映画にとってはね。それにしてもこれってひどくないですか、自分では金科玉条だと固く信じ込んでいるその方法、いくらご立派な「シェイクスピア方程式」かもしれませんが、あらゆるストーリーにこれをそのまま当て嵌めることができるかどうか、この現代にあってはおのずからホドってものがありますから。これじゃあまるで後先のことも考えずに目先の利害と威信だけにこだわってEUを離脱してしまおうという「あの考え方」と同質のものを感じます。後世、国民投票が愚衆政治につながってしまういい例として残ってしまうかも。いわばこれが、むかしからイギリスが持っている融通のきかない頑なな歴史的認識というものかもしれません、たとえそのために映画という「絵空事」であることで救われる良質な部分を損ない、時間の経過がようやく癒し固定できたはずのものが、一方的な認識によって淡色で描いて成立した気安さを一向に理解できず、相も変わらず深刻ぶって蒸し返しぶち壊すことで悦に入っているものの、その実体は実に薄っぺらでバレバレな自己正当化でしかない例のアレですよね。特に、あの戦争で米英ソに標的にされ、きたない罠にはめられて痛い目にあった極東の島国の子孫にとっては、実にミエミエな「アレ」にすぎません。この映画の違和感は、あのチャーチルが、かつて自分の作戦のために多くの死者を出してしまった「ガリポリの戦い」の失敗の記憶に捉われ・苛まれ、まるで悩めるハムレットのように煩悶・悲嘆し、アメリカの提案するノルマンディー上陸作戦(膠着状態にある戦局を一挙に覆し好転させようという捨て身の画期的な作戦です)に対しても「そんなことをしたら、多くの若者の命が失われるではないか」などと難色を示し、グズグズと反対する苦悩が描かれ続けます。戦争の端緒はどうであれ、多くの戦争を指揮してきた指導者の態度としては「それってどうなの?」という理解不能の実に煮え切らない驚くべき醜態です、「んなわけないだろう」という。傑出した指導者・政治家なら、国を守るための戦争で一定の死者がでるのはハナからあたりまえのことで、いまさら悩むなどありえません、いい加減にしろと。黒かったり黄色かったりする肌の色の民衆の自主独立の悲願を踏みにじり、散々に弾圧してきて(それも自分の手を汚さずに現地人同士を戦わせ弾圧・互いに殺戮させるという実に狡猾にして悪辣な悪魔の施策です)、そうした植民地経営の圧制のもとで殺戮の限りを尽くしてきたあの大英帝国(「大映」帝国ではありません)の指導者たるもの、悩むにしても、もうちょっと「戦略的な」深みがなければコタビの戦争で痛い目にあった東洋の黄色い観客のひとりとしては納得することなどできません。「ヒューマニズムだと」なにをいまさらほざきゃあがるんでい、片腹痛いわ、このやろう、こんな映画、到底信用するわけにはいきません。しかもこの映画、ご丁寧にも、まさに明日、天候が回復したらノルマンディー上陸作戦が決行されようかという前夜、チャーチルは、多くの死者を出すくらいなら、むしろ、作戦が決行できないほどの嵐がくるように神に祈る場面さえ僕たちは見せつけられます。えっ~!? あのチャーチルが!? まさか、そんなことするわけないだろうが!?これじゃあまるで、就寝前、宿題をしていないことを思い出した小学生が焦りまくり、翌日、突如台風がきて学校が休みになってください、あるいは、世界が破滅してみんなも死んで学校もなくなってしまいますようにと必死になって祈るようなもんじゃないですか、このチャーチルの浅はかな描き方には、心底呆れ返ってしまいました。結局、嵐も来ることなく、世界も破滅しなければ、せいぜい腹痛とかの仮病をかたってズル休みをしてしまおうという、これはその程度の低次元の貧しい発想と想像力によって撮られた、冷笑にも値しない(そんなことをしたら「冷笑」の品位が穢れます)、このところついぞ見たことも聞いたこともないぶざまなシーンでした。少し前、自分はこのブログで、チャーチルの名言に感銘し、その幾つかを取り上げたことがありました。例えば、「上手な演説というのは、女性のスカートのようでなければならない。大事な点をカバーするだけの十分な長さが必要だが、興味をかき立てる程度に短くなくてはならない」というものなのですが、無骨な「スピーチ」を論じるにあたりで、そうなのかなと思っていると、突如「スカート」を引き合いにだしてきて、「大事な点」という硬直のはずのイメージを一挙に艶めいて色っぽく変化させてしまうという言葉の魔術、言葉が有しているイメージをアクロバット的に重ねる言葉のモンタージュによって見える景色(映像)を一変させてしまう才能への驚きと衝撃の経験を書いたものでした。眼前には突如ミニスカートから覗くムチムチ・テラテラの太ももが現出し、官能的にうごめき、こすり合わされ、想像力は強引にスカートのさらにその奥、なにやらもやもやしたエロスの極致へとムラムラっと誘われます、う~ん、まったくもう。これじゃあイザナワレナイわけにいきませんから!! このような機知は、すぐれた一握りの政治家以外、並みの人間には到底できることではありません。彼らは「言葉」によって民衆を動かすことのできるプロなのだと思います。そしてまた、民衆はすぐれた政治家になら思うままに動かされてみたいと常に渇望し望んでいる存在なのだとも思います。チャーチルに動かされる民衆もいれば、ヒトラーに動かされる民衆もいて、それは必ずしも幸とか不幸とかの問題ではなくて、政治家への「酔い方」のカタチのような気がします。しかし、その酔いは、いずれ大きな「代償」を払わされる「悪酔い」となるか、あるいは「果実」を受け取れる「夢」となるのかの違いであって、その「選択」可能の猶予の時期に民衆がどのような質の「酔い」を持ったのか拒んだのか、それはそれら民衆が経てきた歴史的資質が問われる問題でもあることは、たとえば某国の大衆迎合に溺れ込み愚民政治に奔走しウツツをぬかしたあげく、土下座外交で媚びへつらった北朝鮮から剣突をくらって無能な馬脚をあらわし、もはや世界からも相手にされず、ついに国を傾けてしまった憐れで愚かな政治家の例をあげるまでもありません。地位を利用した身内びいきで、私利私欲に走り公金を横領して、私腹を肥やしたこの国の多くの先達と同じように、このイカサマ野郎の将来もまた入獄か自殺かの悲惨な末路がすぐそこに待ちうけているなんてことは容易に予想することができます。さて、この映画に描かれているチャーチル、最後には、周囲からの奥さんとか、秘書官やうら若きタイピストから諌められてようやく国民の指導者としての責任と冷静さを取り戻し、「ノルマンディー上陸作戦」を承諾して、あの史上名高い戦意鼓舞の感動のラジオの名演説に至るというラストになるわけですが、ただ、この映画の冒頭に出てくるチャーチルが移動の自動車の中でスピーチの文案を考えているという場面、秘書官はあれこれと言葉の言い回しや選択等の助言するのを、あるいは撥ね付けたり、あるいは渋々受け入れたりする描写が出てくるのですが、あの場面にもなんだか違和感を覚えました、チャーチルが自らの演説のああした細々とした言葉づかいに対して、あのような神経質なチェックをしただろうかという疑問です。チャーチルなら、前述した「スピーチ」を「スカート」に例えたような、演説をいかに民衆に分からせることができるかと細心に注意し、様々な機知に思い巡らせたとしても、まさか「細々とした言葉づかい」までも神経を尖らせていたとはどうしても思えません。そういうチェックは、それ以前に秘書官の仕事であって、チャーチルはもっとその先の民衆に分かりやすい皮肉と諧謔に富む「譬え」に思いをめぐらせていたに違いないと思うのが、自分のイメージです。公文書として残るタイプ文書ならともかく、場の勢いを必要とする演説です、そこは「もの」が違うと思いました。さて、この映画の中で、さらにひどいと感じたテイタラクな場面があります。「ノルマンディー上陸作戦」をチャーチルが拒んだ驚くべき理由(もうこれ以上若者の死体を見るのはこりごりだ)によって反対の意思を示唆した連合国軍最高司令官アイゼンハワーから、「あんたの意見なんか求めていない。オレは軍人として、やるべきことをやるだけだ」ときっぱり、時代遅れのジジイは引っ込んでろと無視されます。喧嘩の流儀として売り言葉に買い言葉というものがあるなら、ここは「これでも自分は一国の指導者だぞ、コレコレの理由で反対するのだ、ばかやろう」くらいのことは当然言わなければならないところでしょうが、この映画においてチャーチルの持っている札は、なにせ「弱々なヒューマニズム」だけなのですから、反論もへったくれもありません。ですので、この映画に描かれているチャーチルは、自分が知っているチャーチルとは、似ても似つかないマガイモノの人物というしかありませんでした。ただひとつだけ、書いておかなければならないことがあります。この映画の感想を読んでいたら、チャーチルの奥さん「クレメンティーン」を演じたミランダ・リチャードソンを評価した記事を幾つか見かけました。まあ、コトは「見かけました」程度ですので、評価とまでいえるかどうか疑わしく、むしろ正確にいえば「違和感のある演技なので目についた」程度と考えたほうがいいかもしれません。自分としても、この妻が宰相チャーチルを心から愛し、尊敬し、信頼して、陰ながら身をもって尽くすという良妻賢母のタイプの「演技」というわけではなく、すこし違う「妻」を演じていたことは気がつきました。むしろ、たとえば、面倒くさい上司(課長)の下に配属させられてしまった「課長補佐」が、ふて腐れてか開き直ってかして、職務だからすべきことは仕方なくするけれども、それ以上のことはしないからね、それに理不尽な命令なら面と向かって言い返すくらいに冷たく見据え、「あんたのために、なんでオタクの失敗を自分が背負い込まなくちゃならないわけ」と突き放している感じは持ちました。実は、このミランダ・リチャードソンのデビュー作というのを自分は見ています、その作品を、当時、高く評価した記憶が鮮明によみがえりました。ですので、多くの方々が持ったかもしれない彼女の演技への「違和感」は、自分のそれとはちょっと質の異なったものでした。その映画の題名は「ダンス・ウイズ・ア・ストレンジャー」、イギリス最後の絞首刑を受刑した女性ルース・エリスの実話を映画化したもので、ロンドンの酒場でホステスをしていたルースが、自分を真剣に愛してくれる男がいるのに、名家の御曹司の遊び人に入れあげて一方的に付きまとったあげく、無視されて彼を射殺してしまうまでを描いた衝撃作でした。カンヌ映画祭でヤング映画賞というのを受賞したそうです。当時のこの映画のイメージを思い出すためと、もちろん懐かしさというものもありますので、そのときのコラムを以下に引用してみますね。《【ダンス・ウイズ・ア・ストレンジャー】(2004. 11. 12)マイク・ニューエルのこの作品、確か公開時の宣伝コピーは、「1955年、イギリスで最後に絞首台にのぼった女ルース・エリス」だったと思います。イギリスでは、現在は、死刑制度が廃止されているという社会的な背景が前提になっています。そして、これは、ふたりの恋人の間で苦悩した末に、憎悪の対象であるとともに最愛の恋人でもあった男を射殺するに至る女の生々しい情念を痛切に描いた傑作です。僕自身がもっている「女性の愛し方というもの」についての固定観念を根本から揺るがすような、ものすごいショックを受けた作品でもありました。そういえば、かつて、邦画で同じような感想を持った作品があったことを思い出しました。吉村公三郎の「越前竹人形」です。竹細工師の父親が世話をしていた遊女・玉枝を、父の死後、独りぼっちになった女への同情心から、息子が妻として娶ります。彼は、その美しさを愛でるように玉枝に似せた竹人形の製作に打ち込みます。「美しいままの存在」で満足している息子に対して、成熟した肉体をもつ玉枝は、何もないままの夫婦生活に欲求不満をつのらせ、偶然に昔の馴染み客(記憶では、西村晃演ずる行商人)と情交をもって不倫の子を宿してしまい、堕胎に失敗し絶命する、という悲劇でした。若尾文子が官能的に演じたその女は、最初、強姦とも言える無理矢理の情交を強いられたのち、ずるずると続けられる泥沼のような情事にのめり込んでゆく中で、次第に意に反するような肉体の悦楽を覚えてしまいます。女は、気持ち的には貞淑な妻であろうとし、また、夫を心から愛してもいながら、肉体がどうしようもなくケダモノのような男を求めてしまう肉欲の在り方に、僕は、強い衝撃を受けたのだろうと思います。心情的には深く夫を愛し、貞淑であろうとする気持ちと、道ならぬ情交の相手の肉体を貪欲にまさぐるという剥き出しの欲望とが、ひとりの女性のなかで違和感なく一体のものとして同時に存在できるという「性欲」の発見は、僕にとって女性の見方を一変させるほどの衝撃だったのだろうと思います。「ダンス・ウィズ・ア・ストレンジャー」の中で、そのことを象徴するようなシーンがあります。ナイトクラブの雇われマダム・ルースが、ひと目惚れした客の青年ディヴィッドと店の二階で性交にふける場面です。そばには、連れ子の赤ん坊が激しく泣いています。泣き続ける赤ん坊をほったらかしにして、欲望のままに相手の体を激しく求めるというこの描写は、何もかも棄てて、破滅に至ることさえも厭わない彼女の愛欲のあり方をそのまま象徴しているシーンでもあります。彼女には、親身になって心配してくれる恋人デズモンドがいて、新しい生活の建て直しを決意する度に、ディヴィッドがあらわれて、すべてをメチャクチャにしてしまいます。「女」が欲しくなればルースの体だけを求めにやって来るディヴィッドと、彼が現れれば、何もかもが壊されてしまうことが分かっていながら、そして憎しみながらも、彼に体を許してしまうルース。デズモンドとの暮らしの中でも、彼の目を盗んでディヴィッドに逢いに行くその繰り返しの中で妊娠し、途端に逃げ腰になるディヴィッドとの地獄のような関係を清算するために、ルースは、ディヴィッドを射殺します。ふたりの間に超えがたい階級差別がさり気なく描かれていたことも忘れられません。この作品は、1985年カンヌ国際映画祭ヤング大賞を受賞した忘れがたい1作です。Dance with a Stranger(1985イギリス)監督・マイク・ニューウェル、脚本・シェラ・デラニー、製作・ロジャー・ランドール=カトラー、音楽・リチャード・ネヴィル・ハートレー、撮影・ピーター・ハナン、編集・ミック・オーズリー、美術・アンドリュー・モロ、衣装デザイン・Pip Newberry 出演・ミランダ・リチャードソン(ルース・エリス)、ルパート・エヴェレット(David Blakely)、イアン・ホルム(Desmond Cussen)、ジョアンヌ・ウォーリー(クリスティーン)、マシュー・キャロル(Andy)》この映画のミランダ・リチャードソンの印象が強烈で、見た当時は衝撃に似た感銘を受けたのですが、その印象を結局忘れてしまったのは、以後の話題作に恵まれなかったからなのかと、彼女の出演作を改めて検索してみました。なるほど、なるほど。そうですか。いままでの出演作を以下にリストアップしてみたのですが、このうち見た作品は幾つかあるのに、まったく印象にありません。不思議です。まだ、これはという作品とか、はまった役に恵まれないということでしょうか。役柄を深く掘り下げたくとも、それにふさわしい役に恵まれないまま、掘り下げなくともいいような役を重く演じてしまったために、かえってそれがアダとなり、観客に負担を抱かせて、あえてスルーさせるものがあったというか、あるいは、ずばり忌避だったのか、そんな感じだったのかもしれません。つい最近見た「ボストン ストロング 〜ダメな僕だから英雄になれた〜」の母親役は、まさにそんな感じでしたよね。★ミランダ・リチャードソン出演作・カッコ内は、役名1985ダンス・ウィズ・ア・ストレンジャーDance with a Stranger(ルース)ひと夏の青春The Innocent(メアリー・ターナー)アンダーワールドUnderworld(オリエル)1987金持ちを喰いちぎれEat the Rich(DHSS Blonde)太陽の帝国Empire of the Sun(ヴィクター夫人)1989ベーゼ/崩壊の美学El sueño del mono loco(マリリン)1991魅せられて四月Enchanted April(ローズ・アーバスノット)ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門) 受賞 1992クライング・ゲームThe Crying Game(ジュード)ダメージDamage(イングリッド)英国アカデミー賞 助演女優賞 受賞 1994愛しすぎて/詩人の妻Tom Viv(ヴィヴィアン・エリオット)ファーザーランド〜生きていたヒトラー〜Fatherland(シャーロット・マグワイア)テレビ映画 1995欲望の華The Night and the Moment(ジュリー)1996カンザス・シティKansas City(キャロライン・スティルトン)夕べの星The Evening Star(パッツィ・カーペンター)1997鉄の枷The Scold's Bridle(サラ・ブラックネイ)1999アリス・イン・ワンダーランド/不思議の国のアリスAlice in Wonderland(ハートの女王)テレビ映画 王様と私The King and I(アンナ)声の出演 第一の嘘The Big Brass Ring(ディナ)スリーピー・ホロウSleepy Hollow(ヴァン・タッセル夫人)2000チキンランChicken Run(ミセス・トゥイーディ)声の出演 追撃者Get Carter(グロリア)2001スノーホワイト/白雪姫Snow White(エルスペス)2002スパイダー/少年は蜘蛛にキスをするSpider(イヴォンヌ/クレッグ夫人)めぐりあう時間たちThe Hours(ヴァネッサ・ベル)2003ロスト・プリンス 〜悲劇の英国プリンス物語〜The Lost Prince(メアリー王妃)テレビ映画 フォーリング・エンジェルスFalling Angels(メアリー・フィールド)2004プリティ・ガールThe Prince Me(ロザリンド女王)チャーチルズ・ウォーChurchill: The Hollywood Years(エヴァ・ブラウン)オペラ座の怪人The Phantom of the Opera(マダム・ジリー)2005ナターシャの歌にGideon's Daughter(ステラ)テレビ映画 ハリー・ポッターと炎のゴブレットHarry Potter and the Goblet of Fire(リータ・スキーター)2006パリ、ジュテームParis, je t'aimeサウスランド・テイルズSouthland Tales(ナナ・メエ・フロスト)2007ブラザーサンタFred Claus(アネット・クロース)2009ヴィクトリア女王 世紀の愛The Young Victoria(ケント公爵夫人)2010ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1 Harry Potter and the Deathly Hallows - Part 1(リータ・スキーター)2014マレフィセントMaleficent(ウラ女王)2017ボストン ストロング 〜ダメな僕だから英雄になれた〜Stronger(パティ・ボウマン)チャーチル ノルマンディーの決断Churchill(クレメンタイン・チャーチル)★チャーチル ノルマンディーの決断(2017イギリス)監督・ジョナサン・テプリツキー、脚本・アレックス・フォン・チュンゼルマン、撮影監督・デヴィッド・ヒッグス、美術・クリス・ループ、音楽・ローン・バルフ、編集・クリス・ギル、衣装・バート・カリス、ヘア&メイクアップ・ケイト・ホール、出演・ブライアン・コックス(ウィンストン・チャーチル)、ミランダ・リチャードソン(クレメンティーン・チャーチル)、エラ・パーネル(ミス・ギャレット)、ジョン・スラッテリー(連合国軍最高司令官アイゼンハワー)、ジェームズ・ピュアフォイ(英国王ジョージ6世)、ジュリアン・ウェイダム(モンゴメリー将軍)、リチャード・ダーデン(Jan Smuts)、ダニー・ウェブ(Marshal Brooke)、 先日、BSで小津作品「お茶漬けの味」1952を放映していたので、久しぶりに見てみました。「お茶漬けの味」は、自分のなかの位置づけとしては、とても微妙な作品です、いままで何をさし置いても「是非とも見る」という作品では、必ずしもありませんでした。ですので、たまたまのTV放映は、ある意味(他動的な)とても貴重な機会といえるかもしれません。戦後の小津作品を単純に年代順に並べてみると、興味と評価についての比重は、どうしても「シリアス」な作品に傾いてしまうというのは、誰もがきっと同じだろうと思います、インパクトからみれば、それは致し方のないことと自分でも思っていますし、そうした傾向を「善し」とする部分が自分の中には確かにあります。しかし、それらシリアスな作品(「風の中の牝鶏」「晩春」「宗方姉妹」「麦秋」そして「東京物語」や「東京暮色」)と同じ乗りで、この「お茶漬けの味」を見ることができるかというと、どうしても抵抗を感じてしまうのが、いままでの自分の状態でした。この「お茶漬けの味」を、それこそはっきりと「喜劇」と仕分けしている解説書もあるくらいですから、そういう影響を受けてしまうのは避けられません、なので軽妙洒脱な「お茶漬けの味」という作品を受け入れるためには、どうしても特別の覚悟と気分の切り替えの心的手続きを必要としたのだと思います。その意味で自分にとってこの「お茶漬けの味」はたいへん「微妙」な作品で、それが「敬遠」というカタチに現れてきたのかもしれません。この作品を見たのは今回が二度目、しかも数十年ぶりの鑑賞でした。たぶんに思い込みというのもあったと思います、自分にとっての「お茶漬けの味」は、いわゆる「分かりやすい作品(だから、もう見なくていいか)」という位置づけで「ワキ」に押しやった作品といえます、思えば、随分と勝手な話ですが。つまり、最初見たとき、なんの根拠もなく、「これは、こういう作品なんだよな」と決め付け、完全に理解したつもりになって、それ以後、二度と見直すことも、思い返すこともなくなってしまった映画として、「お茶漬けの味」という作品はありました、いわば「封印」状態にしてしまった作品です。最初に見たのは、おそらく「並木座」か「文芸地下」あたりの「小津監督作品特集」の一本として「お茶漬けの味」を見たと思いますが、当然、他の小津作品と比較して見て、その「衝撃度」がすこぶる弱く、ずいぶん淡白な作品だなあと失望し、だから「封印」したのだと思います。なにしろ、この映画の内容というのが、熟年夫婦が喧嘩して和解するまでを描いた映画にすぎません、親しく出入りしていた姪が、「見合いなんか、絶対に嫌」と見合いの場から逃げ出したことから、その世話をした妻が身勝手な振る舞いをした姪に怒りを向けると、夫のほうは「かばう」という立場になって夫婦仲もぎくしゃくし始め、やがて険悪になってしまいます。この夫婦もまた見合い結婚で一緒になっていて、夫婦のあいだが疎遠なのはそのためなのかと感じ始めるあたりから、次第にお互いの積年の不満が噴出してぶつかり合うというストーリー展開です。自分がこの作品を見るのは今回で二度目なのですが、姪が「お見合い」に疑問を感じたことと、熟年夫婦の間にくすぶる「疎遠」の原因が「見合い結婚」に端を発していたのではないかと思い始める物語の構図が、端正な整然とした相似形をなしていることに今回はじめて気がついて、とても感心しました、これが小津作品の楽しみ方というものなのかと。「いまさら、なに言ってんだ」と叱られそうですが。姪の見合い話がこじれたことが切っ掛けとなって、気まずくなった夫婦が、やがて和解に至るまでを描いた映画なのですが、これをもし「風の中の雌鶏」などと一緒に見たとしたら、シリアス好みの自分には、やはり落胆するしかなかったに違いないことは、容易に想像できます。なにしろ、「風の中の雌鶏」は、夫が出征中に子供が急病になり、切り詰めた生活のなかでは治療費に当てる経済的余裕がなく、思い余った妻は売春してしまい、そのことを知った夫は激怒して妻を殴るわ蹴るわの、現代ではもはや製作することはおよそ困難な、「戦争直後」という逼迫した時代が作らせた凄まじい壮絶なDV極限的映画です。しかし、かたや「お茶漬けの味」は、裕福な家庭の夫婦の気持ちをかすかな行き違いと、ささやかな和解とを描いた上品な映画です、そもそもの喧嘩の原因が「お嬢様育ち」の有閑マダム(現在では完全に「死語」ですが)のわがままと思い上がりが根底にあり、彼女のささやかな改心によって和解するという気持ちの微妙な行き違いをさざなみのように描いた、別段なんということもない映画です、当時の自分が、「風の中の雌鶏」に心奪われ、「お茶漬けの味」に失望したとしても、一向に不思議ではありません。子供の命を救うためには売春するしか方法のなかった切羽詰った主婦の苦悩を描いた「風の中の雌鶏」を見たあとで、この気まぐれな有閑マダムの反省と改心の物語「お茶漬けの味」を見たら、まあ、こんな自分のことですから(いまから思えば、若気のいたりにすぎませんが)、落胆を通り越して、手抜き作品以外のなにものでもない、こんな作品を小津監督がわざわざ撮る必要があるだろうかという「悪印象と嫌悪」すら持ったかもしれないことは、容易に想像することができます。ですので、そのとき自分が持ってしまった「烙印」は、今回、この作品を見るときも残っていて、もう「見なくてもいいかな」的な印象の中で、今回、BSでこの「お茶漬けの味」の放映を受けて、それほどの期待も抱かずに見たというわけです。しかし、この「お茶漬けの味」の内容のすべてを忘却して、「知識」が皆無だったというわけではありません。叔母・木暮実千代が、自分の夫のことを女友だちの前で(いずれも有閑マダムです)あまりにも悪し様に言う姿に、津島恵子演じる姪が嫌悪し、「見合い結婚」というものに幻滅し、見合いをすっぽかす動機になるという断片だけは鮮烈な記憶として持っていました。この印象のカケラは、決して誤りというわけではありません、また、ストーリーの重要なキモを押さえていることもその通りなのですが、今回、この作品を改めて見て、そのニュアンスが若干異なっていることに気がつきました。生活に余裕のある有閑マダムの妻・妙子(小暮実千代)は、同じようにひまを持て余している有閑マダムの友だちと修善寺旅行に行くこと約束し、夫・茂吉(佐分利信)には、友だちが急病になったから見舞いに行くと嘘をついて旅行を承諾させます。この一連のやり取りから、この夫婦のカタチが想像できるような気がします。一流商社に入った男が、その優秀さを上司に見込まれ、娘と見合いさせられてめとる、しかし、都会育ちの妻は、無骨な田舎出の男の所作のいちいちが癇にさわり、何もかもが気に入らない。そういう思いを鬱積させている妻は、修善寺の夜も、やはり友だち相手に、面白くもない夫の生真面目さ・無骨さを酒の肴にして笑いものにして楽しんだ挙句のその翌朝、宿の池に放っている鯉に餌をあげながら、もそもそして餌を逃してしまう動きの鈍い鯉を鈍重な夫になぞらえて「鈍感さん」と呼び、友だち皆で散々に笑いものにしますが、自分の印象では、ここで姪の節子(津島恵子)が、夫を人前で笑いものにする妻・妙子に対する嫌悪をもよおし非難したとの記憶があったのですが、まったく違いました。姪の節子も同じように皆のからかいに同調して(とまではいかないにしても、否定することもなく)穏やかな笑顔でその場の雰囲気に溶け込み、楽しんでいたことは確かです。むしろ、妙子が夫をからかい悪口を言い募りながら突如不機嫌になって、つぶやくように、「あんなやつ(とは言っていませんが)どこへでも行っちゃえばいいのに」と吐き捨てるように言い、それから思いつめた表情でじっと黙り込む鬼気迫る表情は、修復不可能な夫婦の深刻な亀裂と、彼女の絶望感を示唆している衝撃的なシーンでした。それは自分の記憶の中には、欠落したまるで存在していない「表情」です。そして、自分の記憶の中にあった姪・節子の反発と怒りの言葉「お見合いなんか、絶対にいや」は、もう少しあとの場面の、実家で無理やりお見合いさせられることになったと叔母・妙子に訴えにきたときの会話のやり取りのなかで発せられています。姪・節子は、叔母・妙子も見合いで結婚したと聞かされ、「だからふたりは合わないんだわ」ときめつけ、妻が夫に嘘をつくこと、亭主のことを人前でからかい笑いものにすること、そういう夫婦でいることで「幸福なのか?」と妙子に問い詰めます。「私は幸福よ」「真っ黒な、もそもそした鯉を叔父様だなんて、お気の毒だわ」「余計なことよ」「いいの、結婚したって、旦那様の悪口なんて絶対に言わない。私、自分で探します。お見合いなんて大嫌い。」「困った人ね、そのうち分かるわよ」「分かりたいとは、思いません。人の前で旦那様のこと、『鈍感さん』なんて、決して言いませんから」姪・節子の本音が、ここで十分すぎるくらいに語られているのに、それに反して、彼女から激しい言葉を浴びせられた叔母・妙子の本音は、それほど十分に語られているとはいえない、と自分は長いあいだ思い込んできました。しかし、妙子は、実家の千鶴(三宅邦子)や山内直亮(柳永二郎)から節子の見合いの話を聞き(前夜に説得し、渋々承知させたこと)、見合いの席である歌舞伎座への同行を依頼されたときも、前日の節子とのつきつめた話はいささかも仄めかすことなく、まるで何事もなかったかのように平然と同行を承諾しています。この一連のシーンを見たとき、これが妙子の本音なのだなと思い当たりました。だってほら、妙子は、姪の節子との会話の中で、こう語っていましたよね、「困った人ね、そのうち分かるわよ」と。妙子が自ら語ってしまった「そのうち分かるわよ」の意味は、夫に嘘をついて気ままな旅行をしたり、好き勝手に遊びまわり、鈍重な夫を陰でからかい、「結婚なんて、しょせんそんなものだ」とうそぶいて、一瞬捉われるかもしれない自己嫌悪を適当にやりすごし、はぐらかして夫婦のあいだによそよそしい溝を作り、顔をそむけ合い、当然の孤独を抱えて暮らすことが、そのうちに分かる「結婚」の実体なのだ。結婚なんて「それ以外の、なにがあるの?」と。鈍感と夫をなじり、大人気ないと姪を非難し、お茶漬けを下品にかき込む夫に「そんなご飯の食べ方、よして頂戴!」となじりながら、妙子は、それら非難の積み重ねのひとつひとつに、自分の非を少しずつ同時に気づき始めています。この「積み重ね」が彼女の中になければ(そして、そのことを観客が理解できていなければ)、その夜、飛行機の故障によって夫が突然帰宅し、夫婦が和解をとげるという唐突感は、あるいは免れないかもしれません。妙子が、腹立ちまぎれに実家に帰ってしまい、その間、突然、夫に海外出張の辞令が下りて、急遽旅立たなければならないとの連絡を受けても、それまで、怒りを高揚させたまま収束できない自分の頑なさにこだわっているあいだに、夫を空港に見送ることをあわや逸しかけたことも、妙子は反省し、深く傷ついたに違いない「積み重ね」を辿れなければこの夫婦の和解は十分に理解できないかもしれない、そんな危惧を感じました。実は、自分も、夫婦の和解がなぜ「お茶漬け」なのか、という疑問をずっと抱いてきたひとりでした、この実感のなさもこの映画が「敬遠」につながったひとつの原因かもしれません。夫婦の気安さの象徴というのが「お茶漬け」なのだろうかとも考えてみましたが、もうひとつピンときません。そのときふっと中学校(相当むかしの中学校です)の若き女教師の言った言葉を思い出しました。英語というのは、ごく短い文章で多くの情報を瞬時に伝えることのできる優れた言語です。それに引き換え、この日本語はどうですか、でれでれと長たらしいばかりで、結局、最後まで肯定しているのか否定しているのかさえ分からない曖昧さ、グズグスと持って廻った実に煮え切らない下等な言語です、と彼女は日本語で熱く語っていました。そしてまた、アメリカの食べ物というのは、栄養満点の高カロリーで、だからああした立派で逞しい肉体が形成されるのです。それに引き換え、日本の食事の貧しさ・みすぼらしさはどうですか。日本人の貧弱な肉体が証明しています、実に恥ずかしい限りです。漬物とか納豆とか、得体の知れない臭さ、なんですかあれは。なぜ、あんな奇妙な物を食べなきゃいけないんですか、と。欧米の優れた文化を賞賛・崇拝するために、できる限りの想像力と弁舌を駆使して彼女は「日本」を卑下しまくっていました。いまでは、日本文化を愛する外国人が、へたな日本人よりも日本語を流暢に喋り、受け継ぐ者がいないような伝統文化に興味を持ち、着物はおろか日本髪を結いたくて、そのためにわざわざ来日し、あるいは帰化する人たちさえいて、納豆も漬物も健康的な食品であることを熟知している脂肪太りの外国人たちは、なんの抵抗もなく食べている時代です。あの女教師の「日本」卑下を思い返すとき、この「お茶漬け」を撮ったときの当時の日本の風潮(アメリカナイズ)の時代背景を考えるべきで、この作品は、小津監督の時代への批判が込められていたのではないかと考えた次第です。(1952松竹・大船撮影所)監督・小津安二郎、脚本・野田高梧・小津安二郎、製作・山本武、撮影・厚田雄春、美術・浜田辰雄、録音・妹尾芳三郎、照明・高下逸男、現像・林龍次、編集・浜村義康、音楽・齋藤一郎、装置・山本金太郎、装飾・守谷節太郎、衣裳・齋藤耐三、巧藝品考撰・澤村陶哉、監督助手・山本浩三、撮影助手・川又昂、録音助手・堀義臣、照明助手・八鍬武、録音技術・鵜澤克巳、進行・清水富二出演・佐分利信(佐竹茂吉)、木暮実千代(佐竹妙子)、鶴田浩二(岡田登)、笠智衆(平山定郎)、淡島千景(雨宮アヤ)、津島恵子(山内節子)、三宅邦子(山内千鶴)、柳永二郎(山内直亮)、十朱久雄(雨宮東一郎)、望月優子(平山しげ)、設楽幸嗣(山内幸二)、小園蓉子(女中ふみ)、志賀直津子(西銀座の女)、石川欣一(大川社長)、上原葉子(黒田高子)、美山悦子(女店員)、日夏紀子(女店員)、北原三枝(女給)、山本多美(女中よね)、山田英子(給仕)、谷崎純(爺や)、長谷部朋香(見合いの相手)、藤丘昇一(事務員)、長尾敏之助(社長秘書)、劇場公開日 1952.10.01 12巻 3,156m 115分 白黒 スタンダードサイズ(1.37:1)毎日映画コンクール男優主演賞受賞(佐分利信) ここ数日間、木下恵介監督作品「野菊の如き君なりき」1955に、サブタイトルが付いていなかったか、すこし調べています。もし付いていたとしたら、イメージ的には、「思い出の君はいつまでも美しく」みたいな、そんな感じのものだったのではないかという記憶が薄っすらとあるので、そのあたりを確かめたくて、あれこれ検索を試みたのですが、結局確認するまでには至りませんでした。でも、仮にこの惹句が木下恵介作品「野菊の如き君なりき」のものだったとしたら、作品の要点を巧み言い当てている、いかにも相応しいサブタイトルだと感心していたので、別の作品と取り違えて覚えていることも含めて調べてみたのですが、どうもうまくいきませんでした。この伊藤左千夫の書いた「野菊の墓」は、明治期、いとこ同士の淡い初恋が、大人たちの過干渉によって破綻させられるという実に切ない胸の詰まるような悲恋物語です。むかしこの映画の作品解説には、「いとこ同士の初恋とその破綻」を「封建的な道徳観を持った大人たちによって無理やり引き裂かれ」みたいに説明したものを読んだことがあって、そのたびにものすごい違和感を覚えていました。もし、この映画に描かれているその「初恋の破綻」の部分を説明するとしたなら、そんな大括りな紋切り型の説明ではなく、むしろ、「狭い村社会の好奇な目」とか、「悪意と嫉妬の告げ口」とズバリ言ってしまうのがもっとも相応しく、なにも遠まわしに「明治という時代の悪弊のため」などと時代のせいにするなどという事大主義は、なんか如何にも日本的だなとずっと考えていました。この「初恋の破綻」は、なにも明治の時代的な特徴なんかではなくて、いまだって初恋くらいは十分に破滅させることができる普遍な「悪意ある好奇と嫉妬」とを、まずは挙げるべきではないかなと。いまでもよくある小中学生とか高校生の自殺に伴う「いじめ報道」の記事の定番に、いじめられた側の自殺者がどんなに苦しんで自殺に至ったかを異常なほどの執着でもって掘り下げネチネチと報道する記事に対して、それに引き換え、死に追いやった加害者たちに関する糾弾がまるでない記事などに接すると、「いじめ」の実態を、まるで最初から、避けがたい「天災」かなんかみたいに扱われているのが不思議でなりません。まるで「遭遇してしまったことは、仕方なかったことなのだ。こんなことで自殺するなんて君が弱すぎたんだよ」と言わんばかりの姿勢には、いかにも日本的な迎合の姿勢を感じ、不快で、思わず湧き上がる怒りを禁じえません。確かに、自殺者は弱く、だからこそ弱い者とみると寄ってたかっていじり回し、いじめずにはおられない愚劣な者たちのターゲットになってしまうわけですから、ここにある「いじめ」のシステムを解明しないかぎり、いつまでたっても弱者たちは高層ビルから飛び降りるか、家に引きこもるしかして、逃げ回るしかないということになります。マスメディアは、権力悪におもねるようなマゾヒスティックな報道の姿勢をいい加減改めて、むしろ、いじめ抜いて自殺まで追い詰めたあげく、しおらしく反省ヅラしたその腹の中では、きっとちゃっかり舌を出して薄笑いしているに違いない、そして、その後ものうのうと好き勝手に新たなターゲットを物色している「やり得」の加害者たちをのさばらせないような立ち向かう報道の姿勢が必要です。しかし、木下恵介作品「野菊の如き君なりき」は、とても優れた作品には、違いありません。明治期の農村の自然のなかで成長した従姉弟同士の少年と少女の淡い初恋が、その若さと年齢差ゆえに、家族や肉親、そして世間の冷たい目にさらされ、悪意ある干渉に追い詰められ、引き裂かれて破綻するという物語です、少女は泣く泣く初恋を諦めて他家に嫁ぎますが、やがて病死するという伊藤左千夫原作のなんとも遣り切れない哀切な悲恋物語で、その死の床の枕下には、忘れられない少年の手紙が大切にしまわれていて、少女の秘めた健気な思いが死後に分かり涙を誘うという、この作品を越えるようなピュアな悲恋物語は、いまだ作られていないのではないかと思うくらいの傑作には違いありません。この映画を見た当時、四隅を白いボカシで囲った場面がいかにも作り物めいていて、「ずいぶんだなー」と抵抗を感じた記憶があります、しかし、それでもすぐに、哀切きわまりない「木下」調に引き込まれて、見終わったときには、そうした画面への抵抗感や違和感もすっかり忘れてしまったのだと思います。しかし、いま改めて映画のスチール写真を眺めると、やはり「これって、やりすぎじゃん!」という違和感は確かにあります。あらためて、これって木下恵介のずいぶん大胆な試みだったんだなあと思います、自分としては、いままであまりいい評判も聞いていなかっただけに、一種の「掛け」みたいな試みだったのかもしれません。郷愁の感じをだすために四隅に楕円形のボカシを入れた手法っていうのは、大むかしに町の写真館の店先のショーウィンドウでよく見かけた家族写真とか出征兵士の写真とか、ああいうのによくありました、いずれにしても古い写真帖を一枚一枚めくっていくっていう「乗り」だったんでしょうね。撮った瞬間・見た瞬間から、最初から「思い出」となるように意識的に作られているのだと思います、「生前感」とか「郷愁感」とかを兼ね備えた・・・。この独特な雰囲気を木下恵介監督は狙っていたでしょうし、それが木下監督の持ち味なので、見ていて違和感というものをあまり感じなかったのですが、自分の友人に、むかしから木下恵介を毛嫌いしているヤツがいました、彼の描く「抒情」とか「詩情」の正体は、実は、観客に媚る「女々しさ」にすぎず、絶対に受け入れられない、とよく言っていました。たぶん、嫉妬から民子と政夫を引き裂き、初恋を諦めさせたうえで、世間体を憚って他家に嫁入りさせて民子を病死まで追い詰めて破綻させる元凶の「家族」への指弾が一向に描かれていない「やられっぱなし」が気に入らなかったのだと思います、まるで、あの一面的な「いじめ報道」みたいな嫌悪と同じものをこの作品に感じていたのだと思います。木下恵介容認派の自分などは、「こういうタイプの映画があってもいいじゃん」とつい考えてしまうのですが、この「野菊の如き君なりき」に一貫して流れている被虐趣味には耐えられず、どうしても許容できなかったのだと思います。考えてみれば、「優柔不断」とか「どっちつがず」も「女々しさ」の延長線上にある感性なので、当然といえば当然な話かもしれません。いまでも、この話になると、自分は内心「まさかね」と思いながらも、彼の熱弁に対してニヤニヤしながら適当に相槌をうって同調することにしていました。しかし、最近、この「野菊の如き君なりき」を長年擁護してきた自分の思いを一挙にひっくり返すような、まるで天地を揺るがす新聞記事に遭遇しました。自分的には新聞を読むという習慣は確かに「あります」が、時間としては、朝食をとるときに傍らに広げて読むという程度です、「その間の時間」だけ新聞に接しているということになるので、大きな事件などがあったときは、その関連の記事を集中的に読むことになるので、他の記事を読む余裕がなくなってしまうというそんな感じです、それでも、「テレビ番組表」と「人生相談」だけは欠かさずに目を通しています。ただ、「人生相談」については、「相談」は読みますが、「回答」のほうは最初の1~2行を読んで、最後まで読み通すことは滅多にありません、きっとそれは、答えが容易に想像が付くからだと思います、たとえ「同調」でも「否定」でも「韜晦」であったとしてもね。ですので、いずれにしてもその答えが「想定内」のものであることは長年の経験によって分かっているので最初の1~2行を読みさえすれば見当がついてしまうからだと思います。ところが、自分の長年の固定観念を突き崩すような「回答」に遭遇したのでした。「相談者」は80歳男性、むかし、結婚して間もなく、体形が不満で離縁してしまった女性への悔恨の思いを募らせています。(読売新聞朝刊2019.5.18、15面)回答者は、ノンフィクションライターの最良葉月という人。それにしてもこのまま記憶の闇に落として忘却してしまうには実に惜しい傑出した回答ですので、以下に転載しておきますね。《【相談】80代男性。52年前に離婚した相手の女性のことで悩んでいます。結婚後、その女性の肩が張っていて、男性のような体形であることに嫌気がさしました。別れたいと思い、私は女性を無視しました。女性はいたたまれなくなって家を出て、7か月で結婚生活は終わりを迎えました。いま思えば、なんて非情なことをしたのだろうと、深く反省する毎日です。体形が男性的だというだけで、相手を傷つけ不幸にしてしまいました。最近やたらと彼女のことを思い出し、悔やまれてなりません。いまの妻は、非情にきつい性格で言葉遣いも悪く常に争いの日々です。だから余計に別れた彼女のことが残念でなりません。そして私には子どもがおらず、私の死後、墓が無縁仏になることについて、親に申し訳ないと思っています。今後の残り少ない人生を、どのような償いの心構えで生きていけばいいのでしょうか。(東京・U男)【回答】あなたから見れば娘のような年齢の私に手紙が届いてしまいました。生意気を申し上げるようですが、一読して、元妻はあなたと離婚して本当によかったとつくづく思いました。あなたが彼女にしたことは、今ではモラルハラスメントと呼ばれる精神的暴力です。自分が彼女を不幸にしたと考えるなんて不遜きわまりない。早いうちにあなたから逃れられたのは、不幸中の幸いだったといえるでしょう。彼女は彼女の人生をしっかりと歩んでおられると思います。困ったのは、あなた自身です。現在の妻の欠点をあげつらい、家を継ぐ子ができなかったのが親に申し訳ないという。元妻への償いについての相談かと思いきや、いま一番気になるのは墓のこと。いや逆でした。こんな老後になったのはなぜかと考えるうちに、自ら切り捨てたもうひとつの人生が惜しくなったのでしょう。遅きに失しましたが、それでも気がついてよかったと思います。ボランティアでも寄付でもいいのです。これからは天に徳を積むつもりで、人知れず善きことをなさってください。謝罪すべきは、あなたに与えられたかけがえのない人生に対してではないでしょうか。》そうですか、そうですか、よく分かりました。いえいえ、この傑出した「回答」を「民子さん」に当て嵌めようとか思っているわけではありません。だって、民子さんは、政夫からの手紙を後生大事に抱き締めて死んでいったわけですから、そりゃあ可哀想だったかもしれませんが、まだまだ「手紙」という救いはあったわけですから、この「回答」を適用することはできません、むしろ、逆です。政夫は命永らえ、そろそろ死を思う老境に達したとき、「そういえば、ああいうこともあったっなあ」と、たまたま民子さんのことを思い出し、思い立って彼女の墓に野菊を供えに詣でた部分なんか、まさにこの「回答」はぴったりなのではないかと考えたとき、ふっと、民子さんがいやいや嫁いだという他家の「婿さん」という人は、この物語では、ついぞ顔を出さなかったことに思い至りました。本当に可哀想なのは、もしかすると徹頭徹尾、言及されなかったこの婿さんなのではないかと。今度うちに来た嫁さんはさあ、以前になんかあったみたいで、なんだかイワクありそうな人でね、ほんと大丈夫かなと思っていたら、案の定、家にも、婿であるこの自分にも一向に馴染もうとしないで、一日中部屋に閉じこもってめそめそと泣いてばかりいるかと思うと、そのうちに病気になってしまって臥せってしまい、あれよあれよという間に死んでしまったわけよ、でね、嫁さんの家族っていうのが大挙して押しかけてきて、枕の下からむかしの恋人の手紙を見つけて、突如「私らが悪かった」とかなんとか他人の家で大号泣がはじまったってわけ、おれなんていい面の皮だよ、まったく。なんなんだよ、あいつら、人のこと馬鹿にするのもいい加減にしてくれよ。あっ! 分かった、ボクの友人がこの作品をものすごく嫌悪し、苛立っていたのは、これだったんだな。そういうことなら、なんか分かるような気がします。夜、呑み屋にひとりで入ったら、ろくに注文なんか聴きにきもしないで、ホッタラカシの目にあっているちょんがーの身としたら、彼がこの作品を嫌がっている理由もなんだか分かるような気もします。なるほどね。孤独なんだなあ、みんな。(1955松竹)監督・脚色・木下惠介、原作・伊藤左千夫(『野菊の墓』)、製作・久保光三、撮影・楠田浩之、音楽・木下忠司、美術・伊藤熹朔、編集・杉原よ志、録音・大野久男、照明・豊島良三、出演・田中晋二(政夫)、有田紀子(民子)、笠智衆(老人)、田村高廣(栄造)、小林トシ子(お増)、杉村春子(政夫の母)、雪代敬子(民子の姉)、山本和子(さだ)、浦辺粂子(民子の祖母)、松本克平(船頭)、小林十九二(庄さん)、本橋和子(民子の母)、高木信夫(民子の父)、谷よしの(お浜)、渡辺鉄弥(常吉)、松島恭子(お仙) 昭和30年キネマ旬報ベストテン第3位、モノクロ。 つい昨日もバス停でバスを待っていた複数の児童と、付き添っていた親が刺し殺されるという身の毛のよだつ悲惨な事件が起こりました。いまの時点では事件の詳細は、まだ分かっていませんが、なんとも痛ましい事件で、ニュースを見るのが怖くなってしまうくらいです。それでなくとも最近は、子殺しの事件とか児童虐待に関する報道があまりにも多くて、この国はいったいどうなってしまったのかという不安にかられています。あの野田の事件など、夫の暴力におびえた妻が、この異常者のご機嫌を取るために被害者児童(自分の子供です)の動静をまるで媚びるみたいに逐一報告するなど、積極的に父親の虐待に加担した事実が明らかになっています。娘を人身御供に捧げれば、たとえイットキでも夫のDVから免れられるという、身勝手な自己保全のために子供の命を犠牲にしたとんでもない母親です。同じように父親から恫喝されておびえた担任の教師が、こともあろうに子供の救命を求める必死の作文をそのまま父親にチクるという愚劣な事実も明らかになりました。そのことによって子供はさらにこの異常な父親によって痛みつけられたはずです。それでもお前は人間か、人の痛みを知らないこんなチクリ野郎がのうのうと教師面して日頃偉そうなことをほざいていたかと思うと、正直ハラワタが煮えくり返る怒りを感じます、これだって明らかな刑事罰に値する犯罪でしょう、刑事責任を追及してきちんと処罰しなければ下劣で悪質なこの手の教師はこの世からいつまでたっても一掃できません。身勝手な親や愚劣な教師たちが寄ってたかって、子供をまるで家畜のように追い立て、なぶり殺し、聴くところによれば父親の性的虐待までもからんでいるらしく、歯止めのきかないこの状態は、もはや陰惨を通り越して異常というしかありません。先日、アメリカで宗教上の倫理観にもとづく「堕胎禁止条例」に反対する集会とデモ(写真で見ると、参加者はほとんど女性でした)があったことが報道されていましたが、いまの時代、そりゃあ堕胎禁止に反対するのも一理あるかなと思います。馬鹿面してsexだけ楽しんでいればそれだけで十分の、とうてい子供など育てることのできない、最初から持つべきでない幼稚で身勝手なただの色情狂たちにとって、「堕胎」こそは「親」にならずに済む・そして望んでもいない子供を持たずに済む・だから子供を殺さずに済む、唯一彼らの必須アイテムだからです。もう、これ以上、「子殺し」の悲惨なニュースは聞きたくありませんし、こんな惨憺たる状況を呼び寄せかねない無闇な「生めよ増やせよ」の呼びかけで、逆に子殺しを増やしてしまうくらいなら、むしろこの国の滅びにつながる「人口減少」を受け入れるほうが、まだマシというものです。どんな熾烈な環境にあっても、どんなに貧しくとも、子供を大切に思い、扱うことのできる人間なら、この世界には、まだまだ、たくさんいるはずだと信じたいです。もはや、この国の将来の望みは、愛と常識を兼ね備えた他国民に託すほかないのかという、こうした遣り切れない「時代の空気」のなかで、この「万引き家族」という映画に出会えたことは、自分にとってとても意義のあることだったと思います。映画を見る習慣を持っていて、本当によかったなと感じることのできた幸せで稀有な瞬間でした。思い入れが激しく、ただ好きな映画に対しては、「分析」や「解釈」や「批評」など到底似つかわしいとは思えません、できることといえば、ただひたすらな「回想」だけです。「さて、」と本論に取り掛かろうとしていたタイミングで、たまたまwowowで「万引き家族」の放映があり、幾人かの人と(偶然、みな女性でしたが)この映画について話す機会があって、それぞれの方から三つのことを訊かれました。① お姉ちゃん(亜紀)は、なぜ、お客さん(4番さん)を抱きしめたの? そのときなんて言ったの?② 祥太は、なぜ、わざと捕まったの?③ りんちゃんの最後のシーンは、何を意味しているの?と。なるほど、なるほど。自分的には、取調室における妻・信代(安藤サクラ)と夫・治(リリー・フランキー)の供述の場面からまともに語り出そうかと考えていた矢先なので、むしろこの「夫婦」が語る「家族たち」(実際は戸籍的な夫婦や家族ではなく寄せ集まりの関係にすぎないので、正確を期するなら、このようにカギ括弧でくくる必要があります)について考えてしまうほうが、この映画の本質にダイレクトに迫ることのできる卓越した設問に違いないと感心し、正直、虚を突かれた感じでした。だって、そうですよね、取調室における妻・信代の供述の場面は、安藤サクラの圧倒的な演技と相俟って、おそらくは映画史に残るこの映画の重要な核となる場面で思わず目を奪われてしまいますが、しかし、大切なのは、彼女が語っている「内容」のほうなのであって、アタマから順序立ててストーリーを忠実にたどろうとした構想自体は決して誤りではなかったとしても、この夫婦の供述を逐一追うことで、はたして「偽の家族」と生活を共にし、その中でのびやかに育まれた子供たちの姿を捉えることができるかどうか、むしろ見えなくさせられる部分のほうが多いかもしれないなと思い当たるものがありました。とにかく、①~③に注目し語り出そうというのは、自分の発想にはない面白い視点なので試してみる価値はあります。ただ、①の「お姉ちゃん(亜紀)は、なぜ、お客さん(4番さん)を抱きしめたの? そのときなんて言ったの?」という質問を、現実に面と向かって問われたとしたら、《亜紀は「4番さん」の自傷行為の傷跡を見つけてしまい、彼が同じ欠落を抱える人間であることを知り、心動かされ、同情して抱き締めた》と結構あっさりと模擬試験の回答みたいに答えてしまうかもしれません、まあ、そんなふうに言ってしまったら、それこそ身もフタもありませんが、それは、この「万引き家族」において「亜紀」の存在だけは、いかにも作られた画一的で希薄な印象しか受けなかったために、そこにはそのままの「正解」しか思い浮かべることしかできなかったのだと思います。さらに、「そのとき、亜紀はなんて言ったの?」という問いですが、その部分、全然覚えていないので、改めてそのシーンを録画で確認しました。亜紀が客の「4番さん」(池松壮亮)に膝枕をして会話する場面、話しながら彼のコブシに殴り傷があるのを見とめた亜紀は「どうしたの、これ?」と尋ね、そして「殴ったの、誰かを」と言い掛けた瞬間、どう見ても彼がそんなふうに他人に関わることができるような人間でないことを察知した亜紀は、思わず「4番」を抱き締め、「あたしもねえ、自分を殴ったことありますよ」と言い、さらに「痛いねえ、これ。痛い痛い、痛いよね」と続け、「4番」が、おそらく重度の吃音のためにうまく発音できないくぐもった声に亜紀はうなづいて、「分かったからね」と感極まって共感する場面です。ただ、その傷が、本当に「自傷」によるものかどうかは最後まで分かりません。この映画についてのコメントのなかに、「このシーンは余計」と断じた感想を読んだことがありますが、むしろ、「おばあちゃんは、お金が欲しかっただけなのかな、私じゃなくて」も含めて、「余計な演技」という印象を持ちました。「4番」の傷が「自傷」であると即断して「共感」するという悲痛な心の動きを表現するのに、こういう説明的な演技ではなく、もう少し工夫して抑制する演技ができなかったのか、安藤サクラの衝撃的な演技に照らすと(比較的に見てしまうのは仕方ありません)、とても残念な思いが残りました。次に「② 祥太は、なぜ、わざと捕まったの?」ですが、取調室で供述する信代の場面が、この映画の白眉だとすると、「もうひとつ」の白眉が、拘置所での信代との面会を終えたあとで、偽の父親・治と祥太がアパートの一室で最後の一夜を過ごす場面です。部屋の灯りを消し、布団に入った偽の父親・治は祥太に問い掛けます。「明日、帰るんだよな」「うん」「そっか」「ねえ、ぼくを置いて逃げようとしたの」祥太は、取調官から聞いた「あの人たちは君を置きざりにして逃げようとしたんだよ。本当の家族だったらそんなことしないよね」という話をただそうと、思い切って偽の父親・治に訊きます。しかし、その答えは、「ああ・・・(置き去りにしようと)した。その前に捕まっちまったけどな」でした。「そか」「ごめんな」「うん」「父ちゃんさ、おじさんに戻るよ」あの拘置所の面会室で信代の言った「もう分かったでしょう。うちらじゃダメなんだよ、この子には」と言い、さらに、夫・治の制止も無視して、祥太に彼を保護した場所とクルマの車種を伝えています、松戸のパチンコ屋で、クルマは習志野ナンバーの赤いヴィッツだと。偽の父親・治もそのことを十分に理解し、「父ちゃんさ、おじさんに戻るよ」と伝えたのかもしれませんが、「でも、しかし」という思いは、治には断ちがたくあったに違いありません。それは、翌朝のバス停の場面によって証明されます。バス停でバスを待ちながらふたりは言葉を交わします。「施設の人にちゃんと謝るんだぞ。おじさんに無理やり止められたってな」「うん、そうする」いよいよバスが来て乗り込もうとする祥太(城桧吏)は、意を決したように、偽の父親・治にこう告白します。「おじさん・・・わざと捕まった、ぼく、わざと捕まったんだ」「そっか・・・そっか」そして、動き出すバスを追いながら、「おいっ、祥太!」と偽の父親・治が何ごとかを伝えようと必死に走りながら叫ぶ姿が窓のすぐそこにあっても、祥太は振り返ることもなく下を向いたままじっとしています、やがてバスは加速し、もはや治の姿も見えなくなり、後戻りできないくらいに「距離」がついたときに、始めて祥太が振り返るというあの象徴的な場面があります。あのとき、偽の父親・治は、なにを伝えようとしたのか、その声は確かに届いていたはずなのに祥太がなぜ振り返ろうともせずに、「もはや後戻りできないくらいの距離になったときに始めて振り返った」のか、偽の父親・治は、「おれには、万引きの仕方以外に教えられるものなんて何もない」といいながらも、「自分の本名をつけた痛切な思い」だけはどうしても伝えたかったのではないか、しかし、その治の問い掛けにも答えようとしなかった祥太の頑なな拒絶とのあいだにあった「溝」が、「なぜ」だったのか、ということだったとしたら、これは、あくまで自分だけの推測ですが、こんにふうに考えてみました。思うに、祥太だけは、皮肉なことに他の子供たち、亜紀(松岡茉優)やゆり(佐々木みゆ)と同じような、この家族がそれぞれお互いを結束させた「虐待の記憶」(社会からはじき出された疎外感)を有しておらず、皮肉にも、この偽の家族のなかでは愛されて育った記憶しかなくて、だから祥太は「偽の家族」にすがりつくだけの「理由」を有していなかったのではないかと。店に並べられている品物は、誰かに買われるまでは誰のものでもない、だから盗んでも構わないのだと、治から万引きの正当性を教えられた祥太は、それを信じ積極的に万引きを繰り返します。しかし、そのとき彼に「信仰」はあったかもしれませんが、犯罪を犯すことの「理解」までは持っていなかったと思います、祥太が疑いもなくこの「万引きの哲学」を素直に受け入れたのは、なにもこの奇妙に屈折した哲学を理解し納得していたからではなくて、彼の「信仰」を支えたものは、「家族」で過ごした「幸せな日々」という時間だったに違いないと是枝監督は描いていたのだと思いました。しかし、信代の失職と老婆の死(年金がからんでいます)によって一家の生活を支える収入が途絶えることを恐れて、さらなる「万引き」を必要とした過程で、「妹・ゆり」も、かつての自分と同じように、疑いもなくみずから万引きに手を染めていく事実を目の当たりにしたとき、「悪いこと」の意味をうすうす悟った祥太は、自分が捕まること以外に、この偽の家族の犯罪を止めることができないと考えて、それを実行に移したときに、祥太の「幸せな日々」も同時に破綻したのだと思います。バスを追い掛ける治を祥太が振り返らなかった理由は、捕まったあのときに、祥太のなかでは、すでに「家族」との関係(紐帯)を断ってしまったからに違いありません。信代が言った「もう分かったでしょう。うちらじゃダメなんだよ、この子には」とは、このことを指していたのだなと思いました。しかし、いずれにしても、そのような祥太も、たとえ自分の子が姿を消しても失踪届さえ出されることなく厄介払いされた「忘れられた子供たち」のなかのひとりであることに違いなく、行き場のない子供・彼が絶望的な境遇であることには、なんら変わりがないのですが。さて、次の「③ りんちゃんの最後のシーンは、何を意味しているの?」です、ここまで書いてきて、迂闊ですが、この「りん」という少女の名前に幾つかの変転があったことに気がつきました、またまた録画で確認です。なるほど、なるほど。一人でいるところを保護し「家族」の家に連れてきたときにつけられた仮の名前が「ゆり」、テレビで行方不明者として報道されたのを知り慌てて髪を切って付け替えた名前が「りん」、本来は「じゅり」でしたよね。取調室で、偽の父親・治が、彼女がひとりでいるところを保護したと言うと、取調官から、「それを誘拐というのですよ」と断じられた言葉とともに、信代の「捨てたんじゃない、捨てたものを拾ったんです。捨てた人っていうのは、ほかにいるんじゃないんですか」と返した言葉が的確に響き合います。自分としては最初からこの「ゆり→りん→じゅり」を特に意識せずに使い分けていなかったので、いまさらどうしたものかと迷ったすえに、安直ですが露出度からいえば、「りん」とするのが一番ふさわしいと考え、この拙文を冒頭から改めて修正しようとしたとき、あの取調室における信代と取調官(池脇千鶴)のやり取りの場面を思い出しました。信代は「りん」が家に戻されたことを知り、「戻りたいって言ったの? りんが?」と取調官に不審気に聞き返します。すかさず取調官は「『じゅり』よ」と本来の名前に言い直しています。「そんなこと言わないよ、あの子は」と信代は、そのことをつよく否定します。あのひどい虐待を受け、痛みつけられ、怯えきっていた「じゅり」では最早なく、生活をともにし、やっと安らぎを得て子供らしさを取り戻したワタシの娘の「りん」(これが信代のつけた名前です)が、ふたたび虐待を受けるしかない荒んだあの家に戻るわけがないと否定したのだと思います。しかし、取調官は、信代が「りん」の名前にこだわる語気を察して、彼女の痛いところを突いてきます。(取調官のバイブル「供述心理」に記されたマニュアルどおりにです)「子供にはねえ、母親が必要なんですよ」「母親がそう思いたいだけでしょう? 産んだらみんな母親になるの?」「でも、産まなきゃなれないでしょう。あなたが産めなくて、つらいのは分かるけどね、うらやましかった? だから淫売したの?」と取調官は、信代の自尊心を傷つけるような屈辱的で侮辱的な質問をたたみかけて挑発します。「そんな・・・憎かったかもね、母親が」挑発にのせられて、動揺する信代に浴びせかけるように取調官は言い募ります。「ふたりの子供は、あなたのこと、なんて呼んでました、ママ、お母さん?」そしてここで、安藤サクラの迫真の演技が展開されるのですが、この場面を最初に見たとき、あの拭っても拭っても湧き出る涙は、「でも、産まなきゃ母親にはなれないでしょう」というぶしつけな言葉の屈辱に耐えた「悔し涙」だろうか、それとも自らが犯した罪の「悔悛」かとずっと考えていました。実は、取調官の「子供たちは、あなたのこと、なんて呼んでいました、ママ、お母さん?」と尋問され、嗚咽で身を震わせて涙を流したあとで、信代は、ふた言、なにごとかをつぶやいたのですが、残念ながらその言葉をどうしても聞き取ることができませんでした。しかし、たとえ聞き取れなかったとしても、それはそれで良かったと思い始めていました。せいぜい「仕方ない」とか「私が悪かった」とか、そういうことだろうと考えたからですが、少しずつ時間が経つにつれて、彼女は「そいういことじゃない」と言っているように聞こえて仕方なくなりました。ただ産んだからといって誰もが親になれるわけではない、子供なんか持つべきでない弱々しい親たちが、自分を傷つけるだけでも足りず、子供まで虐待し殺してしまう、どうしてそんな人間が「親」といえるのか、と。なので、ここはどうしても信代の思いを受けて「りん」という名であらねばならないと強く確信しました。あっ、村上春樹みたいになってしまいました。りん(佐々木みゆ)は、人気のないアパートの廊下で、ひとりで遊んでいます。そこは、かつて彼女が「偽の家族」に拾われた場所でもあり、実家に帰されたあとも、やはり以前と変わらない母親の虐待にさらされ、思い余って再び同じ場所に逃れてきていることが分かります。やがて、彼女は囲いの隙間から何かを見止めて柵から伸び上がり、遠くを見た一瞬、目を見開いて「あっ!」という顔のアップでこの映画は不意に終わります。これが、この映画「万引き家族」のラストです。親から見捨てられたこの少女が、いったいなにを見たのかについてまでは、この映画ではことさらな説明があるわけではありませんし、分からないのですが、ただ、「たぶん」という仮定で語ることが許されるなら、それは偽の父親・治か、あるいは他の「家族」の姿を見たからだ、ぜひとも「そうあってほしい」という自分の甘々な願望を打ち消すことがどうしてもできませんでした、親から虐待され、行き場を失ったこの薄幸の少女にだって安息の場所がきっと許されていいに違いない、というせめてもの妄想に浸れた一瞬の「あっ!」だったことには間違いありません。(2018)監督・脚本・編集・是枝裕和、製作・石原隆、依田巽、中江康人、プロデューサー・松崎薫、代情明彦、田口聖、アソシエイトプロデューサー・大澤恵、小竹里美、撮影・近藤龍人、照明・藤井勇、録音・冨田和彦、美術・三ツ松けいこ、装飾・松葉明子、衣装・黒澤和子、ヘアメイク・酒井夢月、音響効果・岡瀬晶彦、音楽・細野晴臣、助監督・森本晶一、キャスティング・田端利江、制作担当・後藤一郎、ラインプロデューサー・熊谷悠、製作プロダクション・AOI Pro. 配給・ギャガ出演・リリー・フランキー(柴田治)、安藤サクラ(柴田信代)、松岡茉優(柴田亜紀)、城桧吏(柴田祥太)、佐々木みゆ(ゆり(りん、北条じゅり))、樹木希林(柴田初枝)、池松壮亮(4番さん)、緒形直人(柴田譲)、森口瑤子(柴田葉子)、蒔田彩珠(柴田さやか)、山田裕貴(北条保)、片山萌美(北条希)、黒田大輔(JK見学店店長)、松岡依都美(根岸三都江)、清水一彰、毎熊克哉、井上肇、堀春菜、柄本明(山戸頼次)、高良健吾(前園巧)、池脇千鶴(宮部希衣)、第10回 TAMA映画賞・最優秀作品賞、最優秀女優賞・安藤サクラ、松岡茉優第42回 山路ふみ子映画賞・山路ふみ子女優賞・安藤サクラ第4回 エル シネマアワード・エル シネマ大賞第43回 報知映画賞・助演女優賞・樹木希林第36回 ゴールデングロス賞・優秀銀賞第40回 ヨコハマ映画祭・主演女優賞・安藤サクラ、助演女優賞・松岡茉優第31回 日刊スポーツ映画大賞・作品賞、主演女優賞・安藤サクラ、助演女優賞・樹木希林第42回日本アカデミー賞・最優秀作品賞、最優秀監督賞・是枝裕和、最優秀脚本賞・是枝裕和、最優秀主演女優賞・安藤サクラ、最優秀助演女優賞・樹木希林、最優秀音楽賞・細野晴臣、最優秀撮影賞・近藤龍人、最優秀照明賞・藤井勇、優秀主演男優賞・リリー・フランキー、優秀助演女優賞・松岡茉優、優秀美術賞・三ツ松けいこ、優秀録音賞・冨田和彦、優秀編集賞・是枝裕和、第61回 ブルーリボン賞・助演女優賞・松岡茉優第43回 エランドール賞・特別賞・「万引き家族」製作チーム第73回 毎日映画コンクール・日本映画大賞、女優主演賞・安藤サクラ女優助演賞「樹木希林」第28回 東京スポーツ映画大賞・作品賞、主演男優賞・リリー・フランキー、主演女優賞・安藤サクラ、助演女優賞・松岡茉優第14回 おおさかシネマフェスティバル・日本映画 作品賞ベストテン 第2位第92回 キネマ旬報ベスト・テン・日本映画ベスト・テン 第1位、主演女優賞・安藤サクラ、読者選出 日本映画監督賞・是枝裕和、読者選出 日本映画ベスト・テン 第1位第23回 日本インターネット映画大賞・日本映画作品賞 第2位、日本映画監督賞・是枝裕和、日本映画助演女優賞・樹木希林、日本映画ベストインパクト賞・樹木希林2018年度 全国映連賞・日本映画作品賞、監督賞・是枝裕和、女優賞・安藤サクラ2018年度 芸術選奨文部科学大臣賞・映画部門・黒澤和子2018年 日本映画ペンクラブ賞2018年度ベスト映画 日本映画部門 第1位第38回 藤本賞・藤本賞・是枝裕和第71回 カンヌ国際映画祭・コンペティション部門 パルムドール(最高賞)第36回 ミュンヘン国際映画祭・シネマスターズ・コンペティション部門 アリ・オスラム賞(外国語映画賞)第55回 アンタルヤ国際映画祭・監督賞・是枝裕和第37回 バンクーバー国際映画祭・外国長編映画観客賞第3回 スレマニ映画祭・長編作品審査員賞第76回 ゴールデングローブ賞・外国語映画賞ノミネート第24回 放送映画批評家協会賞・外国語映画賞ノミネート第44回 ロサンゼルス映画批評家協会賞・外国語映画賞第3回 ニューメキシコ映画批評家協会賞・助演女優賞・安藤サクラ第39回 ボストン映画批評家協会賞・外国語映画賞、アンサンブル・キャスト賞第23回 フロリダ映画批評家協会賞・外国語映画賞、助演女優賞・安藤サクラ第53回 全米映画批評家協会賞・外国語作品賞 3位入賞第72回 英国アカデミー賞・外国語映画賞ノミネート第30回 パームスプリングス国際映画祭・外国語映画賞第44回 セザール賞・外国語映画賞第91回 アカデミー賞・外国語映画賞ノミネート第16回 国際シネフィル協会賞・主演女優賞・安藤サクラ わが地域には、ボランティアが運営している「日本語教室」というのがあります。地域に居住している外国人が、生活に困らない程度の日本語の日常会話を短期間で無料で教えるという教室ですが、難解な日本語ができずに困っていて、教えてもらいたいという外国人のニーズはここ最近顕著にあるのに、その要望の増加に追いつけない教える側の人材不足というのが常態的に存在しているのです。教えるといっても、まるっきりの無資格では講師になることはできません、ある一定の講座を受けて(当然有料です)、そのうえで既定の教材(これも有料)にそった「教え方」というのが段階的に決められていて、そこには自治体がらみというシガラミもあるので当然それなりの規定というものは避けがたく、ただの素直な善意だけで通じるようなものではなくて、そりゃあ、なかなか「うるさい」ものが、ないでもありません。日本語を習得したいという外国人のニーズがこれほどあり、たとえ有料でも構わないから短期間で教えてほしいという熱い機運が一方にあるのに、「規約」に捉われて身動きできないひとつには「授業は無料」という足かせもありました。しかし、「いま」というこの現実において、もしかしたら彼ら外国人の方が経済的に日本人より余程豊かかもしれないのに(ここでいう「外国人」が、どうも中国人を指しているらしいと感じたとしたら、その直感は正しいです)、このボランティアの「日本語教室」の根底には、依然として十数年前の、まだまだ貧しかった外国人に施しを与えるという旧態依然のイデオロギー(そんなものは今となっては、実態にそぐわない経済借款と同じような、もはや幻想にしかすぎません)が存在していて、そうしたすべての「規制」にがんじがらめになってしまい、実際の要望にも応えることができずに、どうにも身動きが取れなくなって一歩も進めないでいる姿を見ていると、「構造改革」とか「規制改革」という言葉をどうしても思い出さないわけにはいきません、「貧しさ」「施し」「資格」「定型化した講座」「無料」、いつまでも、こんな「上から目線」の古びた優越規制にこだわっていて、目の前にある現実に適応できずにマニュアルどおりにしか動けない頑なさを見るにつけて、あるベトナム人の女性の言葉を思い出しました。「日本人はとても親切で、日本語を熱心に教えてくれるいい人たちばかりだけれども、なぜみんな英語が喋れないのか、日本では英語を教えないのか」と。外国人に日本語を教えるに際しては、極力英語は使わないようにというお達しは、確かにありますが、これみよがしに英語をひけらかしたくて仕様がないという異常者や能天気な変態は別として、「片言」~「まったく」まで、英語を喋れないという人たちは事実として多くいると思います。自分も含めてね。そう思えば、僕たちが、中学校から大学にいたるまで「英語教育」というのを足掛け10年近く受けてきたはずなのに、英語が喋れないというのは、ベトナム人女性から改めて言われなくとも、異常なことには違いないと気づかされ「なるほどな」と思わず同感してしまいました。「貴国においてはいざ知らず、日本においては、およそ6年から10年くらいは英語を習うであろう」と、そのベトナム人女性に答えようと思いながら、「その理由」というのも併せて答える必要があるだろうかと思ったとき、むかし高校の教師から「黙って聴いてろ!!」と恫喝されたことを、突如、思い出しました。自分は、むかしから理屈っぽい性格で、疑問に思ったこと、納得ができないことは根掘り葉掘り訊かずにはおれない性格であることは確かです。嫌な性格なら、長ずるにおよんで徐々に矯正するというのが普通の行き方かもしれませんが、もともと「嫌だ」とは考えていなかったので矯正することもなく、ちょうど高校の頃は、その「根掘り葉掘り」がピークに達したときだったかもしれません。授業中でも突っ込みどころがあると、手を挙げてよく質問していました。そして、その理屈っぽい「根掘り葉掘り」に業を煮やして激怒した教師から、ついに、「黙って聴いてろ!!」のお言葉を頂戴したのだと思います。なるほど、なるほど。「黙って聴いてろ!!」の一方通行の授業では、何年たっても英語が話せるようになるとは、とうてい思えません。一向に喋れない自分がまさにその証拠ですし、多くの日本人がその証拠でもあります。さて、このベトナム人女性に、10年も学習しながら日本人が一向に英語を話せない理由を、どのように説明したらいいのか、じっと天井を見上げて、しばし考えてしまいました。天井を見上げながら不気味な三白眼になって固まってしまった日本人のおっさんを前にして、その若きベトナム人女性は、一瞬怯え、かすかに身を引いたかもしれません。 ここ数週間のあいだに山中貞雄の「人情紙風船」につながるような出来事に幾度か遭遇して、その結果、ついに本編を見ないわけにはいかなくなるという「奇妙なめぐり合わせ」を経験しました。こう書くと望んでもいないのに成り行き上、仕方なく「人情紙風船」を見たみたいに受け取られかねませんが、そうではなくて、不思議な偶然の導きで映画にいざなわれたという感じの実にハッピーな、何年か振りかで経験した心地よい出来事だったことを書いてみたいと思います。たぶん、それもこれも自分のなかに常に山中貞雄の「人情紙風船」という作品が記憶として刻印されていたからだと思います。実は、前回のブログで引用した投稿「101歳になっても子を思う母」が掲載されていたのと同じ日付の読売新聞朝刊の「文化欄」(25面)に、小説家・佐伯泰英の書いた「映画と私」(上)というコラムが載っていて、そこに山中貞雄監督の「人情紙風船」のワン・シーンの写真が大きく添えられいたので、なんだか朝っぱらから嬉しくなってしまい、まさにテンションあげあげという感じになったのが、まず最初の「めぐり合わせ」としてありました。その記事を見かけたときは、次の(下)が掲載されたあとでじっくり読めばいいかと手元に置いておいたのですが、次の週の火曜日が祝日のために掲載予定のはずの日の朝刊が休みとなり、じゃあまた次週まで掲載を待たなければならないのかと思っているうちにすっかりそのことを忘れてしまって、結局(下)の方は読み逃してしまいました。しかし、まあ、佐伯泰英にとって映画「人情紙風船」との出会いが、小説家になることの重要な契機になったというその事実だけで十分なので、当初の目論見からは少し肩透かしをくらわせられてしまった感じですが、遅ればせながら「人情紙風船」について書かれている部分をご紹介しようと思います。佐伯泰英が日大芸術学部映画学科に入って、授業で「人情紙風船」をはじめて見せられたグダリです。こんな感じです。《大学に入って授業の一環として古い映画を見せられた。その中でも昭和12年製作の山中貞雄の「人情紙風船」は、「映画とは」との基本的な問いを私に突き付け、映画作法を学んだ。江戸の裏長屋に長雨がそぼ降る毎日、刹那的な貧しい暮らしと騙し合いの哀歓が描写されていく。この映画を二十代後半の山中が演出したのだ。そして、映画公開の日に召集令状を受けて中国戦線に向かい、「『人情紙風船』が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。」と戦病死を予感したような告白を従軍記に残している。この作品は当時の評論家たちに「髷をつけた現代劇」と評されたそうな。私が書く時代小説は、山中作品の「人情紙風船」に学んだものだ。連日報道される出来事や人間模様を、江戸時代に舞台を置き換えて描いてきた。それもこの二十年間に二百六十余冊も書き飛ばしてきた。量的には凌駕しても、「人情紙風船」の終盤、中村翫右衛門演ずる髪結新三のニヒルな表情と仕草の一瞬には到底かなわない。虚無的な眼差しの先に生と死のドラマが展開されることを観客に予感させて終わりを告げる、なんとも新鮮で衝撃的だ。》この佐伯泰英のコラム「映画と私」(上)に同時に掲載されていた「人情紙風船」の写真は、白子屋の娘お駒(霧立のぼる)が雨に降られて、忠七が傘を取ってくるまで雨宿りをしているところに、たまたま通りかかった髪結新三(中村翫右衛門)が、いままさに傘をさし掛けながら声を掛けようという、あの有名なカドワカシの場面です。その写真を見た瞬間、自分のなかで、思わず「あっ、これは!」と、ある連想につながるものがありました。そのつい数日前、旧い友人から「季刊・リュミエール」1985・冬号(特集・フランソワ・トリュフォーとフランス映画)を貰ったばかりで、まさにその記事を一頁目から少しずつ読み始めていたところでした。冒頭は、トリュフォーへのインタビュー記事があって、その最初の発言というのが、山中貞雄の「人情紙風船」についての感想でしたので、それで強く印象に残っていたというわけです、まさにそのタイミングで、あの読売新聞朝刊の「人情紙風船」の写真との遭遇があったので、偶然というにはあまりにも出来すぎたこの「めぐり合わせ」に、なにか不思議な運命の引力みたいなものを感じてしまったのかもしれません。そのインタビュー記事は「フランソワ・トリュフォー 最後のインタビュー」というタイトルです、その最初の小見出しは「ヤマナカの『人情紙風船』はグリィフィスやジョン・フォードを想わせた」とありました。こういう見出しを読むだけで、なんだか嬉しくなってしまいますよね。こうした知的挑発に満ちた小難しい記事に抵抗なく浸れたあの時代の独特な空気感が懐かしくて、どっぷりと浸る楽しみに、しばし時間を忘れて読みふけってしまいました。難解さをひたすら嫌悪し、差別用語に異常におびえ、なにごとも平易で幼稚で無害な表現に書き換えられてしまう神経過敏の「言葉狩り」の現代においては、この「難解さを楽しむ」はすっかり廃れてしまいましたが、こういう圧倒的な言葉の活力を浴びる心地よさに、久しぶりにパワーを貰った感じです。現代のこの「幼稚禍」ともいえる風潮に、もっとも被害をこうむっているのは、芸も能もない使い捨てのジャリ・タレに席巻された「音楽業界」だと思います。おかげで、日本の音楽シーンはすっかり空虚になってしまいましたが、ここにきてなにやら内輪もめで「崩壊」の兆しがうかがわれるような感じで・・・。まあ、それはさておき、このインタビューの聞き手は、山田宏一・蓮實重彦で(いずれかの発言かは記事中では特定できません)初っ端の質問は、山中貞雄の「人情紙風船」について感想を訊くというところから始まっています。話の調子から察すると、以前、トリュフォーに「人情紙風船」を見せる機会をつくったらしい印象が前提みたいになっている感じです。以下は、その質問を受けたトリュフォーの発言。トリュフォー「すばらしい映画でした。といっても、セリフはまったく分かりませんでしたから、イメージだけを追って見ました(注・トリュフォーに見せるのだから、字幕のついたものを用意できなかったのでしょうか)。もっとも心うたれたのは、キャメラと演出が緊密に絡み合って、一分の隙もない完璧な画づくりに成功している点です。この映画を見て、久しぶりにキャメラと演出についてのかかわりについて考えました。久しぶりにとは言っても、それほど昔のことではないのですが、映画作家にはふたつのタイプがあって、自分の狙いどおりの画づくりを完璧に果たさなければ気がすまないタイプと、画づくりにはそれほど執着せず、画面に偶然が入り込みのを気にしないタイプとがある、という内容のことを文章に書いたことがあります。たとえば、カール・ドライヤーの映画は、あらかじめ想定したとおりの完璧な画づくりがなされた作品です。アップからロングに至るまで、完璧な構図です。画面のなかにいる人間は、片隅にいる人も、遠くにいる人も、一人一人が計算どおりに動いています。しかし、イタリアのネオレアリズモの映画はそうではない。街頭に出て撮影された映画であり、本番中に予想外のことが起こったり、予定外の歩行者やトラックが画面を横切ることがあっても当然なのです。フランスのヌーヴェル・ヴァーグもそうです。オール・ロケなので、セット撮影のように100%計算どおりに撮ることは不可能だったし、その気もなかった。」と、まあ、トリュフォーの熱く語る話の勢いは、まだまだこんな感じで延々と続くのですが、ここで日本人のひとりとして、ひとつの懸念を表明しておかなければなりません、それはトリュフォーのこの長広舌がはたして再び冒頭の「山中貞雄」に回帰できるのか、という疑問です、そうでなきゃあ、あなた、冒頭で言っていたあの「山中貞雄は、とてもスバラシイ」が、その場シノギのただの言いっぱなしのリップ・サーヴィスだったなら、なにも「お付き合い」までして最後まで読む義理はないわけで、そちらがそう出るのなら、こっちにだって考えというものがありますから、なにもこの先、この長文のインタビュー原稿を義理堅くウダウダと付き合う徒労をはらう必要なんて毛頭ないわけで、そういうことは出来るだけ避けるというのが自分の信条なので、ここはひとつ、少しだけアクセルふかして走り読みしちゃいますね。早読みのコツは一応心得ています、行代わりの一文をそれぞれ押さえていけば、だいたいの要旨はつかめるというものです。便宜上、それぞれの文章の冒頭に番号を振りましたが、特別な意味などありません。① イングマール・ベルイマンは、ロッセリーニ的な映画から出発して、ドライヤー的な映画にたどり着いた映画作家です。・・・これは、たぶんゴダールの影響です。② いずれにせよ、それは、必要以外のものはすべて極限まで、画面から排除するという考え方です。・・・警察や刑務所の鑑識の記録のための写真のように正確に冷酷に撮る。映画の画面はフィクションだったのに、ドキュメンタリーになる。③ キャメラと演出とのかかわりは微妙なもので、ドキュメンタリーやニュース映画で単にキャメラが捉えたイメージにも、「演出」がある。・・・キャメラマンが大統領をグレタ・ガルボのように崇めていたといえる。・・・キャメラマンはほとんど本能的に、この神聖ガルボ、崇高なる美女への崇拝の念から、彼女を撮るときには、他の夾雑物をすべて画面から排除して純粋に彼女の美しさだけを生かす画づくりに達したに違いない。キャメラをのぞきながら、撮る対象を尊敬してしまうというのが、ひとつの不思議。④ 映画史には、そういう要素が強く支配している部分がある。映画がストーリーを語り始めた当初、スクリーンは演劇の舞台とまったく同じようにみなされた。キャメラはつねに客席の方向から人物や事件や風景をとらえるという演出プランがたてられた。きょう見た山中貞雄の映画もそうですが(やっと、出たか!)、ストーリーを語るための完璧な演出プランができていることがわかる。ディテールを見せるにはキャメラが寄る、全体を見せるにはキャメラを引く、という正確なキャメラ・ポジションが演出を決めていくわけです。ヤマナカの映画を見て感じたのは、まずそれです。ジョン・フォードの映画を思わせました。やれやれ、ここまできてやっと「人情紙風船」に回帰したようなので安心しました。そうそう、もうひとつありました、すぐ立て続けに山中貞雄の「人情紙風船」に関する記事にまたまた遭遇しました。msnのホームページには、ときたま映画に関する面白そうな話題がアップされていることがあって、あとでじっくり見ようと思っているうちに、いつの間にか消されてしまい、そんなことなら早いとこ控えておけばよかったと後悔することがよくあります、なので最近はそういう記事に遭遇すると躊躇なく、すぐにその場で控えておくことにしています。この連休の終わりころ、msnに「日本映画歴代ベスト40」という記事(迂闊にも出展を見逃してしまいました)がアップされていたので、ざっと目を通しました、定番のいつものベスト40なら、あえて控えておくこともありませんしね。しかし、よく見ると、見慣れている「定番のベストもの」とはいささかオモムキを異にするので、ちょっと気になりました。日本映画史に精通している趣味人なら、この監督を選ぶとしたらベスト作品ならまずこれとか、それでなくとも日本映画の傑出した作品ならほかに幾らでもあるというのに、そういう数々の名作をはずしておいて「こういう作品はまず選出しないだろう、それでもこの作品をチョイスするのか?」という疑念に捉われたとき(だからこそ、目を引いたわけですが)、その日本映画史に対する無知さ加減と鈍感さに、もしかしたらこれって日本人が選んだベスト40じゃないかもしれないなという気持ちが湧き起こりました。そうですよね、イメージ的には、海外の映画祭で高く評価された作品が散見できるところを見ると、どうもそのあたりの情報しか持ち合わせていない欧州系の映画祭の関係者が選んだか、あるいは、コテコテ日本文化趣味の知ったかぶりのフランス人あたりが強引に選出したものではないかという思い、「日本ではそれほどの評価を得ているわけではない」作品が選ばれたのかと納得し、ちょっと面白かったので紹介しようと思いました。〈日本映画歴代BEST40〉1 七人の侍(1954)黒澤明2 羅生門(1950)黒澤明3 切腹(1962)小林正樹4 東京物語(1953)小津安二郎5 砂の女(1964)勅使河原宏6 人間の条件(1959)小林正樹7 誰も知らない(2004)是枝裕和8 雨月物語(1953)溝口健二9 ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ(1985)ポール・シュレイダー10 おとし穴(1962)勅使河原宏11 薔薇の葬列(1969)松本俊夫12 野火(1959)市川崑13 そして父になる(2013)是枝裕和14 大菩薩峠(1957)内田吐夢15 仁義なき戦い(1973)深作欣二16 たそがれ清兵衛(2002)山田洋次17 他人の顔(1966)勅使河原宏18 赤い殺意(1964)今村昌平19 山椒大夫(1954)溝口健二20 おくりびと(2008)滝田洋二郎21 飢餓海峡(1965)内田吐夢22 浮雲(1955)成瀬巳喜男23 女が階段を上がるとき(1960)成瀬巳喜男24 茶の味(2004)石井克人25 御用金(1969)五社英雄26 楢山節考(1983)今村昌平27 天国と地獄(1963)黒澤明28 トウキョウソナタ(2008)黒沢清29 原爆の子(1952)新藤兼人30 HANABI(1997)北野武31 武士の一分(2006)山田洋次32 人情紙風船(1937)山中貞雄33 二十四の瞳(1954)木下恵介34 鬼婆(1964)新藤兼人35 上意討ち 拝領妻始末(1967)岡本喜八36 巨人と玩具(1958)増村保造37 麦秋(1951)小津安二郎38 ビルマの竪琴(1956)市川崑39 野獣の青春(1963)鈴木清順40 家族ゲーム(1983)森田芳光という感じですが、特にこの部分27 天国と地獄(1963)黒澤明28 トウキョウソナタ(2008)黒沢清29 原爆の子(1952)新藤兼人30 HANABI(1997)北野武31 武士の一分(2006)山田洋次32 人情紙風船(1937)山中貞雄33 二十四の瞳(1954)木下恵介(「なんだ、こりゃ?」と云いたいところですが)「32位 人情紙風船(1937)山中貞雄」を見たときに、思わずトリュフォーの述懐を思い起こし、このベスト40作品の選出先を「仏国か欧州」と咄嗟に想定してみたのだと思います。まあ、名作とゴミ、時間差とジャンルを適当に入れ子にしてシャッフルしただけで、それをジャポニズムの知悉と気取っている欧州人の傲慢な無知さ加減とか、「人情紙風船」を「32位」に位置づけるという疚しさのアリバイ工作のような微妙で中途半端な順位に位置づけとかも笑ってしまいましたが、少なくとも「人情紙風船」をベスト40内にチョイスするということに関しては、まずは評価しないわけにはいかないだろうなとは思った次第です。しかし、それにしても、浪人して困窮の極みにある海野又十郎が、思い余って、かつて亡父が目を掛けた恩あるはずの江戸詰めの毛利三左衛門に仕官の口ぞえを頼みにいき、あからさまに嫌がられながらそれでも縋るように幾度も懇願する果て(白子屋の用心棒であるやくざの弥太五郎源七の子分から殴る蹴るの散々の目に会いながらも、その理不尽な暴力が毛利三左衛門とつながっていることまでは理解できない又十郎のいささか異常な鈍感さには堪らない歯痒さを覚えて観客は苛立ったはずです)、ついに業をにやした毛利三左衛門から「もう屋敷には訪ねてくるな。道で逢っても声を掛けるな」と手きびしく面罵・拒絶されて、わずかな金と亡父の手紙を叩きつけられるという屈辱と怒りによって、又十郎が降りしきる雨の中、ずぶ濡れになりながら惨めさの極みでうな垂れじっと立ち尽くして耐える絶望と虚無のあの姿を、果たして能天気な欧州人がどこまで理解できるのか、この「32位」というランクがどういうランクなのかと、なんだか声荒く問い詰めたくなるような苛立ちをおぼえました。そうそう、むかし友人から、又十郎が、亡父の恩義があるからとはいえ、三左衛門にあれだけ執拗に仕官を依頼するというそもそもの理由が分からないと言われたことがありました、一目で三左衛門の嫌悪の表情と冷ややかな拒絶の態度があからさまなのに、それが分からない又十郎の「鈍感さ」が却って不自然で理解できない、相手の嫌悪の表情があれほどの壁となって立ち塞がっているのに、それでもあのように執拗に取りすがる「懇願」のみじめな姿の、その自虐と被虐の底なしの異常性が理解できないと。しかし、それは、又十郎がどこまでも「サムライ」であろうとしたコダワリあったからだということで十分に説明がつくと自分は彼に返したかもしれません。浪々の身をどうにか支えてくれた糟糠の妻・おたきの励まし(サムライとして仕官して身を立てることが最善と考える、封建制度の只中で自分の階級的な位置取りに固執することを明快に理解している彼女です)自体が、冷ややかな現実の拒絶にたじろぎ八方塞りのなかでみずからの「階級」などとっくに見失い見限っている又十郎にとっては単に「縛り」と「圧」でしかなく、妻に世間の冷ややかな「壁」や「拒絶」の実体をいまさら理解させるなど到底不可能なことくらい、又十郎自身、十分すぎるくらい分かっていることです、妻との「到底不可能」な認識差を埋めるにはその場しのぎの虚言によってしか凌ぎようのない又十郎にとって妻の「励まし」は、三左衛門の「拒絶」と同質の不可能でしかなかったのだと思います。しかし、妻・おたきにとって、夫の行為(認識差を埋める虚言など)のそれらすべては、結局のところ「裏切り」でしかなかったことは、彼女がその懐剣を使って夫に武士の誇りを思い出させ、「いさぎよい死」を強いたあとの彼女の自害によって武士としての体面は保たれたことになります。そこには、一貫して又十郎の「サムライ」というものの根本的な理解が欠けているという部分で、拒絶されても取りすがること以外になにも為しえなかったという自虐と被虐のみじめで底なしの異常な姿というものがあったのではないか、とかつて友人に説明したような気がします。だから、又十郎にとって、自分がなんで妻に殺されなければならないのか、最後まで理解できなかったのではないかと。もしかしたら妻・おたきは、もうこれ以上、困窮した生活のために夫にみじめな思いはさせたくないという同情から、失意のなかで煩悶している夫を見かねて殺したのではないかという友人の意見もありましたが、酔いつぶれた又十郎の服を畳んでいたときに、妻が亡父の手紙を発見した場面があることによって彼の不甲斐なさや不実を許せず、ついに夫に「いさぎよい死」を強いたのであって、「同情説」は到底有り得ないと、きっぱり否定したことも思い出しました。それでも、自分的には、この虚無と悲憤に満ちたラスト・シーンには多少の違和感がありました。山中貞雄は遺書に、自身「『人情紙風船』が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。負け惜しみにあらず」(昭和13.4.18)と書き残しています。僕たちは、山中貞雄のこのココロザシ半場にして非業の死をとげた痛ましい記憶、いや、なによりも日本映画界にとっての「最大の損失」と語り伝えられる伝説のなかで戦後の日本映画をずっと見守ってきた世代です。山中監督の語り残した「チトサビシイ」が意味するところを、この映画「人情紙風船」のラストシーンに描かれた絶望と虚無感にいつの間にかオーバーラップさせて「オレの実力はあんなものじゃない、まだまだ凄いシャシンを撮れるんだ」という気負いと悔恨とに読み替えていたとしても、それは決して誤りではなかったでしょうが、一方で「本当にそうだろうか?」という思いもありました、それが自分の抱いた「違和感」の実態だったと思います。「人情紙風船」を見た者なら誰しもその作品の完成度の高さに感嘆し、これ以上の作品というものが果たしてあるだろうかという思いと、山中貞雄自身が語り残した「『人情紙風船』が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ」との言葉の落差が、とても奇妙に聞こえてしまうのでした。たしかに、山中貞雄の早すぎた死を悲しみ、そしてこの天才の夭折を惜しむ者たちの思いの延長線上に、当然のように「山中貞雄が生きていたら、もっと素晴らしい作品を撮ったに違いない」という確信は十分に成立していいと思っている自分もその一人ですが、しかし、そこには思い半ばにして屈した人間への「無念さ」を、そのまま作品の見方に反映させてしまってもいいのだろうか、という疑問に捉われました。あの痛快無比の傑作「丹下左膳余話・百万両の壷」を撮った山中貞雄です、「虚無」とか「絶望」など、およそ山中貞雄には似つかわしくないという思いからなかなか自由になれませんでした。そこで未練がましく、歌舞伎の解説書を引っ張り出して「髪結新三」の項を拾い読みしてみたところ、ストーリーのトーンが、あまりにも違いすぎるので驚いてしまいました。終幕の「深川閻魔堂橋の場」には、このようにありました。《恥をかかされた源七は、深川閻魔堂橋で新三を待ちうけ争った末に切り殺します。(しかし、これが最後ではありません、まだまだ続きがあるのです。)一方、白子屋に戻されたお熊(映画では、「お駒」でした)は、又四郎(当初から予定されていた婿さんです)と祝言を挙げるが、枕を交わさず、自害しようとして誤って又四郎を殺してしまいます。善八の姪のお菊は、世話になっている白木屋への日頃の恩を思って、罪を被って自害します。新三殺しで捕らえられた源七はしらを切りますが、お熊が自首して罪を白状したのを見て、自分の罪を認めます。奉行大岡越前の守は、二人に寛大な仕置きを申し付けました。》あらすじを読んだだけでも、この黙阿弥の原作が、いかに堂々たるピカレスク・ロマンであることが分かります。なにしろ、かどわかした白子屋の娘を一晩さんざん弄んでから、それでもまだピーピー泣いているようなら、さっさと女郎屋に売り飛ばしちまうなんて凄いセリフもあるくらいですから、この映画の脚色のオリジナリティが物凄いものだったことが、よく分かりますよね。(1937P.C.L.映画製作所・前進座)製作・武山政信、監督・山中貞雄、原作・河竹黙阿弥(『梅雨小袖昔八丈』、通称『髪結新三』)、製作主任・大岩弘明、脚本・三村伸太郎、撮影・三村明、録音・安惠重遠、片岡造、美術装置・久保一雄、美術考証・岩田専太郎、編集・岩下広一、音楽・太田忠、録音現像・写真化学研究所、演奏・P.C.L管弦楽団出演・河原崎長十郎(海野又十郎)、中村鶴蔵(金魚売源公)、中村翫右衛門(髪結新三)、坂東調右衛門(按摩藪市)、市川樂三郎(目明し弥吉)、市川菊之助(錠前屋の兼吉)、山崎長兵衛(徳兵衛)、中村進五郎(夜そば屋の甚吉)、坂東みのる(吉兵衛)、市川章次(役人)、市川莚司[加東大介](源七乾分百蔵)、中村公三郎(流しの与吉)、市川進三郎(配役不明)、市川笑太朗(弥太五郎源七)、助高屋助蔵(家主長兵衛)、嵐敏夫(平六)、市川扇升(長松)、嵐芳三郎(白子屋久兵衛)、澤村比呂志(磨師の卯之公)、市川岩五郎(古傘買いの乙松)、山崎進蔵(猪助)、橘小三郎(毛利三左衛門)、瀬川菊之丞(忠七)、岬たか子(乙松の女房おくま)、原緋紗子(源公の女房おてつ)、岩田富貴子(久兵衛の女房おなつ)、一ノ瀬ゆう子(甚七の女房おちよ)、山岸しづ江(又十郎の女房おたき)、霧立のぼる(白子屋の娘お駒)、御橋公(白子屋久左衛門)、山崎島二郎(役人)、河原波留子、澤村千代太郎、瀬川花章、中村鶴蔵、平塚ふみ子 配給=東宝映画 1937.08.25 日比谷劇場 10巻 2,352m 86分 モノクロ スタンダードサイズ(1:1.37)35ミリ1937キネマ旬報ベストテン第7位。1979日本公開外国映画ベストテン(キネ旬戦後復刊800号記念)第4位1989日本映画史上ベストテン(キネ旬戦後復刊1000号記念)第13位1989大アンケートによる日本映画ベスト150(文藝春秋)第10位1995オールタイムベストテン・日本映画編(キネ旬)第4位1999映画人が選ぶall time best 100・日本映画編(キネ旬創刊80周年記念)」第18位2009映画人が選ぶall time best 100・日本映画編(キネ旬創刊90周年記念)」第23位 4月30日付けの読売新聞朝刊を、いまでも手元に置いてあります。いえいえ、なにも「平成」最後の日の新聞だからといって記念のためにとっておいたり、プレミアムがついたら売りさばいて小銭でも稼ごうなんて、そんな気の利いた了見など持ち合わせているわけではありません。手元にとっておいた理由というのは、同紙の「くらし欄」(11面)に読者の投稿を掲載する「ぷらざ」というコラム欄があって、その日掲載されていた「101歳になっても子を思う母」という女性(70歳)の投稿にちょっと心動かされるものがあって、自分のブログに再録させてもらおうと思い、手元に置いておいたのです。これを読んだら、おそらく誰もが心を打たれ、胸に迫るものを感じると思います。以下が、その全文です。《14年前に父を亡くし、鹿児島県内の老人ホームで暮らす101歳の母がいる。年相応の認知力の衰えはあるものの、まだ「誰かね?」と言われたこともなく、ときどき、私に電話を掛けてくる。先日も母から電話があった。「一人は、ほんのこちさびしかもんじゃ。なんごて長生きしとるんじゃろ。はよ、父さんとこ行きたかがよー」と涙声で訴えてきた。私も、10年前に主人を亡くし、一人で暮らす身だ。「母さん、私もここでひとりじゃ。一人はさびしか。母さんの気持ちがよーく分かるよ」と返した。すると母は「あー、おまんさあも一人じゃったな。一人はしゃべらんからいかんよ。近くのスーパーに行って、誰かと話っしゃんせ。具合悪いときゃ、すぐ病院へ走んやんせ」。いつしか、涙声から心強い母親の声に変わっていた。母とは、親とは、いくつになっても子を心配するものなのだ。ありがたいと頭が下がる思いで受話器を置いた。私も頑張らなければという思いになった。》ひとり遠い鹿児島の老人ホームで暮らす101歳の、まるでみずからの長寿をなげくかのような老母の悲痛な孤独と、その孤独を十分に分かっていても何も為しえず、ただ母を気遣う言葉しか掛けてあげられない70歳の娘の痛切、そうした思いのすべてを秘めて互いに掛け合う薩摩弁の柔らかな物言いに、ただただ打ちのめされてしまったのかもしれません。これはまるで、小津監督作品「父ありき」や「母を恋はずや」を見たときに受けたあの胸の詰まるような痛恨と同質なものだな、と感じました。朝の新聞の片隅でふと触れた痛切が、いつも見ている朝の景色をまったく違うものに変えてしまったことに、一瞬、戸惑いました。そのとき、最近、少し前のブログで、伊丹万作「故郷」の感想を書くときに、同じタイトルの「故郷」という邦画が何本くらい作られたのか、jmdbで確かめたことを思い出しました。自分的には、検索する前には、当然ながら、類語をふくめて何十本、何百本という製作本数という結果があるに違いないと確信しながら検索をはじめたのですが、結果は、たったの5本だったので、驚くのを通り越して、ちょっと呆れてしまいました。「故郷」という言葉は、日本人のキイワードではなかったのかという意外な思いでした。肩透かしを食わされたその記憶が、それ以降いつまでも自分のなかに残っていて、いつも「それなら何が日本人にふさわしいキイワードなのか」と、内心でずっと自問していたということはあったかもしれません。この101歳の老母を気遣う70歳の女性の投稿文を読んだとき、「あっ!」と反応し、直感的に「そうか、キイワードは、『母』だな」と確信するものがありました。さっそく、jmdbで、「母」と入力を・・・と思ったのですが、そのまえに、タイトルに「母」とつく映画で、自分が子供のときに耳にして、気に掛かりながらも、その後、一切の情報に邂逅することもなく、もちろん、見ることもなかった映画というのを同時に思い出した、もちろん予備知識なども皆無なので、いい機会です、検索ついでに、その映画から検索してみることにしました。うろ覚えながら、そのタイトルは、たしか「母のない子と子のない母」だったと記憶しているので、検索し始めてみると、どうも正確には「母のない子と子のない母と」というらしいことが分かりました。検索結果は、以下のとおりです。★母のない子と子のない母と戦争でひとり息子を亡くした老婆と病気で母を失った兄弟。愛する者を失った悲哀に生きる者たちは、それでもなお前を向いて助け合い、やがて心を結び合う。故郷の風土に根ざし、戦争への怒りと人間への愛情を込めた作品を数多く遺した壼井栄。映画化もされた『二十四の瞳』と並ぶ著者の長編児童文学の傑作。第二回芸術選奨文部大臣賞受賞作。(1952劇団民藝、新教映)監督・若杉光夫、脚色・久板榮二郎、原作・壷井栄、企画・劇団民芸、製作・菅義雄、八名正、、撮影・井上莞、美術・民芸美術部、音楽・斎藤一郎、解説・滝沢修出演・田中晋二(一郎)、宇野重吉(一郎のお父さん)、高野由美(一郎のお母さん)、長木義秀(ヨンちゃん)、北林谷栄(おとら小母さん)、小汐保平(史郎)、斎藤美和(史郎のお母さん)、左卜全(史郎のおじいさん)、原ひさ子(史郎のおばあさん)、清水将夫(校長先生)、多々良純(役場の六さん)、製作=民芸 1952.11.04 9巻 2,466m 白黒 なるほど、なるほど、そういうことですか。かの民芸が製作した映画だったんですね、わざわざ検索なんかするんじゃなかった。人道主義と共産主義の区別もつかず、戦時中の贖罪感も手伝って、猫も杓子も、よせばいいのに山田五十鈴でさえも赤旗を振ったというあの噴飯ものの激動時代、バブルの時代、ミニスカートのねえちゃんたちが、ジュリアナのお立ち台で、大きな扇子と腰を振ってパンチラで踊りまくっていたのとは、わけが違います。少人数相手の演劇で、仲間内で息巻いていればいいものを、わざわざ映画にまでしゃしゃり出て「映画」をアジテーションの道具として堕落させ、つまらない「映画」を量産した、その残滓的な作品だったというわけですか。トリュフォーならずとも、怒るで、まったく。いかに名作「二十四の瞳」を撮った木下恵介といえども、この原作じゃあ、いい映画なんか撮ることは所詮無理だったと思います。だから木下恵介もこちらの作品の方は食指を動かさなかったというわけだったのでしょうけれども。でもまあ、これで長い間、気になっていた作品がどういう作品だったのかの調べもつきましたので、気も済みました。そうそう、気に掛かっていたことが、もうひとつありました。前回、伊丹万作の「故郷」の周辺情報を確かめるために「伊丹万作全集 第1巻」を読んでいたら、たまたま面白い記事をみつけたので、紹介しておきたいと思います。あきらかに小津監督の「母を恋はずや」を意識して書かれたものであることは一目で分かりましたので、すぐ目に付いたというわけです。あえて「意識して」と書きましたが、それを「あてこすって」とか「嫌味で」とか、いろいろな表現にかえことも、あるいは可能かもしれません。それは「キネマ旬報」昭和9年6月11日号に掲載された「回答その他」という小文のなかの「文法」と題された時評みたいな感じのものです、ごく短いものなので 全文筆写してみますね。《松竹の写真の題名に「何とかを恋はずや」というのがあった。これをどう読ませるつもりか分からないが、「恋はずや」と読ませるつもりなら、それは無茶である。日本語にはない読み方で、したがって意味も通じようがない。意味の通じない題名など、少し無責任すぎるし、第一商売上困りはしないか。「恋ふ」という他動詞は、は行上二段活用で、「ひ、ひ、ふ、ふる、ふれ、ひよ」と働くのであって、「は」とは働かない。したがってこの場合は、「恋ひずや」というのが正しい。「恋はずや」という語は日本にないのだから、そのつもりでいてもらいたい。これは中学二年生の知識であるから、僕が物知りぶっていることにはなるまい。また松竹に中学二年生以上の教育を受けた人が一人もいないというはずもなかろう。タイトルの方は吉山旭光氏に任せておくが、題名だけは捨ておき難い。世間の者どもに活動屋などという手合いは平易な文法さえもわきまえておらんと思わせることはくやしいから、仲間うちで警めておく。》これ以上はないだろうと思えるくらいのなんたる嫌味、なんたる傲慢、ちなみに小津監督は、年譜によれば、中学校卒業後、神戸高商受験失敗後、代用教員をしたとあるので、「松竹に中学二年生以上の教育を受けた人が一人もいないというはずもなかろう」は、そのまま、相手を侮辱し喧嘩を売っているとしか思えません。しかし、たとえそれが「は行上二段活用」であろうと、「恋ひずやの方が正しい」であろうと、現代においてもいまだ確固として映画史に残り、記憶に刻印されている作品といえば「母を恋はずや」なのであって、観客に飽きられ、記憶と映画史とからすっかり姿を消してしまった伊丹万作の「故郷」ではなかったことが示唆するものは、たとえそのタイトルの命名が文法上、些か規定から外れたものであったとしても、しかし、その誤りもすべて含めて、言葉に対する感受性もまた作家の美意識であることを支持した僕たちの証しであるのだと言わずにはおられません。さて、それでは、懸案のキイワード「母」の検索といってみますか。いざ検索してみると、ヒットした件数は、おお!! なんと401件、まさにこれが日本人の心のキイワードといえるにふさわしい堂々たる件数じゃないですか。なるほど、なるほど、そういうことだったんですね。この壮観な401件の検索結果は、ぜひともこのブログの末尾に全件掲げたいと思いますが、当初自分的には、「母もの映画」といえば望月優子や三益愛子のイメージが強烈で、どうしても「陰々滅々」感(とか、聖母的な先入観)が強くて、もうひとつ検索にリキが入らずに積極的にはなれなかったのですが、この検索結果を見て驚愕し、俄然生き返りました。そのタイトルのイロドリの華やかさ、百花繚乱の桃色吐息ぶりといったらありません。ひとむかし前なら、子供たちや意地悪な嫁に疎まれ、虐げられて家にいられずに、ついに行き場をなくして老人ホームに追いやられたり、鉄道自殺するしかなかった老いた母親たちは、この現代においては、娘の婿さんを豊満な肉体で誘惑し、実の息子とやってしまうとか(実際の年齢差を考えると、ありえないと思ってしまうとしたら、まだまだ修行が足りません)、とにかく、日本映画史の一断面を抉り取った壮観さを堪能できることには、間違いありません。保証します。これこそ躊躇なく「正調・日本映画史」と名づけても十分OKだと思ってます。【正調・日本映画史】1. まま母 (製作=横田商会) 1910.11.01 富士館 白黒 無声2. 母の罪 (製作=吉沢商店) 1911.05.01 電気館 白黒 無声 出演・木下吉之助、五味国太郎 3. 母の躾 (製作=吉沢商店) 1912.01.01 電気館 白黒 無声 出演・木村操、五味国太郎4. 継母 (製作=横田商会) 1912.05.01 千代田館 白黒 無声 5. まま母(警官の涙) (製作=日活) 1914.04. 浅草大勝館 白黒 無声6. 母(捨小舟) (製作=日活(向島撮影所)) 1914.07. 浅草遊楽館 白黒 無声 出演・森三之助、関根達発、立花貞二郎 7. 母の罪 (製作=日活(向島撮影所)) 1914.08. 浅草オペラ館 白黒 無声 出演・関根達発、一派8. 此子此母 (製作=日活(向島撮影所)) 1914.09. 浅草三友館 白黒 無声 原作・中井苔香9. 母の心 (製作=日活(向島撮影所)) 1915.01. 浅草三友館 白黒 無声 監督・小口忠10. 二人の母 (製作=日活(向島撮影所)) 1916.03. 浅草三友館 白黒 無声11. 母と子 (製作=日活(向島撮影所)) 1916.06.27 浅草オペラ館 3巻 白黒 無声 原作・佐藤紅録12. 母の心 (製作=小林商会) 1916.10.30 京橋豊玉館 3巻 白黒 無声 出演・中村秋孝、佐川素経、静田健、多知花静衛、三木久雄13. 幼き母 (製作=日活(向島撮影所)) 1917.07.01 第二遊楽館 5巻 白黒 無声 出演・山本嘉一、東猛夫、秋月邦武、立花貞二郎、藤川三之助14. 儚き母子 (製作=小林商会) 1917.07.11 浅草三友館 5巻 白黒 無声 出演・関根達発、静田健、西野薫、島田小次郎、中野信近15. 残れる母娘 (製作=天活(大阪撮影所)) 1918.03.01 大阪楽天地 白黒 無声 脚本・藤田紫影、出演・石川新水、伊村義雄、熊谷武雄、山田九州男、五味国太郎、秋山十郎、宍戸熊介16. 捨てられた母 (製作=日活(向島撮影所)) 1918.03.30 浅草オペラ館 4巻 白黒 無声 監督・小口忠、脚本・桝本清、出演・山本嘉一、五月操、東猛夫、新井淳、衣笠貞之助17. 母の扉 (製作=日活(向島撮影所)) 1918. . 白黒 無声 監督・田中栄三18. 母の心 (製作=日活(向島撮影所)) 1919.08.31 浅草オペラ館 白黒 無声 原作・柳川春葉 19. 慈母のなやみ (製作=国活) 1920.05.29 芝大門館 5巻 白黒 無声20. 此父此母 (製作=松竹キネマ(蒲田撮影所)) 1921.07.21 第二松竹館 4巻 白黒 無声 監督・賀古残夢、出演・五味国太郎、宮田八郎、大山武、鈴木歌子21. 涙の母 (製作=日活(向島撮影所)) 1921. . 白黒 無声22. 母いづこ (製作=松竹キネマ(蒲田撮影所)) 1922.01.10 浅草松竹館 6巻 白黒 無声 監督・牛原虚彦、脚本・伊藤大輔、原作・「オーヴァ・ゼ・ヒル」より23. 母の心 (製作=松竹キネマ(蒲田撮影所)) 1922.05.01 浅草松竹館 6巻 白黒 無声 監督・池田義臣、脚本・小田喬、原作・柳川春葉、撮影・水谷文次郎24. 母 (製作=松竹キネマ(蒲田撮影所)) 1923.05.16 浅草松竹館 10巻 白黒 無声 監督・野村芳亭、脚本・石川白鳥、撮影・小田浜太郎、出演・川田芳子25. 永遠の母 (製作=松竹キネマ(下加茂撮影所)) 1924.01.13 電気館 8巻 白黒 無声 監督・池田義信、脚本・武田晃、原作・野村芳亭、撮影・長井信一26. 懐かしき母 (製作=マキノ映画製作所(等持院撮影所)) 1924.03.04 浅草オペラ館 6巻 白黒 無声 監督・志波西果、原作・志波西果、撮影・松浦茂、配役・村瀬実太27. 雲母阪 (製作=マキノ映画製作所(等持院撮影所)) 1924.06.20 浅草大東京 5巻 白黒 無声 監督・沼田紅緑、脚本・マキノ青司、原作・直木三十三、28. お澄と母 (製作=日活(京都撮影所第二部)) 1924.06.29 浅草三友館 8巻 白黒 無声 監督・村田実、脚本・村田実、原作・ブラスコ・イヴァニエス29. 二人の母 (製作=松竹キネマ(蒲田撮影所)) 1924.08.01 電気館 6巻 白黒 無声 監督・牛原虚彦、脚本・小田喬、撮影・酒井健三、出演・三村千代子30. 母なればこそ (製作=松竹キネマ(蒲田撮影所)) 1924.09.22 電気館 7巻 白黒 無声 監督・池田義信、脚本・池田義信、撮影・長井信一、出演・奈良真養31. 狂へる母に (製作=松竹キネマ(蒲田撮影所)) 1924.12.22 電気館 3巻 白黒 無声 監督・吉野二郎、脚本・吉田弘隆、撮影・中村正雄、出演・飯田蝶子32. 水兵の母 (製作=小笠原プロダクション) 1925.03.05 神戸キネマ倶楽部 6巻 白黒 無声 監督・小笠原明峰、脚本・水島あやめ、原作・小笠原長生33. 母を呼ぶ声 (製作=松竹キネマ(蒲田撮影所)) 1925.03.15 電気館 5巻 白黒 無声 監督・吉野二郎、脚本・古田弘隆、原作・古田弘隆、撮影・田辺憲次34. 海国の母 (製作=東亜キネマ(甲陽撮影所)) 1925.08.12 大阪第一朝日館 6巻 白黒 無声 監督・上月吏、脚本・田村喜一郎、原作・永井健、撮影・古泉勝男35. 母校の為めに (製作=日活(大将軍撮影所)) 1925.09.08 浅草三友館 7巻 白黒 無声 監督・阿部豊、助監督・伊奈精一、脚色・畑本秋一、清水竜之助36. 母ちゃんの馬鹿 (製作=帝国キネマ演芸(芦屋撮影所)) 1925. . 製作中止 白黒 無声 監督・松本英一、撮影・大森勝、出演・松本泰輔、沢蘭子37. 母を尋ねて三百里 (製作=日活(大将軍撮影所)) 1926.05.07 三友館 7巻 白黒 無声 監督・田坂具隆、脚本・鈴木謙作、原作・鈴木謙作、撮影・気賀靖吾38. 母よ恋し (製作=松竹キネマ(蒲田撮影所)) 1926.05.23 電気館 6巻 白黒 無声 監督・五所平之助、脚本・水島あやめ、原作・水島あやめ、撮影・内田斎39. 母なればこそ (製作=帝国キネマ演芸(芦屋撮影所)) 1926.11.06 大阪芦辺劇場 5巻 白黒 無声 監督・佐藤樹一路、原作・佐藤樹一路、撮影・鷲田誠40. 愚かなる母 (製作=松竹キネマ(蒲田撮影所)) 1926.12.01 浅草松竹館 8巻 白黒 無声 監督・池田義信、脚本・水島あやめ、原作・水島あやめ41. 母に誓ひて (製作=タカマツ・アズマプロダクション) 1926.04.03 白黒 無声 監督・山本嘉次郎、脚色・山本嘉次郎、撮影・小谷三郎、配役・野田鉄次(職工) 42. この母を見よ (製作=マキノプロダクション(御室撮影所)) 1927.01.28 千代田館 6巻 白黒 無声 監督・久保為義、脚本・芝蘇呂門、撮影・藤井春美43. 心中雲母阪 (製作=マキノプロダクション(御室撮影所)) 1927.03.18 千代田館 8巻 白黒 無声 指揮・マキノ省三、監督・井上金太郎、橋本栄一、脚色・秋篠珊次郎44. 懐しの母 (製作=松竹キネマ(蒲田撮影所)) 1927.10.21 電気館 5巻 白黒 無声 監督・佐々木恒次郎、脚本・村上徳三郎、原作・村上徳三郎、撮影・内田斎45. 叔母さんの家 (製作=河合プロダクション) 1928.09.14 7巻 1,456m 白黒 無声 監督・松本英一、出演・里見明 橘重子 雲井三郎46. 母いづこ (製作=日活(大将軍撮影所)) 1928.09.14 富士館/みやこ座 10巻 白黒 無声 監督・阿部豊、脚色・阿部豊、木村恵吾、原作・阿部豊、撮影・青島順47. 豪傑の母 (製作=帝国キネマ演芸) 1928.09.22 大阪芦辺劇場 白黒 無声 監督・江後岳翠、脚本・江後岳翠、原作・江後岳翠、撮影・谷口禎48. 母よ君の名を汚す勿れ (製作=松竹キネマ(蒲田撮影所)) 1928. . 白黒 無声 監督・五所平之助、脚本・五所平之助、原作・北村小松、撮影・三浦光男49. 母と子 (製作=東亜キネマ(京都撮影所)) 1929.01.20 大阪パーク劇場 6巻 白黒 無声 監督・米沢正夫、脚本・佃血秋、原作・佃血秋、撮影・河崎喜久三50. 第二の母 (製作=日活(太奏撮影所)) 1929.04.26 富士館/みやこ座 5巻 白黒 無声 監督・木村次郎、脚本・東坊城恭長、原作・畑本英一、撮影・町井春美51. おっ母よ (製作=帝国キネマ演芸) 1929.05.29 大阪芦辺劇場 白黒 無声 監督・深川ひさし、脚本・阪本長郎、撮影・古林潤、出演・鈴木信子、藤間林太郎52. 母 (製作=松竹キネマ(蒲田撮影所)) 1929.12.01 帝国館 10巻 白黒 無声 監督・野村芳亭、脚本・柳井隆雄、潤色・野田高梧、原作・鶴見祐輔53. 母校に輝く (製作=沢田義雄プロダクション) 1929. . 白黒 無声 監督・楠山律、撮影・寺田清彦、出演・沢田義雄、浪花千栄子54. 母校の名誉 (製作=マキノプロダクション(御室撮影所)) 1930.01.31 新宿劇場 8巻 白黒 無声 監督・川浪良太、脚本・川浪良太、原作・川浪良太55. 三人の母 (製作=帝国キネマ演芸) 1930.04.10 常盤座 8巻 白黒 無声 監督・曽根純三、脚本・村田圭三、原作・小笠原白也、撮影・塚越成治56. 母 (製作=日活(太奏撮影所)) 1930.04.25 富士館 8巻 白黒 無声 監督・長倉祐考、脚本・相田澄子、原作・菊池寛、撮影・松沢又男57. この母を見よ (製作=日活(太奏撮影所)) 1930.05.09 富士館 10巻 白黒 無声 監督・田坂具隆、脚本・八木保太郎、撮影・伊佐山三郎、出演・滝花久子58. 母の栄光 (製作=河合映画製作社) 1930.07.11 7巻 1,404m 白黒 無声 監督・高松操、脚本・杉原保、原作・杉原保、撮影・永貞二郎59. 母三人 (製作=日活(太奏撮影所)) 1930.11.07 富士館 10巻 白黒 無声 監督・阿部豊、脚本・木村千疋男、原作・川村花菱、撮影・町井春美60. 瞼の母 (製作=千恵蔵プロダクション 配給=日活) 1931.03.13 富士館/神田日活館 8巻 1,784m 白黒 無声 監督・稲垣浩、助監督・寺川千秋、脚本・稲垣浩61. 我が子我が母 (製作=帝国キネマ演芸) 1931.04.22 常盤座 10巻 白黒 無声 監督・印南弘、脚本・民門敏雄、原作・民門敏雄、撮影・二宮義暁62. この母に罪ありや (製作=松竹キネマ(蒲田撮影所)) 1931.06.12 帝国館 12巻 2,873m 白黒 無声 監督・清水宏、脚色・伏見晁、池田忠雄、原作・湯原海彦63. 母はどうする (製作=河合映画製作社) 1931.07.23 河合キネマ 6巻 1,329m 白黒 無声 監督・吉村操、脚本・太田辰三、原作・太田辰三、撮影・石川東橘64. 母なればこそ (製作=帝国キネマ演芸) 1931.09.01 常盤座 8巻 白黒 無声 監督・川浪良太、脚本・西条照太郎、原作・西条照太郎、撮影・藤井清65. 二郎と其の母 (製作=キヨノ映画) 1931.10.30 浅草松竹座 4巻 白黒 無声 監督・山口辰雄、脚本・山口辰雄、原作・椎名竜徳、撮影・山田忠治66. 母よその名を汚す勿れ (製作=東活映画社) 1931.12.05 大阪敷島倶楽部 7巻 白黒 無声 監督・米沢正夫、脚本・桜庭青蘭、原作・桜庭青蘭、撮影・上村貞67. 頼母子権兵衛 (製作=赤沢キネマ) 1932.01.05 浅草松竹館 6巻 白黒 無声 監督・吉野二郎、脚本・東草之助、原作・東草之助、撮影・土岐淳一68. 永遠の母 (製作=河合映画製作社) 1932.05.06 浅草河合キネマ 7巻 1,420m 白黒 無声 監督・吉村操、脚本・藤田潤一、原作・藤田潤一、撮影・石川東橘69. 母の秘密 (製作=東活映画社) 1932.06.20 大阪有楽座 12巻 白黒 無声 監督・米沢正夫、脚本・東活文芸部、原作・野村雅延、撮影・柾木四平70. まぼろしの母 (製作=新興キネマ) 1932.11.01 電気館 10巻 白黒 無声 監督・清涼卓明、脚本・小川正、原作・小川正、撮影・三木茂71. 母の秘密 (製作=新興キネマ) 1932.12.25 電気館/新宿帝国館 10巻 白黒 無声 監督・高見貞衛、脚本・八尋不二、原作・三宅やす子、撮影・藤井清72. 眠れ母の胸に (製作=松竹キネマ(蒲田撮影所)) 1933.01.20 帝国館 12巻 2,447m 白黒 サウンド版 監督・清水宏、脚色・野田高梧、原作・野田高梧73. その子と母 (製作=河合映画製作社) 1933.02.08 6巻 1,179m 白黒 無声 監督・吉村操、脚本・大井利与、原作・太田辰三、撮影・藤岡弘司74. 母よ子よ (製作=日活(太奏撮影所)) 1933.07.06 富士館 8巻 白黒 無声 監督・田口哲、脚本・依田義賢、原作・依田義賢、撮影・気賀靖吾75. 或る母の姿 (製作=松竹キネマ(蒲田撮影所)) 1933.07.20 帝国館 8巻 白黒 無声 監督・佐々木恒次郎、脚本・陶山密、原作・陶山密、撮影・青木勇76. 母三人 前篇 (製作=新興キネマ) 1933.10.19 電気館 10巻 白黒 無声 監督・曽根純三、脚本・八尋不二、原作・川村花菱、撮影・藤井静77. 母三人 後篇 (製作=新興キネマ) 1933.10.25 電気館 8巻 1,998m 白黒 無声 監督・曽根純三、脚本・八尋不二、原作・川村花菱、撮影・藤井静78. 東洋の母 (製作=松竹キネマ(蒲田撮影所)) 1934.02.01 帝国劇場/帝国館 15巻 3,818m 白黒 総指揮・城戸四郎、総監督・清水宏、監督・石川和雄、佐々木康、佐藤武、沼波功79. 母の微笑 (製作=日活(太奏撮影所)) 1934.03.01 富士館/日比谷映劇 6巻 白黒 監督・渡辺邦男、脚色・鈴木紀子、原作・簡易保険局、撮影・碧川道夫80. さくら音頭 涙の母 (製作=P.C.L.映画製作所 配給=東和商事映画部) 1934.03.08 日比谷映劇 10巻 2,047m 75分 白黒 監督・木村荘十二、脚本・木村荘十二、原作・木村荘十二81. 夢に見る母 (製作=日活(多摩川撮影所)) 1934. . 白黒 無声 監督・青山三郎、脚本・鈴木紀子、原作・鈴木紀子、撮影・松沢又男 82. 母の愛 苦闘篇 愛児篇 (製作=松竹キネマ(蒲田撮影所)) 1935.01.31 帝国館 15巻 白黒 サウンド版 監督・池田義信、脚本・陶山密、原作・松竹脚本部83. 母の心 (製作=赤沢キネマ) 1935.03.07 電気館 8巻 白黒 監督・根岸東一郎、脚本・赤沢大助、原作・村上寛、撮影・花沢義之84. 母の恋文 (製作=松竹キネマ(蒲田撮影所)) 1935.04.18 帝国館 12巻 白黒 監督・野村浩将、監督補助・北村昭彦、松村清四郎、中本茂、脚色・池田忠雄85. なみだの母 (製作=太奏発声映画 配給=日活) 1935.05.08 大阪常盤座 8巻 白黒 監督・永富映次郎、脚色・牛原虚彦、原作・額田六福、撮影・河崎喜久三86. 父帰る母の心 (製作=第一映画社 配給=松竹キネマ) 1935.10.08 帝国館 8巻 白黒 監督・寺門静吉、助監督・森一生、鴻嶺利光、池田李雄、脚色・原健一郎87. 叔母さんの意地わる (製作=大都映画) 1935.11.21 河合キネマ 7巻 1,508m 白黒 無声 監督・太田辰三、脚本・太田辰三、原作・太田辰三、撮影・石川東88. スクリーングラフ 第八輯「文化の母」 (製作=松竹キネマ(蒲田撮影所ニュース部)) 1935. . 2巻 白黒 解説版89. 第二の母 (製作=日活(多摩川撮影所)) 1936.01.23 富士館 7巻 白黒 監督・田口哲、春原政久、脚本・小国英雄、原作・小国英雄、撮影・福田寅次郎90. 母の面影 (製作=松竹キネマ(蒲田撮影所)) 1936.02.06 帝国館/丸の内松竹/新宿松竹館9巻 白黒 サウンド版 監督・佐々木啓祐、脚本・斎藤良輔、原作・斎藤良輔91. 護国の母 (製作=日活(多摩川撮影所)) 1936.05.07 富士館 8巻 白黒 監督・田口哲、脚本・鈴木紀子、原作・鈴木紀子、撮影・福田寅次郎92. 母を尋ねて (製作=松竹キネマ(大船撮影所)) 1936.08.30 帝国館/丸の内松竹/新宿松竹館10巻 白黒 解説版 監督・佐々木康、脚本・柳井隆雄、原作・日野輝久93. 母なればこそ (製作=P.C.L.映画製作所 配給=東宝映画) 1936.09.21 日本劇場 8巻 1,857m 68分 白黒 監督・木村荘十二、脚本・三好十郎、原作・川口松太郎94. 嘆きの母 (製作=松竹キネマ(大船撮影所)) 1936.10.15 帝国館/丸の内松竹/新宿松竹館8巻 白黒 監督・宗本英男、脚色・宗本英男、潤色・野田高梧95. 母の花園 (製作=新興キネマ(東京撮影所)) 1936.11.22 大阪朝日座 9巻 2,211m 白黒 監督・西鉄平、脚本・如月敏、原作・如月敏、撮影・樗木喬96. 瞼の母 (製作=千恵蔵プロダクション 配給=日活) 1936.12.03 富士館 7巻 白黒 監督・衣笠十四三、脚色・大森光太郎、原作・長谷川伸、撮影・漆山裕茂97. わが母の書 (製作=松竹キネマ(大船撮影所)) 1936.12.19 新宿松竹館 15巻 白黒 監督・池田義信、脚本・斎藤良輔、図斎与一、原作・斎藤良輔、図斎与一98. 小楠公とその母 (製作=日本合同映画) 1936. . 白黒 サウンド版 監督・中川紫朗、脚本・中川紫朗、原作・小楠公会、撮影・渡会六蔵99. 母校の花形 (製作=日活(多摩川撮影所)) 1937.04.01 富士館 6巻 白黒 監督・千葉泰樹、脚色・小国英雄、山崎謙太、原作・サトウ・ハチロー、撮影・長井信一100. 母の夢 (製作=松竹(大船撮影所)) 1937.04.01 帝国館/丸の内松竹/新宿松竹館8巻 白黒 監督・佐々木康、脚本・斎藤良輔、原作・菊池寛、撮影・野村昊101. 真実一路 母の巻 (製作=日活(多摩川撮影所)1937.06.10 大阪常盤座 9巻 白黒 監督・田坂具隆 脚色・荒牧芳郎 原作・山本有三 撮影・伊佐山三郎102. 軍国母の手紙 (製作=新興キネマ(東京撮影所)) 1937.10.21 大阪朝日座 7巻 1,410m 白黒 監督・久松静児 脚本・陶山密 原作・陶山密 撮影・鈴木栄103. 母への抗議 (製作=松竹(大船撮影所) 1937.11.01 新宿松竹館 8巻 白黒 監督・深田修造 脚本・斎藤良輔 原作・斎藤良輔 撮影・渡辺健次104. 母よ安らかに (製作=新興キネマ(東京撮影所) 1937.11.11 大阪朝日座 8巻 2,042m 白黒 監督・田中重雄 脚本・如月敏 原作・如月敏 撮影・二宮義暁105. 呼子鳥 後篇 母の時代 (製作=新興キネマ(東京撮影所) 1937.11.18 大阪朝日座 7巻 白黒 監督・久松静児 脚本・陶山密 原作・加藤武雄 撮影・古泉106. 母の勝利 (製作=松竹(大船撮影所) 1937.11.25 帝国館 8巻 白黒 監督・斎藤寅次郎 脚本・野田高梧 撮影・武富善男 出演・葉山正雄 坪内美子107. 母の曲 前篇 (製作=東宝映画(東京撮影所) 1937.12.11 日本劇場 2,156m 79分 白黒 製作・萩原耐 監督・山本薩夫 脚本・木村千依男 八住利雄108. 母の曲 後篇 (製作=東宝映画(東京撮影所) 母の曲 後篇 1937.12.21 日本劇場 1,915m 70分 白黒 製作・萩原耐 監督・山本薩夫 脚本・木村千依男 八住利雄109. 母の鐘 (製作=G・S映画研究所 1937. . 白黒 無声 監督・永富映次郎 脚本・永富映次郎 原作・永富映次郎 撮影・田中春光110. 母親人形 (製作=東宝映画(京都撮影所)) 1938.01.07 日本劇場 8巻 2,056m 75分 白黒 監督・石田民三 脚本・白浜四郎 原作・長谷川伸 撮影・玉井正夫111. 母の瞳 (製作=大都映画) 1938.01.10 大都劇場 8巻 白黒 監督・吉村操 脚本・大井利与 原作・大井利与 撮影・富沢恒夫112. 母ぞよく知る (製作=松竹(大船撮影所) 1938.03.10 帝国館/新宿松竹館/渋谷劇場/銀座映劇8巻 白黒 監督・原研吉 脚本・斎藤良輔 原作・斎藤良輔113. 母の魂 (製作=新興キネマ(東京撮影所)) 1938.04.14 大阪朝日座 11巻 3,192m 白黒 総指揮・六車修 監督・田中重雄 脚本・陶山密 撮影・二宮義暁114. 軍国涙の母 (製作=日活(多摩川撮影所)) 1938.04.21 富士館 4巻 白黒 監督・渡部恒次郎 脚色・荒牧芳郎 原作・竹田敏彦 撮影・渡辺孝 配役 高岡邦115. 二度目の母 (製作=大都映画) 1938.06.16 大都劇場 6巻 白黒 無声 監督・和田敏三 脚本・ 三木誠 撮影・岩藤隆光 出演・大河百々代 藤間林太郎116. 母と子 (製作=松竹(大船撮影所)) 1938.07.01 大阪劇場 10巻 2,426m 89分 白黒 監督・渋谷実 監督補助・厳谷平三 荒井英郎 大屋善三 本郷武雄 脚色・柳井隆雄117. 瞼の母 (製作=東宝映画(東京撮影所)) 1938.07.10 日本劇場 10巻 2,295m 84分 白黒 製作・森田信義 監督・近藤勝彦 脚本・竹井諒 原作・長谷川伸118. わが家に母あれ (製作=松竹(大船撮影所) 1938.08.18 帝国館/新宿松竹館/渋谷劇場/横浜常設館/銀座映劇6巻 白黒 監督・渋谷実 脚本・柳井隆雄 原作・森山季子119. 姉ちゃんは母ちゃんは (製作=新興キネマ(東京撮影所)) 1938.09.08 大阪朝日座 6巻 1,430m 白黒 監督・須山真砂樹 脚本・小出英男 原作・小出英男120. 母の歌 前篇(誓) (前篇(誓) 製作=松竹(大船撮影所)) 1938.12.15 帝国館/新宿松竹館/横浜常設館/銀座映劇5巻 白黒 監督・佐々木康 脚本・斎藤良輔 撮影・野村昊121. 母の歌 後篇(縁) (製作=松竹(大船撮影所)) 1938.12.15 帝国館/新宿松竹館/横浜常設館/銀座映劇7巻 白黒 監督・佐々木康 脚本・斎藤良輔 撮影・野村昊122. 美はしき母性 (製作=松竹(大船撮影所) 1938.12.24 帝国館/新宿松竹館/横浜常設館7巻 白黒 監督・蛭川伊勢夫 脚本・柳井隆雄 斎藤良輔 原作・山岡荘八123. 幸福の母 (製作=オールキネマ社) 1938. . 1巻 326m 12分 白黒 演出・芦田宏昌 撮影・芦田宏昌124. 母子船頭唄 (製作=新興キネマ(東京撮影所)) 1939.01.14 大阪朝日座 5巻 1,313m 白黒 監督・青山三郎 脚本・村上徳三郎 撮影・青島順一郎125. 日本の母 母の巻 (製作=大都映画) 1939.02.15 大都劇場 7巻 白黒 監督・吉村操 脚本・中川竜夫 原作・中川竜夫 撮影・永貞二郎126. 日本の母 子の巻 (製作=大都映画) 1939.02.23 大都劇場 7巻 白黒 監督・吉村操 脚本・中川竜夫 原作・中川竜夫 撮影・永貞二郎127. 誓ひの乳母車 (製作=大都映画) 1939.03.01 大都劇場 6巻 白黒 監督・中島宝三 脚本・中島宝三 撮影・広川朝次郎 出演・藤間林太郎 雲井三郎128. 母に捧ぐる歌 (製作=新興キネマ(東京撮影所)) 1939.05.25 電気館/大阪朝日座 8巻 1,977m 白黒 監督・伊奈精一 脚本・中田龍雄 原案・伊奈精一129. 母を讃へる歌 (製作=松竹(大船撮影所)) 1939.07.06 帝国館/新宿松竹館/横浜常設館/銀座映劇7巻 白黒 監督・原研吉 脚本・野田高梧 森山李子撮影・厚田雄春130. 母 (製作=新興キネマ(東京撮影所)) 1939.10.12 大阪朝日座 11巻 2,957m 白黒 監督・田中重雄 脚本・陶山密 原作・鶴見祐輔 撮影・行山光一131. 母は強し (製作=松竹(大船撮影所)) 1939.12.17 帝国館/新宿松竹館/渋谷松竹/銀座映劇12巻 白黒 監督・佐々木啓祐 脚本・猪俣勝人 原作・竹田敏彦132. 母恋千鳥 (製作=新興キネマ(東京撮影所)) 1939.12.24 大阪朝日座 7巻 1,976m 白黒 監督・須山真砂樹 脚本・一木章 原作・一木章 撮影・樗木喬133. 母よ正しき愛を (製作=大日本文化映画製作所) 1939. . 2巻 白黒134. この母にしてこの子あり (製作=大都映画) 1940.01.10 大都劇場 7巻 白黒 監督・吉村操 脚本・土田耕平 原作・土田耕平 撮影・永貞二郎135. 雲月の九段の母 (製作=東宝映画(東京撮影所)) 1940.01.11 日本劇場 8巻 1,733m 63分 白黒 製作・滝村和男 監督・渡辺邦男 脚本・平野直136. 母の踏む路 (製作=大都映画) 1940.03.21 大都劇場 6巻 白黒 監督・宇佐美彪 脚本・宇佐美彪 原作・土田耕平 撮影・広川朝次郎137. 母の願ひ (製作=新興キネマ(東京撮影所)) 1940.04.18 大阪朝日座 9巻 2,183m 白黒 監督・久松静児 脚本・村上徳三郎 原作・浜本浩 撮影鈴木栄138. 悲曲「母」 (製作=日活(多摩川撮影所)) 1940.06.27 富士館 9巻 白黒 監督・伊賀山正徳 脚色・館岡謙之助 原作・萩原四郎 撮影・渡辺五郎139. 母なきあと (製作=大都映画) 1940.09.26 大都劇場 5巻 白黒 監督・小崎政房 脚本・小崎政房 原作・小崎政房 撮影・広川朝次郎140. 闘ふ母 (製作=新興キネマ(東京撮影所)) 1940.10.05 大阪朝日座 8巻 1,902m 白黒 製作・高岩肇 監督・久松静児 脚本・山上七郎 原作・広津和郎141. お母さん (製作=松竹(大船撮影所)) 1940.11.07 国際劇場/新宿・渋谷松竹 7巻 白黒 監督・瑞穂春海 脚本・斎藤良輔 長瀬喜伴、撮影・桜井清寿142. 母の真情 (製作=大都映画) 1941.01.07 大都系 5巻 白黒 監督・山内俊英 脚本・土田耕平 原作・諏訪三郎 撮影・富沢恒夫143. 母系家族 (製作=日活(多摩川撮影所)) 1941.01.30 日活系 13巻 白黒 監督・清瀬英治郎 脚本・千葉泰樹 原作・石川達三 撮影・山崎安一郎144. 大将の母 (製作=大日本教育映画協会 配給=皇国映画) 1941.02.22 大阪朝日座 4巻 白黒 監督・山本紀夫 撮影・渡辺孝 出演・村瀬幸子145. 母代 (製作=新興キネマ(東京撮影所)) 1941.02.22 大阪朝日座 9巻 白黒 製作・今村貞雄 監督・田中重雄 脚本・鈴木英夫 原作・舟橋聖一146. 母の姿 (製作=新興キネマ(東京撮影所)) 1941.03.15 大阪朝日座 4巻 白黒 監督・青山三郎 脚本・望月幸三 原作・田郷虎雄 JOAK放送劇「父の碑」147. 母の灯 (製作=新興キネマ(東京撮影所)) 1941.06.12 大阪朝日座 9巻 白黒 監督・深田修造 小石栄一、脚本・笠原良三 原作・石橋みつ子 撮影・高橋通夫148. 母なき家の母 (製作=日活(多摩川撮影所)) 1941.07.24 日活系 9巻 白黒 監督・伊賀山正徳 脚本・比佐芳武 撮影・渡辺五郎 音楽・大久保徳二郎149. 戦陣訓 母と戦場 (製作=大都映画) 1942.01.14 大都系 10巻 白黒 監督・倉谷勇 脚本・水町青滋 原作・火野葦平 撮影・松井鴻 150. 母の顔 (製作=皇国映画) 1942.01.24 新興系 6巻 白黒 監督・村上潤 脚本・鈴木忠一郎 撮影・岡野進一 出演・林千歳 田中春雄 三島慶子151. 海の母 (製作=日活(多摩川撮影所)) 1942.02.07 日活系 11巻 白黒 監督・伊賀山正徳 脚色・永見隆二 原作・永見隆二 撮影・渡辺五郎152. 母よ嘆く勿れ (製作=新興キネマ(東京撮影所)) 1942.04.16 紅系 8巻 白黒 監督・深田修造 脚本・柳川真一 原作・加藤武雄 撮影・古泉勝男153. 日本の母 (製作=松竹(大船撮影所)) 1942.06.18 白系 10巻 白黒 監督・原研吉 脚本・野田高梧 八木沢武孝、撮影・武富善男 音楽・浅井挙曄154. 母の地図 (製作=東宝映画) 1942.09.03 紅系 11巻 2,825m 103分 白黒 演出・島津保次郎 演出助手・杉江敏男 脚本・植草圭之助 潤色・島津保次郎155. 母は死なず (製作=東宝映画) 1942.09.24 紅系 11巻 2,841m 104分 白黒 製作・藤本真澄 演出・成瀬巳喜男 脚本・猪俣勝人 原作・河内仙介156. 母の記念日 (製作=松竹(大船撮影所)) 1943.11.11 白系 9巻 2,372m 87分 白黒 監督・佐々木康 脚本・野田高梧 柳井隆雄 柳川真一、原作・佐々木孝丸157. 雛鷲の母 (製作=大映(東京撮影所)) 1944.01.27 紅系 10巻 2,407m 88分 白黒 製作・三浦信夫 監督・吉村廉 脚本・八田尚之 撮影・山崎安一郎158. 母の灯 (製作=松竹(京都撮影所)) 1947.07.01 8巻 2,081m 76分 白黒 企画・石田清吉 監督・市川哲夫 脚本・沢村勉 原作・小糸のぶ159. 母 (製作=大映(東京撮影所)) 1948.08.23 8巻 2,115m 77分 白黒 企画・中代富士男 監督・小石栄一 脚本・館岡謙之助 撮影・山崎安一郎160. 母紅梅 (製作=大映(東京撮影所)) 1949.01.24 9巻 2,281m 83分 白黒 企画・中代富士男 監督・小石栄一 脚本・館岡謙之助 撮影・姫田真佐久161. 母三人 (製作=大映(東京撮影所)) 1949.04.24 9巻 2,297m 84分 白黒 企画・中代富士男 監督・小石栄一 脚本・館岡謙之助 原作・川村花菱162. 母恋星 (製作=大映(京都撮影所)) 1949.06.12 10巻 2,331m 85分 白黒 企画・高桑義生 浅井昭三郎、監督・安田公義 脚本・波多謙治 撮影・武田千吉郎163. 母呼ぶ鳥 (製作=松竹(京都撮影所)) 1949.08.16 国際劇場 一般封切 22日 10巻 2,549m 白黒 製作・糸屋寿雄 監督・高木孝一 脚本・柳井隆雄164. ホルスタイン物語 母の丘 (製作=六和映画) 1949.09.06 8巻 2,134m 白黒 監督・八木沢武孝 脚本・八木沢武孝 撮影・草刈裕夫 出演・水島道太郎165. 母燈台 (製作=大映(東京撮影所)) 1949.11.05 10巻 2,488m 91分 白黒 企画・中代富士男 監督・久松静児 脚本・八木沢武孝 撮影・高橋通夫166. 母椿 (製作=大映(東京撮影所)) 1950.01.10 9巻 2,149m 78分 白黒 企画・関幸輔 監督・小石栄一 脚本・館岡謙之助 原作・筒井順167. 母の調べ (製作=松竹(京都撮影所)) 1950.02.05 国際劇場 一般封切 12日 8巻 2,158m 白黒 製作・中野泰介 監督・高木孝一 脚本・沢村勉 原作・谷屋168. 遙かなり母の国 (製作=大映(東京撮影所)) 1950.03.05 11巻 2,639m 96分 白黒 企画・奥田久司 監督・伊藤大輔 脚本・依田義賢 原作・川口松太郎169. 母 (製作=松竹(京都撮影所)) 1950.05.14 9巻 2,560m 白黒 製作・中野泰介 監督・佐々木啓祐 脚本・長瀬喜伴 原作・鶴見祐輔 170. 拳銃の前に立つ母 (製作=大映(東京撮影所)) 1950.06.24 9巻 2,151m 79分 白黒 製作・中代富士男 監督・小石栄一 脚本・館岡謙之助 原作・川口松太郎171. 母情 (製作=新東宝) 1950.06.28 9巻 2,347m 86分 白黒 製作・清水宏 製作主任・山本喜八郎 監督・清水宏 助監督・石井輝男172. 母月夜 (製作=大映(東京撮影所)) 1951.01.27 10巻 2,354m 86分 白黒 製作・中代富士男 監督・佐伯幸三 脚本・松田昌一 撮影・秋野栄久173. 母千鳥 (製作=大映(東京撮影所)) 1951.04.21 10巻 2,523m 92分 白黒 監督・佐伯幸三 脚本・松田昌一 撮影・秋野栄久 音楽・渡辺浦人174. 母恋草 (製作=松竹(大船撮影所)) 1951.06.29 11巻 2,544m 白黒 製作・久保光三 監督・岩間鶴夫 脚本・鈴木兵吾 原作・竹田敏彦175. 母を慕いて (製作=松竹(京都撮影所)) 1951.07.27 8巻 2,291m 白黒 製作・石田清吉 企画・福島通人 監督・斎藤寅次郎 脚本・池田忠雄 中村定郎176. 母待草 (製作=松竹(大船撮影所)) 1951.08.17 9巻 2,118m 白黒 製作・山口松三郎 監督・佐々木啓祐 脚本・長瀬喜伴 原作・竹田敏彦177. 月よりの母 (製作=新東宝) 1951.08.24 11巻 2,740m 100分 白黒 製作・青柳信雄 監督・阿部豊 脚本・八木隆一郎 中田晴康、原作・中田晴康178. 母は嘆かず (製作=新東宝) 1951.09.28 7巻 2,055m 75分 白黒 監督・渡辺邦男 脚本・渡辺邦男 撮影・友成達雄 出演・水谷八重子 灰田勝彦 永田とよ179. 母人形 (製作=大映(京都撮影所)) 1951.10.26 10巻 2,276m 83分 白黒 監督・佐伯幸三 脚本・松田昌一 撮影・牧田行正 音楽・渡辺浦人180. 母化粧 (製作=松竹(大船撮影所)) 1951.12.14 8巻 2,166m 白黒 製作・山口松三郎 監督・佐々木啓祐 脚本・池田忠雄 長瀬喜伴、原作・竹田敏彦181. 瞼の母 (製作=大映(京都撮影所)) 1952.01.08 9巻 2,195m 白黒 監督・佐伯幸三 脚本・松田昌一 原作・長谷川伸 撮影・牧田行正182. 母なれば女なれば (製作=キヌタプロ 配給=東映) 1952.01.17 11巻 2,741m 白黒 監督・亀井文夫 脚本・棚田吾郎 原作・徳永直 撮影・瀬川順一183. 嵐の中の母 (製作=東映(東京撮影所)) 1952.02.07 9巻 2,366m 白黒 監督・佐伯清 脚本・八住利雄 撮影・横山実 出演・水谷八重子 岸旗江 香川京子184. 母山彦 (製作=大映(東京撮影所)) 1952.04.24 10巻 2,733m 白黒 監督・田中重雄 脚本・八住利雄 撮影・渡辺公夫 出演・三益愛子 長谷川裕見子185. 母の願い (製作=松竹(大船撮影所)) 1952.05.22 9巻 2,232m 白黒 製作・山口松三郎 監督・佐々木啓祐 脚本・伏見晁 原作・小糸のぶ186. 母を恋う歌 (製作=新映プロ 配給=東宝) 1952.05.29 9巻 2,247m 白黒 製作・大塚和 監督・並木鏡太郎 脚本・高柳春雄 山崎謙太、撮影・小原譲治187. 母子鶴 (製作=大映(東京撮影所)) 1952.07.03 9巻 2,513m 白黒 監督・小石栄一 脚本・館岡謙之助 原作・川口松太郎 撮影・姫田真佐久188. 母の山脈 (製作=松竹(大船撮影所)) 1952.07.24 9巻 2,254m 白黒 製作・山口松三郎 監督・佐々木康 脚本・野田高梧 原案・清閑寺健189. 母の罪 (製作=東映(東京撮影所)) 1952.08.06 10巻 2,626m 白黒 監督・伊賀山正徳 脚本・館岡謙之助 原作・菊池幽芳 撮影・西川庄衛190. 巣鴨の母 (製作=大映(京都撮影所)) 1952.10.16 11巻 2,530m 白黒 監督・安達伸生 脚本・八尋不二 撮影・伊佐山三郎 出演・三益愛子 根上淳 船越英二191. 母のない子と子のない母と (製作=民芸) 1952.11.04 9巻 2,466m 白黒 監督・若杉光夫 脚本・久板栄二郎 原作・壺井栄 撮影・井上莞192. 二人の母 (製作=東映(東京撮影所)) 1952.12.11 10巻 2,794m 白黒 監督・伊賀山正徳 脚本・館岡謙之助 山崎謙太、撮影・西川庄衛 出演・折原啓子193. 母の瞳 (製作=大映(東京撮影所)) 1953.01.09 10巻 2,393m 白黒 監督・安田公義 脚本・八住利雄 原作・八住利雄 撮影・秋野友宏194. 母子鳩 (製作=宝プロ 配給=東映) 1953.02.05 9巻 2,630m 白黒 監督・伊賀山正徳 脚本・館岡謙之助 原作・加藤武雄 撮影・松井鴻195. 鞍馬天狗 疾風雲母坂 (製作=東映(京都撮影所)) 1953.02.12 9巻 2,219m 白黒 監督・萩原遼 脚本・小川正 丸根賛太郎 鏡二郎、原作・大仏次郎196. 母波 (製作=大映(東京撮影所)) 1953.04.22 9巻 2,157m 白黒 監督・小石栄一 脚本・田辺朝治 原作・川口松太郎 撮影・峰重義 197. 母と娘 (製作=東宝) 1953.05.27 9巻 2,195m 白黒 製作・田中友幸 監督・丸山誠治 助監督・広沢栄 脚本・井手俊郎 原作・源氏鶏太198. お母さんの結婚 (製作=日本映画新社 配給=東宝) 1953.07.01 7巻 1,800m 白黒 製作・中村正 監督・斎藤達雄 脚本・池田和夫 撮影・白井茂 199. 秘めたる母 (製作=新映プロ 配給=東宝) 1953.10.14 5巻 1,269m 白黒 監督・小田基義 脚本・原聡 星川清司 撮影・井上莞 音楽・佐藤勝200. 母の誕生日 (製作=松竹(大船撮影所)) 1953.10.27 5巻 1,036m 白黒 製作・大町竜夫 監督・萩原徳三 脚本・津路嘉郎 原作・中里恒子 美川きよ201. 母系図 (製作=東映(東京撮影所)) 1953.12.08 10巻 2,548m 白黒 監督・ 伊賀山正徳 脚本・館岡謙之助 撮影・西川庄衛 音楽・木下忠司202. 母の湖 (製作=大映(東京撮影所)) 1953.12.15 10巻 2,339m 白黒 監督・小石栄一 脚本・笠原良三 原作・萩原四朗 撮影・渡辺公夫203. 伊津子とその母 (製作=東宝) 1954.02.17 9巻 2,535m 白黒 製作・田中友幸 監督・丸山誠治 脚本・井手俊郎 原作・由起しげ子 204. 四人の母 (製作=大映(東京撮影所)) 1954.02.23 10巻 2,617m 白黒 監督・佐伯幸三 脚本・松田昌一 佐伯幸三、撮影・渡辺公夫 出演・三益愛子 折原啓205. 母の秘密 (製作=新東宝) 1954.06.15 10巻 2,456m 90分 白黒 監督・内川清一郎 脚本・館岡謙之助 撮影・岩佐一泉 出演・轟夕起子 筑紫あけみ206. 母恋人形 (製作=東映(東京撮影所)) 1954.06.22 11巻 2,767m 白黒 監督・伊賀山正徳 脚本・館岡謙之助 原作・竹田敏彦 撮影・西川庄衛207. 母時鳥 (製作=大映(東京撮影所)) 1954.07.04 10巻 2,289m 白黒 監督・枝川弘 脚本・田辺朝二 原作・竹田敏彦 撮影・高橋通夫 208. 母の初恋 (製作=東京映画 配給=東宝) 1954.09.17 7巻 2,807m 白黒 製作・滝村和男 三輪礼二、監督・久松静児 脚本・八田尚之 原作・川端康成209. 伊達騒動 母御殿 (製作=大映(京都撮影所)) 1954.10.13 10巻 2,487m 白黒 監督・安田公義 脚本・阿蘇太郎 池田菁穂、撮影・竹村康和 出演・三益愛子210. 継母 (製作=東映(東京撮影所)) 1954.10.26 11巻 2,986m 白黒 企画・依田一郎 原進一 監督・伊賀山正徳 監督補佐・加島昭 脚本・館岡謙之助211. この子この母 (製作=松竹(大船撮影所)) 1954.12.01 12巻 2,658m 白黒 製作・長島豊次郎 監督・萩山輝男 脚本・長瀬喜伴 撮影・井上晴二212. 母千草 (製作=大映(東京撮影所)) 1954.12.15 11巻 2,516m 白黒 監督・鈴木重吉 脚本・松田昌一 撮影・中川芳久 出演・三益愛子 川上康子 信欣三213. 母を尋ねて幾山河 (製作=東映(東京撮影所)) 1954.12.21 6巻 1,726m 白黒 監督・小石栄一 脚本・八木沢武孝 撮影・佐藤三郎 出演・月丘千秋214. 母の曲 (製作=新東宝) 1955.05.15 12巻 2,700m 99分 白黒 製作・柴田万三 監督・小石栄一 脚本・笠原良三 原作・吉屋信子 215. 母性日記 (製作=松竹(大船撮影所)) 1955.06.15 11巻 2,836m 白黒 製作・長島豊次郎 監督・佐々木啓祐 脚本・中山隆三 撮影・鶴見正二216. 母水仙 (製作=東映(東京撮影所)) 1955.07.20 9巻 2,456m 白黒 企画・坪井与 原伸光 監督・伊賀山正徳 脚本・笠原良三 原作・三好一光217. 母笛子笛 (製作=大映(東京撮影所)) 1955.08.03 11巻 2,540m 白黒 製作・藤井朝太 企画・中代富士男 監督・斎村和彦 脚本・舟橋和郎218. 美しき母 (製作=東宝) 1955.12.04 11巻 2,681m 白黒 製作・堀江史朗 監督・熊谷久虎 脚本・浄明寺花子 原作・林房雄219. 母ふたり (製作=新東宝) 1955.12.13 10巻 2,497m 91分 白黒 製作・三上訓利 監督・野村浩将 脚本・大木弘二 原作・川口松太郎220. 不良少年の母 (製作=東映(東京撮影所)) 1955.12.20 9巻 2,356m 白黒 製作・依田一郎 監督・小石栄一 脚本・八田尚之 撮影・星島一郎221. 若人のうたごえ お母さんの花嫁 (製作=新東宝) 1956.01.08 5巻 1,286m 47分 白黒 製作・伊藤基彦 監督・毛利正樹 脚本・川内康範 村山俊郎222. 父と子と母 (製作=京都映画 配給=松竹) 1956.02.26 6巻 1,305m 白黒 監督・井上和男 脚本・岸生朗 本山大生 井上和男、撮影・谷口政勝 音楽・池田正223. お母さんの黒板 (製作=松竹(大船撮影所)) 1956.04.11 6巻 1,637m 白黒 製作・保住一之助 監督・佐々木啓祐 脚本・津路嘉郎 原作・小田和夫 土井行224. 母子像 (製作=東映(東京撮影所)) 1956.06.01 9巻 2,383m 白黒 企画・マキノ光雄 坪井与 吉野誠一、監督・佐伯清 脚本・植草圭之助 原作・久生十蘭225. ひとりの母の記録 (製作=岩波映画 配給=日活) 1956.06.07 4巻 1,028m 白黒 製作・小口禎三 監督・京極高英 脚本・岩佐氏寿 撮影・加藤和三226. 唄祭母恋しぐれ (製作=宝塚映画 配給=東宝) 1956.06.08 5巻 1,233m 45分 白黒 監督・倉谷勇 脚本・龍富雄 撮影・近藤憲明 音楽・河村篤二227. 母恋月夜 (製作=東映(東京撮影所)) 1956.08.01 7巻 1,746m 白黒 企画・原伸光 監督・石原均 脚本・笠原良三 原作・吉野不二郎228. 母を求める子等 (製作=大映(東京撮影所)) 1956.08.08 10巻 2,405m 88分 白黒 製作・永田秀雄 企画・中代富士男 監督・清水宏 助監督・弓削太郎229. 愛の翼 お母さん行ってきます (製作=東映(東京撮影所)) 1956.10.02 6巻 1,663m 白黒 企画・光川仁朗 監督・石原均 監督補佐・若林栄二郎230. 乳母車 (製作=日活) 1956.11.14 11巻 3,004m 白黒 製作・高木雅行 監督・田坂具隆 助監督・牛原陽一 脚本・沢村勉 原作・石坂洋二郎231. 母孔雀 (製作=東映(東京撮影所)) 1956.12.05 8巻 2,278m 白黒 企画・原伸光 監督・伊賀山正徳 脚本・笠原良三 原作・竹田敏彦232. 母白雪 (製作=大映(京都撮影所)) 1956.12.19 9巻 2,145m 白黒 製作・武田一義 企画・蔭山敏雄 監督・安田公義 助監督・多田英憲233. 母星子星 (製作=東映(東京撮影所)) 1957.01.22 6巻 1,685m 白黒 企画・原伸光 依田一郎、監督・石原均 脚本・中田竜雄 撮影・星島一郎234. 東京だヨおッ母さん (製作=東宝) 1957.04.23 7巻 1,667m 白黒 製作・竹井諒 監督・斎藤達雄 監督助手・船床定男 脚本・山上光穂235. 母と子の窓 (製作=松竹(大船撮影所)) 1957.05.28 12巻 2,982m 白黒 企画・小倉武志 監督・番匠義彰 助監督・生駒千里 脚色・猪俣勝人236. 異母兄弟 (製作=独立映画) 1957.06.25 12巻 3,027m 白黒 製作・栄田清一郎 監督・家城巳代治 脚本・依田義賢 寺田信義、原作・田宮虎彦237. ふるさとの唄 お母さんの東京見物 (製作=東映(東京撮影所)) 1957.11.17 6巻 1,530m 白黒 東映スコープ 企画・渡辺達人 光川仁朗 監督・村山新治 助監督・鈴木敏郎238. 母つばめ (製作=東映(東京撮影所)) 1958.01.29 6巻 1,616m 白黒 企画・原伸光 監督・伊賀山正光 助監督・鈴木敏郎 脚本・笠原良三239. 世界の母 (製作=新東宝) 1958.02.11 9巻 2,281m 83分 白黒 製作・大蔵貢 企画・島村達芳 監督・野村浩将 助監督・勝俣真喜治240. 母三人 (製作=東京映画 配給=東宝) 1958.02.18 11巻 2,831m 白黒 東宝スコープ 製作・滝村和男 監督・久松静児 監督助手・板谷紀之 脚本・井手俊郎241. 母 (製作=大映(東京撮影所)) 1958.03.05 13巻 3,045m カラー 大映スコープ 製作・永田雅一 企画・川崎治雄 監督・田中重雄 助監督・瀬川正雄242. 母恋鳥 (製作=中川プロ 配給=新東宝) 1958.09.14 6巻 1,390m 51分 白黒 製作・加茂秀男 沖悦二 監督・中川順夫 脚本・中川順夫 撮影・福田寅次郎243. 母の旅路 (製作=大映(東京撮影所)) 1958.09.21 10巻 2,526m 92分 白黒 大映スコープ 製作・永田秀雄 企画・中代富士男 監督・清水宏 脚色・笠原良三244. 母と拳銃 (製作=東映(東京撮影所)) 1958.11.19 9巻 2,226m 白黒 東映スコープ 企画・岡田寿之 岡田実彦、監督・関川秀雄 脚本・舟橋和郎 森田新245. 母しぐれ (製作=東映(東京撮影所)) 1959.01.15 白黒 東映スコープ 監督・和田篤人 脚本・村松道平 出演・松島トモ子 三浦光子 小野透 三波春夫246. 母と娘の瞳 (製作=東映(東京撮影所)) 1959.02.04 9巻 2,246m 白黒 東映スコープ 企画・根津昇 監督・小林恒夫 脚本・甲斐久尊 原作・小島政二郎247. 母のおもかげ (製作=大映(東京撮影所)) 1959.03.04 10巻 2,434m 89分 白黒 大映スコープ 製作・武田一義 企画・中代富士男 監督・清水宏248. 僕らの母さん (製作=東京映画 配給=東宝) 1959.03.29 4巻 1,640m 白黒 東宝スコープ 製作・金原文雄 監督・板谷紀之 脚本・野木一平249. 母子草 (製作=東映(東京撮影所)) 1959.04.22 9巻 2,427m 白黒 東映スコープ 企画・原伸光 監督・山村聡 脚本・楠田芳子 原作・小糸のぶ250. とどけ母の叫び (製作=松竹(京都撮影所)) 1959.09.06 5巻 2,124m 白黒 松竹グランドスコープ 製作・杉山茂樹 監督・福田晴一 脚本・依田義賢251. 娘・妻・母 (製作=東宝) 1960.05.21 9巻 3,347m カラー 東宝スコープ 製作・藤本真澄 監督・成瀬巳喜男 監督助手・広沢栄 脚本・井手俊郎 松山善三252. 遙かなる母の顔 (製作=東映(東京撮影所)) 1960.10.05 7巻 2,170m 白黒 東映スコープ 企画・植木照男 監督・小石栄一 脚本・鈴木兵吾 原作・大林清253. 母桜 (製作=大映(東京撮影所)) 1960.11.16 6巻 1,825m 白黒 大映スコープ 製作・中泉雄光 企画・中代富士男 監督・枝川弘 脚本・星川清司254. 母と娘 (製作=松竹(大船撮影所)) 1961.07.09 6巻 2,361m 白黒 松竹グランドスコープ 製作・植野哲雄 監督・川頭義郎 脚本・成沢昌茂 原作・小糸のぶ255. 母あちゃん海が知ってるよ (製作=日活) 1961.11.19 8巻 2,649m 白黒 日活スコープ 企画・大塚和 監督・斎藤武市 脚本・中島丈博 原作・山内久 256. 瞼の母 (製作=東映(京都撮影所)) 1962.01.14 7巻 2,275m 83分 カラー シネマスコープ 企画・橋本慶一 三村敬一、監督・加藤泰 助監督・本田達男 大西卓 清水彰、257. のこされた子とのこした母と (製作=大映(京都撮影所)) 1962.05.27 6巻 1,889m 白黒 シネマスコープ 企画・高森富夫 監督・西山正輝 脚本・浅井昭三郎258. 悲しみはいつも母に (製作=新東宝 配給=大映) 1962.06.03 白黒 ワイド 企画・柴田万三 監督・中川信夫 助監督・高橋繁男 原作・西村滋259. 不貞母娘 (製作=Gプロ) 1963.01. 成人映画指定月 監督・高木丈夫 出演・左京未知子260. 母 (製作=近代映画協会) 1963.11.08 8巻 2,772m 白黒 監督・新藤兼人 脚本・新藤兼人 原作・新藤兼人 撮影・黒田清巳 出演・乙羽信子261. 瞼の母より 月夜の渡り鳥 (製作=松竹(京都撮影所)) 1963.12.24 6巻 2,445m カラー シネマスコープ 製作・今泉周男 監督・市村泰一 脚本・鈴木兵吾 元持栄美 桜井義262. 母の歳月 (製作=松竹(大船撮影所)) 1965.01.30 7巻 2,956m カラー ワイド 製作・城戸四郎 桑田良太郎、監督・水川淳三 脚本・野田高梧 赤穂春雄263. とめてくれるなおっ母さん (製作=松竹(大船撮影所)) 1969.06.07 7巻 2,362m カラー ワイド 製作・島田明彦 監督・田向正健 脚本・田向正健 南部英夫264. 子連れ狼 三途の川の乳母車 (製作=勝プロダクション 配給=東宝) 1972.04.22 2,225m 85分 フジカラー シネマスコープ 製作・勝新太郎 松原久晴、監督・三隅研次265. 子連れ狼 死に風に向う乳母車 (製作=勝プロダクション 配給=東宝) 1972.09.02 2,438m 89分 フジカラー シネマスコープ 製作・勝新太郎 松原久晴、監督・三隅研次266. 青幻記 遠い日の母は美しく (製作=青幻記プロ 配給=東和) 1973.02.24 117分 カラー ワイド 製作・加藤辰次 成島東一郎、監督・成島東一郎 助監督・臼井高瀬267. ウルトラマンタロウ ウルトラの母は太陽のように (製作=円谷プロ=TBS 配給=東宝) 1973.08.01 689m 25分 カラー 製作・熊谷健 橋本洋二、監督・山際永三268. 告白手記 母という女 (製作=東京興映) 1973.08. 66分 カラー ワイド 監督・小川欽也269. 母をたずねて三千里 (製作=日本アニメーション 配給=東映) 1976.07.18 2巻 25分 カラー ワイド 製作・中島順三 演出・高畑勲 演出助手・横田和善270. 母と娘 禁じられた性戯 (製作=大蔵映画) 1976.08.21 61分 カラー ワイド 監督・名和三平 出演・中野リエ しば早苗 永田道子271. 岸壁の母 (製作=東宝映画 配給=東宝) 1976.12.11 2,546m 93分 カラー シネマスコープ 製作・田中友幸 鈴木慶司 田中収、企画・大観プロダクション、監督・大森健次郎272. 聖母観音大菩薩 (製作=若松プロ=ATG) 1977.06.25 90分 カラー ビスタビジョン 企画・葛井欣士郎 若松孝二、監督・若松孝二 助監督・栗原幸治273. 濡れて新宿 売春母娘 (製作=新東宝) 1977.06. 61分 カラー ワイド 監督・岡本愛 出演・野田さとみ 乱孝寿 野上正義274. 獣色母娘 (製作=大蔵映画) 1977.08.09 62分 カラー ワイド 監督・北見一郎 出演・小杉じゅん 杉佳代子 沢木ミミ275. 花街の母 (製作=テアトル・プロ=松崎プロ 配給=東宝) 1979.12.01 2,652m 97分 カラー ビスタビジョンサイズ 製作・酒井知信 企画・小澤潔 監督・西河克己276. 母をたずねて三千里 (製作=日本アニメーション 配給=東宝東和) 1980.07.19 107分 カラー 製作・本橋浩一 企画・佐藤昭司 プロデューサー・中島順三 松土隆二277. お母さんのつうしんぼ (製作=にっかつ児童映画) 1980.10.18 97分 カラー 製作・結城良煕 荒井喜代治、監督・武田一成 助監督・黒沢直輔278. 蓮如とその母 (製作=「蓮如とその母」映画製作推進委員会) 1981.10.07 虎の門ホール 92分 カラー 製作・安東民児 監督・川本喜八郎 脚本・新藤兼人279. ワイセツ家族 母と娘 (製作=にっかつ) 1982.05.14 60分 カラー ビスタサイズ プロデューサー・佐々木志郎 山田耕大、監督・那須博之 助監督・菅野隆280. 淫乱母娘責め (製作=大蔵映画) 1982.09. 60分 カラー ワイド 監督・市村譲 出演・堀江以恵子 恵杏里 井田恵美子281. 凌辱! 母娘くずし (製作=獅子プロ 配給=東映セントラルフィルム) 1984.01. 60分 カラー ワイド 監督・片岡修二 出演・香川留美 筒見愛 麻生うさぎ 282. 狙われた母娘 (製作=ミリオンフィルム) 1984.12. 62分 カラー ワイド 監督・秋津隆二 出演・村井亜紀 早乙女宏美 相原由美283. 絶唱母を呼ぶ歌 鳥よ翼をかして (製作=日本人妻自由往来実現運動の会=日本人妻里帰運動後援会) 1985.06.20 133分 カラー ワイド 製作・池田文子 監督・井上梅次284. 味比べ母娘妻 (製作=東活) 1985.10. 60分 カラー ワイド 監督・新田栄 285. 母さんの樹 (製作=翼プロダクション) 1986.09.21 116分 カラー ワイド 製作・山口逸郎 企画・伊藤武郎 監督・橘祐典 脚本・寺島アキ子 小塚清一286. 母 (製作=松竹=ビックバン=キネマ東京) 1988.04.29 75分 カラー ワイド 製作・大谷信義 静間順二 高橋松男、企画・高橋松男 プロデューサー・脇田雅丈 伊藤秀裕287. いんらん家族 義母の寝室 (製作=新東宝映画 配給=新東宝映画) 1991.01.12 54分 カラー ワイド 監督・深町章 脚本・周知安 撮影・稲吉雅志288. ダライラマの母 (原題:達頼活彿之母) (製作=迎滔電影製作有限公司=プルミエ・インターナショナル 配給=東宝) 1993.05.22 第1回欽ちゃんのシネマジャック15分 カラー ビスタビジョンサイズ289. いんらん巨乳母娘 (製作=新東宝) 1993.05.28 54分 カラー ワイド 監督・ ................ 深町章 脚本・周知安 撮影・稲吉雅志 出演・しのざきさとみ 杉浦みさお290. 不倫・母・娘 (製作=国映 配給=新東宝映画) 1993.05.28 58分 カラー ワイド 企画・朝倉大介 監督・佐野和宏 助監督・梶野考 脚本・佐野和宏291. 義母と息子 不倫総なめ (製作=オフィス・コウワ 配給=エクセス・フィルム) 1995.02.24 関西 H06.12.23 59分 カラー ワイド 企画・オフィス・コウワ プロデューサー・高橋講和292. 母と娘 女尻こすり合い (製作=キクフィルム 配給=エクセス・フィルム) 1995.10.06 60分 カラー ワイド 監督・小林悟 助監督・佐藤吏 脚本・如月吹雪293. 日本一短い「母」への手紙 (製作=東映) 1995.11.23 117分 カラー ワイド 企画・坂上順 プロデューサー・小島吉弘 進藤淳一 浅附明子、監督・澤井信一郎294. 義母の長襦袢 淫らな匂い (製作=プロダクション鷹 配給=エクセス・フィルム) 1996.05.31 57分 カラー ワイド 監督・珠瑠美 助監督・近藤英総 脚本・珠瑠美295. どすけべ三昧 母娘喰い (製作=新東宝映画 配給=新東宝映画) 1996.08.09 50分 カラー ワイド 企画・中田新太郎 監督・深町章 助監督・榎本敏郎296. 禁断 (年下の義母と息子) (ミュージアム) 1996.03.20 57分 カラー 監督・遠山世々 脚本・佐賀健児 撮影・小沢さとし 出演・桐生さつき 大村波彦297. 叔母 魔性の血淫 (ピンクパイナップル) 1996.03.29 76分 カラー 監督・内藤忠司 脚本・内藤忠司 塩田明彦 原作・綺羅光 撮影・福沢正典298. 叔母は家庭教師 (ミュージアム) 1996.08.08 57分 カラー 監督・遠山世々 脚本・京極雅人 撮影・小沢さとし 出演・野本美穂 神倉智之299. 母が性獣になった理由 (ピンクパイナップル) 1996.11.01 56分 カラー 製作・松島富士雄 普天間琉太郎 下村良樹 監督・池田賢一 脚本・池田賢一300. びしょ濡れ下宿 母娘のぞき (製作=関根プロダクション 配給=大蔵映画) 1997.02.28 60分 カラー ワイド 監督・関根和美 助監督・加藤義一 脚本・如月吹雪 関根和美301. 淫行家族 義母と女房の妹 (製作=セメントマッチ 配給=大蔵映画) 1997.06.23 60分 カラー ワイド 監督・池島ゆたか 助監督・佐藤吏 脚本・五代暁子302. 義母のONANIE 発情露出 (製作=旦々舎 配給=エクセス・フィルム) 1997.11.28 関西 10.24 60分 カラー ワイド 企画・稲山悌二 制作・鈴木静夫 監督・浜野佐知303. 義母と高校教師 息子の眼の前で (製作=フィルムハウス 配給=エクセス・フィルム) 1997.12.26 60分 カラー ワイド 企画・稲山悌二 プロデューサー・伍代俊介304. 異常分娩 義母と息子 (ピンクパイナップル=ケイエスエス販売) 1997.02.07 60分 カラー 製作・加藤文彦 監督・加藤文彦 脚本・加藤文彦 305. 若羞母 (ミュージアム) 1997.02.21 60分 カラー 監督・光石富士朗 脚本・京極雅人 撮影・佐藤徹 出演・小川美那子 新堂有望 川畑博嗣306. 聖母のララバイ (ワイ・エフ・シー) 1997.02.25 70分 カラー 監督・川村真一 脚本・嶋公浩 原作・睦月彰郎 撮影・下元哲307. 淫美母 (ミュージアム) 1997.11.21 63分 カラー 監督・光石富士朗 脚本・五代暁子 撮影・小沢佐俊 音楽・村山竜二308. 女刑事RIKO 聖母の深き淵 (製作=角川書店=エース・ピクチャーズ 配給=エース・ピクチャーズ) 1998.04.25 99分 カラー ワイド 製作・原正人 企画・原正人309. 母娘どんぶり 密壺くらべ (製作=IIZUMI Production 配給=エクセス・フィルム) 1998.05.29 大阪 5.01 60分 カラー ワイド 製作・北沢幸雄 企画・稲山悌二 業沖球太310. 喪服義母 息子で喘ぐ (製作=サカエ企画 配給=エクセス・フィルム) 1998.11.27 大阪 10.21 60分 カラー ワイド 企画・稲山悌二 監督・新田栄 助監督・竹桐哲也311. 義母と新妻 (ミュージアム) 1998.01.21 60分 カラー 監督・平野秀昭 脚本・大地健太郎 撮影・佐久間公一 出演・浅見まお 篠原さおり 森羅万象312. 淫恥母 (ミュージアム) 1998.08.21 63分 カラー 製作・佐藤昌平 加藤章生 監督・鈴木誠二 脚本・五代暁子 撮影・今井裕二313. 美熟母 (ミュージアム) 1998.09.21 66分 カラー 製作・常泰文幸 榎本靖 佐波正彦 監督・吉村典久 脚本・江面貴亮 撮影・三浦忠314. 義母の寝室 寝乱れ襦袢 (製作=フィルムハウス 配給=エクセス・フィルム) 1999.02.05 関西 1.05 60分 カラー ワイド 企画・稲山悌二 プロデューサー・伍代俊介315. 未亡人寮母 くわえてあげる! (製作=フィルムハウス 配給=エクセス・フィルム) 1999.03.05 関西 2.03 60分 カラー ワイド 企画・稲山悌二 プロデューサー・伍代俊介316. MARCO 母を訪ねて三千里 (製作=松竹=三井物産=日本アニメーション 配給=松竹) 1999.04.03 96分 カラー ワイド 製作・幸甫 真藤豊 土橋寿一、企画・曽根俊治 佐藤昭司317. 和服義母の貞操帯 -肉締まり- (製作=シネマアーク 配給=エクセス・フィルム) 1999.05.28 関西 4.28 60分 カラー ワイド 企画・奥田幸一 稲山悌二、監督・下元哲318. 母娘ONANIE いんらん大狂艶 (製作=小川企画プロダクション 配給=大蔵映画) 1999.09.16 大阪 9.04 59分 カラー ワイド 監督・小川欽也 助監督・寺島亮 脚本・池袋高319. 義母覗き 爪先に舌絡ませて (製作=国沢プロ 配給=大蔵映画) 1999.10.09 60分 カラー ワイド 監督・国沢実 助監督・細貝昌也 脚本・樫原辰郎320. 義母と娘 羞恥くらべ (製作=サカエ企画 配給=エクセス・フィルム) 1999.11.26 関西 10.20 61分 カラー ワイド 企画・稲山悌二 監督・新田栄 助監督・加藤義一321. 和服義母 息子よやめて! (製作=ENKプロモーション 配給=エクセス・フィルム) 2000.02.04 関西 1.05 60分 カラー ワイド 企画・稲山悌二 プロデューサー・駒田愼司322. 王母鄭氏 チョンおばさんのクニ (製作=シグロ 配給=シグロ) 2000.03.25 90分 カラー プロデューサー・山上徹二郎 製作デスク・佐々木正明 鏑木亜樹 全燦伊323. 義母の淫臭 だらしない下半身 (製作=フィルムハウス 配給=エクセス・フィルム) 2000.04.14 関西 3.15 60分 カラー ワイド 企画・稲山悌二 プロデューサー・伍代俊介324. 義母35才 息子が欲しい (製作=サカエ企画 配給=Xces Film) 2000.11.23 関西 10.18 60分 カラー ワイド 企画・稲山悌二 監督・新田栄 助監督・加藤義一325. 淫熟母 (ミュージアム) 2000.01.21 74分 カラー 監督・西保典 脚本・西保典 大河原ちさと 撮影・福沢正典 音楽・平野朱美326. 熟女と母性愛 (プレイス) 2000.01._ 70分 カラー 製作・服部龍三 監督・原田サンタマリア327. 覗かれた人妻 夫がいない昼下がりの若義母 (カレス・コミュニケーションズ) 2000.03.03 72分 カラー 監督・新里猛作 脚本・高木裕治 撮影・立花宣328. 半熟女 義母の誘惑 (ピンクパイナップル=ケイエスエス販売) 2000.05.12 70分 カラー 製作・高橋巌 監督・油谷岩夫 脚本・是安弥生 出演・徳井唯329. 義母教師 禁じられた想い (製作=O・H・C 販売元=カレス・コミュニケーションズ) 2000.08.14 71分 カラー 監督・石川二郎 脚本・高木裕治 原案・大河原ちさと330. 緋色の淫熱母 自虐の近親相姦 (ブルーム) 2000.12.21 90分 カラー 監督・西藤玄太 出演・高梨さとみ 愛田レイ 鹿嶋智子331. 義母の秘密 息子の匂い (製作=サカエ企画 配給=Xces Film) 2001.01.19 60分 カラー ワイド 企画・稲山悌二 監督・新田栄 助監督・加藤義一332. いんらん母娘 ナマで愛して (製作=新東宝映画 配給=新東宝映画) 2001.04.27 58分 カラー ワイド 企画・福俵満 監督・深町章 助監督・佐藤吏333. 義母と教師 教え娘の部屋で (製作=フィルムハウス 配給=Xces Film) 2001.07.13 60分 カラー ワイド 企画・稲山悌二 プロデューサー・伍代俊介 監督・勝利一334. 股がる義母 息子の快感 (製作=IIZUMI Productuion 配給=Xces Film) 2001.10.05 60分 カラー ワイド 製作・北沢幸雄 企画・稲山悌二 業沖球太 監督・北沢幸雄335. 人妻不倫痴態 義母・未亡人・不倫妻 (製作=フィルムハウス 配給=Xces Film) 2001.11.17 61分 カラー ワイド 企画・稲山悌二 プロデューサー・伍代俊介336. お母さんへ (配給=アップリンク) 2001.12.22 1998年製作 4分 カラー 8mm 監督・能瀬大助337. 蜜恥母 (ミュージアム) 2001.01.21 74分 カラー 製作・佐藤昌平 糟谷東 監督・沢木良介 脚本・堀内靖博 撮影・福沢正典338. 艶熟母 (ミュージアム) 2001.02.21 81分 カラー 監督・藤原健一 脚本・石田二郎 撮影・福沢正典 出演・愛染恭子 星野海二 桜井風花 深沢和明339. 堕ちてゆく人妻 禁断の母娘 (レジェンド・ピクチャーズ) 2001.05.08 75分 カラー 製作・菊田昌史 原田健二 企画・斎藤晃一 監督・松岡邦彦340. 愛義母 (ミュージアム) 2001.06.21 69分 カラー 製作・佐藤昌平 黒須功 監督・神野太 脚本・神野太 撮影・茂呂高志 出演・ローバ341. 義母の貞操隊 (ジャンク) 2001.10.22 120分 カラー 監督・下元哲 北沢幸雄 脚本・岡野有紀 小猿兄弟舎 五代暁子 出演・黒田詩織 風間今日子 しのざきさとみ342. 理想の母親 マザコン男の歪んだ愛情 (ブルーム) 2002.01.22 90分 カラー プロデューサー・千堂徹 監督・阿久津秀人 脚本・村山雅昌343. 厚母神太郎 (FMC) 1983.05.23 夢に散る情熱 344. 大阪母親プロ (新日本プロ) 1960.08.12 暴れん坊大将345. 志母山高也 (東映京都) 1977.01.22 やくざ戦争 日本の首領 入江康夫 1977.02.11 大奥浮世風呂 東映京都346. 吉母淳 (FIRE Reiciel Studio) 吉母淳 2001.10.27遊び人347. 母 (製作=東亜キネマ(甲陽撮影所)) 1925.01.22 大阪八千代座 6巻 白黒 無声 監督・桜庭喜八郎 脚本・佐藤紅緑 原作・佐藤紅緑 撮影・三木稔348. 永遠の母 (製作=マキノプロダクション(御室撮影所)) 1930.05.16 新宿劇場 4巻 白黒 無声 監督・久保為義 原作・長和隆 撮影・三木稔 出演・松浦築349. 神母英郎 (松竹) 1980.03.15 遙かなる山の呼び声350. わが母に罪ありや (製作=松竹(大船撮影所)) 1952.12.23 9巻 2,356m 白黒 製作・山口松三郎 監督・佐々木啓祐 脚本・橋田寿賀子 撮影・鶴見正二351. 真珠母 (製作=松竹(大船撮影所)) 1953.05.27 10巻 2,649m 白黒 製作・山口松三郎 監督・堀内真直 脚本・橋田寿賀子 原作・林芙美子352. 母なき子 (製作=日活) 1955.12.04 10巻 2,445m 白黒 製作・山本武 監督・堀池清 脚本・新藤兼人 高橋二三 撮影・柿田勇353. 天竜母恋い笠 (製作=東映(京都撮影所)) 1960.10.23 7巻 2,448m 89分 カラー 東映スコープ 企画・神戸由美 監督・工藤栄一 脚本・棚田吾郎354. 新任保母日誌 ひらけ!ボッキキー (製作=EMS 販売元=TMC) 2002.05.22 74分 カラー ビスタサイズ ステレオHiFi 製作・海津昭彦 企画・井手正明 355. 母は叫び泣く (製作=松竹(大船撮影所)) 1952.10.11 9巻 2,404m 白黒 製作・山口松三郎 監督・佐々木啓祐 脚本・椎名利夫 撮影・鶴見正二356. 義母性本能 過ちに溺れて (TMC) 2002.06.22 60分 カラー ステレオHiFi ビスタサイズ 製作・海津昭彦 企画・松下康司 プロデューサー・西山秀明357. 山口雲母工業所 (スタジオジブリ=日本テレビ=電通=徳間書店) 2001.07.20 千と千尋の神隠し358. 川奈まり子 牝猫義母 (製作=旦々舎 配給=Xces Film) 2002.01.18 60分 カラー ワイド 企画・稲山悌二 制作・鈴木静夫 監督・浜野佐知 359. 義母尻 息子がしたい夜 (製作=ネクストワン 配給=Xces Film) 2002.04.19 59分 カラー ワイド 企画・稲山悌二 監督・松岡邦彦 助監督・竹洞哲也360. 淫夢母 (ジーピー・ミュージアム) 2002.08.25 70分 カラー 監督・山口誠 脚本・江面貴亮 撮影・中尾正人 出演・冴島奈緒 稲垣尚吾 瀬戸純 深沢和361. 少年母を助く (新声館) 1909.02.17 白黒 無声362. 母の慈愛 (提供=M・パテー商会) 1909.03.01 第一文明館 白黒 無声363. 母の茲愛 (製作=M・パテー商会) 1909.04.12 大勝館 白黒 無声364. 艶美母 (ジーピー・ミュージアム) 2002.10.25 76分 カラー 製作・佐藤昌平 寺西正巳 監督・藤原健一 脚本・江面貴亮 撮影・中尾正人365. 愛恥母 (ジーピー・ミュージアム) 2002.11.25 74分 カラー 監督・亀井亨 脚本・江面貴亮 撮影・中尾正人 出演・谷川みゆき 杉本聖帝 中渡実果366. ドすけべ母娘 (製作=国映 配給=新東宝映画) 1995.07.14 60分 カラー ワイド 企画・朝倉大介 監督・松岡邦彦 助監督・久万真路 脚本・瀬々敬久367. 父よ母よ! (製作=松竹) 1980.09.20 132分 カラー ワイド 製作・沢村国雄 斎藤守恒 監督・木下恵介 監督助手・横堀幸司 脚本・木下恵介368. あまえさせて・・・ 義母のかほり (ブルーム) 2003.01.21 90分 カラー プロデューサー・千堂徹 監督・阿久津秀人 出演・米倉京子 星野えみ 杉原恵美子 中野千春369. 女体ドラフト会議 第二幕 保母編・華道家元編・看護婦編 (製作=BILLOW 販売元=アンカー・ビジュアルネットワーク) 2003.01.24 78分 カラー プロデューサー・碇まもる 徳原英孝 三木和史370. 義母の秘密 息子愛撫 (製作=ENKプロモーション 配給=Xces Film) 2002.11.29 60分 カラー ワイド 企画・稲山悌二 プロデューサー・駒田愼司 監督・渡辺護371. 発情義母 息子いじり (製作=メディアミックス 配給=Xces Film) 2002.08.02 56分 カラー ワイド 企画・稲山悌二 監督・川崎軍二 助監督・山根浩三372. 新任保母日誌 お姉さんといっしょ (製作=ジャンク 販売元=TMC) 2003.05.22 75分 カラー ビスタサイズ ステレオHiFi 製作・海津昭彦 企画・井出正明 制作・入江友彦373. 邊母木仲治 (グルーヴコーポレーション=現代映画) 2003.04.05 鏡の女たち374. 義母の誘惑 禁断の関係 (製作=レジェンド・ピクチャーズ 販売元=レジェンド・ピクチャーズ) 2003.07.04 65分 カラー プロデューサー・江尻健司、制作・佐々木文夫375. 母を恋はずや (製作=松竹キネマ(蒲田撮影所)) 1934.05.11 帝国館 9巻 2,559m 白黒 無声 監督・小津安二郎、構成・野田高梧、脚色・池田忠雄376. 邊母木伸治 (ケイエスエス=衛星劇場=グループコーポレイション) 1997.05.24 うなぎ2003.07.19 踊る大捜査線THEMOVIE2レインボーブリッジを封鎖せよ! フジテレビジョン377. 万里尋母 (製作=満州映画協会) 1938._._ 白黒 監督・坪井與、脚本・坪井與、撮影・大森伊八、配役・葉苓378. 慈母涙 (製作=満州映画協会) 1939._._ 白黒 監督・水ケ江龍一、脚本・荒牧芳郎、撮影・藤井春美、配役・李麗萍(実母)、李明高諭379. 風船売りの小母さん (製作=小笠原プロダクション)1924._._ 白黒 無声 監督・水谷登志夫、脚色・水谷登志夫、原作・水谷登志夫380. 疼く義母と娘 猫舌くら、 (製作=フィルムハウス 配給=XcesFilm) 2003.04.21 59分 カラー ワイド 企画・稲山剃二、プロデューサー・伍代俊介、監督・山董381. いんらん家族計画 発情母娘 (製作=新東宝映画 配給=新東宝映画) 2003.08.29。 61分 カラー ワイド 企画・福俵満、監督・深町章、助監督・佐藤吏382. 義母レズ 息子交換 (製作=シネマアーク 配給=XcesFilm) 2003.11.28 60分 カラー ワイド 企画・稲山剃二、奥田幸一、監督・下元哲、助監督・高田宝重383. 子母沢寛原作(松竹下加茂) 1931.04.10紋三郎の秀 1931.08.30 刀の中の父1931.10.08 投げ節弥之助 みちのくの巻 1931.10.16 郷土くずれ1931.10.23 384. 欲情義母 息子を喰う (製作=サカエ企画 配給=XcesFilm) 2004.04.30 カラー ワイド 企画・稲山悌二、監督・新田栄、助監督・加藤義一385. 母の居る場所 台風一過(製作=KAERUCAFE 配給=KAERUCAFE) 2004.05.08 37分 カラー 製作総指揮・秋原正俊、制作・松下和義、高山創一、監督・秋原正俊386. 義母の寝室 淫熟のよろめき (製作=加藤映像工房 配給=オーピー映画) 2004.05.22 カラー ワイド 監督・加藤義一、助監督・竹洞哲也、脚本・岡輝男387. お母さんといっしょ 禁じられた母娘関係 (製作=レジェンド・ピクチャーズ 販売元=レジェンド・ピクチャーズ) 2004.07.04 74分 カラー ステレオ プロデューサー・江尻健司、388. 濡恥母 (ミュージアム) 1999.01.21 60分 カラー 製作・塩谷勲、榎本靖、佐波正彦、監督・横山楽居、脚本・樫原辰郎、撮影・佐藤和人389. 親友の恥母 さかり下半身 (製作=ネクストワン 配給=XcesFilm) 2004.08.13 カラー ワイド 企画・稲山悌二、監督・松岡邦彦、助監督・菅沼隆390. エロ義母と発情息子 淫らな家族 (製作=フィルムハウス 配給=XcesFilm) 2004.08.27 カラー ワイド 企画・稲山悌二、プロデューサー・伍代俊介、監督・坂法391. 義母と巨乳 奥までハメて (製作=新東宝映画 配給=新東宝映画) 2004.10.01 カラー ワイド 企画・福俵満、監督・深町章、助監督・佐藤吏、392. 義母同窓会 息子を食べないで (製作=サカエ企画 配給=Xces Film) 2004.12.10 カラー ワイド 企画・稲山剃二、監督・新田栄、助監督・加藤義一393. 変態姉妹母 (製作=東活) 1981.05. 71分 カラー ワイド 監督・吉野優、出演・篠順子、南条碧、杉江良子394. ひばりの母恋ギター (製作=東映(東京撮影所)) 1962.08.12 7巻 2,286m カラー シネマスコープ 企画・亀田耕司、原伸光、監督・佐伯清、脚本・鷹沢和善395. 淫恋母 (GPミュージアム) 2004.03.25 70分 カラー 監督・川野浩司、出演・三東ルシア、白土勝功、仲真リカ、なかみつせいじ396. 痴漢義母 汚された喪服 (製作=新東宝映画、配給=新東宝映画) 2005.03.25 カラー ワイド 企画・福俵満、プロデューサー・黒須功、監督・廣田幹夫397. 母袋暁野 (多摩美術大学造形表現学部映像演劇学科2002年度 卒業制作展) 2003.01.20 Parade GroupB しもきた映画祭 ProgramC なゆたー398. 朋の時間 母たちの季節 (製作=「朋の時間」製作委員会 配給=「朋の時間」上映委員会) 2003.03.08 大阪シネ・ヌーヴォ 123分 カラー ビデオ プロデューサー・貞末麻哉子399. 沖縄県読谷村障害児を守る父母の会 (沖縄県読谷村障害児を守る父母の会) 2003.03.08 朋の時間 母たちの季節 「朋の時間」製作委員会400. 母子草 (製作=松竹(太奏撮影所)) 1942.06.04 白系 13巻 白黒 監督・田坂具隆、脚本・小糸しのぶ、原作・小糸のぶ、撮影・伊佐山三郎401. ねっちり母娘 赤貝の味 (製作=ナベシネマ 配給=オーピー映画) 2003.10.21 60分 カラー ワイド 監督・渡邊元嗣、助監督・小川隆史、脚本・山崎浩治 暇つぶしにyou tube動画をあれこれ見ていたら、偶然、伊丹万作監督の「故郷」1937という映画に遭遇しました。予備知識などまるでない(と思っていた)未知の映画だったのですが、これ幸いとまずは鑑賞しました。実は、ここのところ、最新映画というやつを何本も立て続けに見てきたために少々食アタリ気味というか、「いわゆる最新映画」を見ることに対して行き詰まりを感じていて、そのパサパサに渇いた「得るものなし感」が徒労感となって積みあがり、無性に疲れてしまったということはありました。これ以上、苛立ちが募ってきたら「かなりヤバイことになるぞ」という強迫観念というか遣り切れない不安にさいなまれている感じです。そういうときには、いつもすることなのですが、目先の変わった「古い映画・映像」を見て気持ちを落ち着かせるということをやっています、戦前のサイレント映画や国策映画など、その辺はなんでもいいのですが、古色蒼然たる映像を求めてyou tubeの森を彷徨っていたところ、この伊丹万作の「故郷」に出会ったというわけです。そうそう、「古い映像」というのは、例えば、リュミエール兄弟が世界各国の珍しい風景や風習を撮って観光を見世物みたいにして商売にしようとしたその国のひとつに日本も含まれており、派遣されたフランス人映画技師が原日本人たちを撮って廻った映像というのが何本か残されていてインターネットで見ることができます。例えば、街路を往来する真っ黒に日焼けした背の低い多くの男たち・女たち(着物はだらしなく着崩れ、顔は真っ黒に汚れ、髪はボウボウで、ほとんどみな半裸の状態です)が、据えられたカメラを物珍しそうに何度も振り返る姿を写したフィルムがあって、その顔はどれも照れたような奇妙な薄笑いを浮かべており、抑えられない好奇心でカメラのレンズをわざわざ覗き込んでいくというあの姿にたまらない感銘を受けました。あるいは、戦争直後、多くの日本のやせ細った子供たち(まさか、戦災孤児なんかじゃなかったと思います)が、進駐軍の栄養の行き届いたアメリカ軍人にまとわり付いて口々に「チョコレート、ギブミーしてんか!」と叫びながら必死に異国の軍人に群がりネダっている姿を見ると、屈辱的な浅ましさよりも生きることにどこまでも純粋なその活力に圧倒され、深い感銘を受けるということもあったかもしれません。それらのフィルムに映し出されている日本人の彼らは、誰もがひとしなみにみすぼらしく、薄汚れていて、極貧のなかでその日の食うものにも事欠くありさまのように見えても、それでも薄笑いを絶やすことなく、とんでもない活力に満ちていて、向けられた異国人のカメラのレンズを物珍しそうに覗き込む好奇心だけは溢れかえるほど持っていたという、そういう「熱」に圧倒されたくて、自分は、フィルムのなかに「古色蒼然」を求めていたのだと思います。そして、今回の伊丹万作の「故郷」に出会ったという次第です。いわば「お口直し」を期待して見た映画という感じだったでしょうが、でも、はたして期待したような「お口直し」となり得たかどうかは、大いに「疑問」としなければならなかったかもしれませんが、しかし、「突っ込みどころ満載」という意味でなら、このダレた自分の活性化には大いに役に立ったということはできると思います。ただ、この映画、見ているうちに、どうしてこうも面白くないのだという思いが幾度も萌して、その退屈さは集中を止切らせ、散漫になった気持ちの隙に雑念が入り込んできたのかもしれません。(しかし、この「雑念」のほうが、この映画なんかよりよほど面白かったので、後述しようかとは思っています、お楽しみに!)たぶん、この映画、作品自体の面白味に欠けるため、顔は映画の場面に向けられてはいたものの、メリハリのない緩慢な物語のスジを追うのに疲れ果て、徐々に集中を欠いた意識はいつの間にかどこかにスッ飛んでしまったのだと思います。そりゃあ、なにも東京の大学を出たからって「家業の手伝いくらいするのは当たり前だろ(そもそも東京で職に就けなかったのに、なんで田舎にそれがあると思って帰省してきたのかが理解できません)」など誰が考えても当然のことを、たいそうな「教訓」のようにこれでもかと平然と描くその白々しいストーリーに、われならずとも観客はみな疲れ果ててしまったのだと思います。都会の大学を卒業し帰省した酒屋の娘(夏川静江)が、東京で就職できなかったものが、まして田舎で「大学出」にふさわしい職などあるわけもなく、彼女が期待を寄せていた有力者のコネも失い、かといって家業の酒屋にもなじめずに、ただ悶々鬱々と日を過ごしているという状態です。大学を卒業しても行き場も定まらない厳しい現実に、ただ焦るばかりでどうすることもできない妹は、自分のそうした鬱屈を一向に理解しようとしない兄に対して、内心では「所詮、教養のない田舎者は、せいぜい目先のことばかりに拘って愚かにも先が見通せないのだ」と軽蔑しています。兄は兄で、逼迫した家業の苦境を知っているのに手助けをしようともしない妹に苛立って「身分不相応の教育など、かえって身の毒だ」と決め付けて、互いを罵りあうこの兄妹の軋轢の言葉の数々は、しかし、どれもが実感のないお座なりな説明の域を出ない死んだ言葉にすぎず、仲の良くない兄妹なら世間によくある想定内の凡庸な言葉の応酬でしかない以上、その一連の場面もまた空疎感から免れるわけではありません。家業を手伝おうともしない妹のそうしたダレた生活ぶり(兄・坂東簑助には「そう」見えました)に苛立ち、ことあるごとに叱責せずには居られない兄との衝突を繰り返すうちに、妹のつい口走った抗弁と突っかかるような生意気な態度に激昂した兄は、はずみで妹の頬を張ってしまうということがおこります。そのとき兄は、妹を東京の大学にあげるために田畑を売り払ったことを憤懣やるかたなくナジリ、「こんな役立たずになるくらいなら、なにもお前を大学になんぞにやるんじゃなかった」と悔いて罵ります。打擲を受けたうえに罵倒された妹は、売り言葉に買い言葉で「もう、兄の世話にはならない、家を出る」と捨て台詞を吐いて家を飛び出します。家を出てから一年後、妹は意気消沈して故郷の駅にふたたび降り立ちますが、この場面、都会に出てから彼女がどのように苦労したのかまでは一向に説明されず、演出者の意識と興味は、むしろその先の「怒っている兄と妹がどのようにして和解するか」にすっかり前のめりに入れ込んでしまっているので、妹が経験したかもしれない苦労などには興味を示さず、それどころか「そりゃあ、いわゆる苦労だよ、わかるだろう」みたいに端折り、単なる概念としてしか考えていないことはミエミエで、そういう突き詰めのない「概念」だけのパッチワークのようなツギハギだらけのこうした映画が、はたしてどこまで観客を引き付け感銘を与えることができるのかという疑問に捉われてしまいました。しかし、飛び出して行った先の東京で彼女がどのような辛酸を嘗めたのか、どのような過酷な目に遭遇しなければならなかったのかは、この物語にとっては、そのディテールはとても重大で是非とも説明しておくべきものだったはずです。さしずめ溝口健二なら、都会に出た妹は、やくざな男にすぐに引っかかって騙され、果ては売春までさせられたあげく、ついには悪い病気を背負い込んで鼻が落ち、麻薬にも蝕まれたすえに使い物にならなくなって棄てられ、さらに肺病にかかったうえでやっと性転換して故郷に舞い戻ってきたとかなんとか、そういう「重き履歴」を観客に具体的・重層に的に示すことで、リアリズムは一層の厚みを獲得していくものだと思えば、この伊丹万作作品は「リアリズム」とは別のものを目指していたと思うしかありません。それはこの物語が単に舞台の戯曲だから仕方ないのかと考えたとき、突然あの「雑念」に囚われたのでした。そもそも、それがどこに書いてあったかまでは思い出せなかったものの、市川崑監督(当時は伊丹監督の助監督だったそうです)が伊丹万作の映画を見て「伊丹さんは、シナリオはうまいが、演出は下手だね」と言ったという言葉を思い出したのでした。まさに言い得て妙の、目からウロコが落ちるような至言です、こういうのを透徹した直感というのだなと思いました。しかし、そうは言うものの、この映画を見て一箇所だけ感心した部分がありました。決して家業に馴染もうとしない娘に母親はさびしそうに語り掛けます、「あんたは、東京に行って、すっかり変わってしまったね」と。それは母親が娘に会いに東京の大学に行ったときの思い出です。母親が大学内で娘の姿を見つけて笑顔で合図したとき、そのときの母親の姿が、見るからにみすぼらしく恥ずかしくて母親だとは言えずに、娘は思わず友だちには「あれはうちの婆やよ」と言ったことが聞こえてしまったと、さびしげに母親が娘に語る場面です。しかし、この含蓄に富んだ衝撃的な母の言葉は、その後、イメージを膨らませることもなく、また、どのような演出的な展開を見せるでもなく、気抜けするくらい孤立したままの単なる「いいセリフ」というだけで立ち消えてしまいました。伊丹万作は、この傑出したセリフを強烈な映像で印象づけようとするわけでもなく、この悲憤に満ちた母の言葉に娘がどういう表情をして反応したのかを追うことも・作り上げることもなく、あたかもそこには最初から何もなかったかのように、この「セリフ」を終わらせてしまっています。市川崑監督ならずとも、これは本当に「伊丹さんは、シナリオはうまいが、演出は下手だね」だったのだなと感心しました。そういうことなら、是非ともこの記事の在り所を確かめたいという気持ちが猛烈に沸き起こってきました。そうですか、そうですか。それならば手持ちの資料に当たりますか。最初はまず、岩波書店の「講座・日本映画」から見ていくことにしましょうか。あっ、そうそう、その前に邦画で「故郷」というタイトルのつく映画がどれだけあるか、検索しておきますね。Jmdbによると、1 溝口健二 19232 木村荘十二 19313 伊丹万作 19374 山田洋次 19725 向井 寛 1999の4本がヒットしました。そのうち①岩波書店「講座・日本映画」に掲載されている作品は、溝口健二監督作品 1923伊丹万作監督作品 1937山田洋次監督作品 1972 の3本でした。②田中純一郎の「日本映画発達史」では、溝口健二監督作品 1923山田洋次監督作品 1972 の2本が掲載されていて、③佐藤忠男の「日本映画史」には、山田洋次監督作品 1972 の1本だけが掲載されていました。このように邦画のうちで「故郷」とタイトルされた作品がどれほどあるかとまず調べた理由は、「故郷」というタイトルが、日本人の観念上もっとも親しみやすいテーマ(望郷)に違いないという連想から、それだけに当然膨大な量の同名作品が作られているはずという思い込みがあって、その多くの作品のなかから伊丹作品を特定して検索・チョイスするための利便をあらかじめ考えてしまおうと思ったからでした。しかし、調べてみれば、なんてことはありません、結果は意外に少なくて、まったくもって拍子抜けした感じでしたし、各冊を調べていくうちに、この同じタイトルを持った作品のなかで、映画史からまずは最初に消えていくべく作品の順序みたいなものも、なんだか分かってしまったような感じを受けました。つまり、伊丹万作作品「故郷」が幾つかの映画史本の中から他の作品に先立ってまずはひっそりとその姿を消した過程を実際に見てしまったような。そして、それはその映画自体の持つある種の「欠落」が起因したために。実は、この伊丹万作作品を調査している過程で岩波書店の「講座・日本映画 第3巻」にそのものズバリの記事、「伊丹さんの演出」(佐伯清筆)というのが収録されていることにはずっと以前から気がついてはいました。この小文なら以前にもすでに読んでいることも記憶していますし、その内容のニュアンスというのもなんとなく自分の中に残っていました。そういう意味でなら、自分にとってこの伊丹作品「故郷」に予備知識が皆無だったという部分は訂正しなければなりません。ぼくたちの知っている佐伯清は、多くの高名な仁侠映画を撮った監督として記憶しているのですが、彼は中学を卒業するとすぐに同郷の伊丹万作を頼って彼の門下生として弟子入りしていて、そして師匠が肺結核で死ぬまで師事したというくらいの人だったので、当然、恩ある伊丹監督への敬愛と尊敬の念は、そりゃあただならぬものがあったでしょうから、そういう人の書いた師匠についての論評「伊丹さんの演出」のなかに、まさか伊丹演出をアタマから下手だと腐した市川崑監督の辛辣な直言など掲載されていようはずがない、検索してみたところでどうせ無駄骨になるに違いないという確信から、この論評の調査だけは省きました。しかし、いざ目を通してみれば、すぐにでも見つかるような冒頭のごく近い箇所にその記述はしっかりとありました。それはこんなふうに記されています。《伊丹さんは大変お洒落な人でした。舶来ものの衣服、帽子、靴、そのどれをとっても一流品です。それが似合うかどうかは別のことで、鼻下に髭を生やした伊丹さんの貴族的ともいえる白皙の顔は、哲学者というか、文学者というか、およそ活動屋の世界では珍しい存在でした。無口で鋭い目をして、対象を、または人間を見つめる伊丹さんの顔は、ときに怖いようでさえありました。その証拠に、今日巨匠などと言われている市川崑が、むかし、私のセカンドで伊丹さんについたとき、「俺、いやや、伊丹さん怖い」と言って、僕にこぼしたことがありました。その崑ちゃんが、伊丹さんはシナリオは上だが、演出は下だと言っています。つまり下手糞だと言うわけです。さあ、どうでしょう、兎に角伊丹さんは、我々の世界では異例の紳士でありました。》(講座・日本映画 第3巻157頁下段)ごく素直に読み流しても、とても違和感の残る一文です、師匠・伊丹監督について褒めていることといえば外見のお洒落な身なりについてだけで、肝心の「演出」については持ち上げるどころか(自分の口から語ってはいないものの)、市川崑の言として「伊丹さんの演出は下手糞だ」と言い切ったそのままの言葉を、なんの注釈も否定の言葉も付すことなく掲載しています。自分にはそれが「意地悪さ」とか「悪意」とかに読めてしまって仕方ありませんでした。さらに続く「さあ、どうでしょう」も随分だと思いました。つまり、ここには師匠・伊丹万作を、手放しで一方的に信奉している門下生という視点など微塵もない、それとはまた別の、少し突き放した客観的で辛らつ眼差しの観察者か、同業の批判者しか存在していないように思えてなりません。例えば、「無口で鋭い目をして、対象を、または人間を見つめる伊丹さんの顔は、ときに怖いようでさえありました。」という一文に続いて、セカンドの市川崑がそういう伊丹監督を怖いと言ったとしながらも、すぐにも「伊丹さんの演出は下手糞だ」と続けています。それならあの伊丹監督が演出時にみせていた「無口で鋭い目をして、対象を、または人間を見つめた」あの怖い顔は、いったいなんだったんだ、あたかも真に迫って演出しているかのように見せていたのは、ひたすらスタッフの視線を意識して「巨匠」を演じただけの、ただの薄っぺらな演技・ポーズにすぎなかったのか、そういえば、その少し前に書いてあるあのお洒落な「舶来ものの衣服、帽子、靴、そのどれをとっても一流品」と、「怖いような無口で鋭い目」の一文は等価だと仄めかされていて、伊丹監督の演出など、中身などまるでない人目を意識しただけの、意識過剰のただの見せ掛けのポーズにすぎなかったのだと、どうしてもそう読めてしまって仕方ありませんでした。まさかそこに「揶揄」の気持ちまでは存在しているとは思いませんが、否定の気持ちを真正面から表明することなく、第三者の口を借りて「こういう意見もありますよ」的に真意を隠しながらも巧みに示唆した責任逃れの、いささか屈折した気持ちを抱えた底意地の悪さと、秘められた狡猾さという印象をどうしても拭えませんでした。そうした気持ちで、この佐伯清の論評「伊丹さんの演出」をアタマから読んでいくと、文中のエピソードのなかにも、このタイプの違和感は随所に見出すことができます。まず最初のエピソード、撮影所の食堂でスタッフが談笑していたとき、誰かが「えらいこっちゃで、いまオープンで万さんと稲監が喧嘩しとる!」と息せき切って駆け込んでくるという描写のあとに、こんな描写があります。《「ええ?」と言って、総立ちになった一同の口から突いて出た言葉は「ついでや、殴ってしまえ、稲監を!」「そうや、やったれ! やったれ!」でした。ということは、万さんこと伊丹万作さんは、自分の側の人間で、稲監こと稲垣浩さんは敵側の人間であったということ、伊丹さんは「万さん」と親しまれ、稲垣さんは、「稲監が、稲監が」と、案外嫌われていました。》(講座・日本映画 第3巻158頁上段)結局、この「ご注進」は早とちりのガセだったので、「すぐそのあと、笑って話し合いながら入ってきたお二人の姿を見て、なんや、ということで、ちょんになりましたが、ざっとこんな具合でした」と収束させています。しかし、「この際だから」と、稲垣浩監督の日頃の悪評判をこれでもかと開陳し、さらに「案外嫌われていました」を付け加えるなど、随分じゃないか、これじゃあまるで鬱憤晴らしだと感じました。そう考えると、この「悪評判」だって、仲間内で本当に一般化されたものだったのか、それとも個人的な見解にすぎないものだったのではないか、区別がつきません。それに、この騒動の切っ掛けとなった「ご注進」が、そもそもガセだったわけですから、この「開陳」だって本来は不要の見当違い・場違いな意見表明にすぎず、すぐさま修正か削除の処置を必要としたはずのものでしかなく、ここにも巧みに機を捉えてみせたかすかな「悪意」とか「作為」の気配を感じないわけにはいきませんでした。つづくエピソードは、「新しき土」をアーノルド・ファンクと共同監督したクダリです。それは、こんなふうに始められています。《このあと伊丹さんは乞われてJOへ移り、ドイツの山岳映画の巨匠アーノルド・ファンクとの共同監督「新しき土」の仕事、これが半年以上一年近くの大仕事になり、精神的肉体的に随分と伊丹さんを苦しめたんだと思います。一旦決めてやり始めたことについて、不平不満は一切口に出さない人です、そのことは、先の「忠治売出す」で、何回も同じ演出をやらされながら、ぶつっとも愚痴をこぼされなかったことでもお分かりでしょう。》と。そして、ファンクと伊丹万作のお互い天才肌の強い個性がぶつかりあっても、決して譲り合おうとしない「確執」が描かれています、人間関係が煮詰まり、絡まりあっても、その打開策をみずから講じることのできない伊丹万作は疲れきって、佐伯清にほとんど任せて、実体は仕事を投げ出した状態だったと記されています。この記述で伺われることは、伊丹万作という人の天性の虚弱体質というものはもちろんあったでしょうが、人間関係が一旦こじれると自分から折れて打開策を講じることができない性格の卑弱さ(これを「繊細さ」と表現しても一向にかまいません)が顕著で、事態が収拾できないとなると、さっさと自分の殻に逃げ込んでしまうという負の部分もあったのだなということが分かります。彼が、現象的にみれば「不平不満は一切口に出さなかった人」だったかもしれませんが、逆にいえば「弱みをさらけだして誰に対しても自分から心を開けなかった人見知りで頑なな人」という見方もできるわけで、そのあたりが本当のところだったのでないか、それは、まさに自身が「演出力のない監督である」ことを自認・自覚していた何よりの証拠で、また、それは衣服や容貌など外見を気にするスタイリストと共通するとの認識からは、演出者として劣等感があったからではないかと勘繰りたくなってしまいます。そうしたことのすべてを見てきた身内の人間・佐伯清でなければ表現しえない伊丹万作との微妙な「距離感と確執」がそこにはあったのだと考えてしまいました。三つ目にエピソードは、いよいよ「故郷」の撮影現場での事件が描かれています。アル中気味だった小笠原章二郎(子爵の御曹司と書かれています)という役者が、酔ったまま現場に入ってきて、どうしてもセリフが出てこずに撮影が中断してしまい、これを伊丹監督が激怒したという顛末が書かれている部分です。酒に酔ったまま現場に入り、セリフもつかえて演技ができず撮影を中断させるなど、考えなくとも、役者としてはなんとも弁解しようのない、もってのほかの失態で、伊丹監督が激怒したというのも無理からぬこととは思いますが、佐伯清がこのアル中役者を説明するクダリのなかに気になるひと言が書き込まれているのを発見しました。こんな感じです。《助十に小笠原章二郎、小笠原長生子爵の子息、軽演劇でちょっと売り出していたのを連れてきたわけです。ところがこの人がちょっとアル中気味で、伊丹さんの諧謔精神がなかなか理解できず、少々自棄になったのか、仕事中昼間から酒を飲んでセットに現れるようになりました、私を含め裏方はたびたび彼の傍らに行きますから、このことを早くから気づいていましたが、伊丹さんは彼から離れてキャメラの傍らにおりコンテとか演技に対する注文とかは、私が伊丹さんの意見を彼に伝えるようにしていましたので、その彼に気づいていたかどうか、あるいは知っていて知らぬ振りをしていたのか、私も何度か彼に注意しようと思いましたが、東京からわざわざ京都へ来てもらっている人だし、芝居さえきちんとやってくれるなら、少々のことはしばらく辛抱しよう、いずれ彼自身も気づくであろうと黙っていました。それが、ある日、最悪の事態となって、えらいことになりました。》幾度かのテストを繰り返しているうちに、酔っていたその役者はセリフも出せずにそのまま座り込んでしまいます。《ステージの中はシンとして咳ひとつなく、ただ黙って章二郎さんを見つめるのみ、その間何分くらいあったでしょう、私はチラと伊丹さんを見上げ、章二郎さんに声をかけました。「さあ、もう一度テストをやりましょう!」》そのとき、伊丹監督から「お前は、黙っとれ!!」と、突然怒鳴られたと書かれています。怒鳴られたのは後にも先にもこれが初めてだったと付け加えられてもいました。怒り心頭の伊丹監督は、座り込んでいる役者に歩み寄り顔をぶん殴ってステージから立ち去ったとあります。しかし、そのあとすぐに佐伯清助監督が追って「出すぎた真似をしてすみません」と謝り、走り込んできた小笠原章二郎も平伏して詫びたと記されていました。しかし、なにがこれほどまでに伊丹万作を激怒させたのか、これだけのことじゃないはずという疑問が残りました。だって、「怒鳴られたのは後にも先にもこれが初めてだった」というくらい寛容で通してきた伊丹監督です、役者への指示はすべて助監督が伝えたと書いてあるのですから、まずは見せしめ的に助監督をスタッフの前で叱責したうえで、使えない役者など(幾らでも代りのきく端役です)さっさと交代させてしまえばそれで済むことで、なにもそんなに向きになった逆上しなくともいいじゃないか、という気持ちがいつまでも残りました。それでこんなふうに考えてみました。単に、酔って演技ができなかった役者に激怒したというよりも、彼が日頃から「伊丹さんの諧謔精神がなかなか理解できず、少々自棄になったのか、仕事中昼間から酒を飲んでセットに現れるようになった」ことを知り、侮辱されたと感じた伊丹監督が、彼がセリフにつまった機会を捉えて「激怒」を浴びせたのではないかと考えてみたのですが、やはり、それでも激怒の動機づけとしては、もうひとつ「弱い」と感じ、さらに考えました。そして、こんなふうに考えられないか、というある考えにたどり着きました。撮影もスケジュールの半分を過ぎたあたりで、監督ならこの映画がどう仕上がるのかくらいは、とうに見当がついていて、その鬱積したストレスがちょっとした契機を捉えて暴発したのではないかと。(1937製作=J.O.スタジオ、配給=東宝映画)製作・森田信義、監督・伊丹万作、脚本・伊丹万作、原作・金子洋文、撮影・三木茂、美術・高橋庚子、録音・中大路禎二、照明・上林松太郎、衣裳・橋本忠三郎、小道具・山本保次郎、結髪・都賀かつ、床山・濱田金三、監督補助・毛利正樹、松村四郎、尾崎橘郎、撮影補助・荒木秀三郎、直江隆、音楽・ポリドール・レコード、現像・J・O現像所、製作・ゼーオー・スタヂオ出演・坂東簑助(和田堅太郎)、夏川静江(妹喜多子)、藤間房子(母おとく)、船越復二(弟剛)、五條貴子(歌子)、三木利夫(兄信四郎)、永井柳太郎(人夫八兵衛)、山田好良(県会議員某)、常盤操子(妻)、深見泰三(校長)、石川冷(庄屋)、沢井三郎(村の青年)、丸山定夫(訓導野間彦太郎、父)、高堂國典(深見泰三)1937年5月1日公開・日本劇場 84分(10巻 / 2,294メートル) / 現存版 84分(NFC所蔵)フォーマット : 白黒映画 - スタンダードサイズ(1.37:1) - モノラル録音(発声版トーキー) 最近、映画を立て続けに見ていてよく感じることがあります、そこそこ上手に作られている映画なのに、記憶に止まらずにすぐに忘れてしまうということが度々あって、なんだか戸惑っています、「オレも、そろそろアレかな」と。しかし、実際に当の映画を見てみれば、見たか見ないかくらいはすぐに判断できるので、やっぱ自分がボケているわけじゃないんだなと安堵したり気を取り直したりしているわけですが、しかし、それにしても多くの作品の印象が薄いというのは事実なので、それって、そのまま、いまの作品に強烈なインパクトが欠けているからなのだとか、それに映画のタイトルからして、内容を象徴するような、すぐにも「あれだな」と連想させるだけの絶妙なタイトルというのが少なくなっていて(タイトルと内容のミスマッチ)、責任回避みたいな原タイトル流用という弊害からもたらされたものなのではないかなどと、ぐずぐずと自分のまだらボケをすっかり棚に上げて(やっぱ、そうじゃん!)、タイトルにまで八つ当たりしようというのですから、ほんとにもう我ながら「末期症状」の入り口に足を踏み入れているのかもしれません。すこし前に、旧い友人と酒を酌み交わしながら、そのことについて話したことがありました。しかし、すぐに「そりゃあ、むしろ受け手側の感性の鈍化が原因だわな」と即座にバッサリやられてしまいました。いえいえ、もちろんそれは「ボケ」の話とかじゃなくて、我々の世代のもっている感性というやつが、現代の映画へコミットするだけの取っ掛かりを失ってしまって無力化しているうえに、映画のほうも「ある種の情感」を持った内容の作品がごく少なくなったということもあるかもしれません。「映画」に対する思い入れも現代の感覚とは、少しずつズレが生じているからじゃないかなというのが彼の意見です。いわば「時代遅れ病」とでもいうのでしょうか。ホント、「ばっさり」です。そして彼は、なんの脈絡もなしに突然、ルネ・クレマンの「禁じられた遊び」を語り始めました。そりゃあ、自分だってあの「禁じられた遊び」が映画史に残るほどの重要で素晴らしい作品であるくらいは十分に承知しているつもりですし、そのことに関してはまったく異論もありません。彼と同じように1ミリもたがわず十分に名作だと思っています。しかし、その「名作」の方はいいとしても、この「なんの脈絡もなしに突然に話しはじめた」がずいぶん唐突すぎて、どういう切っ掛けでそうなったかが不明なので、熱く語りはじめている彼には大変申し訳ないのですが、その話の腰を折り、あえて「なぜいま『禁じられた遊び』を?」とその理由を尋ねてみました。しかし、あらたまって聞いてみると、その理由なんて、なんてことありません。wowowのオンデマンドの配信リストの中に、たまたまこの「禁じられた遊び」があったので、だからそれを見たというだけのことでした。そうそう、言い遅れましたが、彼は自分とは違い、いまだ現役で仕事を続けていますので、昼間はそれなりに多忙で映画などのんびり見ている場合じゃないと(彼に言わせると「なんたってこっちは、オタクみたいに遊んでいられる身分じゃないからね」というのが口癖です)、ですので仕事を終えて夕食も済み、そのあとの就寝までの時間を、ネット配信の映画を見るのを楽しみにしているということで、wowowのオンデマンド配信もそのうちのひとつのツールとして活用しているらしいのです、もっぱらパソコンでオンデマンド配信の映画を楽しむという生活スタイルをもっている御仁です。その配信リストに最近「禁じられた遊び」がアップされていたので見たということでした。まあ、いざ聞いてしまえばなんてこともありません。しかし、自分にしてからも映画のテレビ放映を同時的に視聴するということは大変マレで、やはり映画鑑賞はもっぱらネット配信を利用している一人ですが、ただひとつ難を言わせてもらえば(wowowの場合です)、最新映画に比べてクラシックな名作映画の放送枠がとても少ないということがあって、とても残念な思いをしています。まあ、それがwowowの売りであることも十分に承知しているので、思わず彼に「へえ~、wowowで『禁じられた遊び』とは、そりゃまた珍しいね」と思わず彼に同調しました。そんな感じで、その夜の酒宴は、彼が久しぶりに見た「禁じられた遊び」の感銘を熱く語る独壇場となりましたが、しかし、彼のその話、よくよく聞いてみると、「懐かしさ」という部分での感銘の再現(思い起こし)というだけで、なにもリアルな感銘とか、リアルな「賛辞」とかというのとは、またひとつ違うみたいなのです、その微妙な温度差が少し気になったので、彼がひととおり語り終えたタイミングをつかまえて「それで、今回の場合はどう感じたわけ?」とあえて突っ込んで聞いてみました。「それがさ、久しぶりに見てね、変なところばかりが気になって仕方がなかったんだよ」と彼は、意外にも少々うんざりしたような醒めた真顔で話し始めました。まず冒頭、パリの戦火を逃れて避難する群衆(そこにはポーレット一家も含まれています)にドイツ軍の戦闘機が襲い掛かってきて機銃掃射でポーレットの両親が撃たれて死ぬという場面、自分の飼犬のことばかりに気を取られているポーレットは、制止する両親の手を振り切って逃げた犬を追い橋の中央に飛び出していきます、あわてて娘を追った両親は、その場で戦闘機の機銃掃射の狙い撃ちにあって射殺されてしまいます。犬を抱き締めながら、ポーレットは、すでに死んでいる母親の顔を撫ぜながら「ママ、ママ」と問いかけますが、すでに死んでいるので反応などありません。その場面で彼は、「むかしだったらさ、きっとこの場面で泣いたんだろうなと思ったね。死の意味も分からないくらい幼いポーレットがとても哀れでさ」と言い、「でも今回はね」とさらに続けて語りました。この過酷な時代に、いくら幼いからとはいえ、ああした迂闊な行為は家族すべての死につながる危険で切実な重要事なわけなのだから、その戦時下、両親は子供に「死」がどんなものか常日頃しっかりと説いて聞かせておかなくちゃダメだったんじゃないのかな、厳しく叱りつけるくらいにね。それに、あの時代、いくら子どもとはいえ「死」がどういうものか、ドイツ軍が迫ってくるフランス市街の緊張感とか、もしかしたら身近にもリアルな「死」があったかもしれない、そういう状況下で、あのポーレットの無知で無邪気すぎる設定がずいぶん無理があって、作為に満ちた「カマトト」みたいに見えてしまって仕方なかったよ。なんだか「小綺麗でいたいけな可哀そうな少女の視点」をあえて作り上げるために、まわりを、虚偽のリアリズムで飾り立てたみたいな気がしてね。オレたちはいままでテレビ報道なんかで子供を巻き込んだ多くの戦争と、その悲惨な戦禍(無差別爆撃によって手足を失った血まみれになった子供たち)を嫌というほど見せつけられてきて、そのうえでこの「ポーレットの無邪気さ」をあらためて考えると、なんだか机上の空論というか、巧みに組み上げられた「悲劇」のためだけの「設定」に見えてしまって、今回はずいぶんと「苛立たしく腹立たしい」ものを感じてしまったんだよね。そうそう、あの場面で唯一「リアリズム」を感じさせたシーンは、両親を失い一人で道端にたたずんでいたポーレットを、可哀そうに思った行きずりの一家が彼女を荷車に抱え上げたとき、その中年女がポーレットの抱えている犬を見て「それ、もう死んでるよ」とか言って取り上げ、無造作に川に投げ捨てる場面だね。少なくともあれが、いつどこで自分だって死ぬかも分からない極限の戦時下に、人間が当然持つに違いない「ありふれた死」に対して、反射神経を弛緩させ麻痺させてみずからを防御する感覚を鈍化させる庶民の生活の知恵というか、認識のかたちだと、あの部分だけは妙に納得できたくらいかな。シビアな現実に直面したとき、人間は生き延びるために感性を必要なだけ鈍化させて適応してしまえる逞しさを持っている生き物だと。そうやって人間は、あらゆる極限状態を耐えてやり過ごし生き延びてこられたんだと。だけど、「死」を理解できないポーレットは、川に流れ去っていく犬の死骸を追って、このストーリーを展開させ、やがて、死を弄ぶ「墓遊び」にまでストーリーを広げながら、巧みに「駅の雑踏に迷子として呑み込まれる痛切なラスト」にまで引っ張っていくわけだけど、ひとむかし前なら気にも留めなかったその巧みさが、つまり、この「可哀そうなポーレットちゃん」のお話の「組み立て方」がどうにも鼻について仕方なかったんだよ。さらに続けて、彼は、ここに描かれているフランス農民の愚かな狡さとか、事務的にすぎる官憲や意地の悪そうな修道女の冷ややかさとか、「可哀そうな」な迷子のポーレットを呑み込む駅の雑踏が象徴する酷薄な民衆の不自然な描き方などについても語ったのですが、それらはすべて「可哀そうな孤児の物語」を誇張するために人間を歪めて描く必要からそうしたまでのことで、リアリズムとは何の関係もない作為と悪意に満ちた誇張にすぎないと、いささか憤慨気味(そう見えました)に彼は語っていました。あの設定がもし仮に、ポーレットを可哀そうに思う愛情深い善意の農民だったり、温情溢れる官憲だったり、愛情深い修道女だったりしたなら、この物語はもっと違う物語になっていたかもしれないよね、でもそれじゃあ観客を感銘させることはできない・悲しませることはできない、そのために巧みに「脚本」をこねくり回しているうちに、「名作」には仕上がったかもしれないにしても、その無理がたたって随所にほころびができているのが気になって仕方なかったんだよな。ポーレットが「ミシェル! ミシェル!」と泣き叫びながら雑踏の中に消えていくあのラストを盛り上げるためだけに、あきらかり無茶ぶりとしか思えないこの観念の倒錯の必要から、信仰心のあつい敬虔な信者・少年ミシェルを、まるでポーレットに隷従する「墓標盗人」に豹変させる奇妙で強引なストーリーが作られていったのだなと。この倒錯したミシェル像が矛盾して描かれる切っ掛けとなっているシーンは、ポーレット自身が、もはや用無しになった犬の死骸をまるでゴミのように無造作に投げ捨てる場面に込められていると言いました。前半の犬への執拗なこだわりを、後半の死を弄ぶ「墓遊び」につなげるにはとんでもない飛躍がどうしても必要になってしまって、その矛盾した乖離を収束する辻褄合わせのために、ポーレットに、あれほど執着し、取り戻すことにこだわっていた「犬の死骸」をいとも無造作に捨て去るという奇妙な行為をとらさなければならなかったのだと。「悲劇」をでっちあげるために、この現実に悪意ある作為をほどこすこの「捻じ曲げ感」は、ちょうど不自然なまでにいじめ抜かれる「おしんストーリー」(あの冨樫森作品も顕著に「それ」は感じました)のヘドが出るような悪質な嘘(映画の堕落)と同じタイプのものだと。これはつまらない蛇足ですが、今回、自分もかなり冷静にこの作品を改めて見直してみたのですが、ラストのポーレットが駅の雑踏に呑み込まれる場面は、その少し前に修道女がポーレットの首に名札を掛けているシーンがあるので、一時は迷子になったとしてもすぐに連れ戻される可能性もあったことに気が付いたことも付け加えておきますね。まあ、こんな感じで、自分はただ彼の話にほぼ相槌を打つということに終始しただけだったのですが、しかし、この「ただ相槌を打つだけ」という態勢からイメージするような消極的で受け身だったわけではありませんでした。彼の話を聞きながら、自分にもいささか思い当たるフシがあったので、帰宅してさっそく書棚から、まずトリュフォーの「映画の夢 夢の批評」(山田宏一・蓮實重彦訳、たざわ書房1979.401.2刷、276頁、1600円)を取り出しました。その夜、彼が話していることを聞いているうちに、それって、もしかしたらトリュフォーの「受け売りじゃん」という気がしてきたからです。だって、ほら、ヌーヴェル・ヴァーグの初期っていうのは、フランス映画界の大御所にトリュフォーが噛みついたってところから始まったっていうじゃないですか。ただし、その大御所たちが誰々で、彼らのなにが悪くってトリュフォーがあんなにもむきになって噛みついたのかまでは、すっかり忘れているので、ここはいい機会です、パラパラと走り読みしながら、久しぶりにフランス映画史でも勉強してみますか。酔って帰った真夜中に、よりにもよって始めるようなことじゃありませんが。しかし、残念ながら、この本からは該当の記事を発見することはできませんでした。ただ、トリュフォーの書いた「あとがき」には、ヤマダと話し合い、パリで出版した自分の映画評論集「わが人生の映画たち」(1975、フラマリオン社刊)のなかの全5章を三つに分割して逐次日本で刊行しようという計画が合意されたと書いてありました。具体的にいうと、【第1段階】(いま読んでいるこの本です)第1章 大いなる秘密+「批評家は何を夢みるか」(書下ろし)【第2段階】第4章 異邦人たち第5章 ヌーヴェルヴァーグの仲間たち+<日本映画賛歌>「溝口健二、木下恵介、市川崑、中平康」【第3段階】第2章 トーキー時代の映画作家(1)アメリカ映画の監督たち第3章 トーキー時代の映画作家(2)フランス映画の監督たちということで、目指す記事はどうも【第3段階】第3章 トーキー時代の映画作家(2)フランス映画の監督たちのようです。そこには、錚々たる監督名が列記されていて、トリュフォーがこのうちの誰をけなし、誰を持ち上げたのかまでは分かりませんが、そのリストのなかに、確かにルネ・クレマンの名前がありました。それらの監督名は、以下のとおりです。クロード・オータン=ララ、ジャック・ベッケル、ロベール・ブレッソン、ルネ・クレマン、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー、ジャン・コクトー、サッシャ・ギトリ、アルベール・ラモリス、ジャン=ピエール・メルヴィル、マックス・オフュルス、ジャック・タチ、このあとに、さらにこうも書かれていました。「・・・というところまでヤマダと話し合ったのだが、もちろん、これは、まず本書が出版されて成功したらの話である。そのためにも、ぜひ本書が成功してくれることを祈りたい。」なるほど、この本が、はたして「成功」したのか否か(つまり条件を満たして次段階の出版が叶ったのかどうか)までは、調べている時間はもうありません、そんな悠長なことをしていたら、そのうち夜が明けてしまいます。もうこれ以上、この本につきあっている暇はありません、時間切れです。次に、やはりヤマダつながりで「トリュフォーの手紙」平凡社(山田宏一)2012.7.25.1刷、493頁、2400円、を引っ張り出しました。この本、時系列で書かれているので、たいへん探しやすく、ありました、ありました、「・・・と、のっけから総括的、断定的、攻撃的な喧嘩口調だ。『これでいいのか』と体制に、既存の支配勢力に、一気に食って掛かるような勢いだ。」(123頁)という、実に嬉しくなるような牙をむきだした一文が燦然と輝いて、向こうからこちらの目のなかに飛び込んできたじゃないですか。これですよ、これ、不良少年にして怒れる狂犬トリュフォーなら、こうでなくっちゃいけません。噛みつけ噛みつけ、コノヤロー、片っ端からぶっころしちまえってんだよ。いやいや、勝手に興奮している場合じゃありません。その先の一節を読んでみますね、キイワードを見つけて、その前後をこうして広げていくという読み方は、邪道であっても結構有効で合理的な方法です、「早わかり」のためには最適です。「フランス映画の進歩とは、要するに脚本家と脚本の進歩、すなわち文学の名作(アンドレ・ジッドの小説「田園交響楽」、レイモン・ラディゲの小説「肉体の悪魔」等々)を映画化するための大胆な脚色法(それは文学と「等価」の映画的表現形式があるという傲慢な確信に基づいて「原作を裏切らずに、その文学的精神に基づいて創造する」というものである)、そして、ふつう難解とみなされる主題(とくに宗教的な問題にかかわる)にきわめて積極的に敏感に対応し、その(みせかけの)真摯さゆえに大衆が簡単に受け入れてくれることへの絶対的な確信にもとづくものなのである。」なんだ、なんだ、こんな括弧ばかりあちこち挿入した文章なんて、読みにくくって意味が掴めないじゃないか、これじゃあまるでオレの書いたものと同じだっての、いったいお前は、なにを言いたいんだ(それに加えて、どういうヘタレな訳なんだこりゃ)などと鼻白んでいる場合じゃありません。要するに「原作の主題を忠実に生かすようにすれば、失敗ない」といっているのだと思います。原作(の主題)を忠実・完全に脚本に写し取って再現できれば、原作のチカラ(主題)に守られて、映画も大過なく大衆に受け入れてもらえ、成功できるに違いないと、いままで名作といわれた映画は、そういうふうに作られてきたわけだけれども、はたして「それでいいのか」とトリュフォーは言っているのだと思います。「そんなもんは、映画なんかじゃねえや、バーロー」と。(誰彼構わず「噛みつく」トリュフォーだったら、これくらいの言い方がふさわしいかもしれません)そして、そのあとには、こうも書かれています。「そして、これらの大御所の脚本家たちの大胆で真摯な脚本の欺瞞に満ちた美徳を告発し、なで斬りにしてよくできた脚本によるよくできた映画を、ということは戦前からのフランス映画の良質の伝統を受け継ぐ、つまりはフランス映画の主流を、徹底的に批判し、過激に、まさに急進的に作家主義を主張しつつ、ヌーヴェル・ヴァーグを予告する、いわば革命前夜の論文であった。」つまり、脚本をなぞるだけのものではない「映画のための映画」を作るべきだと言いたいわけなのでしょうね。なんだか、こうして文脈を追っていくだけでは、なんだかわけが分からなくなってしまいました。そもそも、「禁じられた遊び」よりも「大人は判ってくれない」が決して優れている作品とは、どうしても思えない「信仰心」を欠いた自分などには、この気負った幼稚な文章の数々が見え透いてしまい、どこまでも「嘘っぽい」ものとしか感じられないから、もうひとつ分からないのかもしれませんが。また旧友と会うことがあったら、今度は言い返してやろうと心に決めました、かれ、きっと逆上すると思います、なにしろヌーヴェル・ヴァーグ大好きの敬虔な信者ですから、カレ。やれやれ(1952)監督・ルネ・クレマン、脚本・ジャン・オーランシュ、ピエール・ボスト、ルネ・クレマン、原作・フランソワ・ボワイエ『Les Jeux inconnus』、製作・ポール・ジョリ、音楽・ナルシソ・イエペス、撮影・ロベール・ジュイヤール、編集・ロジャー・ドワイア、出演・ブリジット・フォッセー(ポーレット)、ジョルジュ・プージュリー(ミシェル・ドレ)、リュシアン・ユベール(ミシェルの父ジョゼフ・ドレ)、シュザンヌ・クールタル(ミシェルの母)、ジャック・マラン(ミシェルの長兄ジョルジュ・ドレ)、ロランス・バディ(ミシェルの姉ベルト・ドレ)、アメデ(ベルトの恋人フランシス・グアール)、ルイ・サンテヴェ(司祭)、ピエール・メロヴェ(ミシェルの次兄レイモン・ドレ)、アンドレ・ワスリー(フランシスの父グアール)、☆☆ ☆この小文を少しずつ書いていたここ1週間にさまざまな事件が起こりました。そのもっとも大きな事件といえば、やはりパリの世界遺産「ノートルダム大聖堂」の消失でしょうか。屋根の部分が大きく炎上し、猛烈な炎に煽られた尖塔が、またたくまに崩れ落ちるというリアルな光景は、あのツインタワービルの崩壊の瞬間を思い出させるほどの惨状を連想させて大きなショックを受けました。記事によると、ノートルダム大聖堂が今の形になるまでには1163年の着工から、さらに200年を要したというのですから、内部の装飾の贅の凝らし方がいかに壮大で華麗なものだったかは、この「かかった時間」からでも想像できると思います、今年が何年であり、引き算が正確にできさえすれば、その加減乗除の法則によって、建築年数などすぐにも算出できるというものです。(できないのかい!?)しかし、世界遺産に指定されたこれほどの建築物をいとも簡単に焼失させてしまうなんて、「いったい管理体制は、どうなってんだ」という怒りと苛立ちにまず最初に捉われたとき、現場に駆け付けたというマクロン・フランス大統領が記者の質問に答えている姿が、テレビの画面に大写しになりました。彼は言いました「世界に呼びかけて大聖堂を再建する」と。えっ~!?と、思わず拍子抜けし、つづいて、「このバカ、アホちゃうんか」と、思わず口走ってしまいました。条件反射的に「不意」に発してしまった生理的嫌悪の雄叫びだったので、もし仮にこの失礼な言葉を不快に思われる方がいらっしゃったとしたらどうぞお許しくを願いたく存じます。ついつい本音が・・・。だって、そうですよね、重要文化財のこれだけの大火災です。まずは「けが人は?」と気遣い、テロの可能性も含めたうえでの故意の放火だったのか(厳戒態勢の緊急手配)、それとも不慮の失火だったのか(捜査)の両面から、それらを想定した防火体制の管理に不備はなかったか(他の文化財の防火管理体制は大丈夫かの緊急確認手配)、それとも人為的なミスだったのか、いや、そもそも最初から「管理」などという金のかかる余計なものなんてやってなかったのではないか(例の仕分け、あの大衆迎合・人民裁判の大いなる恥さらし、日本でもありました。その大罪を犯した仕掛け人がいまでもしゃあしゃあと政治家としてのさばっているのが理解できません)、工事規則なんてものは最初からなくて業者のやりたい放題に任せていて、燃えやすい木製の危険極まりないチープな足場を組んだその近くで、意識の低い工事関係者がタバコか煙の出るものをスパスパやらかして火のついている燃えかすをそのままポイ捨てしたとか、芋でも焼いたりしていなかったかなど工事人のモラルも含めたセキュリティの両面で調査・究明していくと、まずは言明するのが、一国の元首たる者のタシナミだと思うのに(なにも緊急性のない「再建」の話など、誰が考えてもずっとあとでいい話です)、金に取り憑かれた頭の回転も鈍そうなこの呑気な大統領は、言うに事欠いて、開口一番「世界から金を集めて再建しま~す」とかなんとか寄付金を募っている始末ですから、もうなにをかいわんやです。こんなテアイしか一国の元首として据えられないような国民は、まったくもって不運というしかありません。だいたい発想自体が、植民地経営の大国気分が抜けきらない、どこまでも東洋人から富をかすめ取ることしか考えていない「ゴーン」的発想なんだよな。自分の財布と他人の財布の区別がつかず、ショーグンだかシャチョーだか知らないが、日本をナメタ勝手な名前をちゃっかり盗品に付けて澄ましているあのコソ泥のいかさまヤローを最初のうちは庇い立てていたこと(献金の鼻薬が効いていて首を横に振ることがどうしてもできなかったという事情もあったのでしょうが)を極東の島国のわれわれ東洋人はいまだ忘れていませんから。まったくあきれ返ってものが言えません。とにかくサイテーだよ、お前ら。一発そのドタマを張り倒して「ゴ~ン」とでもうたわしたろかい、オンドレ。除夜の鐘じゃねえや、ばかやろー。わたしは言いたい、日本企業からネコババした金でこそこそ買った豪華クルーザー「社長号」に、えげつないリストラで失業に追いやられ、いまも苦しい生活を余儀なくされている元・社員たちの家族を、どうか・どうかその「社長号」とかに招待して乗せてあげてくださいませな。お願いしますよ、拘置所のゴ~ンさん!!もし、ルイ=フェルディナン・セリーヌが生きていたら、「まあ、いずれにしても今回の大聖堂消失は、ずさんな安全管理の欠如か、それとも堕落したフランス社会に神がくだした鉄槌だな」とでも、きっと爽やかな毒を吐くに違いありません。(最初は、「天罰だな」と書いてみたのですが、そこまで言うなよと言われそうなので「鉄槌」に書き直しました。) 前回のブログでドキュメンタリー映画「マーロン・ブランドの肉声」の感想を書いた際、オードリー・ヘップバーンのデビューまでのエピソードを主題の導入部として迷わず使いました。自分的には、この「迷わずに」という選択はごく普通の感覚だったので、そのことについて特に説明することもないと思っていたのですが、しかし、あらためて読み返してみると、やはり、この部分の「唐突感」はまぬがれません。ヘップバーンもブランドも同時期に彗星のように現れ、同じように衝撃的なデビューをはたした稀有なスターという印象が強かったので、2人をつなぐためのことさらな「接続詞」など、ハナから不要と考えていたというのが、説明を端折った主たる理由です。しかも、その生涯と、そして生涯の最後も、ともに、決して平穏だったり幸福だったりしたわけではなかったにしろ、生育したシビアな境遇と環境に精一杯あがらい、その生き難さを、あえて自ら求めて生きた部分は、同じ人間として尊敬に値するものと考え、どうしてもこのふたりの生きざまを並列的に書いてみたかったのだと思います。それらは、ともに、あえて求めなければ、波乱にも不運にも見舞われることもなかったはずのもので、だから一層無残な思いにさせられたのですが、その一方で、(自分もふくめて)そのような困難などあえて求めることなく、無難な場所で平穏に幸福に暮らしている人なら幾らでもいることの理不尽さに反発を感じた部分も確かにありました。しかし、この「マーロン・ブランドの肉声」という作品に出会ったのは、そもそも録画の予約を間違えての偶然(それにしては、ずいぶん不甲斐ない「偶然」ですが)から見ることになった映画なので、それを思えば最初からモチベーションなど不在の不甲斐ない経緯であったことには間違いなく、それについては猛省しているところです。なにしろ、その期間で、意識的に見たまともな作品といえば、ジャ・ジャンクーの「一瞬の夢」1997くらいだったので、いかに自分が、いま現在の同時代映画に嫌気がさし始めていて「現実ばなれ」をおこしているかが分かろうというものです。そんな感じでいたときに、早世した大杉漣の遺作「教誨師」をまだ見ていないことがずっと前から気に掛かっていたので、この機会に見てみることにしました。この映画、終始、拘置所の面会室において、死刑囚たちとの会話のやり取りだけで展開する教誨師のお話です、まあ、異色と言えば異色の作品ですが、「映画なら、もうひとつ、そのさきを見せてほしい」という正直な感想を持ちました。ここには、6人の死刑囚が登場し、日々それぞれに何気ない会話が交わされる場面が延々と続いていくわけですが、しかし、演出にしても観客にしても、緊迫感を欠いたその「何気なさ」に流されてしまうと、そこには単なる「なにものでもない映画」を見てしまうことになるのではないかという危惧を感じました。ここに登場する6人の人間は、かつて(その切っ掛けが不運か凶悪かはともかく)殺人事件を起こし、裁判で死刑判決を受けて拘置所に拘禁され、いつ不意に死刑執行を言い渡されるかも分からない不安な極限状態に身を置いていて、日々「その瞬間」がやってくるのを恐れながら、その恣意的な「確実」をじっと待つしかないぎりぎり日常生活のなかで、日常的行事のひとつとして「教誨師」との面談があり、その「局面」(教誨師との面談)を自分の生き延びる数少ない、いや、もしかするとこれが唯一の突破口=手立てかもしれない「彼」を、いかに取り込み利用できるかと必死になって考えているはずです。自己中心的な若者・高宮(玉置玲央)、おしゃべりな関西の中年女・野口(烏丸せつこ)、お人よしのホームレス・進藤(五頭岳夫)、家族思いで気の弱い父親・小川(小川登)、心を開かない無口な男・鈴木(古舘寛治)、気のいいヤクザの組長・吉田(光石研)。おもねるとか、泣き落すとか、だますとか、脅し付けるとか、奇策としては虚を突いて真情を吐露するとか、あるいは駄弁によって主題をはぐらかし、韜晦をもって相手を篭絡するとか(おっと、これはわがブログの基本方針でした)。一方の教誨師は、「受刑者の心の救済につとめ、彼らが改心できるように導く」という職務の大前提があって(映画ではそう言っていました)、したたかな死刑囚たちが秘める前述の企みとのその乖離のなかで、虚々実々とまではいいませんが、彼らの「命の利害」がかかった土壇場の必死の駆け引き(この次元で、もはやこの設定自体が「軋轢」です)にさらされ、あるいは挑まれたとき、教誨師はどう対応するのか、はたして「受刑者の心の救済に務め、彼らが改心できるように導く」というきれいごとのタテマエだけで対応して課せられた職務が全うできるだろうかというのが、この作品を見ながらずっと考え続けたことでした。そして、作品を見終わったあと、やはり、これは教誨師という仕事を誠実に対応しようとしたひとりの男の困難を描いた映画なのだろうなという最終的な印象を持ちかけたとき、いや、待てよと、自分の中でその印象を拒む思いを払拭できないものがあることにも気が付きました。この教誨師の主人公が為したこの映画で描かれている一連のいきさつを、たとえ「困難」と描かれていたとしても、なにも「失敗」したわけではありません、たとえ、面談したそれぞれの死刑囚たちにやり込められ、なにもコクらなくてもいいような過去まで思わず告白し、恫喝されておびえ、戸惑い、うろたえながらも、この教誨師の主人公は実に立派に、これら不特定な「彼」の死刑執行の時までどうにか間を持たせ、とにかく時間を稼ぎ、死刑台に送ることができたのですから、彼の仕事は「成功」したと言ってもいいのではないかと思えてきたのです。それこそが、死刑囚たちのしたたかな「手練手管」に対する教誨師の精一杯の、そして、計算しつくされたしたたかな「手練手管」だったのではないかと。しかし、この映画自体は残念ながら、そこまで描いていたわけではありませんでした。というか、そういう終わり方はしていませんでした。お守りのように大切に持っていたグラビアページ(水着アイドル)の片隅に書き込まれた死刑囚のメッセージ、それは文字を書けなかった彼が、生れてはじめて書いたメッセージで、「あなたがたのうち、だれがわたしに、つみがあるとせめうるのか」と書かれていて、しかし、それをどのように解釈したらいいのか、呆然として歩み去るその場面の教誨師の表情をどうしても読みとれず、「残念」だけが残ってしまった自分には、判断できようはずもありませんでした。死刑執行に失敗し、心神喪失状態におちいった死刑囚に、彼自身(そもそも自分がなにものであるのか)と彼の犯した「犯罪」を思い出させるために(「心神喪失状態」だと死刑執行は停止されます)、その犯罪を犯さなければならかった無残な「過去」へとたどり、日本の抑圧と差別の爛れた歴史をあからさまにして、国家権力の支配と抑圧のシステムを巧みにあばいた大島渚の「絞死刑」が自分の中に強く刻印されているかぎり、これからもずっと、この手の中途半端に不全な作品には、同意できようはずもありません。(2018)監督・脚本・原案・佐向大、エグゼクティブプロデューサー・大杉漣、狩野洋平、押田興将、プロデューサー・松田広子、撮影・山田達也、照明・玉川直人、録音・整音・山本タカアキ、美術・安藤真人、衣装・宮本茉莉、ヘアメイク・有路涼子、編集・脇本一美、助監督・玉澤恭平、制作・古賀奏一郎、製作会社・TOEKICK☆12、ライブラリーガーデン、オフィス・シロウズ出演・大杉漣(教誨師・佐伯保、少年時代・杉田雷麟)、玉置玲央(高宮真司)、烏丸せつこ(野口今日子)、五頭岳夫(進藤正一)、小川登(小川一)、古舘寛治(鈴木貴裕)、光石研(吉田睦夫)、青木柚(佐伯健一)、藤野大輝(長谷川陽介)、【参考 日本編「著名教誨師」列伝】 by wiki★留岡 幸助(とめおか こうすけ、1864年4月9日(元治元年3月4日) - 1934年(昭和9年)2月5日)は、日本の社会福祉の先駆者で、感化院(現在の児童自立支援施設のこと)教育の実践家。牧師、教誨師。東京家庭学校、北海道家庭学校の創始者として知られる。石井十次、アリス・ペティ・アダムス、山室軍平とともに「岡山四聖人」と呼ばれる。留岡自身は「感化」という呼称や概念を「不遇ゆえに触法に追い込まれてしまった子どもに対する、大人と子どもという力の上下関係を元にした、卑しい意味での慈悲のあらわれ」と嫌っており、自身の事業は「個人の考え方を論も無く押し付けて変えさせる『感化』などではなく、子どもに家族の在り方や人としての愛情を対等の立場から共に論を立てて教え学び合うための『家庭教育』である」としている。<生涯>備中国高梁(現・岡山県高梁市)に生まれる。吉田万吉、トメの子の6人兄妹の次男として生まれ、生後まもなく、留岡家の養子となる。留岡家は、米屋を営んでいた。子供同士の喧嘩で武家の子供を怪我させ、商いに支障が出て、養父から厳しい折檻を受け、家出。高梁にある日本基督組合教会のキリスト教会に逃げ込み、その伝で福西志計子の元に匿われ、さらに福西により岡山市にいた金森通倫の元に保護され、のち18歳で上代知新牧師より正式な洗礼を受ける。 徴兵検査は不合格、1885年(明治18年)同志社英学校別科神学科邦語神学課程に入学。新島襄の教えを受ける。京都での学生時代、徳富蘆花と交友を結ぶ。彼の小説『黒い眼と茶色い眼』の中に登場する「邦語神学の富岡君」は留岡がモデルだといわれる。1888年(明治21年)卒業後、福知山で教会牧師となる。 1891年(明治24年)北海道市来知(いちきしり)の空知集治監の教誨師となる。1894年(明治27年)から1897年(明治30年)にかけてアメリカに留学。コンコルド感化監獄で実習、その後、エルマイラ感化監獄ではブロックウェーに直接指導を受ける。 帰国後、国内でも感化院(家庭学校)の設立のために奔走する。1899年(明治32年)、ようやく資金の目処もつき、巣鴨に土地を購入し、家庭学校を設立。留岡は、また牧会者として霊南坂教会に所属し、「基督教新聞」の編集を行った。 感化院としては、これ以前に1885年に高瀬真卿の東京感化院、その翌年1886年の千葉県仏教各宗寺院連合の千葉感化院がある。前者は神道、後者は仏教精神によるもの。(それ以前にも池上雪江の活動も挙げられる)ただし上述の通り留岡自身は「感化」という概念を嫌い、それとは異なる感化概念の構築を目指したため、それ以前の「感化教育」と家庭学校以降の「感化教育」(家庭教育ないしは児童自立支援教育)を同一のものとして扱うべきかは意見が分かれる。1900年(明治33年)、最初の妻であった夏子と死別。のち高梁時代の伝で順正女学校卒業後、巣鴨家庭学校に就職していた寺尾きく子と結婚。 1914年(大正3年)、北海道上湧別村字社名淵(かみゆうべつむら、あざしゃなぶち)に国有地の払い下げを受けて、家庭学校の分校と農場を開設。1915年(大正4年)11月9日、藍綬褒章を受章(『官報』第993号、大正4年11月23日)。1922年(大正11年)には神奈川の茅ヶ崎にも家庭学校の分校を作るがこちらはまもなく関東大震災で建物が倒壊して、1933年(昭和8年)閉校となる。留岡はこの間、北海道と巣鴨を行き来しながら、二つの学校を指導監督する。 1931年(昭和6年)巣鴨の家庭学校本校で、奉教五十年を祝う感謝の会が開かれ、彼は徳富蘇峰と会談中に脳溢血で倒れる。1933年(昭和8年)にきく子夫人が死去。留岡は家庭学校の名誉校長に就任し、現場から退く。二代目の校長に就任したのは、牧野虎次である。1934年(昭和9年)2月5日、旧友・徳富蘆花の住まいに程近い東京・上祖師谷の自宅で死去。 留岡の死後34年経って北海道家庭学校は、1968年(昭和43年)社会福祉法人の認可を受け、東京の家庭学校から分離、独立した施設となった。 <親族>三男 留岡幸男(内務官僚・警視総監・北海道庁長官)四男 留岡清男(北海道大学教授・北海道家庭学校長)<留岡幸助を扱った作品>『大地の詩 -留岡幸助物語-』2011年4月9日公開の日本映画。留岡幸助を村上弘明が演じる。監督は山田火砂子。<参考文献>同志社大学人文研究所編『留岡幸助著作集』全5巻、同朋舎、1978年高瀬善夫『一路白頭ニ到ル 留岡幸助の生涯』岩波新書、1982年室田保夫『留岡幸助の研究』不二出版、1998年二井仁美『留岡幸助と家庭学校 近代日本感化教育史序説』不二出版、2010年兼田麗子『福祉実践にかけた先駆者たち-留岡幸助と大原孫三郎』藤原書店、2003年倉田和四生『留岡幸助と備中高梁 石井十次・山室軍平・福西志計子との交友関係』吉備人出版、2005年★藤井恵照(ふじい えしょう、1878年〈明治11年〉1月11日 - 1952年〈昭和27年〉12月26日)は 浄土真宗本願寺派僧侶、教誨師(東京監獄〈のちの市ヶ谷刑務所〉の教誨師。更生保護施設の創設に尽力した。刑務教誨事業研究所〈刑務教誨司法保護事業研究所の前身〉の設立・育成もその一つである)。広島県福山市(旧沼隈郡)の正光寺出身。<経歴>(『真宗人名辞典』290頁)1878年(明治11年)広島県福山市の浄土真宗本願寺派正光寺生れ。1900年(明治33年)本願寺大学林(現在の龍谷大学)卒業。1902年(明治35年)京都監獄での教誨実習生に任ぜられ、その後、本願寺派遣の内務省警察監獄学校留学生となる。市谷監獄の教誨師であった河野純孝を訪ね、大きな感化を受ける 1904年(明治37年)台南監獄教誨師事務嘱託に就き、1909年(明治42年)以降、高松(1909年〈明治42年〉)、小菅(1915年〈大正4年〉)、東京(1918年〈大正7年〉)、豊多摩、市谷の監獄や刑務所の教誨師を歴任。1936年(昭和11年)東京保護観察所の保護司。1938年(昭和13年)東京保護観察所の保護司退官。1939年(昭和14年)法務大臣官房保護課事務嘱託(司法保護委員の指導)。1940年(昭和15年)司法大臣表彰。1950年(昭和25年)藍綬褒章受章。この間、保護施設の台南累功舎の創立、高松讃岐修正会と東京の小菅真哉会の整備。1926年(大正15年)、両全会、帝国更新会と和敬会母子寮の創立に当たる(『真宗人名辞典』290頁)。刑務所内の売店の権利を獲得して保護事業の資金にするなどのアイデアマンの一方、自宅官舎の一室を事務所兼施設代わりで母子寮を創始し、逝去するまで家族と共に施設内に住み込むなどこの道に献身した(山下存行『更生保護史の人びと』275-281頁、『教誨百年』下巻 浄土真宗本願寺派本願寺 真宗大谷派本願寺112頁、『龍谷大学論集』242-243頁)。1952年(昭和27年)、東京信濃町両全会において還化。行年77歳(『死刑囚物語』1951年、160頁)。<更生保護施設の創設>a)両全会(現、更生保護法人 両全会) 日本を代表する更生保護施設のひとつ。1917年(大正6年)、東京監獄(後の市ヶ谷刑務所)の教誨師であった藤井恵照により創設された女性のための更生保護施設。女子釈放者のために自分の官舎自室を事務所として解放。収容保護も自室をあてる。更生のための収容保護と指導を始めたのが起源。1926年(昭和元年)に新宿区信濃町に2階建て木造一棟を購入し収容保護施設を開設。家族と共に入居し、1952年(昭和27年)還化まで施設にとどまる。(『教誨百年』下巻 浄土真宗本願寺派本願寺 真宗大谷派本願寺 112-124頁)1998年(平成10年)、現在の渋谷区代々木神園町に新築、移転。b)帝国更新会(現、更生保護法人 更新会) 1926年(大正15年)、「起訴猶予者・執行猶予者の更生保護団体」として大審院検事の宮城長五郎と教誨師の藤井恵照によって、起訴猶予者と執行猶予者を対象に、東京芝区(現港区)田村町に創設。経営責任者。日本刑事政策史としても大書に値する画期的保護事業。1931年(昭和6年)、思想部を併置して、思想事犯者の保護開始。1945年(昭和20年)、西早稲田に本部を統合(『教誨百年』下巻 浄土真宗本願寺派本願寺 真宗大谷派本願寺 124-125頁)。1996年(平成8年)、更生保護事業法施行に伴い「財団法人」から「更生保護法人」に法人名を変更。c)和敬会(現、社会福祉法人 和敬会) 両全会の姉妹団体。1937年(昭和12年)に和敬会母子寮と和敬保育園の創設。刑務所在所中の者の家族に対する保護。d)刑務教誨事業研究所 設立育成。のちに刑務教誨司法保護事業研究所を発足。<信念>保護の裏付けなくして刑務教誨の徹底は期し得ない(『教誨百年』下巻 浄土真宗本願寺派本願寺 真宗大谷派本願寺120頁)。<その他>両派本願寺は何かにつけ、ややもすると対立的傾向にあったとみなされるなかにあって、刑務教誨に関する限り、同心一体の姿で事に当たり、業績を上げたことも、同氏の宗我を離れた政治的手腕によるものである(『教誨百年』下巻 浄土真宗本願寺派本願寺 真宗大谷派本願寺 120頁)。<著作>『死刑囚物語』(百華苑)、月刊誌「刑務教誨」発行★本多まつ江(ほんだ まつえ、1889年(明治22年)12月25日 - 1969年(昭和44年)4月26日。教師であり、僧侶夫人、司法保護司、教誨師(名古屋拘置所の教誨師。晩年は『死刑囚の母』と讃えられた)。旧姓は赤羽。<来歴>長野県東筑摩郡神林村字下神(現・松本市)に赤羽吉弥の五女として誕生する。神林尋常小学校卒業。長野県立松本高等女学校を卒業したのち、東京九段の和洋女子専門学校(現和洋九段女子中学校・高等学校)に進学。卒業後は、市立松本女子職業学校、新潟県立長岡高等女学校経て、埼玉県立久喜高等女学校に奉職。久喜高女時代は、国立療養所多磨全生園で、見習い看護婦として勤労奉仕をしている。 川島芳子の養父で、同郷の川島浪速に請われ、1916年(大正5年)4月に芳子の家庭教師となる。当時、東京・赤羽(現在の十条あたり)にあった川島邸に、まつ江は住み込みで芳子の教育にあたった。家庭教師を始めた頃、芳子は、豊島師範附属小学校に入学している。 1921年(大正10年)川島一家が東京の家を引き払い、浪速の故郷である信州松本に転居した年の3月、まつ江は名古屋市中村区岩塚町「林高寺」の住職・本多恵孝と結婚。本多まつ江となる。しかし、挙式後1ヶ月した頃にアメリカのコロンビア大学に単身留学をし、3年後の1924年(大正13年)に帰国するまで、夫とは別居生活をする。 1933年(昭和8年)「大日本連合女子青年団満州視察団員」として中国大陸へ渡り、芳子と再会している。日中戦争の間は、アジアからの留学生の援助をしていた。1938年(昭和13年)司法保護司を委嘱される。 1960年(昭和35年)名古屋拘置所の教誨師となり、晩年は『死刑囚の母』として讃えられた。癌性腹膜炎のため79歳で逝去。 <人物とエピソード>川島芳子に対し、利害関係なく愛情を注いだ数少ない人物である。芳子からは『赤羽のお母様』と呼ばれて親しまれ、芳子が甘えられる数少ない人物であった。利発な芳子のことを考え、単なる家庭教師には終わりたくない気持ちもあり、まつ江は謝金を断ったという。芳子は食事の時、まつ江の好物が膳に乗っていると、「わたし、これ嫌いだから赤羽のお母様召し上がって」と言って押し付けたという。芳子は何でも気のつく優しい子供だったそうが、ひねくれた愛情を見せる子だったのであろう。まつ江は、当時にしてはインテリな女性であり、また国際的視野を持つ人物と思われる。結婚直後に3年間の留学生活に入るという、行動力の裏には、僧侶である夫の絶大な信頼関係があったからであり、その信頼関係は終生変わらなかったという。1933年(昭和8年)の再会の時は、芳子は事前にまつ江に手紙を出し、「久しぶりにお母様に会へると思ふと、飛びあがりたくなるようにうれしゅうございます。お出での時には、栄泉堂の最中と甘納豆をドッサリ買って来てね」と書いている。戦後、逮捕された芳子の獄中からの書簡の中に、「このわたしが死んだと聞いて、悲哀の涙にかきくれ、心から歎いて下さるのは、赤羽のお母様だらう」という、赤羽まつ江に関する記述がある。蒋介石夫人の宋美齢とは、コロンビア大学で同じ留学生クラブだった。芳子が戦後、軍事裁判で漢奸として処させると知るや、芳子の助命活動を始める。まずは松本の浅間温泉にいた芳子の養父・川島浪速を訪ね、散在している松本高女の卒業生を訪ね、東奔西走ののち、3千名以上の署名を集めた。その趣旨は「芳子はすでに日本人であるから、漢奸として扱うべきではない」というものだった。食糧難、交通難の中、親戚友人から寄せられた資金で上京。長年親交のある大妻コタカを訪ねて落ち着くと、政界の各方面に足を運んで援助を要請した。まず社会党の松岡駒吉、長野・愛知県選出の国会議員、川島浪速と懇意の頭山満の三男・頭山秀三、GHQの幹部などに再三訪問した。しかし、多大な協力によりいよいよ北京へ飛ぶ段取りがついた時、ラジオ放送で芳子の処刑を聞いて、精根尽き果てたまつ江は卒倒したという。<栄典・表彰>1962年(昭和37年)11月 日本宗教連盟理事長より表彰1966年(昭和41年)7月 名古屋矯正管区長により感謝状授与1969年(昭和44年)4月26日 勲六等瑞宝章<関連文献>本多まつ江顕彰会『松風の跡』本多まつ江顕彰会(非売品)1971年渡辺龍策『川島芳子 その生涯 見果てぬ滄海』番町書房 1972年(単行本)渡辺龍策『川島芳子 その生涯 見果てぬ滄海(うみ)』徳間文庫1985年上坂冬子『男装の麗人・川島芳子伝』文藝春秋1984年(単行本)上坂冬子『男装の麗人・川島芳子伝』文春文庫1988年 上坂冬子『女たちが経験したこと 昭和女性史三部作』中央公論新社(新版)2000年★田嶋 隆純(たじま りゅうじゅん、1892年〈明治25年〉1月9日 - 1957年〈昭和32年〉7月24日)は、チベット語に訳された仏教文献の精査解読とそれに基づくチベット訳と漢訳の仏典対照研究の先駆けとなった仏教学者。大正大学教授。真言宗豊山派大僧正。教誨師(花山信勝の後を受けて巣鴨プリズンの教誨師になる。『代受苦』〈地蔵菩薩の身代りの徳〉の活動が多くの戦犯者から感謝され、『巣鴨の父』と慕われた)。大正末期、日本におけるチベット語の先駆者河口慧海に師事しチベット語を修得。昭和初期にフランスに渡りソルボンヌ大学に留学。チベット訳の『大日経』や曼荼羅の研究に学績を残した。 また大戦後、花山信勝の後を受けて巣鴨拘置所の教誨師となり、刑場に臨む戦犯に寄り添い処刑に立ち会うとともにBC級戦犯の助命減刑嘆願にも奔走した。その「代受苦」(地蔵菩薩の身代りの徳)の活動が多くの戦犯から感謝され、「巣鴨の父」と慕われた。 田嶋が出版に尽力した『世紀の遺書』(1953、巣鴨遺書編纂会)は大きな反響を呼び、その益金の一部によって東京駅前広場(丸の内南口)に「愛(アガペ)の像」が建てられ、巣鴨で処刑された戦犯らの平和への想いの象徴となった。「愛の像」のなかには本書が納められた。 <経歴>1892年(明治25年)1月9日、栃木県下都賀郡(現在の栃木県栃木市都賀地域)で農家の四男に生れ、13歳の時、栃木市満福寺(当時、新義真言宗智山派)の長澤泰純のもとに入室。生来頭脳明晰で、常用経典の読誦や、弘法大師の主著『十巻章』や漢籍の素読に目を見張るものがあった。14歳の時、永見快賢(後の護国寺貫首)に随い得度。 1911年(明治44年)上京し、護国寺の豊山中学(現・日本大学豊山中学校・高等学校)・豊山派尋常学院に学ぶ。豊山中学を卒業後、護国寺の援護のもと、1919年(大正8年)豊山大学(現・大正大学)本科を卒業。同時に研究科(今の大学院)に進み、教授・荻原雲来の薦めにより河口慧海に師事しチベット語並びにチベット訳仏教文献を学び、『大日経』のチベット訳と漢訳の対照研究に励んだ。 1922年(大正11年)研究科を修了。その時の論文が後に出版される『蔵漢対訳大日経住心品』である。同年、豊山大学講師。1925年(大正14年)、満福寺の新師・長澤泰隆の長女フミと結婚。1927年(昭和2年)、大正大学助教授。1928年(昭和3年)、同大学教授。折しも『中外日報』紙上で、師の河口慧海が高野山大学教授・栂尾祥雲の『曼荼羅の研究』(1927、高野山大学出版部)の問題点を指摘。師の後を受け論拠を挙げて批評したところ、栂尾も田嶋の『蔵漢対訳大日経住心品』を厳しく批判。お互いに譲らず真摯な学術論争が半年続いた。 1931年(昭和6年)ソルボンヌ大学に留学。1934年(昭和9年)3月、弘法大師1100年御遠忌を機に、パリ東洋語学校のポール・ドミエヴィルやハーバード大学のセルゲイ・エリセーエフなどの協力のもと、ギメ東洋美術館新講堂で記念講演を行い、続いて「弘法大師の教義と両部曼荼羅」と題しての連続講演を行った。これを縁に東洋学のシルヴァン・レヴィやアルフレッド・フーシェと知遇を得、その指導のもとで仏文の『大日経の研究』を上梓し学位論文とした。4年10ヵ月の留学中、折からパリに滞在していた『放浪記』の林芙美子や考古学者の森本六爾たちとの交遊もあった。 1936年(昭和11年)帰国し、師・長澤泰隆の後継として高平寺(現・栃木市岩船地域)に入る。1941年(昭和16年)、宗教関係者や代議士らとともに渡米し、日米開戦回避と平和維持をアメリカ各地で訴える。1942年(昭和17年)、東京江戸川区小岩の正真寺(真言宗豊山派)に移る。戦後、1945年(昭和20年)から、大正大学文学部長・図書館長・仏教学部長・真言宗研究室主任などを歴任。1949年(昭和24年)、花山信勝の後を受け巣鴨拘置所の教誨師となる。大学の講義中、突然会いに来たアメリカ兵から受諾を要請されたという。 1951年(昭和26年)教誨活動・助命減刑嘆願・戦犯遺族との連絡・世界宗教者会議への提訴・国連軍への輸血協力等々による過労のため巣鴨拘置所で倒れ、以後亡くなるまで肢体言語不自由の闘病生活となる。 1952年(昭和27年)巣鴨拘置所において田嶋の還暦祝賀会が行われ、「教誨師の還暦を祝う会が獄舎で行われたことがあるだろうか」「日夜、死と対決して生きる苦しみに悶える死刑の友を、生きる喜びに導いた 菩薩の変化(へんげ) と思われる最高の師」といわれた。 1953年(昭和28年)田嶋の尽力により、戦犯と家族の遺書・遺稿701篇を集めた『世紀の遺書』が刊行され、その益金によって、1955年(昭和30年)、東京駅丸の内南口広場に「愛(アガペ)の像」が建てられた。「愛」の字を田嶋が揮毫している。 1957年(昭和32年)65歳で遷化。葬儀には旧戦犯やその家族、巣鴨プリズン関係者らが多く参列した。 弟子に柴崎徳純(栃木市太山寺)、釈昭純(東京葛飾区普賢寺、葛飾区議会議員)、義弟に長澤實導(仏教学者、大正大学教授、智山教化研究所初代所長、文博、真言宗智山派満福寺第29世)がいる。 <関連資料> 田嶋隆純『蔵漢対訳 大日経住心品』新興社(1927年)田嶋隆純『仏文 両部曼荼羅及密教教理』田嶋隆純遺著刊行会(1959年)。新版1984年『世紀の遺書』巣鴨遺書編纂会(1953年)大岡昇平『ながい旅』新潮社(1982年)。新潮文庫、角川文庫で再刊田嶋信雄『田嶋隆純の生涯』隆純地蔵尊奉賛会(正真寺、2006年)。著者は後任の住職★花山 信勝(はなやま しんしょう、1898年(明治31年)12月3日 - 1995年(平成7年)3月20日)は、日本の仏教学者、浄土真宗本願寺派の僧侶。東京大学名誉教授。教誨師(1946年〈昭和21年〉2月から巣鴨プリズンの教誨師となり、東條英機ら7名のA級戦犯の処刑に立ち会った)。<概要>石川県金沢市生まれ。第四高等学校卒、東京帝国大学印度哲学科卒。大学院で日本仏教史を専攻し、東洋大学教授、東京大学文学部教授、國學院大學教授等を歴任する。1935年(昭和10年)、『聖徳太子御製法華経義疏の研究』で学士院恩賜賞を受賞。 1946年(昭和21年)2月から巣鴨拘置所の教誨師となり、東條英機ら七人のA級戦犯の処刑に立ち会い、その時の模様を『平和の発見-巣鴨の生と死の記録』に記した。東條は、「米国憲兵と一緒に合掌するのも仏縁だね」と笑っていた、と語った。なお被告の重光葵の手記『巣鴨日記』には、長期間の収監で精神的に消耗していた被告たちにとって、花山との接触はひとつの救いでもあった、という旨の記述がある。(『文藝春秋』1952年(昭和27年)8月号掲載、翌年に文藝春秋新社刊) <家族>長男の花山勝道は、金沢で浄土真宗本願寺派「宗林寺」の住職を務めた。 次男の花山勝友は仏教学者、武蔵野女子大学副学長を務めたが、父の後を追う形で同じ年に病没した。なお次男勝友や門下生達との座談会での回想が、『東方学回想 Ⅵ 学問の思い出〈2〉』(刀水書房、2000年)に収録。 <著書> 『聖徳太子御製法華義疏の研究』 東洋文庫, 1933『聖徳太子の仏教』 仏教年鑑社, 1936『聖徳太子と日本文化』 日本文化協会、1937『日本の仏教 内閣印刷局』(国体の本義解説叢書), 1942『憲法十七条の精神』 厚徳書院, 1943『日本仏教』 三省堂, 1944『勝鬘経義疏の上宮王撰に関する研究』 岩波書店, 1944『白道に生きて』 北方出版社, 1948 (顕真叢書 ; 1)『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』 朝日新聞社, 1949 『「巣鴨の生と死 ある教誨師の記録」』 中公文庫, 1995『万世を照らすもの-仏教学徒の記録』 酣灯社, 1949『永遠への道 わが八十年の生涯』 日本工業新聞社, 1982『聖徳太子と憲法十七条』 大蔵出版, 1982『太平洋戦争とお念仏』 国際真宗学会, 1986<訳註・校訂> 『法華義疏 聖徳太子』 岩波文庫上下, 1931-33 改版 1975『往生要集 源信』 小山書店,1937 岩波文庫(旧版),1942、復刊1988、復刻版一穂社,2004 『勝鬘経義疏 聖徳太子』 岩波文庫, 1948、復刊1988ほか/改訂新版吉川弘文館 1977『維摩経義疏 聖徳太子』 百華苑, 1971 改訂版 1980『上宮聖徳法王帝説』 狩谷エキ斎(棭齋)證註、岩波文庫(共注),1941 復刊1988★加賀尾 秀忍(かがお しゅうにん、1901年1月5日 - 1977年5月14日)は、昭和期に活躍した真言宗の僧侶。フィリピン・モンテンルパの戦犯刑務所で教誨師として尽力したので『モンテンルパの父』と慕われた。<概要>1901年1月5日、岡山県真庭郡落合町の極楽寺に生まれる。落合尋常小学校を卒業後、おなじ落合にある木山寺に入り、住職の高藤秀本に師事し漢籍・経文を習った。1929年、真言宗京都大学を卒業して真言宗の僧侶となる。宝蔵院の住職をつとめたのち、高野山東京別院の副主監となる。 1949年11月4日、フィリピン・マニラ郊外のモンテンルパにある、当時、戦犯刑務所だったニュー・ビリビット刑務所に、病気のため早期帰国した安達本識(あだち・ほんじき)教誨師の後任として赴任する。当初、6ヶ月の任期であったが、自ら無給で残ることを決め、死刑判決を受けて、処刑の瀬戸際に立つ日本人戦犯の助命活動にたずさわる。ダグラス・マッカーサー元帥などの、当時の日本の指導者たちに助命嘆願書を提出するも、1952年1月19日には、明らかに無実の者もいる日本人BC級戦犯14名の処刑に立ち会う。3月半ばのある日、戦犯たちと会議をもち日本への世論喚起のため、歌の作成を提案する。こうして完成した歌は、死刑囚である代田銀太郎作詞で、同じく死刑囚の伊藤正康作曲の『モンテンルパの歌』と題がつけられて日本へ郵送された。 そして、この歌はNHKラジオ「陽気な喫茶店」で紹介され、たまたまゲストとして出演していた歌手の渡辺はま子の目にとまった。そして当時、鎌倉にあった自宅に帰ると、すぐにピアノで試し弾きをやってみて、望郷と帰国の念に駆られる感じ漂う哀しいリズムの歌であることを知った。そして、自分がかつて、戦争協力者として台湾や中国大陸各地の前線や基地、軍の病院を歌で慰問して巡っていた頃の自分を責め、生涯をかけてこの歌を歌っていこうと心に決めると、さっそく曲の手直しと編曲にとりかかった。具体的には当初、5番から成っていたものを2番削除して3番構成とした。そして曲名も『あゝモンテンルパの夜は更けて』と改められて発表された。レコードも宇津美清とのデュエットで吹き込んだものがビクターレコードから発売され、20万枚の売り上げを記録するなど大ヒットする。当時のローマ法王のピウス12世に協力要請を行い、フィリピン大統領へのメッセージが実現し、フィリピン大統領との会見が実現する。1953年5月、当時のフィリピン大統領エルピディオ・キリノと面会した。そして、このときに『あゝモンテンルパの夜は更けて』のオルゴールをプレゼントする。大戦末期に行われたマニラ市街戦で、妻や子を日本軍に殺害されていたキリノ大統領も、オルゴールの中の曲の作詞作曲が2人の日本人戦犯であることを加賀尾氏より知る。そして、会見から1ヶ月後の6月27日、日本人戦犯の釈放が決定される。こうして1953年7月7日、フィリピン独立記念日の日、晴れて日本人戦犯の全員特赦と帰国が実現し、7月15日、処刑された戦犯兵士の遺骨17柱と、戦犯としてニュー・ビリビッド刑務所に収容されていた108名の元日本人兵士同胞とともに、現地時間の午後2時過ぎに帰還船「白山丸」(日本郵船所属の貨客船)でマニラを出港し、7日後の7月22日朝、横浜港大桟橋着で日本に帰国する。 その後、日本国内で僧侶として活躍しながら、『13階段と平和』と題して講演活動を行う。1973年には、日比親善に功労があったとして、勲三等旭日中綬章を授与された。 1977年5月5日朝、岡山県井原市の自坊で3度目の脳出血を発症して倒れる。倉敷市の倉敷中央病院に入院するも、5月11日重篤に陥り、3日後の5月14日午前12時22分、死去する、享年76歳。 <演じた人物>テレビドラマ・・・小日向文世『戦場のメロディ 〜108人の日本軍兵士の命を救った奇跡の歌〜』(2009年9月12日、フジテレビ)薬師丸ひろ子演じる渡辺はま子が主人公となっているものの、処刑立会いのシーンや歌作り提案の場面など、加賀尾秀忍が登場する重要な場面も少なからずある。<著作>モンテンルパに祈る 1953年 富士書苑★道城 重太郎(どうじょう じゅうたろう、1905年(明治38年)5月26日 - 1980年(昭和55年)2月6日)は、牧師、日本イエス・キリスト教団の第2代目委員長。教誨師(神戸刑務所教誨師)。<生涯・初期>福岡県京都郡蓑島村に生まれる。1923年(大正12年)に日本メソジスト教会行橋教会で求道を始め、梶原景虎牧師の指導を受ける。 <入信・献身>伝道会で沢村五郎の説教を聞いて新生を体験する。1923年11月フィリップ宣教師より洗礼を受ける。1925年(大正14年)日本伝道隊御影聖書学舎(現、関西聖書神学校)に入学し、神学を学ぶ。 <日本伝道隊牧師>1926年に神学校を卒業して岡山独立教会へ赴任する。1930年(昭和5年)に小林静英と結婚する。1935年(昭和10年)正教師の按手礼を受ける。翌年、明石人丸教会に赴任する。 <日本イエス・キリスト教団>1951年(昭和26年)に日本イエス・キリスト教団が創設される時に教団の設立に参与する。1958年(昭和33年)まで教団の副委員長として、小島伊助委員長を補佐する。1958年より日本イエス・キリスト教団第2代目委員長として、1965年(昭和40年)まで教団を指導した。 1961年(昭和36年)には日本イエス・キリスト教団代表として新改訳聖書刊行協力会に加わる。 神戸刑務所教誨師、関西聖書神学校の講師としても活躍した。1980年(昭和55年)に現職のまま死去する。 <参考文献>『日本キリスト教歴史大辞典』教文館、1988年★大谷 光照(おおたに こうしょう、1911年(明治44年)11月1日 - 2002年(平成14年)6月14日)は、日本の宗教家で浄土真宗本願寺派第23世宗主、伯爵。諱は光照。法名は勝如上人。院号は信誓院。 昭和天皇の従兄弟にあたる。教誨師。<経歴>第22世法主大谷光瑞(鏡如上人)の実弟大谷光明 (浄如上人)の長男として京都府京都市で誕生した。母は九条道孝の七女紝子(きぬこ)、紝子の姉は大正天皇皇后(貞明皇后)の節子。 1914年(大正3年)、西本願寺の疑獄事件に端を発して光瑞が法主の座を引退、弟の光明に継承権があったが、光瑞が遠慮を求めて光明も就任を辞退した。新々門であった光照は当時4歳であったため、大谷家側近(近松尊定、六雄澤慶など)が4代にわたり管長代理を務めた。1927年(昭和2年)に得度して第23世法主を継職。以後50年の間、本願寺派教団の陣頭指揮にあたった。 その後、旧制第一高等学校を経て1935年(昭和10年)に東京帝国大学文学部東洋史学科卒業。1937年(昭和12年)4月、徳大寺実厚長女の嬉子と結婚。1977年(昭和52年)、門主を引退し前門となる。 <戦前戦中の活動> 青年法主光照は、昭和の戦時下の教団を指導した。1933年(昭和8年)には声明集の改定に取り組むなどする一方で、1941年(昭和16年)に宗制を改定、従来神祇不拝を旨としていた宗風を放棄し、「王法為本ノ宗風ヲ顕揚ス是レ立教開宗ノ本源ナリ」と宣言。国家神道と結びついた「戦時教学」を推進した。 特に、親鸞の著作に皇室不敬の箇所があるとして該当部分を削除するよう命じたり(聖典削除問題)、門信徒に戦争協力を促す消息(声明)を発して戦時体制を後押しした。戦時中に発布された消息では、天皇のため命を捧げよと次のように説いている。 「凡そ皇国に生を受けしもの誰か天恩に浴せざらん、恩を知り徳に報ゆるは仏祖の垂訓にしてまたこれ祖先の遺風なり、各々その業務を格守し奉公の誠を尽くさばやがて忠君の本義に相契ふべし、殊に国家の事変に際し進んで身命を鋒鏑におとし一死君国に殉ぜんは誠に義勇の極みと謂つべし、一家同族の人々にはさこそ哀悼の悲しみ深かるべしと覚ゆれども畏くも上聞に達し代々に伝はる忠節の誉を喜び、いやましに報國の務にいそしみ其の遺志を完うせらるべく候」 光照自身も度々軍隊慰問を行い、南京攻略戦直後には自ら南京に入城し犠牲者追弔会を行った。教団も戦争協力の名目で大量の戦時国債を購入し、戦後の教団財政の危機を招くこととなった。今日、「戦時教学」を推し進め、その指導的立場にあった光照らの戦争責任を問う声もある。 西本願寺は敗戦後GHQの指導のもとで、宗制の改革を行い、宗主の権限を縮小し、西本願寺の象徴的存在へと変更となる。1945年(昭和20年)まで、法主または門跡と呼称されたが、1946年(昭和21年)より、門主と改称される。 <戦後の主な活動>1946年(昭和21年)管長制廃止などの教団制度改革を実施1948年(昭和23年)蓮如上人450回遠忌法要1961年(昭和36年)親鸞聖人700回大遠忌法要1973年(昭和48年)親鸞聖人誕生800年・立教開宗750年慶讃法要<主な職歴>1952年(昭和27年)第2回世界仏教徒会議名誉総裁1955年(昭和30年)全日本仏教会会長1956年(昭和31年)全国教誨師連盟総裁1961年(昭和36年)全日本仏教会会長(2回目)1962年(昭和37年)財団法人全国教誨師連盟総裁1969年(昭和44年)全日本仏教会会長(3回目)1970年(昭和45年)世界宗教者平和会議京都大会名誉総裁<人物>門主在任中には、正信偈の改譜をはじめ、法式規範などを着々と整備していったことからも伺えるように、儀式儀礼には非常に厳格な面があった。趣味は切手収集、テニス、ゴルフ好きでも知られた。<著書>『唐代の仏教儀礼』(有光社、1937年)『「法縁」抄 : 勝如上人の九十年』(本願寺出版社、2002年7月★古川 泰龍(ふるかわ たいりゅう、1920年8月23日 - 2000年8月25日)は、日本の真言宗の僧侶。教誨師(福岡刑務所の死刑囚教誨師。死刑囚の冤罪撤回運動に尽力した)。 <生涯>真言宗の僧侶の子として、佐賀県に生まれる。 高野山専修学院を卒業し、佐賀県藤津郡塩田町の真言宗常在寺の住職となる。1952年より福岡刑務所で死刑囚教誨師を務める。福岡事件の2人の死刑囚と面会する。現場に赴き検証を進め冤罪と判断する。1961年より彼らの無実を訴えるため本格的に助命運動をはじめる。1975年に、完全無罪を主張している1人は、死刑執行となり、実行したが防衛行為であると主張している1人については、無期懲役となり、1989年に仮釈放となるが、古川泰龍は身元引受人となる。40年近く、福岡事件の真相を求める運動で、先頭に立つ。真相究明書『白と黒のあいだ』を、河出書房から出版する。 熊本県玉名市の立願寺に転居。1964年1月2日、冤罪救済支援のため訪ねてきた自称「弁護士」を、当時11歳の娘が強盗殺人指名手配犯の西口彰と見破り、警察に通報、翌日の逮捕に協力する(西口彰事件)。このいきさつが、フジテレビで1991年にドラマ化される(amazon.co.jp実録犯罪史・恐怖の24時間~連続殺人鬼~西口彰の最後)。このドラマでは、古川泰龍がモデルの人物を河原崎長一郎が演じる。逮捕後も、西口彰と手紙のやりとりを行い、書物の差し入れもする。 1965年、ベトナム戦争の泥沼化で、アメリカの戦争介入に反対する市民運動が世界各地に起こるが、「ベトナムに平和を!市民連合」の玉名の運動、「玉名ベ平連」の結成に家族で参加する(旧「ベ平連」運動の情報ページ-元「玉名ベ平連」の古川泰龍さん、8月25日に逝去)。1969年4月のベ平連九州地区懇談会の場所を提供するなどする。 1969年、「神戸シュバイツァーの会」会長の牧師の向井正からアルベルト・シュヴァイツァーの遺髪を授かり、1973年、「生命山シュバイツァー寺」を開山する。1986年に、この寺で生活したイタリア人神父のフランコ・ソットコルノラとの話で、カトリックの別院を設ける(与えられた死-シュバイツァー寺住職・古川泰龍、福岡事件再審請求を支える古川龍樹・龍桃さんに聞く)。 1984年、「日中戦争強制労働殉難者の慰霊塔」を建立する。中国に行き、南京大虐殺記念館での犠牲者の慰霊法要を行う(中華人民共和国駐日大使館-日本の友人が南京大虐殺犠牲者の慰霊法要)。 仏教の僧侶として、キリスト教関係者との対話も重視している。ローマ教皇のヨハネ・パウロ2世とも3回面会している(福岡事件再審請求を支える古川龍樹・龍桃さんに聞く)。 2000年8月25日に死去。80歳没。 <著作>『福岡、中国人闇ブローカー殺し殺人請負強盗殺人事件真相究明書 - 九千万人のなかの孤独』(コスモス社、1963年→花伝社、2011年)『白と黒とのあいだ - 福岡誤殺事件』(河出書房新社、1964年)『「死」は救えるか 医療と宗教の原点』(地湧社、1986年)『歎異抄 - 最後の一人を救うもの』(地湧社、1988年)『叫びたし寒満月の割れるほど - 冤罪死刑囚と歩む半生』(法蔵館、1991年)『「他力」を明かす - 続歎異抄・念仏のこころ』(地湧社、1992年) 4-88503-093-5<論文>CiNii 古川泰龍★岡村 又男(おかむら またお、1931年 - )は、日本の牧師。横須賀中央教会担任牧師、日本聖書刊行会理事長、日本同盟基督教団顧問、久里浜少年院教誨師。群馬県生まれ。教誨師(久里浜少年院教誨師)。 1931年、群馬県出身。舟喜麟一が牧した福音伝道教団前橋キリスト教会が母教会。同盟聖書学院(第三期生)卒業後の1955年、日本同盟基督教団横須賀中央教会牧師となる。その後日本同盟基督教団理事、同理事長、東京基督教短期大学非常勤講師、東京基督教大学非常勤講師などを歴任。東京基督教大学教授の岡村直樹は息子。 2007年日本福音功労賞を受賞する。 <著書>「主に喜ばれる教会生活」、「主に喜ばれる結婚と家庭生活」「教会員の手引き」「式文」★鈴木 啓之(すずき ひろゆき、1955年11月-)は日本の牧師、ミッション・バラバ伝道者、NPO「人生やりなおし道場」の道場長、「ふるさと志絆塾」の塾長、教誨師(府中刑務所教誨師)。元暴力団員。2001年(平成13年)製の日韓合作映画『親分はイエス様』のコンセプトモデルとなった「ミッション・バラバ」(暴力団組員等の過去をもつ牧師を中心に結成されたキリスト教宣教団体)の代表者。<経歴・初期>1955年(昭和30年)11月大阪市天王寺区の病院で、製薬工場の経営者を父として生まれ、生野区で幼少期を過ごす(鈴木の父は、明治大学で考古学を専攻し、新聞記者などを務める。鈴木が生まれたころは製薬会社を経営していた。両親は創価学会の会員の教学の最高位の『教授』であり、鈴木も幼少期から大石寺の例会などに行っていた熱心な創価学会会員だった。天王寺区の私立高興国高校商業科に進学する。中退して、ラーメン屋でバイトを始める、翌4月に経理学校に入学するが、半年で退学して、建設関係の仕事をする。 <暴力団員時代>1972年(昭和47年)頃、暴力団とのトラブルに巻き込まれたことがきっかけになり、酒梅組5代目組長谷口正雄の甥の紹介で、酒梅系の組織に入会する。有名な博打打ちとして、大阪で暗躍し年間20億円以上を稼こともあり、週刊誌で紹介されたこともあった。1975年(昭和50年)頃、暴力団同士の抗争の後に、警察の捜査を逃れるために瀬戸内海岸に潜伏し、砂利船の作業に従事する。半年後大阪に戻り、最初の結婚をする。1980年頃、警察に出頭し、暴行と器物損壊、ひき逃げの罪で実刑判決を受け、奈良少年刑務所で服役する。1985年頃、3回の抗争に関連して、凶器準備集合、暴力行為で2回目の実刑判決を受けて、大阪刑務所に収監される。 <博打打ち時代> 賭博で3億の借金を負ったことで、組に迷惑をかけまいと思い組に破門状を出してもらい、フリーの博打ちになる。組長から3000万を預けられ、抗争資金の捻出を依頼される。2度目の、懲役刑が終わって出所した直後に、大坂のコーリャン・クラブで働いていた韓国人女性(現在の鈴木夫人)に出会う。その韓国人女性が不慮の事故で、膝の皿を割り全治三カ月と診断された。しかし、彼女自身と教会のいやしの祈りにより奇跡的に回復する。この奇跡を見て、キリストの力を博打で生かそうと思い自ら教会に出席するようになる。そして、1988年(昭和63年)12月5日の教会で結婚式を挙げる。奇跡的に3億の借金を清算することができたが、1990年(平成2年)3月、他の組の親分から預かった活動資金を博打に使い込んだことから再び命を狙われる身となる。 大阪から逃亡し、東京都新宿の歌舞伎町に愛人と共に潜伏するようになる。逃亡生活のストレスで不整脈、慢性疲労症候群、自律神経失調症などを患い、通院するが、自殺を考えるほどに追い詰められる。逃亡生活から9か月目の12月に近所の新大久保にある東京中央教会という韓国人系の教会に駆け込む。駆け込んで3日目の礼拝でに日本人副牧師の平塚正弘から「誰でも変わることができる」と声をかけられて回心する。すぐに、新幹線で大阪に戻り妻と再会する。 <神学生時代> 1991年(平成3年)1月東京渋谷区本町の家で妻子と同居し、東京中央教会に通うようになる。 1991年4月に東京中央教会の東京中央神学院に入学する。神学の学びを続けながら、6月からは生活費のために神学校同級生と共に工事現場で働くようになる。7月に『ジェリコ・ジャバン』の聖歌隊に参加する。その時、メッセンジャーだったアーサー・ホーランドと松沢秀章の影響を受けて、新宿で路傍伝道をするようになる。その時、同じく新宿で伝道をしていたアーサー・ホーランドと親しくなり、十字架行進の話が決まる。1992年春の神学校2年生の時に、半年間の休学届を出し沖縄から十字架行進を始める。北海道宗谷岬まで行き、1992年のジェリコ・ジャパンの大阪集会で十字架行進は終了する。その後、杉並区下井草のマンションに住み、建設現場に復帰し、神学校の学びを再開する。 1993年(平成5年)の夏休みに韓国を訪問し、釜山から板門店まで十字架行進を行う。行進中に毎日韓国の教会で集会を開く。元従軍慰安婦などにも謝罪をする。また、夫人の実家にも訪れる。 1993年の暮れに、鈴木ら7人の元ヤクザとアーサー・ホーランドと松沢秀章らが「ヤクザ・フェローシップ」という聖書研究会を始める。それが、改称しミッション・バラバという伝道団体になる。2007年まで鈴木が代表を務める。 <牧師時代>1994年(平成6年)3月神学校を卒業すると錦糸町にある韓国系教会『ハレルヤ東京教会』に牧師に迎えられる。1994年11月にはミッション・バラバのメンバーと北米の伝道旅行に出かける。その活動がアメリカ合衆国の日系人新聞『羅府新報』や『オークデール・リーダー』などのマスコミに取り上げられ、日本でも毎日新聞などで取り上げられる。 船橋市東船橋で支教会の開拓伝道を始め、ハレルヤ所望(ソマン)教会を発足させる。ハレルヤ教会の活動が軌道に乗ると、1995年頃から開拓伝道を始め、1995年10月31日にシロアム・キリスト教会が設立され、アーサー・ホーランド、小坂忠らに按手礼を受ける。1998年3月アメリカ合衆国ワシントンD.C.のヒルトンホテルで開催された、ビル・クリントン大統領(当時)も出席する『朝食祈祷会』(英:National prayer breakfast)に出席し昼餐会でスピーチをする。 2001年に劇場公開された映画『親分はイエス様』では、鈴木がモデルの一人になった。2003年には、進藤龍也(現在・[罪人の友]主イエス・キリスト教会牧師)ら元暴力団員が住みこむ。そのことがきっかけになり、もと暴力団員らが、人生をやり直すための共同生活所の『やりなおしハウス』が誕生する。 2004年3月に鈴木は府中刑務所の教誨師に任命される。2008年9月にシロアム・キリスト教会は会堂を船橋市東船橋より千葉県柏市へと移転する。2009年3月にはNPO法人「人生やり直し道場」を設立し、道場長になり、2010年9月には柏市五條谷に新会堂を建設し、教会堂を移転する。 現在、シロアム・キリスト教会主任牧師、「人生やりなおし道場」の道場長、ふるさと志絆塾の塾長などで幅広い活動を行っている。 <教会のアクセス>シロアム・キリスト教会は、千葉県柏市あけぼの3-9-3(国道6号水戸街道沿い呼塚交差点近く)にあり、同施設には「人生やりなおし道場」を併設している。そこから巣立った牧師・宣教師も多数いる。 また分教会として、北海道札幌市のすすきのに「シロアムクリストチャーチ」をオープンしている。 <著書>「愛されて、許されて」(2000年10月、雷韻出版刊。「誰だって人生をやり直せる」(2001年4月、飛鳥新社刊。<参考文献> アーサー・ホーランド『親分はイエス様』PHP研究所、1996年鈴木『愛されて、許されて』雷韻出版、2000年金沢泰裕『イレズミ牧師とツッパリ少年達』集英社、2000年進藤龍也『極道牧師の辻説法』学研パブリッシング、2010年★塩谷 直也(しおたに なおや、1963年(昭和38年)-)は、日本の神学者、青山学院大学法学部教授。教誨師(府中刑務所教誨師)。<学歴>1987年、国際基督教大学教養学部卒業1992年、東京神学大学修士課程修了<職歴>日本基督教団中京教会副牧師梅ヶ丘教会牧師・府中刑務所教誨師青山学院大学法学部教授<研究分野>宗教学、組織神学<著書>迷っているけど着くはずだ(新教出版社 2000年)忘れ物のぬくもり―聖書に学ぶ日々(女子パウロ会 2007年)★進藤 龍也(しんどう たつや、1970年(昭和45年)12月23日- )は牧師、教誨師。元暴力団員。刑務所伝道になどに従事する。<経歴・初期>1970年(昭和45年)に埼玉県蕨市に生まれる。1973年(昭和48年)3歳の時、交通事故に会い、脳挫傷、脳内出血、頭蓋骨骨折の重傷を負うが九死に一生を得る。中学1年の頃から非行に走る。地元の暴力団の草野球チームに入団する。 <暴力団員時代>17歳頃から池袋の暴力団の事務所に出入りして、1988年(昭和63年)にスカウトを受け、盃をいただいて正式に暴力団員になり、その後広域指定暴力団の武闘派の暴力団の組員になり、池袋をテリトリーとする覚醒剤密売人になる。18歳で西川口で傷害事件を起こして逮捕される。埼玉県警南警察署に留置所に拘留される。その後、浦和少年鑑別所(現さいたま少年鑑別所)に入れられるが、情状酌量を引き出し短期間で出所する。1989年(平成元年)に、かまぼこ工場の社長の債権の取り立てをしている際に、不渡りを出した社長の自宅を占拠した理由で逮捕され、鑑別所送りを免れ、20日間、四谷警察署の留置場に拘留された後、処分保留で釈放される。 1992年(平成4年)に、執行猶予中に覚醒剤使用の容疑で逮捕される。浦和拘置所支所に収容された後、刑事裁判で1年2カ月の判決を受け、川越少年刑務所に収監される。3カ月の分類審査の後に、松本少年刑務所に懲役刑で収監される。執行猶予が付いていた1年2カ月を含めて2年4カ月収監される予定であったが、2カ月早く茨城の叔父が身元引受人になり、仮釈放される。 1994年(平成6年)に覚醒剤の譲り渡しの容疑で逮捕され、秋田刑務所に2年8カ月収監される。秋田刑務所内の受刑者向けの「キリストクラブ」で初めて福音を聞く。ミッション・バラバに関する鈴木啓之の著作と差し入れられた聖書を読み、キリスト教に興味を持つようになる。 秋田刑務所を出所後に、「ミッション・バラバ」の本を見つけ、鈴木牧師に電話をする。鈴木牧師に「ヤクザにつまづかないように祈っていて下さい」とお願いする。 1998年(平成10年)には、28歳で同系の他の組に移籍して組長代行になる。しかし、覚醒剤中毒で破門になる。 <回心>2001年(平成13年)5月13日東京都日本橋で覚醒剤所持の容疑で逮捕され東京拘置所に留置される。その時鈴木啓之牧師から減刑の嘆願書を書いてもらう。また、内縁の妻から差し入れられた聖書を読み、旧約聖書のエゼキエル書33章11節を読んで回心する。刑務所の中では、月岡世光に手紙を書いて聖書の教えを学ぶ。その後、裁判で2年4カ月の実刑判決を受け松江刑務所で懲役刑に服する。月岡に紹介された国際聖書通信講座で聖書を学ぶようになる。 <神学生時代>2003年(平成15年)に2年4カ月の松江刑務所での服役が終わると鈴木啓之牧師のシロアム・キリスト教会に住みこむ。鈴木牧師より洗礼を受けてクリスチャンになる。シロアム・キリスト教会に鈴木牧師を慕い、進藤ら元暴力団員らが住みこむようになり、教会の祈りと献金で「やりなおしハウス」ができる。そして、JTJ宣教神学校に入学して、牧師を目指す。 <開拓伝道・牧師時代> 2005年(平成17年)2年で全科目を終了しJTJ宣教神学校を卒業する。神学校の恩師中野雄一郎の紹介で、中野雄一郎、岸義紘、鈴木啓之、安田眞の4人の牧師に按手礼を受けて牧師になる。 川口の公民館を借りて土曜日に聖書研究を始めながら、単独で開拓伝道を始める。母親のスナックを会場に、土曜日に礼拝をすることになる。その教会をマタイの福音書9章13節に基づいて、「[罪人の友]主イエス・キリスト教会」と命名する。 <参考文献> 進藤龍也『人はかならず、やり直せる』中経出版進藤龍也『極道牧師の辻説法』2010年『クリスチャン情報ブック』いのちのことば社鈴木啓之『イレズミ牧師どん底からの再出発方法』★兼松 一二(かねまつ かつじ)生年不明。1971年(昭和46年)より活動歴あり。友愛キリスト教会の牧師。JTJ神学校講師、東海神学塾講師、教誨師(笠松刑務所の教誨師。中部教誨師会理事)。 友愛グループ牧会長<経歴>1971~1994岐阜県の同盟福音キリスト教会。 笠松キリスト教会で牧師を務める。1994 岐阜県各務原市にて開拓伝道を始め、今に至る。2002法務大臣賞をいただく。2006長年にわたる教誨師として奉仕した功績により、藍綬褒章を受章。<現在>宗教法人 友愛キリスト教会牧師。JTJ宣教会神学部長として、講師を務める。東海神学塾講師。笠松刑務所で教誨師を務める。中部教誨師会理事を務める。岐阜県教誨師会副会長を務める。 あまり見ることのなかったタイプの番組ですが、先週、BSの「ザ・プロファイラー」(司会は岡田准一)で「オードリー・ヘップバーン特集」を放送していたので、さっそく見てみました。「プロファイラー」的な側面からオードリー・ヘップバーンを見ようというのですから、ただ事じゃありません。ヘップバーンは、もっとも好きな女優のひとりなので、「聞き捨てできない」という思いで見ました。彼女のこと、ひどいこと言ったら承知しないぞという感じです。そりゃあ「美しさ」だけのことなら、現代だって匹敵する美形の女優なら幾らでもいると思いますが、あの気品と天性の愛らしさを兼ね備えた女優というと、そうはいません、というか、正直言って、オードリー・ヘップバーンに匹敵し、ましてや超える女優など、いまだかつて見たことも聞いたこともないと言い切ってもいいくらいだと思っています。少女期をナチスドイツ侵攻の圧制下のオランダで過ごしたヘップバーンは、飢えと死の恐怖を経験したことで、後年になってもずっと、同時代を同じ悲惨な状況で生き、そして殺されたアンネ・フランクの無残な死を胸に秘め、いつまでも忘れずにいたことや、あるいは、バレリーナ志望だったのに戦時中の栄養不良がたたって体力的にプリマになるのは到底無理と宣告され、それでなくとも男性よりも身長が高かった不運も重なりバレリーナになることを諦めたとか、今回はじめて知ったことが数多くありました。それに、そもそも映画出演の切っ掛けというのが、「女優志望」でもなんでもなくて、ただ生活費を稼ぐためのほんのアルバイト気分にすぎなかったという部分も思わず失笑してしまいましたが、もっとも興味深かったのは、「ローマの休日」の主役が、当初はエリザベス・テイラーで企画が進められていたという部分でしょうか。もし、あの主役が大女優エリザベス・テイラーになっていたら、それこそ美しさを鼻にかけた高慢な王女を演じるくらいがせいぜいだったでしょうし、共演した名優グレゴリー・ペックだって、みすみす一歩しりぞいて主役の座を女優に譲るなどという奥ゆかしさを見せることもなかったに違いありません。ヘップバーンが、ほとんどそのデビュー作で(端役での小品出演というのがそれまでに何本かあったようですが)アカデミー主演女優賞を射止めたのですから、それこそ突如彗星のように出現した驚異的なデビューといっていいと思いますが、しかし、たとえあれほどの美形であって、それに「気品と天性の愛らしさ」を兼ね備えていたとしても、ただそれだけでは「アカデミー主演女優賞」受賞というのはあり得なかったと思っています。そこにはスタッフやキャスト、そして時代を超えた新たなスターをずっと待ち望んでいた映画関係者やアカデミー会員の強いプッシュがあって意識的・好意的に「栄光への道」を作ってあげなければ、決してあの栄光に到達することはなかったはずです。そんなことを、ぼんやり考えながら数日過ごしていたとき、迂闊にもビデオの予約を間違えて、考えてもいなかった映画を録画していることに気がつきました。その作品というのは「マーロン・ブランドの肉声」という2015年のドキュメンタリー作品でした。しかし、「オードリー・ヘップバーン」ならともかく、「マーロン・ブランド」では、はっきり言って自分としては「意識」して録画するような存在でも、自分好みの俳優でもありません。ウィリアム・ワイラーやグレゴリー・ペックが、オードリー・ヘップバーンのか細く健気な彼女のために何とかしてあげたいと助力に努めるような妖精のごとき存在ならともかく、マーロン・ブランドの印象というのは、躁鬱の振れが激しく、すべてがやたらに重たくて扱いにくい泥沼のような存在でしかありません、道の向こうから彼がやって来るのが見えたりしたら、喧嘩でも吹っ掛けられて絡まれては大変です、面倒なトラブルに巻き込まれるより先に、あわてて横道にそれて逃げたくなるような厄介な存在です。とにかく、この映画「マーロン・ブランドの肉声」を一応通して見てみたのですが、案の定、マーロン・ブランドの惨憺たる生涯をこれでもかというくらい徹底的に突き詰めて描いた救いのない悲惨な作品でした。映画の冒頭、意表を突くようにデジタル画像されたマーロン・ブランドの顔が映し出され、「マーロン・ブランドは多くの音声録音を残したが、これまで人の耳に触れることがなかった。」というナレーションのあとで、こんなふうに語り出されます。≪録音を始める。モノラル録音で、マイクは1番を使用する。それではまず説明をしよう。私は頭をデジタル化した。レーザーをこう当てられてね。顔もデジタル化した。いろいろな表情をしたよ。しかめつらや笑顔、悲しげな顔も、すべてデジタル化される。生の役者ではなく、パソコンの中の役者だ、そういう時代がやってきたんだ。これが自分の遺作となるかもしれない。≫そして、さらに続けて≪明日、明日、明日とは。日一日と確かな足取りで忍び寄り、最後の歴史の一節へとたどりつく。そして、昨日という日は、愚者がチリと化す道筋を照らす。つかの間のロウソクは消え去るだろう。人生は歩くつかの間の影でしかない。下手な役者も、舞台で大げさに振舞ってはいても、すぐに姿を消す。人生は愚者が語る物語。響きも感情もすさまじいが、そこにはなにものも存在することのない無意味なものだ。これは、そんな私の生活に関するプライベートの記録といえるだろう。≫「彼は過去に生きる男で、孤独の中で苦悩した人物に思える。困惑や悲哀、そして孤独や不満の状態に悩まされているようだ。社会生活が難しいほど傷ついていて機械人形のようになっている。自分への扱いに不満で怒りを抱いていたのかもしれない。映画の情報などをこうして集めて自分を理解しようとしていた。」マーロン・ブランドの父親は、アメリカ各州を旅するセールスマンで普段は家におらず(旅先で飲んだくれて女遊びをしていたことは、ブランドの述懐のなかにあります)、たまに帰ってくると酔って母親を罵倒し殴りつけるようなアル中の横暴な父親でしたし、母親はオマハの地方劇団の女優をしていて、やはり家には寄りつかず、ときには酔って留置場にいるのをブランドがタクシーで引き取りにいったという話も映画のなかで紹介されています、この母親もまたやはり手の付けられないアル中でした。しかし、この映画のなかで母のエピソードを語るマーロン・ブランドは、そういう母親との思い出を決して悪しざまには語ることなく、どこまでも深い愛を感じさせる同情的な述懐を展開していますが、しかし、彼が話すエピソードのどれにも母親の愛情を裏付けるような具体的な事実が提示されるわけではありません、まるで「そうあってほしい」というような(たぶん虚偽だから、なおさら)空虚な回想を聞き続けていると、そこには父親に対する絶対的な敵意(のちにそれが「殺意」であったことが仄めかされます)と絶望的な嫌悪のはけ口として、行き場のない感情が仕方なく母親の方に流れたというだけにすぎなくて、この母親もまたマーロン・ブランドにとっては、やはり「嫌悪」の枠内に位置していたことが次第にあかされます。居場所のない家を早朝に抜け出し、孤独を持て余した少年マーロン・ブランドは誰ひとりいないオマハの町をさまよい歩きます。≪心を漂流させよう。過去へ、遠いむかしへ。まだとても若い頃、あの頃は、朝起きると皆が寝ているあいだに服を着て、オマハの町の舗道を歩いては、大きな楡の木の下に坐った。光の中で風が木の葉の影を揺らしていた。優しい夢で、柔らかな風が呼んでいるようだった。あの風だけは信じられるものだと思った。君は私の思い出そのもの≫≪自由にならねばと一生をとおして強く思った。あの列車に乗ったとき私は自由だった。車両で立ってレールの音に耳を傾けた。こんなふうに変わったリズムだ。ニューヨークに到着したときは靴下にも心にも穴があいていた。酔って舗道に横になり、眠ったこともあったが、行き交う人は誰ひとり無関心でそんな男を気にとめる者などいなかった。人にはとても興味があった。彼らのことを知りたくてしょうがなかった。道行く人の顔を長いあいだ眺めていた、タイムズスクエア近くのタバコ店にもよく行った。そして人の顔を3秒眺めて、その人の人柄を分析したりした。顔には多くのことが隠されている。人は何かを隠しているものだ。本人も気づいてないことを推測するのが面白かった。何を感じ、何を考え、なぜそう感じるのか。それがどのようにして、それぞれの振る舞いに至るのか。答えはなにか、いや、そもそもそこに答えなんかあるのか。人は本心から望むこと、達成感を得られるようなもの、そういったものを望むものだ。自分を無知な人間だと感じていた。ろくな教育も受けず、何の知識もない人間、劣等感がまるで糞のように喉元まで詰め込まれた無価値な人間、自分を愚かだと感じていた。≫1943年の秋、マーロン・ブランドは、グリニッジ・ヴィレッジ12丁目にあるニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチの演劇ワークショップに入学し、そこで演技指導者ステラ・アドラーと出会います。そして、ステラから運命のスタニスラフスキー・メソッドを学びました。ニュースクールで学ぶために父親に学費を送金してくれるようブランドが頼んだとき、父親は「お前なんか、どうせろくなものにならんだろうから、期待などしてないがね」と嫌みを言われ、冷笑されたことに深く傷ついたことを生涯忘れませんでした。ステラは、ブランドに絶えず「恐れるな、ありのままの自分を出して好きなように演じていいのよ。舞台では自分に正直であること。多くの感情を掘り下げ、愛や怒りをさらけ出して、あなたを苦しめている感情を表現に変えるの」と言いつづけます。しかし、そのように役者として自分の感情を高揚させ爆発させるメソッドを教授され体得したとしても、しかし、その一方で、常識を備えた普通人として、高揚した感情を飼いならし、収束の方法までは教えてもらえなかったことが、やがてマーロン・ブランドの生涯を惨憺たるものに貶めたことは間違いありません。人間の奥底にはなにかドロドロしたものがあるに違いない、そうでなければならないはずだと固く信じているマーロン・ブランドにとって、「普通の感情」や「普通の人間」という存在がどうしても理解できず、演じることもできないまま周囲との軋轢を生じさせつづけました。≪誰もが人に言えないような逸話を持っている。過去を持たない感情では、現在を表現できない。われわれは早い段階で演技の術を得る。子供の頃にオートミールをこぼしたのも母の気を引くための演技だ。演ずることは生き残ることと同じだ。≫≪ああ、私の母だ、その写真。母が40歳くらいの写真だ。母は、素晴らしい人だった。独創的で、芸術的な人だったよ。母をよく思い出す。酒の匂いがする息も大好きだった。すごく甘い香りだった、いい香りだ。母は、アルコール依存症で、住んでいた町は小さくて、母のことを皆が知っていた。母は、徐々に家に寄りつかなくなり、まったく姿を消してしまうこともあった。どこへ行っていたのか、時には拘置所に迎えに行ったこともあった。思い出すと今でも恥ずかしさで胸が震えて、怒りの感情で自分が抑えられなくなってくる、このまま気が狂ってしまうんじゃないかと思うこともあるよ。≫≪金を得るためだよ。ずっと貧乏だった。父は巡回販売員だった。私は半年の仕事で、父の10年分の稼ぎを超えた。父の判断基準は金だった。出来損ないの息子の稼ぎを理解できなかったようだ。怒ることが必要なシーンでは、自分の中で怒りを表す仕組がいる、いわば「感情を高揚させるための手続き」というか、怒りに満ちた何かの仕組みだ。父が母を殴った記憶がある。私は14歳だった。親父は強い男だ。バーでも喧嘩をした。自分への嫌悪も抱えていただろう。家に寄り付かず、中西部で飲んで女遊びをしていた。意味もなく私もよく殴られた、当時は父に怯えていた。とてもつらいことが起きると意識から消そうとする。忘れたいんだ。毎晩どこかへ出かけて行って、癇癪を起して一晩を過ごす。メチャクチャになるほど、泣いたり叫んだりする。これがかなりきつい。演じた役のイメージで見られる。床から物を食べたりしないとか、裸足で道を走ったりしないと信じてもらえない。イメージを忘れてもらうのは難しい。スタンリーとの共通点はないし、嫌いなタイプだ。嫌いだから感情移入ができなかった。ケダモノのように残酷で暗い役柄だったよ。カウンセリングも受けた。演ずることで正気を失うと心配されてね。≫ステラは言った。「万全だと思えば8割の出来。体験が6割と思えば、4割の出来。体験が4割であれば、そのまま帰りなさい」と。≪自由の叫びは、鎖で繋がれた証しでもある。役者になれていなかったら、何をしていただろう。詐欺師だったかもな。腕の経つ詐欺師だ。巧みに嘘をつき、思いどおりのイメージやそれらしいイメージをとおす。まだ60年代前で皆が反逆を求めていた。時代のニーズと私の雰囲気が合っていたんだ。私自身が物語といえる。反逆のために反抗する。≫≪自分を負け犬と感じることは誰もが経験することだ。私はずっと劣等感に悩まされていた。≫いまをときめく若き人気俳優マーロン・ブランドをゲストに迎えた当時のテレビのインタビュー番組の一場面が映し出されます。ちょうど「徹子の部屋」か「新婚さん、いらっしゃい」みたいな感じでしょうか、まあ、いずれの番組にしてもやがてくる令和の御世をどこまで生き残れるか危ぶまれるところでしょうが。その手のノリのサプライズという設定で、突如父親が現れてブランドの少年時代の思い出話を聞き出すというシチュエーションのこの一連の場面は、ここまでこのドキュメンタリー映画を見てきた観客にとっては、「痛切」とか「残酷」と言い募っても到底言葉足らずの感が払拭できないほどまでに拗れたこの父子関係の爛れ具合を、さらにもっと相応しく赤裸々に言い表せる言葉があれば、むしろ「そちら」の方を採用したくなるほどの二人の関係を生々しく映し出しています。マーロン・ブランドがその少年時代に父親から受けたものといえば、ただ威圧され虐待されつづけた記憶しかなく、そもそも俳優として大成できたのは、そのいまわしい記憶のトラウマから逃れるため、父親の否定をバネにして自分を解放しようとした痛ましい演技の病的な「成果」にすぎなかったことを考えれば、テレビ放送の手前、ただ息子は優しいステレオタイプの息子の役を演じ、父親はただ愛情深い父親の役を演じたに過ぎない偽善に満ちたものでしかないことを十分知悉している僕たちはこの場面を見ることになるわけですが。「お父さんが見えているそうですね。隠れているのですか? お呼びしましょう、お父さん~!」父親(マーロン・ブランド・シニア)登場「息子さんのことをいろいろ聞いてみましょう。こんばんは、ご自慢の息子さんでしょう?」「役者としてはそうでもないが、人としては立派だと思う」僕たちはこのドキュメンタリー映画のどこかで、父親の人間に対する価値観は「そいつがいくら稼ぐか」にかかっており、単にその金額のタカによって人間の価値が測られることをすでにブランドから知らされているので、父親のこの「人としては立派だと思う」が、単なるカネの問題でしかないことがすぐに分かり、つまり、父親の言葉の中には暗に「息子」の全否定が語られていることを察した司会者は、さらに父親に尋ねます。「教えてください、扱いにくい子供でしたか?」「いわゆる普通の子供でした」その場に同席しているブランドの表情は、すでに仮面の微笑が貼り付けられた演技者の顔でしかありませんが、オレのことなど何ひとつ知らないくせに、あんたがオレにしたことは、酒と女の匂いをぷんぷんさせて、たまに帰ってきては母とオレを気ままに殴りつけて楽しんでいたことくらいだろう、という思いで父親の偽善の言葉を苦々しく聞いていたことは間違いありません。「ただ、一般的な子供よりも親とのモメゴトは多かったでしょうな」「公平に判断するために、あなたの言い分も聞きましょうか?」と司会者はブランドに話を振ります。「いや、その必要はありません、オヤジには負けてませんから、大丈夫です」この言葉を受けてナレーションは、<お互いの役割を演じた>と断じていましたが、むしろ、自分的には<これがふたりの精いっぱいの本音だった>というべきで、このよじれた親子がそれぞれににじり寄って表明することのできたせめてもの誠実さだったのではないかと思えました。ブランドは言います。≪あれは偽善そのものだったよ。子供時代に受け入れてもらえないと、受け入れられるアイデンティテイを探す。だから私は、役柄に幅があるんだ≫と。この言葉の中には、表明していること自体の在り様と同時に、片方で、自分がどのように変われば父親に受け入れてもらえるのかと必死に模索しながら、徐々にみずから人格を歪めてアイデンティティを失うに至るマーロン・ブランドの心の破綻の過程が語られていきます。≪子供の頃、芝刈りなどで小銭を稼いで映画を見に行き、すべてから逃げたかった。映画を見た高揚感で1週間を乗り切った。魔法の時間だったよ。役者は、名前が新聞に載ったり、注目を集めることを好むものだが、私は成功の幻想によく悩まされ、色眼鏡で見られていると思い、人に会うのも面倒になった。特別扱いに疲れるんだ。動物園の動物や異国の生きもののように、奇妙な目で見られることをね。現実から切り離されてしまう、そのことが私には耐えられない。普通に暮らせないのが、こんなにもつらいこととは思わなかったよ≫≪母が雇った家庭教師、美しい髪ときれいな肌をした東洋人で、彼女に寄り添って安らいだ記憶がある。彼女が結婚のために私から去っていった日、7歳の少年は棄てられたと感じた。私は母にも棄てられたと感じていた。アル中だったから。あの日を境に素行が悪くなり問題児となった。愛された記憶のない人間は、真実の愛を見逃す。真実の愛を知らないから、ありそうな場所を探すだけだ。≫≪赤ん坊の息づかいは覚えている。そして鼓動も聞いた。自分の手の中でこんな小さな子が生きているのかと思うと涙がでてきた。息子には絶対、父を近づけてはならないと思った、私と同じ目にあわせてはならない≫ナレーションは問いかけます。「マーロン、過去のことを話してくれないか」≪父は、酔っぱらいだった。強くて女好きで男臭い男だった。かなりキツかったよ。母は、とても詩的な人だったよ。だが、やはり酔っぱらいだった。流し台には汚れたままの皿が山のように残っていて、家は散らかり放題だった。それを見るたびに、自分だけを残して、本当はみんな死んでしまったのではないかと思い、とても怖かったよ。あるとき、父が母を殴っていて、私は2階の部屋に行った。だが、そのときなにかが自分の中で崩壊し、怒りのアドレナリンが全身を満たし、熱く支配された怒りの衝動のままに父親を睨みつけ、「今度繰り返したら、お前を殺すぞ!」と怒鳴りつけた。≫父への殺意をみなぎらせ、「お前を殺すぞ!」と威嚇した衝撃的なモノローグを受けたあと、瞬間に転換したシーンは、息子クリスチャン・ブランドが、妹シャイアンの恋人を射殺したという緊急通報を受けて全警官に「銃撃事件発生」という緊急招集が掛かった場面に、このドキュメンタリー映画は冒頭の場面に回帰していきます。息子クリスチャン・ブランドは、両親の離婚による親権争いに翻弄されて神経の安定を失い、生育し、1990年5月16日、妹シャイアンの恋人ダグ・ドロレッツをマーロン・ブランド邸で射殺し10年の判決を受け5年服役して出所しています。射殺した動機は、日ごろから妹にダグが暴力をふるっていたからだと主張しましたが、一方では、当時クリスチャンはひどい薬物中毒だったという噂もありました。しかし、クリスチャン服役中の1995年に妹シャイアンは、タヒチで自殺します、当時25歳。そして、そのクリスチャンも2008年1月26日にロサンゼルスの病院で肺炎のため死去し、悲痛な人生を閉じました、49歳でした。生まれたばかりの息子を抱き上げて、「この子を自分と同じ目にあわせてはならない」と強く念じたマーロン・ブランドの祈りが神にどこまで通じたのか、痛ましくも皮肉な思いに捉われないわけにはいきません。2004年7月1日、マーロン・ブランド死去、80歳。≪運命からも世の中からも見放され、独りわが身の不遇を嘆く。聞く耳を持たぬ天を無益な叫びで煩わせ、わが身を眺めて不運を呪う。朝、目覚めてこう思う。「まったくなんという人生だろう。なぜこんなことになってしまったのか。」今年はキツかった。人には想像できないほどだ。できるだけ強くあろうとしても、誰もがあるとき、糸が切れるものだ。痛みには、対処しなければならない。これまで精神分析には莫大な金をつぎ込んできたが、連中はなにもしてくれなかった。脳にペンチやドライバーを差しただけだ。人生に、より真実が見え、若き日の名残りと引き換えに手に入った自分自身で分析しなくては、とやっと気づいた。内面が見えなければ、決して外側が見えるはずがない。生れながらの悪人はいない。最初の10年で身についた悪い習慣を多くの人は乗り越えていく。クリスチャンは情緒障害や精神的な混乱に悩まされていた。むかしの私と同じように。父とは違うと思っていたが、人はそれとはなしに、親に似てくるものなのだろう。父が死んだとき、父が背中を丸くして永遠の世界に向かう姿を思い描いた。振り返って父は言った。「私は努力したのだ」私は父を許した。私は父のせいで罪人であった。父も罪人だった。父は4歳で母親に捨てられ、仕方なかった。自分の心を振り返ってよく考えてみたことで、いわゆる人間らしい普通の人に近づいたように思う。だれもが人を憎むことができるし、人を愛することもできる。どちら側に進むかによって殺人者にも聖人にもなれる。よく瞑想している。その結果、心は落ち着き、実に静かな時を過ごしている。心はどんどん静かになっていく。至福の時が近づいている。それではまた、次回まで眠ろう。・・・マーロン・ブランド≫ドキュメンタリー映画「マーロン・ブランドの肉声」の各シーンをたどりながら、自分なりに理解を重ねてきたのですが、最後になって単純なひとつの疑問に捉われました。生涯にわたって、これだけ父と子の葛藤に苦しみ、その苦悩を「演ずる」ことで理解し、できれば和解しようと努めたマーロン・ブランドが、なぜ、同じエリア・カザンの作品である父の子の葛藤の物語の象徴的な作品「エデンの東」の主演をジェームズ・ディーンに譲ってしまったのか、エリア・カザン作品を成功させた実績もあることを考えれば、あからさまな要望を表明しなくとも、少なくともオファーくらいはあったのではないか、このドキュメンタリー映画でこれまでに知ったブランドの心情から考えると、この父性を求める「キャル」こそは、どうしても演じてみたい役だったのではないかと思えて仕方ありません。それとも、そういうストレートな役柄だったからこそ、あえて「敬遠」したのか、その辺の事情をどうしても知りたくなりました。そこで、調べるのなら、「エリア・カザン自伝」を見るのが最適と考え、さっそく図書館から大冊「エリア・カザン自伝」上・下巻を借りてきました。合わせると1000頁はゆうに越してしまうのではないかという、とにかくすごい大著です。この本を家まで運ぶだけでも大仕事で、歩いているうちに腕が痺れてきて、そのうち肩から腕が抜けるのではないかと不安になったくらいです。ざっと見たところ、映画「エデンの東」に言及している箇所は、下巻の157頁4行目から163頁にかけて書かれていることを確認し、該当箇所をさっそくアタマから読んでみました。なるほど、なるほど、要約すると、「欲望という電車」1951と「波止場」1954の成功によって、エリア・カザンは、撮る環境として最高の状態にあったときで、「エデンの東」1955の企画を会社に提出したときも、なんの条件も課せられることなく、現場のことはすべて一任するという状態でした、もし、カザンが「エデンの東」のキャル役をマーロン・ブランドでいくという意思があったのなら、それを阻むものなどなにひとつなかったわけで、むしろ「エデンの東」のキャル役を蹴ったのはマーロン・ブランドの方だなと思えてきました。「エリア・カザン自伝」には、キャストもカザンに一任されてはいるものの、ジェームズ・ディーンという駆け出しの役者を一度面接してくれないかという依頼もあったので、カザンは半信半疑でジェームズ・ディーンに会います。会ってみるとこれが、胸糞が悪くなるほどの生意気な小僧で、礼儀もなにもわきまえない不貞腐れた態度に不快を感じながら、カザンは、原作者のスタインベックの元へも面会にやります。そしてジェームズ・ディーンに面会したスタインベックの印象もエリア・カザンと同意見(不貞腐れた生意気な小僧)で、その場で「エデンの東」のキャル役のイメージにぴったりということで主役はジェームズ・ディーンと決定したのだそうです。こうして読んでくると、エリア・カザンの側からも、どうしてもマーロン・ブランドでなければダメだというほどの積極的なオファーがあったという印象はどこにも見当たりませんし、それよりも、なにかとても寒々しい感じがしてなりません。「波止場」でアカデミー主演男優賞をとったことが、なにか関係しているのかとも考えてみましたが、それならむしろ「恩」はブランドの方にあるわけだし、とは言っても、いまさら「どうか主役に使ってください」とは、あまりにも白々しすぎて言えないかもしれない。などなど、お互いに何も言い出せない膠着状態にあったのかもしれないなどと考えていたとき、wikiの「マーロン・ブランド」の項に、こんな記述を発見しました。「1954年に、カザンの『波止場』で港湾労働者を演じ、アカデミー賞主演男優賞を獲得した。アカデミー賞の受賞により名実共にトップスターになる。翌年、育ての親ともいえるカザンの大作『エデンの東』の主役のオファーを蹴った。これはカザンが、当時アメリカを吹き荒れていた赤狩りの追及に負けて同じような容共的な仲間をジョセフ・マッカーシー率いる非米活動委員会に告発したことに対してマーロン・ブランドが憤慨していたからという。この映画でジェームズ・ディーンがスターになった。」1952年4月10日、エリア・カザンは、非米活動委員会の証言台に立った。しかし、それは委員会の小委員会による聴聞であって公開はされなかった。赤狩りの膨大な資料集「裏切りの30年」を編集したエリック・ベントリーはこう書いている。・・・委員会はエリア・カザンをやさしく取り扱った。カザンは、1952年1月14日の委員会の常任会議で証言したが、その証言内容はこれまで公表されていない。ここに掲載する証言(4月10日のもの)でさえ、カザンを聴衆から保護するため、本来は同様の会議が行われ、1日遅れて1952年4月10日に新聞発表されたものである。その非公開聴聞会はこのように始まった。小委員会の議長はフランシス・E・ウォルター議員、委員会の顧問弁護士であるフランク・S・タヴェナーがカザンに質問を始める。タヴェナー カザンさん、あなたは1952年1月14日常任会議で委員会に証言しましたね?カザン そのとおりです。タヴェナー その聴聞のとき、およそ17年前、あなた自身が共産党員であったことと党内でのあなたの活動に関しては、完全に証言しましたね?カザン そのとおりです。タヴェナー しかしそのとき、他の人の活動に関するどのような資料も委員会に提出することを断り、党内でのあなたの活動に関係のあったほかの人びとが誰であるかを証言することも断りましたね?カザン 他の人たちのほとんどについてです。幾人かは名前を挙げました。タヴェナー しかしそのときは、全部の名前を挙げるのを断りましたね。カザン そのとおりです。タヴェナー さて、私の理解しているところでは、あなたは自発的に委員会に対して聴聞会を再開し、あなたが共産党時代に知っていた他の人たちについて、完全に説明する機会を与えてほしい、と要請しました。カザン そのとおりです。私は十分かつ完全な陳述を行いたいのです。私が知っているすべてをお話ししたい。タヴェナー それで、ここでの証言の準備のために、あなたは自分の持っている情報資料を思い起こし、整理するために大変な時間と努力を費やしましたか?カザン そうです。大変時間がかかりました。タヴェナー あなたの言う十分かつ完全な陳述を文書の形で用意していますか? 委員会に提出できますか?カザン はい、そういうステートメントを準備しています。カザンは、1952年4月9日付、非米活動委員会あてのそのステートメントを提出したが、このステートメントには長文の宣誓供述書をつけており、その口述書のなかで、自分が共産党に入り、かつそこから脱党したいきさつ、その間に接触した共産党員の名前をあげ、さらに自分が関係した演劇と映画の作品すべてについて、ひとつひとつ注釈と弁明をくわえている。そのリストのなかには、マーロン・ブランドが出演した「欲望という名の電車」も「革命児サパタ」も含まれていた。(2015)監督・スティーブン・ライリー、製作・ジョン・バトセック、R・J・カトラー、ジョージ・チグネル、製作総指揮・アンドリュー・ラーマン、脚本・スティーブン・ライリー、編集・スティーブン・ライリー、原題・Listen to Me Marlonキャスト・マーロン・ブランド(声の出演) 年に一度あるかないかのタイミングで、気が向いたとき発作的に部屋の大掃除をすることがあります。ですので、そもそも一般的な年末の大掃除など、自分にはハナから無縁の話です。常日頃、配偶者から「自分の部屋くらい、少しは片づけてよ」と口うるさく言われていて、特に雑芥ゴミ一斉回収日の火曜日になると、嫌みったらしく部屋をのぞきにきて、「あれ、もう捨てられるんじゃないの」などと積読本とか映画のカタログの山を見て無理難題をほざいたあとにお約束の言葉の応酬があり、さいごは当然無視してやり過ごすという感じになります。そこは、「蒋介石は相手にせず」の毅然たる態度をもって一貫した決意でのぞんでいるところであります。だいたい、いまだにワタシの歪んだ性格というものを一向に理解しようとしない証拠となるそのひとことが、なおさら当方に片づける意欲を失わせ、意地でも片づけてなどやるものかという確固たる決意を呼び覚まし、人間として意地には意地で対抗することになってしまうあたりの道理というものを理解しようとしないかぎりは、この内戦はどこまでも止むことがないという感じでしょうか、彼女があのボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の愚かしい戦いから教訓としてなにひとつ学び取っていないということが、とても残念でなりません。あるいは、韓国をナミの民主主義国家と思い違いしているからカノ国をうまく扱えないだけであって、「北朝鮮」と同じ意味での「南朝鮮」と冷静になって観察すれば、三権分立なきあの想像を絶するような低劣にして不可解な国のすべてがすぐにでも理解できようというものです、椎名町に対する南長崎みたいなものじゃないですか、それにあの奇怪な整形同顔仮面グルーブの慰安婦集団、少女時代、TWICE、BLACK PINKなどにしても、よく見ればまさに形を変えた北朝鮮の喜び組(歌踊組・幸福組・満足組)と同じ発想で、あたかも今どきの楽曲とルックス、衣装と振りに惑わされなければ、そこに見えてくるものはお仕着せの軍服を着込んで粛清の恐怖に怯えながら機械仕掛けのように行進している笑顔仮面の北朝鮮女性兵士となんら違わない同じタイプの個性を欠いた薄気味悪い女兵士だということがおのずから分かろうというものです。愚民どもの顔色ばかりをうかがい、司法までも崩壊させて権力の走狗にしてしまうような愚かしい虚偽とでっちあげの国に民主主義なんて最初から存在するはずも、定着できるはずもないのです。「どこまで言う気、もういいからね」「あ、そう」というわけです。さて、今回、その大掃除に着手した直接の切っ掛けというものがありました。先日、久しぶりに新宿で重篤な病気から生還した旧友と再会して、おいしいお酒を飲みながら(病後の彼が飲んでもよかったものかどうかは、かなり疑問です。いまごろ具合が悪くなっていなければいいのですが)、昨今の映画の話をしているうちに、彼が「いままでのことを少しずつ整理している」らしいことを知り、自分もなにか実のあることをしなければいけないな、とぼんやり考えたことが切っ掛けといえば切っ掛けだったかもしれません。部屋を占領している「積読本」の方は読了しない限りは処分するわけにはいかないのでどうにもなりませんが、「カタログの山」の方なら、整理していけば、ある程度の処分はできるかなと考え、早速、その仕分け作業に取り掛かりました。試写会や劇場で見たあとで手に入れた映画のチラシやカタログをあちこちにほったらかしにしているうちにゴミ化してしまい、それ以後、ただの一度として読み返したことがないという惨憺たる状態です。だいたい、そのカタログのなかには、キューブリックの「2001年宇宙の旅」があるくらいですから、「おして知るべし」というか、「なにをかいわんや」という感じでしょうか。そんなふうに整理をすすめていたとき、その「カタログの山」から珍しいものを掘り出しました。表紙には、「文芸座・文芸地下劇場 第2回フィルムフェスティバル」と書いてあり、さらにその下には「特集・監督自身が執筆した自作映画の解説=邦画篇」という小見出しもある十数頁のごく薄い小冊子でした。あっ、これ、覚えてる、懐かしいじゃないですか。自分にとっては、文字通り、実に懐かしい「掘り出しもの」でした。表紙の左上には、拳銃を片手に構えている若きジャン=ポール・ベルモンド(たぶんジョゼ・ジョバンニの「ラ・スクムーン」だと思います)が載っていて、中央にはペンをくわえているアンヌ・ヴィアゼムスキー(これは、「中国女」のポスターそのままなのですぐに分かりました)がおり、その下には横転している自動車が燃えている写真(「中国女」の下にあるのですから、これは当然ゴダールの「ウィークエンド」に違いありません。)が掲載されています。なるほど、文芸座の方は「フランス映画特集」というわけですね、そして、裏表紙を見ると発行日は、なんと昭和51年5月11日とあります、マジか! と驚き、近くの電卓を引き寄せ、あらためて引き算をしてみました。え~っ!! なななんと43年とか経っているじゃないですか。それにしては、ゴダールって、まだ死んでないよなあ、なんてね。これはたちの悪い冗談です。いえ、ついあの「フランソワは死んだかもしれない。わたしは生きているかもしれない。だが、それにどんな違いがあるというのだろう?」を思い出してしまったものですから。そうですか、そうですか。その失われた膨大な時間が自分の目の前を轟音を立てて走馬灯のように逆流し(走馬灯が逆流するってか???)、しばし呆然となり、しばらく虚空を見あげてしまいました。位置的にいえば、天井の隅、廻り縁が合わさるあのあたりです。しかしまあ、経ってしまった年月を、いまさら悔いてみてもどうなるものでもありません。気を取り直して裏表紙に掲載されている「文芸座」と「文芸地下」で行われたという上映プログラムを眺めてみました。ちょっと転写してみますね、なんといっても、このくらいの時間が経てば、単なる文字列とはいえども、もはや熟成を遂げた一種の立派な民俗学的な価値のあるものです、そうに違いありません。もうこうなった以上、のんびり掃除なんかしている場合じゃありませんから。掃除なんかしなくたって、べつに人間たるもの、死にゃあしませんし。そうだ、そうだ、ばかやろ~。【文芸座スケジュール】19765.11~5.16 「中国女」「ウィークエンド」(ともにゴダール)5.17~5.19 J・ドレー「ボルサリーノ」、J・ジョバンニ「ラ・スクムーン」5.20~5.22 ルネ・クレマン「禁じられた遊び」、アラン・レネ「二十四時間の情事」5.23~5.25 トリュフォー「映画に愛をこめて アメリカの夜」、アンリコ「ラムの大通り」5.26~5.28 P・コラルニック「ガラスの墓標」、J・ロートネル「狼どもの報酬」5.29~5.31 J・ドミー「シェルブールの雨傘」、C・ルルーシュ「男と女」【文芸地下スケジュール】19765.26~5.31 「無人列島」「GOOD-BYE」「王国」(ともに金井勝)6.1~6.3 原将人「初国知所之天皇」6.4~6.6 大和屋竺「裏切りの季節」、足立正生「略称 連続射殺魔」6.7~6.9 藤沢勇夫「バイバイラブ」、大森一樹「暗くなるまで待てない!」6.10~6.12 内川清一郎「一寸法師」、中川信夫「地獄」6.13~6.15 土本典明「不知火海」、小川紳介「どっこい! 人間節」これって、一向に古びていない、すごいライン・アップですよね。実際にこれらの作品を見た1976年という年を考えるなら、「不知火海」や「どっこい! 人間節」などは、まさに最新作だったでしょうし、このリストのなかで、一番古い作品というとルネ・クレマンの1952年の「禁じられた遊び」だと思うのですが(見た当時でさえも、ずいぶん古い作品だという認識はあったと思います)、それでも1976年という時点からすれば、たった24年前の映画だったわけですし。なんだか、そういうふうに考えると感無量(時間の経過と作品の普遍性)という感じがします。ここにライン・アップされている作品は「現代」という時点から見ても、その存在感は確固たるものがあって、自分の中ではいまだ古びた感じは一向にしないのですが、2019年といういま、僕たちが現在見ている映画たちが、どれだけ時の流れに抗して風化することなく、1976年に見たこれらの作品と同じように、確固たる存在感を保ち続けて未来の時間を生き残ることができるだろうかと考えたとき、たぶんそのほとんどは「無理」だろうなという残念な確信に捉われました。そこではじめて気がついたことがあります。このプログラムには、上映された邦画の監督たちが、それぞれコメントを寄せていて、自分はそれを漫然と読んでしまっていたのですが、そこでハタと気が付いたことがありました。自分が書籍の編集者だった現役のころ、友人から頼まれてある作家の全集を作る下準備として諸々の雑誌に書き散らしたコラムを丹念にひとつひとつ拾い集めるという作業を手伝わされたことがありました。大作家と言えども食うや食わずの駆け出しの時代には、生活のためなら注文があれば、どんなにつまらない仕事でも、匿名でエロ雑誌のカラー頁に書いたコラムや名もない業界誌、市民広報などに匿名で書き散らしたコラムまで丹念にあたって調べ上げ、拾っていくという気の遠くなるような作業でした。あたる雑誌というのは、当時、奥さんという人が家計簿に収入として細かくつけていたリストがあったので、そのリストが手掛かりになっていたので無闇矢鱈に調べたというわけではありませんでしたが、当然、そのなかには最初から全集などに収録できるわけもない猥雑な小文とか無内容なものも相当あり、最初から採用されないと分かっているものでも、採用の有無は上の機関がするということで、自分たちの仕事は、あらゆるもの「すべて」を蒐集することだと命ぜられた実に徒労感に満ちた仕事でした。この文芸座・文芸地下のカタログを読んでいたときに、ふっとそのときの記憶がよみがえってきたので、このようなカタログに載ったような、たとえ小文だったとしても、そこはきちんとデジタルで残しておくべきなのではないかとふと考えた次第です。この特集上映のために署名入りの作品解説を寄せた監督は3人いて、原将人「ぼくのスクリーンサイズ ―『初国知所之天皇』文芸地下上映に寄せて―」内川清一郎「一寸法師雑感」中川信夫「『地獄』いろいろ」とあるのですが、自分的には、もっとも鮮烈な記憶の中に生き続けている「初国知所之天皇」の原将人の作品解説(原文)を書きとどめておきたいと思います。★原将人「ぼくのスクリーンサイズ」 ―『初国知所之天皇』文芸地下上映に寄せて― 原 将人ぼくは一番前で映画を見るのが好きだ。一番前に坐ってぼくの視覚を全部スクリーンが占めなければ気がすまない。前に他人の頭があると見た気がしないくらいだ。だから、ぼくは映画はフィルムと光があればそれですべてで、それ以外のこと、例えば制作条件のこと、上映の形態のことなどは、言い切ってしまえば、個人的な好みの範疇に属するにすぎないとまで言ってきた。そんなぼくが『初国知所之天皇』を撮ってからというもの、自分で映写技師をやりながら上映してきた。初めの頃はぼくの視覚を全部占めないスクリーンサイズに苛立った。そして、スクリーンの一番前で自分の映画を見たいと何度思ったことだろう。16mmにブローアップしたことのひとつにもそのことがあった。ブローアップは自分で簡単なプリンターを組み立てて、スクリーンを撮影するのではなく、直接8mmのフィルムのコマを撮影していったので、鮮度をまったく損なわずブローアップすることができた。8mmの粒子の荒れをそのまま16mmに置き換えることができた。一番前の座席で粒子の荒れた画面を凝っと見ていると、粒子の荒れやボケが不思議な魅力を醸し出し、キチンとした35mmの画面より、よりリアルなものを感じられたのだった。でも、一番前の座席でゆっくりと見ることのできたのも試写の時だけで、その後はやはりぼくが映写技師をやらなければならなかった。でも、16mmの映写技師は本当に映写技師だ。8ミリのようにスピードを自由に選んだり、音楽やセリフを流すところもその時の気分だったり、あたかも映画を演奏するようにはいかない。やはり自分で映写するには8mmでなければおもしろくないし、ぼくが映写する意味もない。いまではもっと映画を演奏したい気分でいっぱいで、ギターも少し弾けるようになったので、音楽も生演奏でやることにした。自分でギターを弾きながら、8ミリと、16mmが少し混じったオリジナル版を映写していると、テープの音を出す箇所を間違えたり、テープを止め忘れたりする。以前だと、止めたり巻き戻したり、あるいはヘッドホーンでモニターをしながら必死になって合わせたりしていた。音を出す場所とか、フィルムのスピードとかは毎回微妙に異なるのだが、そんなふうにして手動同調によってある範囲よりは大幅に異ならないようにしていた。でもいまは、間違ったり、止め忘れたりしても、あまり慌てたりせず、そのまま次の切れ目まで見送ってしまっている。それはもっと毎回毎回、異なった完成の仕方をする『初国知所之天皇』を楽しむことができるようになったのだろうし、それ以上に、毎回毎回、音がズレたり、演奏が全然異なったりしながらも、スクリーンの上に確実に存在しているふわふわした魂みたいなものがはっきりと見えるようになったからに違いない。『初国知所之天皇』を撮り終えてから3年になろうとしている。そして漸く新しい大作に取り掛かることができそうだ。時間は決して直線に流れているのではない。その3年の時間のへだたりによって、また新しく撮り始めようとしていることによって、自分が3年前撮影していたとき、何をやろうとしていたのかが、ふっと後ろに纏い付いている影のような自分の姿がはっきり見えるような気がする。『初国知所之天皇』は舗道に映ったぼくの影から始まる。そして延々とぼくの撮影した日本の風景と時折ぼくの姿が映し出され、そこに少々たどたどしく少々廻りくどいぼくのナレーションがかぶさり、それが時折は撮影しながらぼくが作った唄だったりする。それがオリジナル版では8時間・16mmリフレイン版では4時間も続くのだけれども、そのなかでぼくはずっと大切なことを、しかもそれだけの時間を必要とする大切なことを言い続けてきたのだろう。ふっと付き纏っている影というような漠然とした言い方しかできないが、ぼくはいまはっきりとそれを見ることができる。オリジナル版で8時間、16mm版でも4時間もあれば、あまり窮屈でないところでゆっくりと、できれば寝っ転がって見れれば一番いいにきまっている。だから、いままでも上映する場所とか雰囲気に非常に気を使ってきた。でも、一方では、どんな場所であれ大勢の人に見てもらいたいと思う。たとえ同じ場所でも、どこの座席で見るかによって印象は異なるし、見る人のその時のコンディションによっても異なるのだから、上映する場所とか雰囲気に気を使いだしたらきりがない。だから、どんな場所でも見える人には見えることと、映画にそうした条件を超える力があることを信じるしかない。そして、大勢の人に見てもらうには映画館ほど相応しい場所はない。8mmオリジナル版のライブ演奏による上映を始めたいま、それと並行して16mmリフレイン版がこれを機会に、どんどん映画館とか大きいところで上映されて、出来得る限り多くの人たちに見てもらえればうれしいと思う。【おまけ】2011-02-01 ★『初国知所之天皇』が甦る 原 將人1990年代の初頭の頃、私は来日したジョナス・メカスさんに初めてお目に掛かり新宿のナジャで指圧をして差し上げた。指圧が終わってからメカスさんが言った。「原クン、お礼にいいことを教へてあげやう。映画はアルタミラとラスコーの洞窟壁画から始まったんだよ」燃え盛る焚き火の炎に、けふの感謝と明日の狩猟の願ひと祈りを受けて、うたとともに、揺れ動いてゐた、牛や手の洞窟壁画こそ映画の始まりだったのだ。20代で8ミリに出会ひ『初国知所之天皇』のライブ上映により、映画の始源を追ひ求めてきた私にとって、その言葉はまさに啓示だった。現在は無い。有るのは過去と未来ばかりで、現在はその接点に過ぎないと言った哲学者がゐたが、ライブとは未来を過去にしていくその接点の軌跡だ。映画の撮影は未来を過去にしてゆく作業で、いはば記憶づくりだ。そして、上映は過去を未来に差し戻し、映画館といふ場所での集合的な記憶にしてゆく過程だ。20世紀に産業として成立した映画にはそれができなかったが、映画にはライブといふ形式こそ理想なのだ。願ひと祈りの場所の記憶の集積。映画は想起すべき過去を伴ってこそ、語り継がれる記憶となる。私がライブ上映にこだはる理由はそこにある。しかし、1973年にライブ映画として一世を風靡した『初国知所之天皇』は、30数年の長きにわたってそれができなかった。今回それが復活するいきさつは次ぎのやうなものである。30数年前私は火事に遭った。分厚いプラスチックの大きなリールに巻かれた『初国知所之天皇』のオリジナルの8ミリフィルムは、変型したリールとケースの殻に包まれて一塊の異物と化してゐた。幸いラボに置かれた、ブローアップした16ミリは無事だったので、その後の上映はすべて16ミリ版でまかなってきたが、私は異物と化していた8ミリの塊を自分の分身の遺骨のやうにして、引っ越す度にも捨てずに持ち歩いてきた。「ゆく河の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」と、無常感に浸るには、私は余りにも若過ぎたのだった。だが、皮肉なことに、2006年の富士フィルムの8ミリ製造中止のニュースによって、やうやく、この世の無常を思ひ知らされた。私は意を決して一塊の異物となった『初国知所之天皇』のオリジナルフィルムをハンマーで割ってみた。なんと異物と化してゐたのはリールとケースばかりで、フィルムそのものは無事だった。巻頭部分の変形こそ痛々しかったが、それを過ぎるとほぼ30数年前と変はらぬ状態でプラスチックの殻に守られてゐたのだった。私はそのハイライト部分を『初国の旅』と名付け、それを中心にして3面マルチを組み『マテリアル&メモリーズ』といふライブ作品を編んだが、3年間のライブ上映を繰り返すうちに『マテリアル&メモリーズ』は増殖し、『初国の旅』が無くても成立するやうになった。そして、キッドアイラックホールといふ1970年代の記憶を共有するのに最適な場所も見つかった。そんな折も折、宇波拓、テニスコーツを中心にした音楽サポートの申し出を受け、40年振りに『初国知所之天皇』のライブ上映が復活することになった。アルタミラロとラスコーから始まった映画の記憶を甦らせたいと心から願ひ祈るばかりである* * *☆原 将人(正孝改め)1950年(昭和25年)7月15年生まれ。東京都目黒区出身、1968年(昭和43年)、高校在学中に映画『おかしさに彩られた悲しみのバラード』により第1回東京フィルム・アート・フェスティバルグランプリ、8mmATG賞を同時受賞した。17歳の映画作家誕生ということで話題を投げた。昭和44年麻布高校卒業。その後の作品には、「早川義男自己表現史」1970、「東京戦争戦後秘話・予告編」1970(脚本のみ。監督は大島渚)がある。1973年(昭和48年)『初国知所之天皇』(はつくにしらすめらみこと)で8mm映画の新しい地平を開き、後進たちに勇気と希望を与え、数えきれないほどの作家、監督を輩出した。1975年(昭和50年) 初国知所之天皇 リフレイン1979年(昭和50年) ユリシーズの不思議な旅(ビデオ作品)1980年(昭和54年) 初国知所之天皇 アゲイン1982年(昭和57年) 人間・0歳の周辺1983年(昭和58年) らいちょうのうた1985年(昭和60年) C・W・ニコルの世界(テレビ番組)1993年(平成5年) 百代の過客1994年(平成6年) 初国知所之天皇 1994年版1996年(平成8年) 101年目の映画へ(テレビ番組)1997年(平成9年) 20世紀ノスタルジア(初の商業映画『20世紀ノスタルジア』で、第38回日本映画監督協会新人賞を受賞)1997年(平成9年) ロードムービー家の夏(金子ともかず、小沼亮子との共同監督)1999年(平成11年) 原発通信(はらはつうしん、ビデオ作品)1999年(平成11年) 豊饒のバッハ2002年(平成14年) MI・TA・RI!(第1回フランクフルト国際映画祭観客賞受賞)2015年(平成27年) あなたにゐてほしい Soar参加作品薔薇の葬列(1969年)東京战争戦後秘話(1970年)オレンジロード急行(1978年)急にたどりついてしまう(1995年)著書見たい映画のことだけを(有文社)父と子の長い旅(フィルムアート社)20世紀ノスタルジア(扶桑社)【初国知所之天皇(はつくにしらすめらみこと)】『初国知所之天皇』は、1973 年、当時23歳だった原將人(正孝)によって発表された。8ミリ+16ミリの作品で、『古事記』と『日本書紀』をベースにした北海道から鹿児島まで旅する 壮大なストーリであるとともに、神話的世界の国づくりが映画づくりに重なり、国家と個人が統合される。1973年に同一スクリーンに8mmと16mmの2種類の映写機によって交互に映写していく上映方式によって公開され、大きな反響を呼んだインディーズ映画の傑作「初国知所之天皇」の1994年ニューバージョン。1971年、日本の神話〈古事記〉に材を取って撮影を始めた16mm劇映画「初国知所之天皇」は半ばにして挫折するが、翌年、原監督はひとりで8mmカメラを手にして撮影できなかった撮影予定地をまわる旅に出る。その映画を撮るという行為そのものを記録した、作家による作家自身の映画日記、映画についての映画が「初国知所之天皇」である。1973年上映時は6~7時間の上映時間であり、その後1975年には16mm作品として4時間5分バージョンが、また1980年には2面マルチ映像による2時間の再編集版が作られた。ニューバージョンは1975年版を2面マルチヴァージョンとして1時間48分に再編集したもので、1993年の山形国際ドキュメンタリー映画祭に特別上映された。 この作品「カメラを止めるな!」の存在を知ったのは、町山智浩がラジオで紹介していたのを、たまたま聴いたのが最初だったかもしれません。それとも、新聞が報じていた記事「公開当初は、たった2館のみで上映されたこの作品の観客動員数がものすごくて、上映館を一挙に100館超えで全国拡大した」を読んだのが、あるいは最初だったのか、いまとなっては思い出すことができませんが、いずれにしても、従来なら、金に飽かした映画会社の誇大広告の猛烈な攻勢によって、作品そのものとは別の次元で空疎なイメージをでっちあげ、とにかく投資資金の回収だけはしなければと、必死になって集客をあおる詐欺まがいの営業戦略にすっかり慣れきってしまっている僕たちにとって(そこでは、提供された粗悪な作品を実際に見たあとでお約束どおり「あの映画、それほどでもなかったよ」とガッカリ失望することさえもセットになっていたくらいです)、しかし、この「カメラを止めるな!」は、ここ何年もついぞ経験したことのない、いや、あったとしてもすっかり忘れてしまったほどの時間が経過した、観客の側から盛り上がった鮮烈な「草の根的な現象」だったと思います。あのとき、町山智浩は、たしか、映画の後半は「ネタばれ」になるから話せないとか言っていて、内容の詳細にわたる言及までは避けていました。以後のネットの書き込みを注視していても、次第にこの作品の大まかな骨格は分かってきましたが、やはり「ネタばれ」は避けるという姿勢だけは貫かれているようでした。そのたびに、いったい「ネタばれ」ってなんなんだという苛立ちが、自分のなかに積みあがっていくのを感じました。以前、映画の惹句のひとつのスタイルとして、「この映画を見た人は、まだ見てない人に、映画の結末を絶対に話さないでください」というのがありました。自分の記憶では、その惹句を最初に使った作品は、たしかヒッチコックの「サイコ」だったと思いますが、そもそも、映画「サイコ」が、最初から「犯人」を知ってしまったからといって、どうこういうタイプの作品なのかという苛立たしい疑問(まさかミステリー映画じゃあるまいし)がずっと自分の中にあり、収益をあげなければならない映画会社としては、謎解きを楽しむミステリー映画と宣伝したほうが分かりやすく売りやすいと考えたくらいのことは自分にも見当がつきましたが、しかし、ヒッチコックのあの傑出した作品「サイコ」を、なにも「犯人さがし」の映画にしなくたってという苦々しい思いは常にありました。その程度のことなら、なにもわざわざトリュフォーの見解を確かめるまでもありません。この映画「カメラを止めるな!」にしても、ケチな「ネタばれ」なんかに気をとられるよりは、入れ子細工のように工夫を凝らしたアイデアの重層的な部分をもっと楽しめばいいと思います。まあ、そんな感じで、すぐにも見てみたいと思ったものの、折あしくその時期がちょうどアカデミー賞選考の前哨戦で盛り上がっていた真っ最中でもあり、誰もがアカデミー賞に再び「メキシコの風」が吹きまくるのではないかという期待と噂でもちきりになっていたときなので、ついつい自分も「オスカー・レース」の追っ掛けに入れ込んでしまいました。結論的には、アカデミー賞は、やはり「アメリカ・ファースト」でしたが、そうしたゴタゴタのなかでは映画「カメラを止めるな!」を見るまでの余裕がなく、そうこうしているうちに、ついに地上波の放映に先を越されてしまったというわけです。しかしまあ、何だかんだいっても、どんな形ではあれ、とにかく映画は見さえすればそれでいいのですから、長い間見ることを先延ばしにしていた期待の作品を、こうしてようやく見ることができました。しかし、いたずらな「先延ばし」が、功罪を伴うということは言えるかもしれません。確かに、その間に、聞かなくて済んだかもしれない(明らかにまともでない)多くの人の感想を「まともに」聞いてしまったということはありました。例えば、そのなかには、聞き捨てできないような、こんなコメントもありました。「この作品、キネ旬のベストテンには入らなかったんですよね。その程度の映画なんだなと思いました」と。おいおいおい、ちょっと待てえや、あのな、ええか、ベストテンとか選ぶために雁首ならべているあの連中・選考委員とかいう奴らをよく見てみろや、な、ろくな奴いてへんやん、自認しているかどうかはともかく、彼らに課されている役割というのは、ただ「平均点」を出すこと、彼らの雑多な意見が均されて「平均」になるのではなくて、メジャー的な発想で最初から均された意見しか持ってない者たちを並び立てているのみと見るべきであって、映画「カメラを止めるな!」がキネ旬の何位にランクされたかなど、ここでは全然異次元の、問題とするにさえ値しない。ここで大事なことは、インディーズがメジャーを一瞬でもおびやかしたということがキモなんだよ。このメジャーの大資本とインディペンデント映画が、互いを決して容認も理解もしなかったという事例なら、アメリカに恰好な記録があります。1958年、ニューヨーク派の巨匠ジョン・カサヴェテスは、インディペンデント映画の傑作「アメリカの影」を撮ります。従来のハリウッドの描くニューヨークが、軽妙洒脱な華やかな「都会」を描いたのに対して、カサヴェテスは、当時タブー視されていた有色人種と白人の葛藤を暗く重厚なタッチで鮮烈に描いて、ニューヨーク派に深刻な衝撃と高い評価を得ていました。シドニー・ルメットの「質屋」が撮られたのが1964年のことですから、その挑発的な先見性と戦闘性には実に驚くべきものがあったと思います。当初、ジョナス・メカスも絶賛したひとりだったのですが、しかし、その「絶賛」は、すぐに「罵倒」に代わりました。メカスが絶賛したのは、上映時間60分の16mmオリジナルヴァージョンの方で、罵倒の対象になった作品は、カサヴェテスが作品を分かり易くするために再編集した上映時間87分35mmブローアップ版で、こんなものは単なるハリウッドにおもねった「悪しきコマーシャル映画でしかなく、インディペンデント精神の放棄にすぎない」と腹立たし気に罵っています(メカスの映画日記20~23頁)。しかし、35mmブローアップ版しか知らない僕たちには、この檄文を複雑な思いで読むしかありませんが。つまり、自分の言いたいことは、メジャーの大資本とインディペンデントがつくる映画には、理解し合えない溝があるのが当然で、インディペンデントでなければ表現しえないものがあることを自覚・自認すべきと考えた次第で、映画「カメラを止めるな!」がベスト・テンに入らなかったのは、むしろ当然だと思うくらいでいいのだと思います。そこで、ちょっと前に出た「キネマ旬報」2月下旬号(ベスト・テン発表特別号)を引っ張り出しました。実は、この号、自分的には「永久保存版」という位置づけで毎年買っているのですが、文字通り、ただ保存しておくだけで、買って以後開いたことがありません。そしていつの間に書棚から姿を消してしまいます。以前ならデータ満載の資料として貴重な雑誌だったのでしょうが、ここに掲載されているくらいのことは、いまではインターネットで容易に検索できてしまいます、あえて見る箇所があるとすれば、11位以降のランキングを知りたいと思うときくらいかもしれません。さっそく、映画「カメラを止めるな!」が、はたして何位にランクされているのか、確かめてみました。ふむふむ、17位ですか、これだってすごいことですよ、まさに快挙といっていいくらいです。そこで、選者たちが「カメラを止めるな!」を何位にランクし、またどう言及しているか、ピックアップしながら最初から読んでみました。「素朴な映画愛のためらいのなさがいい」8位(内海陽子・映画評論家)「映画館で感じた熱量もふくめて」10位(大久保清朗・映画評論家)「2018年の映画界最大の話題は『カメラを止めるな!』現象でいいとして、それは実質的側面を代表する作品ということにはならない」10位(大高宏雄・映画ジャーナリスト)「『カメラを止めるな!』も外れましたが、すでに十分すぎる評価ではないでしょうか。」ラン外(尾形敏朗・映画評論家)「エンタテインメントとして楽しんだ」10位(川本三郎・批評家)「上田慎一郎の『カメラを止めるな!』・・・など新人の挑戦に刺激を受けた」と名をあげながらも無視(金原由佳・映画ジャーナリスト)7位にランクするもコメントなし(黒田邦雄・映画批評家)「特記すべき長編初監督作として上田慎一郎の『カメラを止めるな!』・・・をあげておく」9位(轟夕起夫・映画評論家)「『カメ止め』ブームが象徴しているように、衝動に駆られて製作した作品、撮ることの喜びと苦悩が溢れ出ていた作品が力を発揮していた。」といいながらランク外(中山治美・映画ジャーナリスト)「どう考えても『カメラを止めるな!』以外のベスト・ワンは思いつかず、評判になってから『大したことはない』という声も聴きましたが、『大したこと、大あり』でしょ」1位(野村正昭・映画評論家)「『カメラを止めるな!』・・・はすべて新人監督。」4位(平辻哲也・ジャーナリスト)「平成最後のキネ旬ベスト・テンを象徴するかのようにジャパニーズドリームを見事に成し遂げた『カメラを止めるな!』に軍配を上げようと思っていたが・・・」2位(増當竜也・映画文筆)「2018年の日本映画界を語るうえで欠かせない『カメラを止めるな!』は、自主映画に近い製作体制で作られたインディーズ映画。論壇だけでなく興行面においても圧倒的な熱を帯び、100年先に映画史を振り返る際にも時代の指標となるだろう。同時に、瀬々敬久や白石和彌などメジャー映画会社で実績ある監督も、自主映画に近い製作体制で作品を発表したことを忘れてはならない。いま日本映画界が考えるべき問題は此処に存在しているからだ。」といいながらランク外(松崎健夫・映画評論家)10位にランクすれどもコメントなし、こういう二枚舌使う卑劣なヤカラがヤバイのだ(三留まゆみ・イラストレイター)「興行的には『カメラを止めるな!』が話題を呼んだが、作品的には弱い印象がした。」興行的ってさあ、メジャーは「興行的に」狙っているのに当てられなかったわけだろ! そこを言ってんの、アホ。ランク外(村山匡一郎・映画評論家)7位にランクすれどもコメントなし、7位(吉田伊知郎・映画評論家)「前半は少し退屈な『カメラを止めるな!』だが、映画作りにはまだ一獲千金の夢があることを教えてくれたことへの感謝をこめて」10位(渡辺祥子・映画評論家)5位にランクすれどもコメントなし、5位(渡辺武信・映画評論家)こう読んできて、一応まともなのは、野村正昭、松崎健夫、渡辺祥子くらいで、あとの連中は、お仕事ほしさに大手資本の顔色をうかがってヨイショすることに窮々としているだけで、こんな愚劣な連中がもっともらしく採点しているわけですから、何位になろうと別に気にすることはありません。ちなみに、この号の「日本映画採点表」のいちばん最後に載っている映画は、107位の「真っ赤な星」、そして、この作品を映画評論家・秋本鉄次という人が10位にランクし1ポイントを計上したことによって107位にランク・インさせて、ランキングの末端で攪乱を狙ったわけですが、これがそもそもどういう映画かというと、≪国内外で注目を集める新鋭・井樫彩監督が、孤独を抱える14歳の少女と27歳の女性の愛の日々をつづったラブストーリー。田舎町の病院に入院した14歳の陽は、優しく接してくれる看護師の弥生に特別な感情を抱くが、退院の日、弥生が突然看護師を辞めたことを知る。1年後、陽は街中で偶然にも弥生と再会する。しかし彼女は現在、男たちに身体を売って生計を立てており、過去の優しい面影はすっかり消えていた。学校にも家にも居場所のない陽は、引き寄せられるように弥生に近づくが、弥生には誰にも言えない悲しい過去があった。孤独を抱える2人は、弥生のアパートで心の空白を埋める生活を送りはじめるが……。陽役を「みつこと宇宙こぶ」の小松未来、弥生役を「THE LIMIT OF SLEEPING BEAUTY リミット・オブ・スリーピング ビューティ」「娼年」の桜井ユキがそれぞれ演じた。≫なのだそうです。そして、この解説中にある同じ桜井ユキが出演した「娼年」も4位にランクして7ポイントを計上したことによって、「娼年」はみごと、54位にランクされました。54位になるためには、12ポイントというポイントが必要だったわけですから、この秋本氏の4ポイントがいかに効いたか、いかに寄与したかが、これだけで分かります。桜井ユキの親戚か、あるいは単なるストーカーかもしれず、いずれにしても「万引き家族」「菊とギロチン」「きみの鳥はうたえる」「寝ても覚めても」をさしおいて、「真っ赤な星」と「娼年」などに投票してしまおうという不自然さには、いかにもイカガワシイ人には違いないという印象をぬぐえません、親戚かストーカーかと勘繰りたくもなるというのも当然です。そういうひねくれた人たち(わたしは違います)が集まって選ぶベスト・テンです、なにもランク・インしなかったからといって少しも気にすることなんかありませんヨ。でも「キネマ旬報 ベスト・テン特集号」をはじめて有効に活用できて嬉しいです。この映画「カメラを止めるな!」は、ワンカットで映画を撮るという命題を与えられ、映画人が夢とプライドを呼び覚まされ、「映画」のために結束し、あらゆる困難を克服して映画を取り上げたという作品ですが、しかし、スポコンものとは違います。ワンカットで映画を撮りあげるということが、映画人のむかしからの夢だったからだと思います。思いつくままに長回しで著名な監督名をあげると、アスガル・ファルハーディーアルフォンソ・キュアロンアルフレッド・ヒッチコックアレクサンドル・ソクーロフアンドレイ・タルコフスキーヴィム・ヴェンダースオーソン・ウェルズカール・テオドア・ドライヤーギャスパー・ノエクエンティン・タランティーノジム・ジャームッシュジャ・ジャンクージャック・リヴェットジャン=ピエール リュック・ダルデンヌジャン=リュック・ゴダールジャン・ルノワールジョセフ・W・サルノスタンリー・キューブリック相米慎二タル・ベーラツァイ・ミンリャンデヴィッド・リンチテオ・アンゲロプロスブライアン・デ・パルマポール・トーマス・アンダーソンホウ・シャオシェンマーティン・スコセッシマックス・オフュルスミクローシュ・ヤンチョーミケランジェロ・アントニオーニ溝口健二三谷幸喜ミヒャエル・ハネケルキノ・ヴィスコンティロバート・アルトマンということになり、あげてみればきりがなく、枚挙にいとまがないという感じです、例えば、演技の高揚を止切らせることを嫌った溝口健二は、細かいカット割りをせずに、カメラを据えっぱなしにして俳優の演技をじっくりと追いました。何十回もダメ出しされた俳優たちは、どのように演じればいいか分からなくなり、心理的にも体力的にも追い詰められて、ついにパニックになって冷静さを失い、無我夢中で逆上気味に愁嘆場を演じたとき(演ずることを超えたとき)、はじめて溝口健二からOKがでたといわれています。反対に、小津監督は細かくカットを割ることによって、俳優には極力「演技」をさせませんでした。そもそも小津監督が俳優の演技というものを信用してなかったということはあったかもしれませんが、むしろ、無駄な動きを封じることでかもし出されるゆったりとした一連の動作と閉ざされた時間のなかに、日常生活を生きる人間の思いの深み(諦念とか失意とか)を表そうとしたのではないかと思います。この映画「カメラを止めるな!」は、ワンカットで映画を撮るという映画人にとっての至上命題が、それまでダレていた現場に、「活動写真」の歴史的モラルを思い出させ、映画を撮るために一致結束することの歓びを描き得たのだと思いますし、そうでなければ、僕たちにこれほどの感銘を与えることはできなかっただろうと思います。そうそう、この小文の最初に「この作品は、工夫をこらしたアイデアの重層的な部分をもっと楽しめばいい」と書きました。アップされた多くのコメントのなかに、この「カメラを止めるな!」をトリュフォーの「アメリカの夜」のパクリだと断じた意見を読みましたが、それにはちょっと首をひねらざるを得ませんでした。そのご仁が、映画製作の現場の舞台裏を見せるという意味において単なるメイキング・フィルムと印象したのだったとしたら、それは勘違いもはなはだしいと思います。かつての「メイキング・フィルム」というのは、巨匠とよばれる大監督が、かっこよく撮影現場をテキパキと仕切ったり、主役級の俳優たちが、あれこれと演技に工夫を凝らす様子を写したもので、しかもトリュフォーの「アメリカの夜」にいたっては、それぞれに「映画の記憶」を呼び覚ますという幸福な思い出に耽溺できる品格をそなえてさえいたことを思うと(その「映画の記憶」の具体例については、wikiから拝借して、末尾に貼りつけておきました。)、映画「カメラを止めるな!」とは、似ても似つかないものというしかありません。映画「カメラを止めるな!」は、監督不在(あるいは、ダレた監督なら、いなくとも十分やっていけるという皮肉)という現場で、スタッフのひとりひとりが自主的に動き、駆けずり回ることができたアナーキーなドキュメントであることで僕たちに感銘を与えることができたのだと思います。つまり、この監督不在のメイキング・フィルム(「メイキング・フィルム」だったとしたら、ですが)は、「アメリカの夜」というよりも、むしろ、これまでの映画においてはフレームからはずれ、決して目にすることのなかった裏方の名もないスタッフたちが、ストーリーの導き手として跳梁する黒子のような姿をはじめて白日の下にさらして描き切ったという、かつてならあり得なかった画期的な場面を僕たちは初めて目にすることができ、そしてそのことに感銘を受けたのだとしたら、それはやはり「アメリカの夜」などではなくて、篠田正浩の「心中天網島」こそが相応しいかもしれないなと思いはじめた次第です。【トリュフォーの「アメリカの夜」は、いかにして「映画の記憶」の夢を見たか?】★タイトルの『アメリカの夜』(フランス語の原題「La Nuit américaine」の和訳)とは、カメラのレンズに暖色系の光を遮断するフィルターをかけて、夜のシーンを昼間に撮る「擬似夜景」のこと。モノクロ時代に開発されハリウッドから広まった撮影スタイルであるため、こう呼ばれた。英語では "day for night" と呼び、この映画の英語タイトルも「Day for Night」となっている。映画のカラー化により使えるシーンが減少し、機材やフィルムの感度が上がって夜間撮影が難しいものではなくなった現在では、この撮影方法はほとんど使われないことになっているが、丁寧に見ていればときどき見られる。★映画のセットはワーナー・ブラザースの映画『シャイヨの伯爵夫人』(TheMadwomanofChaillot)に作られたものをそのまま使った。そのため9週間の撮影のために80万ドルという少なさで、しかもドル・ショックで実質的に72万ドルの価値しかなくなってしまった。★日本初公開時のタイトルは『映画に愛をこめて アメリカの夜』だった。1988年のリバイバル公開から『フランソワ・トリュフォーのアメリカの夜』に変更されたが、近年発刊されているデータベース本などでも『映画に愛をこめて アメリカの夜』で記載されてある場合が多いようである。★献辞で使われた映像は、D・W・グリフィス監督の『見えざる敵』。★フェラン監督が見る、少年がステッキで『市民ケーン』のスチル写真を盗む夢は、トリュフォーの少年時代の体験。『大人は判ってくれない』でも少年がポスターを盗むシーンがある。★フェラン監督は左耳に補聴器をつけているが、トリュフォーは補聴器をつけていない。だが、難聴であり、その理由もフェラン監督と同じである。★フェラン監督が注文した本は、ブニュエル、ルビッチ、ドライヤー、ベルイマン、ゴダール、ヒッチコック、ホークス、ロッセリーニ、ブレッソン。★冒頭でクレーン撮影を行うシーンがあるが、トリュフォー自身は大掛かりなクレーンは一度も使っていない。★『突然炎のごとく』でジャンヌ・モローが男たちがドミノに夢中で気を引くために「誰か、あたしの背中をかいてくれない?」というセリフを言った時、口調があまりにも自然だったせいか、小道具係が本当に背中をかいてやったというハプニングがあった。そのとき映画作りの現場を映画にするというアイデアを思いついたのだという。★猫が思い通りに動いてくれず、何度も撮影をやり直すシーンは『柔らかい肌』での体験。★ノイローゼ気味の女優が「ブール・アン・モット」という特製のバターを要求してスタッフが慌てるシーンは、ジャンヌ・モローが『エヴァの匂い』で同じ要求をしたという実話から。女優のわがままを象徴するシーンとなった。★「40本ほどの出演作品のなかで、12-13回は電気椅子にかけられ、刑務所生活は合計すると800年以上も送ったことになる」と語るアレクサンドルのモデルは悪役時代のハンフリー・ボガート。また、彼のモデルとしてジャン・コクトーもイメージされている。★劇中劇のストーリーはニコラス・レイ監督とグロリア・グレアムの『孤独な場所で』撮影などの間に実際に起こった事件がモデル(劇中劇では男女を逆にしている)。★フランス女優がセリフの代わりに数字を読み上げるというエピソードは、フェデリコ・フェリーニが『8 1/2』で使った手法。★彼女のセリフ「昔は女優は女優、ヘアメイクはヘアメイクだったのに」は、ロベルト・ロッセリーニ時代のイングリッド・バーグマンがよくこぼしたという文句。★ジャクリーン・ビセットをスタンリー・ドーネン監督の『いつも2人で』を初めて観て、使いたいと思って、彼女を念頭においてシナリオを書いていたので返事が遅かった時は本当に悲しかったという。彼女の人物は主に『華氏451』のジュリー・クリスティの思い出と、『恋のエチュード』の二人の姉妹のイメージが加わっている。★セリフを覚えられない女優のモデルは晩年のマルティーヌ・キャロル。★ヒロインの女優の告白をそのまま映画のセリフに転用してしまうエピソードは、『夜霧の恋人たち』で当時恋人だったカトリーヌ・ドヌーヴがトリュフォーに告白した言葉を『隣の女』でファニー・アルダン(彼女もトリュフォーとは恋人関係だった)のセリフにしてしまうことで現実のものとなった。これを見たドヌーヴもやはり「あきれたわ、みんな私のセリフじゃない!」と言ったという。トリュフォーには印象に残った言葉や体験をメモに書き留めて残しておく習慣がある。★アントワーヌ・ドワネルものではないが、ジャン=ピエール・レオがアルフォンスという役名で出てきて「女は魔物か?」ほかの台詞も他の作品から意識的に引用されている。トリュフォーは引用することによって明確に終止符を打ったのだという。★劇中劇のラストシーンで雪にしようというアイデアが出るところで、保険会社の代表で背の高いイギリス人が出てくるが、スクリーン・テストの時に「ヘンリー・グレアム」と名乗っていたが、途中から作家グレアム・グリーンだと分かる。ニースの別荘に招待してくれたが、ヒッチコックの評価をめぐって大論争になったという。名前を出さないこととスチル写真は撮らないことを条件に出てくれた。(2017)監督・上田慎一郎、脚本・上田慎一郎、プロデューサー・市橋浩治、撮影・曽根剛、録音・古茂田耕吉、特殊造形・下畑和秀、メイク・下畑和秀、ヘアメイク・平林純子、衣装・ふくだみゆき、編集・上田慎一郎、音楽・永井カイル、主題歌・鈴木伸宏、伊藤翔磨、メインテーマ・鈴木伸宏、伊藤翔磨、助監督・中泉裕矢、吉田幸之助、制作・吉田幸之助、スチール・浅沼直也、アソシエイトプロデューサー・児玉健太郎、牟田浩二、出演・濱津隆之(日暮隆之)、真魚(日暮真央)、しゅはまはるみ(日暮晴美)、長屋和彰(神谷和明)、細井学(細田学)、市原洋(山ノ内洋)、山崎俊太郎(山越俊助)、大澤真一郎(古沢真一郎)、竹原芳子(笹原芳子)、吉田美紀(吉野美紀)、合田純奈(栗原綾奈)、浅森咲希奈(松浦早希)、秋山ゆずき(松本逢花)、山口友和(谷口智和)、藤村拓矢(藤丸拓哉)、イワゴウサトシ(黒岡大吾)、高橋恭子(相田舞)、生見司織(温水栞)、 自分の主たる関心事は映画なので、ブログに何かを書き込むというと、どうしても「そっち系」の記事になってしまいます。ここ最近の書き込みを見ても、結果的には「アカデミー賞」関係の記事がズラズラっと並び、まるで映画賞の追っかけみたいな感じになっていますが、自分の生活実態にそくしていえば、決して「映画中毒」的な生活を送っているわけではありません。クラシック音楽を聴くのも好きですし、ジャズも大好きです。むかしから生ギターで謳いあげる黒人ブルース(シカゴ・ブルース)とかが好きなので、以前はその系統のLPレコードを集めていて、そこでマディー・ウォーターズと出会い、そこからはごく自然にレオン・ラッセルとかローリング・ストーンズとか、無理なくエルトン・ジョンも受け入れることができました。ビートルズがでてきた当初、同じイギリス出身ということもあってローリング・ストーンズと混同していた友人もいましたが、ローリング・ストーンズがシカゴ・ブルースの影響をモロに受けたアメリカ南部風のコテコテのロックンローラーであるのに対して、ビートルズは、クラシック音楽のテイストをもった純ヨーロッパ系の異色のグループだとすぐに見分けがついたことを覚えています。そんな感じでつい最近までLPレコードを愛聴してきたのですが、ここ最近は、とくに聴くための装置がなくても、だいたいの音楽はyou tubeで気軽に聴けてしまうので、それに満足さえできれば、とくに聴くための立派な装置など必要としないし、そもそもLPレコード自体を保有する意味も失われてしまったような感じがしていました。「物質」からその「必要性」がなくなってしまえば、あとに残るものといえば長い間保有してきたこと自体の「愛着」(むしろ、こちらの方が厄介な問題なのかもしれません)とどう折合いをつけるかだけの話ですが、自分を納得させられるメンタル手続きというか操作というか、その「愛着」の中に幾らかは占めているに違いない「物欲」を遠心分離器にかけて抜き取ってしまうという方法を試みてみました。もしかしたら、「愛着」と「物欲」を取り違えているのかもしれませんし、さらに、「愛着」なんて「物欲」の錯覚で、むしろイコールなのかもしれないじゃないですか、それって大いにあり得ることだと思います、そこのところを確かめてみたいと考えて、ある方法を試みました。しかし、なにもこんなふうに理屈っぽく考えなくたって、かさ張るLPレコードはそれなりの専用の保存場所を必要として、それでなくとも狭い空間に身を縮めて生活していかなければならない自分のような平凡な生活者にとっては、日常生活を狭めている物質の処理というものは切実な問題なのだという事実だけで、自分を納得させるのには十分な理由のはずなのですが。その「ある方法」というのは、去年あたりからですが、徐々に近所のリサイクルショップへLPレコードを売り払い始めました。メンタルを納得させるための「荒療治」です。そして、今年初頭にバスクラリネットのエリック・ドルフィーの名盤「アット・ザ・ファイヴ・スポット Vol.1」を最後に、ついにすべてのレコードの処分が完了しました。この処分計画をする直前に、もし、手元から所有していた「物」がすべてなくなるという状態になったら、ものすごい空虚感に襲われるかもしれないと想像していたのですが、実際に最後の一枚を手放したときも、それほどの喪失感には見舞われませんでした。たぶん、ひとつには、その買取り価格がものすごく安かったことにあったからかもしれません。以前、LPレコードがまたブームになっているというニュースを聞いたことがありましたが、どこの世界の話だと思うくらいの惨憺たる「安値」でした。その「安値」は、いまでは誰一人聴きもしないような時代遅れのレコードを後生大事に持ち続けていた自分の滑稽さを教えてくれました、それがひとつと、買取りの査定をした若い店員が、そのレコードを手に取って、同僚に「エリック・ドルフィーって、知ってるか」と聞いている無邪気な姿に、かえって救いを感じたのかもしれません、時代は移ろい、マイルス・デイヴィスもジョン・コルトレーンもアール・フッカーも「誰だ、それ?」と聞き返される時代に自分もそろそろ生きはじめているのだなということを実感した瞬間でした。それから「読書」というのも、自分の生活習慣の重要な部分を占めています。ただ、少し前と現在では、習慣としての自分の「読書スタイル」に大きな変化がありました。これはなにも自分に課していた規制というほどのものではないのですが、以前は、一冊の本を完全に読了しない限り次の本を読むということが、性格的にどうしてもできませんでした。しかし、一冊の本を読み切るためには、一本の映画を見るみたいに2時間やそこいらで済む話ではありません、ゆうに何日も何十日もかかる行為です。村上春樹の「騎士団長殺し」1部・2部を読んだ時など、正直、1か月かかりました。それでなくとも、むらっけの多い自分など、一冊の読書にかかりきりになっているその間、どうしても当初の緊張感がうすれ、次第に意識もはなれ、徐々に別の本に興味が移っていて、それがそのときの自分の正直な気持ちの実態なのに(それだって大切な「モチベーション」であることには違いありません)、それでも無理やり一冊の本の読書に自分を縛り付けていたということを繰り返してきました。考えてみれば、これって、すごくおかしな話ですよね。しかし、かといって、そのとき読んでいた本を放棄して別の本に切り替えてしまったら、それこそ本末転倒の話になってしまいます。そこで、こんなふうな方法を編み出しました、「複数冊・同時読書」です。「あんた、そりゃあ邪道だわ。いわば読書の禁じ手」などと言われそうですが、しかし、この方法、自分にはピッタリと嵌まった実に功利的な方法でした。なにしろ、ダラダラ読むよりも、短い箇所を読むことになるので、よほど集中力が増しました、一行一行を集中して読み取ることができるようになりました。そして、読むのに飽きたら、そのページのその行に付箋を貼っておいて、そのときその瞬間にいちばん読みたいと思っているまた別の本を手に取って読み始めます、「興味優先」のこの方法にはつまらない罪悪感すら入り込む余地などいささかもありません。それは映画においても同じことだなと気が付きました。興味があるものを、そのときに、あるいは、その部分を集中して少しずつ見る・遅々として読む、というのが、もっとも理にかなった方法であることに気が付いたのでした。まあ、これは自分だけの方法なのであって、あまり人様にはお薦めできませんが。そうそう、「付箋」といえば、自分は、読書するときには、片手に付箋を持って読み始めます、以前は、鉛筆で傍線を引いていたのですが、読了後、見直すことを考えたら、付箋を貼るほうが、よほど効率的なのでそうしているのですが(当然、「傍線」の付箋と、「読みかけ」の付箋とは、色違いで区別しています)、前述した村上春樹の「騎士団長殺し」1部・2部のときも、「傍線」付箋を貼りながら読んだのですが、意外に付箋の数はほんのわずかしか貼られることはありませんでした。たぶん、以前なら、多用される村上春樹独特の「それはまるで○○のような」に感銘を受けていたのに、いまではすっかりその言い回しに慣れてしまい、たぶん飽きてもしまっていて、あえてスマートだと思うこともなく、だから心を動かされることもそれほどではなくなってしまったからかもしれません。それに、読んでいる最中は面白いと感じた言い回しも、それから何日か経った読了後に読み返してみると、どこが面白いと感じて付箋をつけたのだったかも、すっかり分からなくなってしまっている状態で、意味の失われた付箋をひとつずつ剥がしていった結果、残った付箋はたった一か所、「第2部 遷ろうメタファー編」528ページのこの部分だけでした。「この世界には確かなことなんて何ひとつないかもしれない」と私は言った。「でも少くとも何かを信じることはできる」しかし、これだって、時が経てば、なんでこんな言葉に感銘したのだったか、前後の脈絡を失っていく過程で、いつしか貼り付けた付箋の意味さえ分からなくなってしまうに違いありません。しかし、これはなにもネガティブな意味で言っているのではありません。いままさに読んでいるという読書の瞬間のダイナミズムを損なうものではいささかもないことを言いたかったのです。 木曜日の朝、BS放送の番組表を見ていたら、昼に黒澤監督の「赤ひげ」、夜には「新・鉄道・絶景の旅 北海道道東の旅」という2時間枠の旅番組を放送することを知り、いずれも楽しみにしていたのですが、朝一番に出かけた税務署での確定申告がスムーズにいかず、昼過ぎまでずれ込んでしまったために、結局、楽しみにしていた「赤ひげ」の一部を見逃してしまいました。もちろん、この作品、初見というわけではありませんが、優れた作品というものは、鮮明に残っているはずの印象を、改めて木っ端みじんに打ち砕くほどのパワーを持っていることを幾度も経験しているので、その「パワー」に再び身をゆだねたくて、再見、再々見と、繰り返し見ることを楽しみにしている作品「赤ひげ」だったのですが、今回の場合は、感動を「更新する」というわけにはいきませんでした。この作品を「見る」側の受け手たる自分のそのときの状態(心的低迷とか衰弱とか)ということも、もちろんありますが。しかし、「貧困はすべての人間を歪める。それは行政が悪いからだ」というこの作品の主たるテーマは、残念ながら、この作品自体を随所で矮小化させ、「怒れる赤ひげ」本人を単にエエカッコウシイの薄っぺらなカッコマンにしただけのような気がします。「貧困がすべての人間を歪める」などという素直な哲学なら、いまさら教えてもらわなくとも、いつの時代においても、ごく当たり前のことにすぎず、それまでの黒澤作品には、そういう歪んだ人間たちが炸裂させるさらなる瞬発力が描かれていたことを知っている僕たちは、こうした「赤ひげ」の描かれ方は、黒澤明という傑出した才能の衰弱と後退という惨憺たる印象(これなら単なる「前提」を描いたにすぎません)を一層与えることになったのかもしれません。自分的には最近、早島大祐の「徳政令」(講談社現代新書2018)という本を読んでいたこともあって、それが多少影響していたのかもしれません。この本の副題は「なぜ借金を返さなければならないのか」、このキャッチフレーズからして知的イメージをくすぐられ、本論もまた傑出した論考という感想を持ちました。世の中から理不尽な扱い=虐待を受け、あるいは貧困に追いつめられ、社会から見捨てられた弱者がさらに病んで、救いのないその最期のイマワノキワに恨み言ひとつ言うのでもなく、いままさに息を引き取ろうという不運な人々に焦点をあてた怒りのモチーフは大いに理解できますが、しかし、そのもうひとつ先に、黒澤明なら、また別の世界を見せてくれるのではないかという期待が停滞し、裏切られたこの作品に対する失意と、そして悔いとが、自分の中にあったのだと思います。たぶん、以前に「衝撃」と受け止めたかもしれないこの作品の、細部にこだわった重厚な描写と演技者たちの大仰な演技の数々も、この視点から見れば、その騒擾のカオスを簡潔にまとめるだけの掌握力を欠いた黒澤明の戸惑いによる放置によって、ただ冗長で無意味なだけの引き延ばしがもたらされたものと感じたとしても、その直感は、あながち誤りではなかったように思いました。これは晩年の黒澤作品に顕著にみられる特徴でさえあることは、周知の事実です。今回、この作品を見た正直な感想は、「なにも、こんなに長い映画である必要があるのか」というものでした。またいつか、この作品「赤ひげ」にめぐり会うことがあれば、こんどはどんな顔を見せてくれるのか、いまから楽しみです。というわけで、不完全な形でしか見ることのできなかった「赤ひげ」だったので、今日の視聴予定番組として2番目にチェックをしていた旅番組「新・鉄道・絶景の旅 北海道道東の旅」の方は、なおさら見逃すまいと思ったかもしれません。サブタイトルは、「冬景色と大自然を満喫」となっています。平昌オリンピック以来、なんだかカーリングづいている自分は(とくに「女子」にですが)、最近「オホーツク」とか「道東」というワードに出会うと敏感に反応してしまい、その「道東」とつく番組があれば、どうしても見てしまいます。番組は、釧路駅を出発して知床半島、網走から北見、留辺蘂駅(この町の意外な賑やかさには驚きました)まで、釧網本線から石北本線にかかる旅を列車を乗っておこなうというものでした。摩周湖に寄り、知床半島では流氷歩きをし、止別でホテルに宿泊し、北浜駅では駅レストランでランチをとり、網走で下車してまた食事をし、北見(とはいっても、実は、さらに常呂町の「カーリング場」まで車でいくのですから、相応の時間を要したと思います)でカーリングに興じ・・・とこの旅は延々と続いていきます、その間、幾度もホテルに宿泊して豪華な食事と贅沢な温泉につかっている場面もありました、自分はあまりにもぼんやりと見過ごしてしまったので、食事回数とか宿泊回数をうっかりしてカウントしなかったのですが、これっていったい何泊の旅行だったのだと突然の疑問に捉われてしまいました。だって、それでなくともですよ、北海道といえば特急列車優先で、各駅停車など特急が走るスキマ時間を遠慮がちに縫うようにしてかろうじて走っているという継子扱いの状態ですから、それこそ特急が止まらない駅で下車などしてしまったら、次の電車がまたいつ止まってくれるのか、時刻表を見て愕然とし、寒風が容赦なく吹き込む駅舎で寒さに凍え、命の危険さえも感じて辛抱強く待つくらいなら、いっそのことその地で宿泊してしまった方がよほど賢明な選択と思うくらいなのに、この番組では、マイナーな各駅停車駅にも丹念に下車していました(と、感じました)、はたしてこの旅番組の旅行日数がどのくらいのものなのか、番組の最後に突然の疑問がわいてきたというわけです。実はこの北浜駅には、若干の予備知識がありました、3月3日の読売新聞の日曜版にこの駅のことが紹介されていて(髙山文彦「せつない鉄路を巡る旅」)記憶に残っていたので、古い新聞の束から当の新聞を引っ張り出して確認しました。そしてことさらに記憶に残っていたかといえば、その見出しが印象的だったからだと思います。そこにはこう書かれていました、「孤独感とは別のさびしさ」。改めて読むと、いい年をしてこんなバレバレの見出しに反応してしまったなんて、ちょっと気恥ずかしい気もしますが。そして、全国の無人駅を紹介しているこの記事をあらためて読むと、「北浜駅」に言及している部分はほんの数行でした、期待していたぶん、ちょっと拍子抜けです。そこには、こう書かれていました。「網走の北浜駅は、目の前がオホーツク海。初雪がどっさりと降った日で大小の鮭が遡上していた。」この一文を読んだとき、この駅が単に「無人駅」にすぎないのに、自分の記憶のなかに刻まれた時には、なぜかいつのまにか「秘境駅」にすり替わって覚え込んでしまったのだと思います。番組でも紹介されていたとおり「北浜駅」は、無人駅であっても秘境駅なんかじゃありません。駅舎には立派なレストランもあって、さらにオホーツク海を一望のもとに見渡せる展望台さえ備えている立派な駅です。あえて秘境駅というなら、女満別空港にもっとも近い駅、「西女満別駅」の方が相応しいだろうなと思いながら、この道東の列車旅の番組を見た次第です。 ここにきてアメリカのアカデミー賞も日本のアカデミー賞もやっと終わって、ようやく落ち着いた気分になりました。なんだか、これでアンタの「アカデミー賞」ネタも尽きただろうと言われそうですけれども、負け惜しみではありませんが、自分としては、それほど「アカデミー賞」に熱く入れ込んでいたわけではありません。だって、いままでアップした小文を見てもらえば、お判りになるかと思いますが、その駄文のどれにも「アカデミー賞・愛」が感じられるようなものなど、ひとつもありません。結局は、アメリカの作品賞や監督賞がどう決まろうと、それは単なる海のかなたの「情報」にすぎず、自分にとっては、これから遅れてやってくるであろう映画を見るうえでの予備知識というか参考程度のものですし、日本アカデミー賞について書いた小文に至っては、配偶者の名を借りた誹謗中傷でしかありません、よくまあ、あそこまで書けたものだとわれながら感心します。自分が楽しみにしているのは、ほかのところにあります。このお祭りみたいな「アカデミー賞受賞作品月間」の期間には、各局や映画関連サイトで、華やかに「アカデミー賞受賞作品特集」をぶち上げて古典的名作を放映するので、ここ何年ものあいだ、それを物凄く楽しみにしています。今年などは、gyaoで「キネマ旬報ベスト10入賞作品特集」というものまでありました。しかし逆に、放映する作品の種類も本数も多すぎて、毎日できるだけ見るようにしてはいるものの、それでも追いつかず、たとえその作品群のなかで感銘を受けた作品に出会ったとしても、そこで立ち止まって感想をまとめるなどということは到底不可能、まるでカツオの大群のように押し寄せてくる名作群を次々と捌くようにして見ていくだけで精一杯という状況です、考えてみればこれもずいぶん贅沢な話です。自分は、cs放送以外では、おもにwowowのオンデマンドか同時配信を利用して映画を見ているのですが、正直、wowowでは、ごく最近の新作をおもに放映するというスタンスのために、少し前に見た映画を控えたメモには、惨憺たる作品がラインアップされています。自分は、10本見たあとで、それを一括りとして自分なりのベスト10(便宜上)をつけて綴り込みに保存しています。そのときのベスト10は、こんな感じでした。1、静かなる叫び(2009)ドニ・ヴィルヌーヴ監督2、愛を綴る女(2016)ニコール・ガルシア監督3、レッド・スパロー(2018)フランシス・ローレンス監督4、ビョンド・ザ・スピード(2017)ミヒャエル・ロスカム監督5、ユダヤ人を救った動物園(2017)ニキ・カーロ監督6、犯人は生首に訊け(2017)イ・スヨン監督7、パリ、憎しみという名の罠(2017)オリヴィエ・マルシャン監督8、ありふれた悪事(2017)キム・ボンファン監督9、殺人者の記憶法・新しい記憶(2017)ウォン・シニョン監督10、15時17分、パリ行き(2018)クリント・イーストウッド監督あまりにもひどすぎて登録抹消、あゝ荒野・上ばかりでなく下もこのなかで例外は、10位のクリント・イーストウッド作品で、「ミリオンダラー・ベイビー」のような痛切な作品を撮る監督が、こんなものを撮るのかと、期待して見た分だけ、その凡庸さにはものすごいショックを受けました。このすぐ後で、「アカデミー賞受賞作品特集」において「ミリオンダラー・ベイビー」を見ただけに、なおさらその思いを強くしたかもしれません。これなどは、期待していたのに失望させられたというケースですが、期待してなかったのに意外に良かったという作品は、1~3の作品くらいでした。この程度の作品にわざわざ「ベスト10」などつける必要があるのかと、いままで持続してきた自分の習慣が疑わしく無意味に思えてきて、一瞬、揺らいだかもしれません。その後、すぐに「アカデミー賞名作月間」が始まりました、たぶん、そのスタートはwowowで放映した黒澤明の「生きる」あたりだったと思います。とにかく本数が多いので、箇条書きにせずズラズラっと書いてみますね。神々のたそがれ、フレンチ・コネクション、ローズマリーの赤ちゃん、ペコロスの母に会いに行く、川の底からこんにちは、黒衣の刺客、バース・オブ・ネイション、わが谷は緑なりき、荒野の決闘、ストーカー、飢餓海峡、ショーシャンクの空に、たそがれ酒場、バウンド、菊豆、血槍富士、エルELLE、おみおくりの作法、仮面/ペルソナ、花様年華、さらば、わが愛/覇王別姫、吸血鬼(カール・ドライヤー)、フェリーニのアマルコルド、赤い風車、ミッドナイト・エクスプレス、怒りの葡萄、レッズ、ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日、ヘルプ~心がつなぐストーリー、アフリカの女王、ゴッドファーザー、ゴッドファーザーpart2、ゴッドファーザーpart3、ミリオンダラー・ベイビー、アルゴ、君の名前で僕を呼んで(そのとなりに、モーリスとアナザーカントリーと御法度がありましたが)、第17捕虜収容所、8 1/2、アメリカ アメリカ、本日休診、君はひとりじゃない、バリー・リンドン、などなど、こんな感じです、この怒涛のような名作群に優劣をつけるなど、しょせん無理・無謀な話なのですが、しかし、上記のヘタレな作品のベスト10を考えるのに比べたら、よほど楽しい作業になることは間違いありません。

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